Google

Yahoo! JAPAN



新宿西口バス放火事件 リンク集

1980年8月19日(日)21時過ぎ、新宿駅西口バスターミナル20番乗り場で、発車待ちのため停車中だった京王帝都電鉄(現・京王バス東)の運行する中野車庫行きバス(日野RE100)の車内に、男が後部ドアから火のついた新聞紙とガソリンが入ったバケツを車両後方へ投げ込んだ。 火は瞬時にして燃え広がり、6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事となった。 犯人(当時38歳)は北九州市で5人兄弟の末っ子として生まれたが、父親は定職を持たないアルコール依存症で、親が教育に不理解であったため小学5 年生ごろからほとんど登校していなかった。犯人は父親の病死を機に全国を建設作業員として転々とする。1972年に結婚するも、妻が長男を出産した翌年に離婚。子供を児童施設に預け、各地を転々としながら現場作業員として働いていた。 事件当夜、駅前広場に通じる階段に座って酒を飲んでいたところ、通行人などにここから出て行けと言われてカッときて犯行に至った[1]。 PR看護師 やりがい

犠牲者の中に、当日後楽園球場で行われた読売ジャイアンツとヤクルトスワローズの試合を観戦した帰りの父親(40歳)と息子(8歳)もいた。この事件を聞いた後楽園球場を管理する株式会社後楽園スタジアムと巨人軍が告別式に花を贈ったこと、王貞治が祭壇にサインボールを供えた[2]ことが日本全国に伝えられた。 また死亡した被害者には、子供の運動靴を買うため勤務先から帰宅途中、たまたま新宿に立ち寄り事件に遭遇した母子家庭の母親がいた。通常帰宅経路から離れた場所で事故等に遭遇した場合通勤災害は認定されないが、このケースでは当時の労働大臣の発言もあって労災認定が実施された。 刑事裁判において検察側は、建造物等以外放火罪と殺人罪で起訴。放火に関しては刑法108条の現住建造物等放火罪では「放火により、現に人が住居に使用しまたは人がいる建造物、汽車、電車、船舶、鉱坑を焼損する罪」と規定しているが、この条文に「バス」は明記されていない。営業バスは多数の人が乗車することが想定されているため、バスを汽車や電車に準ずるものとして刑法108条の現住建造物等放火罪を適用すべきとする意見もあったが、判例がなく学説も分かれているため刑法110条の建造物等以外放火罪で起訴された。 検察側は犯人に死刑を求刑したが、一審の東京地方裁判所は「被告人は心神耗弱状態にあった」として無期懲役の判決を下した。弁護・検察双方が控訴したが、二審の東京高等裁判所も一審判決を支持。犯人は罪の重さを認識してか「死刑になってみんなにお詫びしなければ」と語っており、死刑になると考えていたが、無期懲役=無罪と勘違いしたのか、「罪にならないんですね」と言った後で傍聴席に向かって「ごめんなさい」と言いながら土下座した。 犯人は1997 年10月に千葉刑務所内で首吊り自殺した。享年55。 現場となった新宿駅西口バスターミナル20番線は、2009年11月現在も、京王バス東の中野車庫行き、中野駅行きが使用している。

この事件の被害者の一人、杉原美津子は事件後『生きてみたい、もう一度』という手記を出版した。これはベストセラーとなり、1985年に『生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件』のタイトルで映画化[3]された。彼女は事件時、異性関係の悩みから自殺願望を抱いており、放火された際に逃げるのを躊躇したため全身80%火傷の重傷を負ったが、回復した。彼女は自らの希望で被告人に接見している。犯人に対しての言葉は「もう一度やりなおして欲しい」であった。 当時、通常は被害者は被告人と接見することはできなかったが、この時は例外的に認められた[4]。 また、杉原の兄・石井義治はカメラマンであった。彼はバスが放火された時に偶然そばを通りがかっており、本能的に燃え上がるバスを撮影し、その写真は翌日の新聞にスクープとして大々的に掲載された。だが、実妹がその事件で重傷を負う中、妹に救護の手を差し伸べていなかったことを知った彼は、そのショックで報道カメラマンを引退。その後、ペンネームをイシイヨシハルと改め風景写真の分野へと転向した(2009年3月1日放送のフジテレビ開局50周年記念特別番組 ひもとく「日本の50年」に石井本人が出演)。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


Copyright (C) 2010 新宿西口バス放火事件 リンク集 All Rights Reserved.

リンク集1 リンク集2 リンク集3 リンク集4