(注意:この記事は『妹・サブスクリプション』の核心に関するネタバレを大量に含んでいます。)
全てを読み終えた後の感情は怒りだった。それは、最後まで人間性を獲得することができなかったみゆきに対する怒りである。
失われた人間を模倣する人造人間技術「レプリカント」が実現された近未来で、失踪した妹・今日子のレプリカント「きょんちゃん」と暮らす姉・みゆき。2か月前に書いた記事の後、物語は佳局へと入っていき、そして結末を迎えた。みゆきとかつての親友・正美の対峙、今日子とその親友・吉乃の再会、そしてみゆきときょんちゃんのクライマックスである。
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妹・サブスクリプション (シリウスコミックス)
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橋本ライドン(著), 講談社 (2024-03-08)
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〔145・146ページ〕
クライマックスで、みゆきはレプリカントのきょんちゃんの変化に動揺しながらも、自身がこれまでに犯してきた過ちにようやく気づく。「私はずっと過去を見てたんだ」と。そして二人が抱き合いながら言葉をやりとりする場面は、二人の対話に見えて、実は本物の今日子に対するみゆきの届かない独白だろう。目を見ることなく吐露する言葉にきょんちゃんがどのように反応するかは、みゆきにとってもはや問題ではない。むしろ言葉を吐き出すことそれ自体が、すなわちみゆきが過ちを自覚したことのあらわれこそが、この場面における焦点なのだ。
ここまでこのように読んだ私はこう考えた。みゆきはついにレプリカントのきょんちゃんを捨てるのだ、と。本物の今日子はみゆきの認識では行方不明であり、またレプリカントのきょんちゃんの次の個体も工場が焼けてしまったので、どちらにももう会うことは叶わない。それでも、自覚した過ちと決別するために、まさに過去の象徴たる最後に残った一体のきょんちゃんを、みゆき自らの手で破壊するものだと信じていた。
〔147・148ページ〕
しかし、みゆきはそうしなかった。あまつさえ、今の住まいを引き払ってレプリカントのきょんちゃんと逃げ、楽しそうに遠出の遊びに来ているではないか。最初こそ入水心中エンドだと読んでいたものの、後にアップされたこの楽しそうなイラストを見て、その可能性は捨てざるをを得なくなってしまった。
〔100ページ〕
これでは、レプリカント会社の代表の「結局 偽物で構わないのだ」という言葉を認めたことになっているではないか! それとも、最後の一体になって替えが効かなくなったからレプリカントのきょんちゃんはみゆきにとって偽物から本物になった、とでも誰かは言うのだろうか。レプリカント自体が最初から本物の今日子の代わり=偽物だったにもかかわらず?
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二人が抱き合いながら言葉をやり取りする場面を、私は読み違えたのかもしれない。146ページと148ページのセリフの反復を考えれば、みゆきの言葉はレプリカントのきょんちゃんにまさしく向けられたものと読む方が自然にも思えてくる。ダメな自分には偽物がお似合い、といったみゆきの消極的な諦めという読解だ。あるいは、みゆきの言葉は確かに独白だったが、同時に決意でもあったという読み解きもありえるだろう。過去を反省しつつ、しかし今日子との再会はもはや叶わない(みゆきの主観では今日子は行方不明である)のなら、せめて目の前のきょんちゃんを精一杯愛していこう、という積極的な諦めだ。これならまだ物語的な救いがある。
しかし、いずれの読解を採用しても、私の怒りが収まることはなかった。なぜなら、私はこの作品の読解において絶対的に親・今日子かつ反・みゆきの立場であるからだ。その理由は、本作の第三期(今日子の過去編)の終盤における、今日子のこのセリフに心震えたからだ。
姉ちゃん 私がいなくなったら 姉ちゃんも私のレプリカントを作るのかな
〔89・90ページ〕
これは今日子の嘆きだ。誰かに否定してもらいたかった、できることならみゆきにそうしてもらいたかった悪い想像だ。「昔のきょんちゃん」でも「理想のきょん」でもなく、今ここにいる今日子と向き合ってほしかった、という叶わぬ願いだ。それは、個々の人間が代替不能な存在として、人間でない複製・改変可能な何かに取って代わられることなく、あるがままに尊重されてほしい、という人間的な祈りだったのだ。
今日子にかように言わしめたみゆきを、私は決して許すことができない。今日子は全てにおいて正しく、みゆきの情状は一片も酌めない。この姉妹の悲劇が勘違いから始まったものだとしても(詳しくは単行本収録の描き下ろし番外編を参照)、思春期や反抗期という知識によってみゆきが誤りを正す機会はいくらでもあったはずだ。
ひとことで言えば私は、みゆきは自身の過ちを改めてくれる、とギリギリまで信じたかったのだ。しかし、みゆきは最後までレプリカントのきょんちゃんから離れることができなかった。今日子の叫びを、またはレプリカント会社の代表の言葉を、ついぞ否定できなかったみゆきは結局、偽物の機械ではなく本物の人間こそを愛する、という人間性を獲得できなかったのだ。悲しいが、そう言わざるを得ない。
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〔123ページ〕
私の読みが公平世界仮説に依った、かつ寄ったものであることは甘受しよう。『妹サブ』の物語展開は徹頭徹尾、みゆきと分かりあえ得ない者同士の相対であった。正美、吉乃、今日子、そして社会。それぞれに譲れない信義があり、どこまで行っても『理解すれども納得せず』を超えることはなかった。みゆきが「正美は正しい」ことは認めつつも「正論で片付けられない」としていることがその証左だろう。
ここで重要なことは、作者の橋本ライドンは『妹サブ』のどの登場人物にも肩入れしていない、ということだ。世界がこうあり、またキャラクターがこう生きるから、その間の衝突で生まれるドラマを、達観あるいは諦観した――作者でさえ物語世界には介入できない、という――視座から巧みに写生することによってこの作品を描き上げたように思うのだ。だからこそライドンワールドでは、現実世界と同様に、公平世界仮説が成立しない。不合理も矛盾も、作者による意図的な味付けではなく、作品世界に生きるキャラクターという素材の味わいとしてあらわれるのだ。
つまるところ、橋本ライドンはキャラクターを描くのが上手すぎるのだ。作者自身にとってさえも、作中のキャラクターは物語のための道具ではない、というスタンスでマンガを描いているのだ。だからこそ、それぞれのキャラクターに生々しさがあるし、また読者こそがそこに肩入れして感情移入する余地が生まれる。そして複数の並行した立場の中から、私はこのキャラクターを、そしてこの読みを選ぶ、という能動的な読書体験を可能にしているのである。
また、ハッピーエンドやメリーバッドエンドといったものは、『妹サブ』においては物語が目指すべきゴールではないどころか、結果的にたどり着いてしまった一点ですらない。それすらも読者体験にゆだねられているのである。そして、かような複数の読解は多義的な場面描写だけでは成立し得ない。肩入れしたくなるほどに強烈な実在感を持つキャラクターがあってこそ、多義性そのものという客観視点ではなく、それぞれの意味に依った主観的な読解に強度が生まれるのだ。
ここまで来ると作者は、『どのように読み解いても構いませんよ』というサービス精神を超えて、『あなたならどう読み解きますか?』と読者に対して挑戦状を突きつけているようにも思えてくる。そして2か月前の記事で私がほのめかした社会的な読解への志向は、全てではないにせよ、大部分が吹き飛んでしまった。そのような小手先(もはや小手先だと言い切ろう)だけで『妹サブ』を読み解こうとするのは無理だと悟ったからである。
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いつかどこかで私は、確かとある歌手に対するインタビュー記事の中で、歌い手が感情を込めすぎた歌は聞き手に響かない、なぜなら聞き手が感情を込める余地がないからだ。だからプロの歌手は聞き手のための空間を空けて歌うのだ、といった旨を読んだように覚えている。
『妹・サブスクリプション』は作者が個々のキャラクターに肩入れしないことによって読み手が感情移入するための余白を残した作品と言えるだろう。それはまさにプロのワザだ。そして私はそのワザに見事にやられたのである。「全てを読み終えた後の感情は怒りだった。」と率直に表現するしかないほど、フィクションの存在に肩入れしてしまった。そう観念せざるを得ないほどの圧倒的なキャラクターの力が、この作品にはあったのだ。
(すいーとポテト)