2015年05月18日

目覚めの一瞥

今日は目覚めの一瞥についての話です。

何かのヒントになってくれたらと思います。


人気ブログランキング


にほんブログ村



これは数年前から顕著になってきている傾向ですが、存在のシフトを経験する人の数が飛躍的に増えています。

それまで心をがんじがらめにしていた見えない鎖からの解放です。

その鎖は、条件付けのようなものであり、生い立ちの中で無数に刷りこんできたものです。


よく罪悪感に苦しむ人がいますが、これなどは条件付けの影響の最たるものです。

「してはいけない」と思いこんでいることを、したり考えたりした場合に、罪悪感は生じます。

乱暴な言い方ですが、そもそも「してはいけない」と思っていなければ、罪悪感は出てこないのです。


これら条件付けによって、我々の人生は想像以上の影響を受けています。

中にはそのような性質を利用して、人心を支配しようとする人たちもいます。

たとえば一部の宗教に見られる「~をしなければ魂が堕落する」とか、「~をやったら不幸になる」とかいう刷り込みをして、そこから抜けられなくするというものです。

そもそもそのような教えに出会わなければ、なんの影響もないものを、いったん受け入れてしまえば、そこから抜けるのは困難です。


極端な例を言いましたが、宗教でなくても、普通の生活の中で、社会から、文化から、親から、周囲から、我々は無数の条件付けを刷り込まれて育ってきました。

普段は気づきませんが、その見えない力によって、日々の生き方を決定させていると言っても過言ではありません。


目覚めとは、条件付けからの目覚めという側面もあります。

いったんそれらがすべて外れて、元の自由で無限の意識を経験するのです。

無限であるがゆえに、自分と呼べるような分離は姿を消します。

それが非二元(ノンデュアリティ)、ワンネス、自他一如の世界です。


さてそのようなシフトが起きた時の経験は、言葉にできないくらい開放的で素晴らしいものです。

元々の状態に戻っただけなのですが、それまでの不自然さが長かっただけに、歓喜溢れる経験になります。


そこには自分が探し求めていた全てがあります。

たとえいま、どのような境遇で、どのような苦難を抱えていたとしても、それらが幻のごとく、たちどころに消えてしまいます。

まさに、一瞬で幸せになるのです。


しかしたいていの場合は、それは一瞥体験であり、大和田菜穂さんのような例外もありますが、また時間の経過と共に、元に戻ってしまいます。

元に戻ったとしても、その煌めきの印象は消えることはなく、生き方がより自由になっていく人がほとんどです。


昨日のコメント欄に報告をくれた、櫻井翔央さんもその一人だと思います。

ただ彼(?)の場合は、その瞬間の開放の甘美な側面に意識が向きすぎてしまったので、その後の収縮が、まるで谷底に落とされたように感じてしまうのです。

「やった、ついに達成したぞ」

という感覚が、また元の状態に戻って、何もかも失ったように感じてしまうのです。


しかし、その状態も長くは続かず、そのうちまた平常心に戻って、以前の自分とは明らかに違う平安を感じ、生きることが格段に容易くなっていることでしょう。

ですから生きている間に、あらゆる条件付けから自由になる経験をするのは、とても有意義なことです。


そうそう、櫻井さんや、櫻井さんと同じような経験をした人にアドバイスします。

訪れる開放感は、それまでの収縮とのギャップがもたらす恍惚感であり、たんなるムードに過ぎません。

その感覚に自己同化しないことです。

山の頂上に歓喜すると、谷底に失望することになります。

そのどちらとも離れていれば、次第に山は低くなり、谷も浅くなっていきます。

やがては起伏のない平坦な地平が現れ、それが中道を生きるという極意に繋がっていきます。


その中道とは、一般に言われる幸福感ではなく、至福と呼ばれる静かなる安らぎです。

幸せは不幸せとセットで、行ったり来たりを繰り返しますが(ほとんどの人の人生はこの繰り返しです)、至福はすでに行きついた境地であり、損なわれることはありません。

もちろん表面上は、様々な感情が去来するのですが、その奥にはこの至福感が淡々と流れている、これが非二元(ノンデュアリティ)の世界です。

この稀有なる時代に、多くの人がその境地に向かっていると感じています。



このブログが、ほんの僅かでも役に立ってくれているなら幸いです。

なぜか、このようなことを話すことしか、やりたいことが無くなってしまいました。

だからこそ、この時代の変化の潮流を、人一倍感じているのだと思います。



櫻井さんのように、最初は何の話か分からなくても、必ず理解できるときが来ます。

でなければ、このような文章を最後まで読むことはなかったことでしょう。


不肖阿部が、こうしてガイドの一人を務めさせてもらっています。


今日もここに来てくれてありがとうございました。



これからも応援よろしくお願いします。

あなたのクリックが、新しい人が、ここと出会うきっかけを作ってくれています。


人気ブログランキング


にほんブログ村



Posted by Toshiro Abe at 10:06│Comments(62)
この記事へのコメント
知らず知らずのうちに、こんな自分が特別だって思うようになってしまう。
特別じゃない事を思い出したいはずが、瞑想してる事、何か特別なブログを読んでいる事、それを握りしめてしまいます。
でもまた、阿部さん達の話を聞いてとりあえず、今ここに…と意識して見ます。
Posted by カズ at 2015年05月18日 10:43
はい、そうですね。
阿部さんが伝えたいと思っていること、いつも楽しく拝見していますよ。
ほぼ毎日(笑)ありがとうございます。
Posted by ただのおばちゃん at 2015年05月18日 10:58
^p^せやな、ABEちゅん・・
^p^バサールもやりたい時にやりたい事をできるのが豊かさだと言っていたが・・
^p^しかし俺達はKAGOの中のTORAWAREのKOTORIなんだよ・・
^p^あばよ!
Posted by たかたかし at 2015年05月18日 11:32
阿部さん
もっと早く 一瞥したあとの症状?を知りたかった!(笑)
でも、今だから理解できるのでしょうね。

私も禅アカデミーのおかげでワンネスに気づき、歓喜。
でも、それからまさしく谷に落ちていくように、モヤモヤが数ヶ月続きました。

だけど「快適の術」に参加して、スーッと雲が晴れました。
あんなに大笑いしてたのに、会場から自宅まで、雑踏の人混みの中にいても、まさに「無」の平安な静かな状態でした。
それは、常にではないけれど、今も続いています。

なんだか、冷めたクールな人になったような。
少し物足りなさも感じていましたが、これでいいんですね。

阿部さん ありがとうございます。
Posted by エミリー at 2015年05月18日 11:40
「自分は最低だ~っ↓↓↓」

「自分は最高だ~っ↑↑↑」

という感情の上下動、浮き沈みはとても不安定です。


「自分は平安だ ―(*´▽`*)― 」

という静寂・至福の水平状態はとても安定しています。


ハートに集中しながら

ハートから水平に意識を広げる練習をしていると

静寂・至福の水平状態が現れてきます ―(*´▽`*)―
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2015年05月18日 11:42
阿部さん ありがとう!

そのどちらとも離れていれば、次第に山は低くなり、谷も浅くなっていきます。

そうですね。本当に。
体験はしたものの 戸惑っていた時にこの言葉。
ありがとうございます。m(_ _)m
Posted by よしりん at 2015年05月18日 12:11
阿部さんいつもありがとう。
阿部さんのメッセージのお陰で変な宗教に嵌らなくて済みそうですwww
Posted by 革ジャン at 2015年05月18日 12:26
可笑しくて、悲しくて、涙が出ます。プライドが私の全てだった私の人生に気づきました。だから、むっとしたり、怒ったり、、
わたしじゃなかったの?
Posted by 感謝ひとみ at 2015年05月18日 12:31
このような記事に触れる度に、一瞥体験を切望する私がいます。
一瞥の体験をして、素晴らしいと思うのは誰なのですか?
Posted by Ikuko at 2015年05月18日 12:38
御著書何冊か楽しく拝読しました。

「自我に自我は消せない」
だから、悟りたいと思っている自我が悟ることはできない。
なるほど、と合点がいきました。

同時に、やっぱりそれでも「悟れたらなあ」と思ってしまう自分がいたりするので、
「そう思っている間は永遠に悟れないのかあ」と思うとちょっと絶望的になったり(笑)

まあ「起こる」のを待つしかないのでしょうが。

そんな私にも数年前「あれ?」と思うことがありました。

当時末期ガンで余命数か月と宣告されていた母が安らかに宇宙に還れるようにと、
その数年前にやはりガンで他界した父に
「パパ、ちゃんとママを迎えに来てあげてね」とお祈りというか、瞑想のようなものをしていたときです。
突然、暖かい「何か」が私を包み込んだのです。
もちろん形はないけれど、優しいエネルギーみたいものがすぐそばに寄り添ってくれている感覚をとてもリアルに体験しました。
とても気持ち良くて、目は閉じてましたが思わず笑みと涙がこぼれたのを覚えています。
私は、そのときは単純に、あ、パパが返事してくれた、と思ったのですが、
あの嬉しさ、あの安心感は、ひょっとしたら、「それ」を垣間見た瞬間だったのかと思ったりもするのですが、やっぱり違いますかね?

いわゆる「一瞥」された方の話を見聞きしていると、確信なんですよね。
「これだ」っていう。
ということは、私のように「とても安心できてうれしかったけど、あれはなんだったんだろう」と半信半疑な感覚っていうのは、
悟りとか、目覚めとかとは全然違うもので、単なる思い込みでしょうか?

ちょっとした神秘体験を何か特別なことと結び付けたい自我があるだけしょうか?

スピリチュアル系に興味を持つ人が陥りやすい幻想もよくあると聞きます。

ちなみに、あのとき一度だけです。
あれ以来、あれほど強烈な感覚は経験していないです。

その後、母は非常に穏やかに、観音様のような美しい顔で亡くなりました。
亡くなったときは、覚悟もできていたせいもあったでしょうが、
悲しみというより、あまりの美しさに、嬉しくて笑みがこぼれました。

今、特に私に何か変わったというようなことはありません。
世の中がまるで違って見える、なんてこともないです。
怒りもあるし、しょっちゅう文句言ってます。

だた、そんな中で「ああ幸せだなあ」と思う機会は確実に多くなったと思いますし、いろんなことに対して感謝する頻度も多くなりました。

私自身の状況も、なんだかんだ言いながら、決して悪くはなっていません。

まあそれくらいなんですが・・・
Posted by 眠り姫 at 2015年05月18日 12:41
いつもありがとうございます。
Posted by ほったん at 2015年05月18日 13:00
いつもありがとうございます。

目の前の太陽が朝日なのか?夕日なのか?ただ太陽が輝いているだけなのか?
Posted by まっす~ at 2015年05月18日 13:16
阿倍さん
いつも本当にありがとうございます!!(涙)
Posted by こういち at 2015年05月18日 13:17
ありがとうございます。
まずお礼を申し上げます!

見えない鎖からの解放・・・それはまさに、今日の明け方、私が突然ハッと気付いたのと同種のことを、本日の阿部さんのブログで表してくださっていることに驚き、初めてコメントさせていただきます。

私事で恐縮ですが、とあるできごとを境に、この数ヶ月、激しい苦痛に日々さいなまれていました。
過去の経験が現在の私を作ってきた以上、今の苦しみを変えられない、未来は絶望的、と、もうこれ以上生きていたくない、いや、生きなければ(生きたい理由はないけれど義務があるから)!という激しい葛藤の中でもがいていました。

そのような中、自己流の必死の瞑想の中で、私が抱えてきた苦しみは、これまでの経験によって刷り込まれたあらゆること-親からの教育、決めつけ、社会の常識-を、正しいのだと思って、知らず知らず受け入れてしまったことに発するのだ、と、不意に気がつきました。

本当は受け入れがたいことでも、自分は無知なのだ、愚かなのだと、なぜか思っていたことで、それらを「本当は好きじゃないけど、正しいのなら受け入れるしかない。受け入れられないなら、それは自分がどこかおかしいのだ」と思い続けてきたせいで、何が問題なのか、これまで思っていた自分とは一体なんだったのかすら分らないほどの混乱にはまっていたのだ、と。

私が“私”と思っていたものは、まるで完全に清らかな水の表面を覆う、タールのような、極端に言えば汚染でしかなかったのかもしれないと、そんなイメージも脳裏に浮かびました。

そして、明け方、心に決めました。
阿部さん仰るところの「あらゆる条件付け」から自由になり、素のままで、過去の経験によって一切影響を受けない、全く新たなステージからスタートするのだ、と。
そして、さらにそれはもう始まっているのだ、とも気付きました。
理由は分らないし根拠もないけれど、ただ、“気付き”ました。

阿部さんのブログ、以前、ふとしたことでたどり着き、それ以来、やはりふと思い立った時にお邪魔していましたが、常に、その時々の私の心の状態を解説してくださっているようで、助けていただいて参りましたが、今回は特にシンクロが大きくて驚きました。
稚拙ながら突然得た気づきに対して「それで良し!」と言われたようで、本当に本当に有り難く感じています。


とはいえ、まだ「無限の意識」「自他一如」には至らず、至福も味わえてはいませんが、「目覚めの一瞥」は、おそらく今後、知っていると知らないとでは大きく異なることなのでしょうね。
谷底は経験したくありませんが、浅い谷なら何とかなるでしょう(^^)
ムードに惑わされず、静かに歩みたいと思います。

ひたすらの感謝を!
Posted by koer at 2015年05月18日 13:34
今日の記事はとても心に沁みています。
阿部さん、ありがとうございます。やっぱり阿部さんは愛だな~♡

自分の今の状態は、今日の阿部さんの言葉からすると非二元です。
上がったり下がったりはもうほとんどなく、至福の静けさです。
これが一瞥だぁ~!という体験が特になかったので(小さい特別体験は何度かありますけど)、
まだまだ、いつかやって来る、と以前ほど必死ではなくなりましたが、ずっとどこかでいつか・・・と待ち続けている状態です。

このコメント書きながら、中心を確かめています。
自分で「もう到達した」と素直に認めてあげていいのかしら?と
今、大きく息を吐いています。
う~~ん、中心がざわついてる~~~!
とても感謝です(涙)
素敵な刺激をありがとうございます♡
Posted by アヴァ二 at 2015年05月18日 14:18
眠り姫さん

お母様が亡くなられた時のあなたの体験ですが、手放すことをお勧めします。
仮にですよ。
阿部さんがあなたの体験談をジャッジしたとしましょう。

阿部さんが『あなたの体験は悟りの一瞥です』とジャッジしたとします。
するとあなたは、『あっ!あれがそうだっんだ! また「暖かい"何か"が私を包み込んだ」体験をしたいな。』と追い求めることでしょう。

阿部さんが『あなたの体験は違います』とジャッジしたとします。
するとあなたは、『あっ、あれとは違うんだ。では、悟りの一瞥ってどんな感じ
(ポジティブな感覚)なのだろう?』と体験を追い求め続けることでしょう。

自我は外に答えを求めます。「私は答えを持ってない。答えが必要だ」と。
しかし、あなたの外には答えは存在しないのです。
外からの答えを求め、答えを与えられてそれを捕まえて離そうとしないのが自我です。
あなたの体験にしたところで、それは過去に起こったことにあなたがしがみ
ついているのであって、『いまここ』で起こっている体験ではありません。
一瞥の体験とは、『至福』、『幸福』、『喜び』、『無条件の愛』を感じなければ
ならない経験だという思い込みも捨ててください。
(私は、突然、虚無に放り込まれただけです。素晴らしい体験ではなかったし、悟りとは全く関係がありませんでした。)

答えは、あなたの内側にだけ存在します。あなたに必要なのは「私」に
対する問いを発するだけです。言葉による答えは求めずに。

「私」とは何か?
「私」とは誰か?
「私が存在する」という確証はどこにあるのか?
「私」と「私以外の世界」を分離する境界線はどこにあるのか?
Posted by 模察 at 2015年05月18日 14:50
わたしにとってタイムリーな記事でした!
菲二元の静かな至福感を
白米のほのかな甘みに例えるなら、
目の前のドラマにケーキが現れると、
(ケーキ=仕事の成功とか、何かを手に入れるとか)
お砂糖の刺激的な甘さに負けて、
白米のほのかな甘みを忘れてしまいがちです
白米よりケーキが魅力的に見えちゃいます(笑)

でも、お砂糖摂取でハイになった後は
ローもセットでついてきますよね。。。

白米のほのかな甘さ=菲二元の静かな至福。。。
中道を行くことを心がけたいです(^∇^)

阿部さんのメッセージは、いつも響きます☆
Posted by ウクレレ at 2015年05月18日 14:52
大空さんのコメント、参考になりました。やってみます。
ありがとうございます。
Posted by カズ at 2015年05月18日 15:31
あの~一瞥体験に限って言えば、自覚が伴います。自分を思い出すのですから、はっきりと 笑激が伴います(笑)誤解も迷いも曲解もないです。

その後、自我に戻っても、しばらくは 余韻に浸りますが、さすがに 自我は
新たな迷いを 生み続けます(笑)そこで 葛藤を起して、自我を見つめることを余儀なくされます。そのあたりが 悟後の修行のニュアンスかと思います。
・・・ですが ここは、誰もが行える 精神行為であって、私の場合は 一瞥が
とっかかりになっていて、真剣に自分を見つめることをしただけです。

やる気のある方が これを 行えば、疑問も質問も懐疑も謎も問題も 何もない自分の状態に入る事が可能です。今に在る・・・ってことです。

一瞥があって 悟る訳でなくて、そうした精神行為が あって、悟れます。
一瞥も神秘体験も 単なる 体験です。

体験を可能にさせている 自分に回帰することは、瞑想であれ 禅であれ
日常であっても 充分に可能であり、私も それを心がけているだけです。

自分の体験が 何だったのか?よく そう聞かれる方が いますが、
心から 納得できる 心境に立ったトキ、自分だけが それを判るのです。
Posted by アゲハ・・・呼んだ?(笑) at 2015年05月18日 17:23
>一瞥の体験をして、素晴らしいと思うのは誰なのですか?

それは、一瞥体験をした「わたし」です。
その他に、誰かいますか?(笑)

思考、感情、行動の主体は、
「わたし」以外にはいません。

たとえ、一時存在し、その後消えゆく存在だとしても、
この夢幻の世界を体験しているのは、紛れもない「わたし」です。
Posted by 夢幻の世界 at 2015年05月18日 17:50
このところのコメ欄には、次々と目覚めの報告が上がって、すごいなぁと思っていました。
私もまだ日は浅いですが、長い眠りから覚めることができ、それは僅かでも役に立ってくれれば…どころではなく、阿部さんの導きのおかげですから~、確実に(笑)
本当にありがとうございます!

目覚めた後の指南も、ありがたく受け取らせて頂きました。
本質の私(勝手にアイムホームと名付けています)に還ってから、本当の私と偽物の私(自我意識)の分離感が緊張を生んでいたと、わかりました。
自らを分けると書いて「自分」とは、ヒントあったなぁ(笑)
このごろは改めて「いまここ」が、重要だなと感じています。
確実に執着や固定化はなくなる。
同じようで、全然違いますね。
これから楽しみです。
Posted by カララ at 2015年05月18日 17:53
最近は思います。
あ〜、自分は自由だったんだな、と。(^_^)

本当は生まれながらに、自由だったんだけど、…全然気づかなかった。(^_^;)
Posted by こだま at 2015年05月18日 18:18
模察さん、アゲハさんのコメント大変参考になりました。

半分はそういうことだろうなあ、と思いながらの投稿でした。

確認したかっただけかもしれません。

「一瞥」についてあれこれ考えるのはやめます。

そのときが訪れたら、はっきりと「わかる」のですね。

ありがとうございました。
Posted by 眠り姫 at 2015年05月18日 18:32
阿部さん

こんにちは。

よく「体験」が訪れたとき、歓喜の涙を流した、といったような文章を目にします。"自分にもいつかそんな日が来るのかなぁ"なんて思ってしまいます。そんな「自分」というものは最初から居ないんだ!って今は言わないでください。笑

阿部さんの(ブログ)が毎日楽しみです。阿部さん、いつもありがとう。でも、(ブログの)文章「それ」自体、その「文章」を写すiPhone「それ」自体、そのiPhoneを持つ手、それを読む行為、すべてが「それ(大いなる意識)」が現象となって現れてくれてるんですね。居酒屋ラジオも動画も、すべて。感動です!こんな現象が定期的に立ち現れてくれてありがとう。少し泣きそうです。
Posted by May at 2015年05月18日 18:35
コメントを書こうとしましたが、、文章になりません。

ともにこの瞬間にあることに感謝します。
本当にありがとうございます。
Posted by AYAKO at 2015年05月18日 19:27
^p^ザワつくTVで透視能力についてやっていたね
^p^女性が透視をしていたが鍵は集中とリラックス・・透視をしている時はその両方の脳波がでていたという
^p^外の世界を見ると同時に自分の中のイメージを見ていたというのだ・・
^p^これがどういうことくゎ・・
Posted by たかたかし at 2015年05月18日 19:27
^p^バサールがいっていた全ては内側で起こっているという事の意味・・
^p^俺たちはKOTORIからクリエイターになれるのくゎ?・・
^p^いや最初からクリエイターだったんだよ・・。
Posted by たかたかし at 2015年05月18日 19:38
こんばんは


潮流☆

潮流☆

潮流☆


ノン・デュアリティ


今☆書店で発売しているスターピープル55号は

ノン・デュアリティの特集ですね

菜穂さんの記事もありますよ


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2015年05月18日 19:39
 まだ「一瞥」していない(少なくとも意識しては「ない」)身としては早く「一瞥」したいんですが…。
 でも、そう「思っても」「考えても」早くなるわけじゃないんですよね。
 そして誰かに、何かに頼っても同じ。
 まぁそれでも「一瞥したいよ」と思いながら、今日もただ生きています。
Posted by オーベルシュタイン軍務尚書 at 2015年05月18日 20:29
阿部さん、ありがとうございます(T_T)
阿部さんの愛が嬉しくて感動しています。
Posted by Mayumi at 2015年05月18日 20:31
本物は

自分が必要無くなる次元を目指して

精力をかたむけ、それを何より楽しむ。

偽物は自分が必要で無くなることを恐れ、

自分を誇大に見せることに全力を投じる。

本物は慈悲に溢れ、

偽物は恐れでコントロールするみたいです。
Posted by 神生粋流 at 2015年05月18日 21:02
阿部さん、皆様こんばんは。

そうなんですよ~~~あれからずっと体中に至福が住みついています。
至福が私を喋らせたり黙らせたりします。

「病が無くなるとか」「気の持ちようで」とか
そういう怪しいお話では無くて・・・ね^-^

毎日阿部さんのコメント欄は読んで楽しんでいるのですが、
ど~~~しても一度聞いてみたいことがあるので
今、ここで思い切って聞いてみたいと思います。

ご本人、読んでくれるかな~?

大空さん!!!
ハートに集中っていつも書いていらっしゃいますが、
ハートってどこにあるんですか?

どこを探せばいいのか考えもつかないので
ヒントだけでも教えてください。
Posted by 奈々美 at 2015年05月18日 21:24
以前は私も「私」の塊でした。

ここにも色々な「私」がいますね。
少し前まで、私も持っている、ここの「私」に反応していました。

おそらくですが、本当にそれを体感した人は言葉が少なくなり、その体感した方の発するニュアンスに本能的、直感的に惹きつけられるのではないかと。
おそらくそれが決められていることだから。

でも、それもこれもどれもなにもかも、ただひとつの現れのひとつに過ぎないのですね。

大和田さんも阿部さんも黒澤さん、その他の求心力のある方々は「伝える人」として現れているのですね。だからこそ魅力的に見えるのかも。
だってそうじゃないと人が聞く耳を持たないから。

それももうどうでもいいや。
私はそれを受け取る人で、だからそれによって身近な人を大切にできるようになる学びをする人で、とにかく………
も~う何でもいい。
身近な人や出来事や、もの達を大切にして残りの人生をただ自由に生きてゆきます。
ただただ、感謝です。私の知らない事を伝えて下さって。
Posted by Yurika at 2015年05月18日 21:30
comment久しぶりです。
最近、大和田菜穂さんの本を読んでます。 
一気に読めないので、ちょっとずつ読んでます。
読んではいるのですが?内容が入っていきません。覚えてもいません。
読んだ後。本を閉じては、ぼーっとしてます。movieカメラになったみたい。映像があり。音があります。
今は、こうみたいです。
こういう、書き込みができる場があってよかったです。
Posted by てつ at 2015年05月18日 21:40
好きあっている人と抱き合う事はいけない事でしょうか?

結婚している人と好きあって抱き合う事はいけない事でしょうか?

阿部さんは、自分の奥さんが他に好きな人ができたら許せますか?
Posted by グルーチョ at 2015年05月18日 22:25
カズさん 奈々美さん


ハートの位置は胸の中心、うれしいことがあったとき

「ふわーっ」と至福が溢れ出してくるポイントです。
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2015年05月18日 22:25
”言葉にできないくらい開放的で素晴らしい”
”歓喜溢れる経験”

などと書かれたら、内心、期待してしまうのが人間・・・。
煽ったら、駄目ですよ~(笑)

それは、馬の鼻先のニンジン、です(笑)

期待すればするほど、遠ざかってしまう・・・・(汗)
Posted by 人間万事塞翁が馬 at 2015年05月18日 22:34
いつもありがとうございます。
今日の記事で、あれ?っとなったのでひとつだけ。

>櫻井さんのように、最初は何の話か分からなくても、必ず理解できるときが来ます。

”理解”とは、単に知識としてわかるという事を指しているのではなく、
例の・・・「やつ」が目覚める・・・ことですよね?

それは、起こるときは起こる、起きなければ起きない、
「私」の理解や行動などとは関係ないものなら、
なぜ「必ず理解できるときが来る」と言えるのですか?

リップサービス?願望?
阿部さん独自の予感??

批判とかではなく、単純に疑問に感じました 
(‘・_・`)
Posted by にこる at 2015年05月18日 22:59
いつもありがとうございます。

阿部さんの思考を停止する練習をして自分なりに『静かなる何か』を感じようとすると、最近気のせいか何かに守られて応援されている安心感がふとよぎります。信じて続行します!

ではまた。
Posted by 沓沢周一郎 at 2015年05月18日 23:26
こんばんは。ごもっともだと思います。大きな一瞥は10年前位でも、予兆が数年あったので(振り返ってみたらです。当時は全く分かりませんでした)、始まりは多分20歳ですが、ゆえに一瞥自体はかなり冷静でした。その間に自我が誇大化して、おかしくなった方を結構見ました。だから、私はひっそり普通に生きていくことにしています。
罪悪感のことは勉強になります。
阿部さん、ありがとうございます。いつか向師とのコラボに参加してみたいです。
Posted by A at 2015年05月18日 23:29
こんばんは!阿部さん(^^)
阿雲の呼吸、拝見しました。とても深い内容で
面白かったです。
そして、ここで目覚めた人達の報告を読んだりしての
私の今の心境は
も~!好きにして。ゲームのキャラクターが足掻いたって
どーしょーもないんだもん。はいはい、そっちですか。
確かに夢だと思ったら、一瞬気楽になれる何かがある。
でも、、本当に夢なの、??ってこの世のリアリティはハンパないですね。
Posted by saeri at 2015年05月18日 23:48
阿部さん、いつもありがとうございます♪

高校生の頃だったかなぁ~

「罪悪感を全く感じないのであれば、人を殺しても罪ではない」

と思ったことがありました。

罪そのものがどんな形にせよ、ありえないんですよね~~
Posted by 黒崎顕 aka たこぴゃろ at 2015年05月19日 00:41
訪れるムードと自己同化しないこと。

大切なポイントですね。

>そのどちらとも離れていれば、次第に山は低くなり、谷も浅くなっていきます。

頭から離れて、ハートやハラ(丹田)にいることで、静寂、至福を感じて中道を生きることができます。
あれこれ考えたりジャッジしていることに気づいたら、ハートやハラに帰る。意識する。
地道だけど、その繰り返しで定着していくんだな。
Posted by 雪光 at 2015年05月19日 03:43
阿部さん

まさに、今そんな状態にいました。
真理の一瞥を得て、高揚し、それを解説・説明しようとするとたんに、
すべてが崩れ去っていく失望の感覚。
その繰り返しにたいする、さらなる失望。と、やがて必ずまた「期待」が生まれ…

ちょうど良いタイミングで阿部さんの言葉にやさしい気持ちになれました。
そんな私も、それで良い。ですね。
Posted by kalen at 2015年05月19日 05:45
大空さん、解説ありがとうございました。
奈々美さんも!同じ質問、したいなぁと思っていました。
Posted by カズ at 2015年05月19日 07:20
あべさん!タスケテ!

ここで目覚めの体験をした人たちのコメントを見ると
最近とっっても嫉妬してしまうワタシがいます!!!(笑)

じゃあコメント欄見なければいいのかもしれないのですが…なにか誰かの言葉にハッとさせられるものがあるかなぁ…と、つい見ちゃうんですよね。。

最近、以前よりも一瞥体験のご報告が多いじゃないですか。
勿論素直に、よかった!おめでとう!!という気持ちでいっぱいなんですが
ペラッと裏をめくると、いいなぁー…何か置いてきぼり感があるわ…ジトッ…と思いながら
後ろ向いて石ころを蹴る自分が。
むしろこの世の中、一瞥体験してない人の方が圧倒的に多いというのに!(笑)


そういうタイミングなんですかね。
以前からブログは拝見させていただいていたのですが
ほんとにここ最近、本を買ったり動画を購入したり
瞑想(をしようとする)の回数が前より自然と増えてます。
(瞑想伝授は2〜3年前には受けていたのですが、忙しさにかまけてあまりやっていませんでした)
何を急に追い求めてるんだ自分、とアホらしくたまに少々怒りすら湧いてきますが
やりたいんだから仕方ないですよね〜。やりたい流れに任せることにします。
Posted by ちっち at 2015年05月19日 08:13
模察さん 夢幻の世界さん 神生粋流さん・・・コメント大変感銘を受けました。ありがとうございます。。。 
Posted by アゲハ・・・3人?(笑) at 2015年05月19日 08:46
ちっちさん

>嫉妬してしまうワタシ・・・これを経験しているだけです(笑)
>一瞥体験してない人の方が圧倒的に多い・・・でも みんな「同じ」です。
(ここが、心底納得されて腑に落ちないと、真じゃないです)(あ 苦労するとこかも、笑)

自我埋没を経験している人がいて、一瞥を経験した人がいて、実生活に活かす人達がいます。伝える経験をされている人達もいます。
大空さんのように体感されている人がいて・・・私のような あほがいて(爆)

・・・あなたのように 思い出そうとしている人が、います。

それが、地上での経験と思います。
Posted by アゲハ・・・なんくるないさ~~~ at 2015年05月19日 09:00
本当のアホウは、自分のことをアホウだとは思わないでしょう。
本当の賢者は、アホウのように振る舞う賢さを持っています。
能ある鷹は爪を隠す。
本当の賢さは、人を思いやる愛に溢れています。
それを押し隠すことは出来ません。
光がその人を通して発散され、周りを照らします。
それを、光輝と言います。
Posted by 智慧愛 at 2015年05月19日 14:00
智慧愛さん・・・お優しいですね。HNは変っても、それは変わりませんね。。。
Posted by アゲハ at 2015年05月19日 16:39
ちっちさん

わかります!そのお気持ち。
私も同じです。
何年か前に、ここのコメント欄で
目覚めの一瞥をした人は、まだしてない人に対して
優越感とか感じませんか?と質問したことがあります。

コメント欄の中では、正直優越感を感じる
と言う人も何人かいましたが、次の日のブログで
阿部さんから、優越感なんて絶対に感じない!と
全否定されたっけな〜。

まあ、それはどうでもいいけど、まだの人にしてみれば
羨ましい限りです。
いくら同じだよ、って言われてもね。
Posted by tonton at 2015年05月19日 20:51
>大空さん
お答えいただいて、本当にありがとうございました。

面白い!第4チャクラですか?
そっち系のお話もけっこう好きです。
頑張ってハートを探してみます♡

阿部さんのコメント欄、優しい方がいっぱいいらっしゃいますね!
いい感じですね^^/
Posted by 奈々美 at 2015年05月19日 21:59
智慧愛さん、

私の感じたことを意見させて頂きます。

> 本当の賢者は、アホウのように振る舞う賢さを持っています。

なんか、小賢しさを感じます。
自分の知識や、気が付いたことを
言いたくなるのが人情。
黙っていられるのは出来た人だと思いますけど
(大概、それさえも皆できない、勿論、私もできない、
何かを言いたくてコメントしてるわけですから)、
ただ、その賢者はまだまだです。

> 本当のアホウは、自分のことをアホウだとは思わないでしょう。

これ、そのまま言えるんじゃないですか。

「本当の賢者は、自分のことを賢者だとは思わないでしょう。」
そもそも賢者というものも、自分というものも意識しないでしょう。
Posted by rakuninaritai at 2015年05月20日 01:16
>私のような あほがいて(爆)

・・・申し訳ありません。この記述が、入り組んだ意見の発端です(笑)

自分を表現するのに、5秒くらい 迷ったのですが、真逆を書いても良かったのですが、それを書くと、どなたかの自我を刺激すると思い、また 思い上がりや見下すなどの感覚も 残っておりますので、見透かされるのも イヤ(笑)
と 思い、自己卑下にしましたが(笑)ま これも、反応されてしまうんですね。

訂正します。

私を 私と言う自我で語る者がいて。
Posted by アゲハ at 2015年05月20日 08:50
こんにちは、はじめまして・・・だと思います。
(遠い過去に書き込みしたことがあるかもしれません)
時々こちらのブログに遊びに来てます。

他のみなさんも書かれていますが、最近のコメント欄では「一瞥した!」という体験談が増えてきていますね。
体験された方の興奮とか喜びがすごく伝わってきます。
自我の努力ではたどり着けない境地と言われているのに、このブログがキッカケとなっている、というのは本当に素晴らしいです。
一方で、コメント欄には出てこないマジョリティのサイレント読者の中には、私もそうですが、まだそういう体験が来ていない人も多いと思います。

>ちっちさん、tontonさん

嫉妬する気持ち、わかりますよ!!
私なんて10歳の時に永遠を求め始めてから30年以上何も起こらないままで、その間に何も知らなかったハズの人たちにめっちゃ追い越されましたから。(笑)
嫉妬や焦りなんてもんじゃなかったです。
『嫉妬や焦りは分離感覚の現れだから』と思って頑張ったこともありましたが、そんな誤魔化しをするよりは、思い切り嫉妬して焦ってのたうちまわった方がスッキリしました。←体験談w
だって、何をどう焦っても、どうしようもないモンはどうしようもないです。
今現在は自我の塊なわけですもんね・・・。
でも、一昔前は、真理を一瞥するためには清く正しい生活と菜食主義と瞑想と欲望抑制が必須、と思われていたのが、最近ではそれすら関係ない、修業は必要ではない、という風潮なのですごく気が楽です。
まだ体験が来なくても「自分」の努力が足りないからではないのなら、ほんとに偶然とか運とか、アミダクジ的な感じなのでしょうか。
ネコのように気まぐれな「アレ」が早く私から目覚めてくれないかなぁと思うしかないようです。

何の慰めにも励ましにもならずごめんなさい。
お互い頑張りましょう・・・って頑張りようがないけど、あきらめずに目指しましょう!!!
Posted by mayaka at 2015年05月20日 09:41
rukuninaritai さん

小賢しさを感じるのですね。
ご意見ありがとうございます。
「賢者」は人ですから、人間臭さが残っていても、いいのではないか?と個人的には感じています。

愚者も幻なら、賢者も幻でしょう。

二元の世界観でなく、一元の世界観では、どちらも存在しません。

しかし、それは、二元の世界を、一元の
世界観で認識することとは別です。

加害者も被害者も、一元の世界では存在しませんが、この世界では存在します。

これはすべて個人的な意見です。
押し付けるつもりはありません。
Posted by 智慧愛 at 2015年05月20日 17:32
アゲハさん、

> ま これも、反応されてしまうんですね。

反応したのは、そこではないです。

まさにリーラさんの

> 本当の賢者は、アホウのように振る舞う賢さを持っています。

の一文です。

反応しがちなのは、断定的な一般論があって、それに対して違和感を覚えるときです。
いつも過剰反応してしまいます。
アゲハさんのように、それに乗っかる方がいらっしゃる場合には余計にそうなります。
断定的な物言いに弱いです。
阿部さんご推薦のOSHOも断定的な物言いが嫌で読むのを止めました。

智慧愛さん、

「小賢しい」という表現がきつかったかもしれません。すいません。
以下、補足です。
どこからどこまでが賢者かという話はさておき、
私の知る範囲で、凄いなと思われる人、桜井章一さんとか明石家さんまとか、
それからいきつけの病院の凄い先生とか、
誰もアホウのように振る舞ってるようには見えません(さんまは別か)。

凄い人はストレートなんです。自然体なんです。
だから自分を隠すような振る舞いをする人が本当の賢者だと言われると
違うような気がしたのです。

凄い人って、いつでも自分の凄さを手放せる人というか、
どんな自分でも生きていけるというか。
向禅師、ボブさんもアホウのように振る舞ってはいないと思うんです。
全く私の思い込みなので、もしお二方がアホウのように振る舞っていたら、すいません。
Posted by rakuninaritai at 2015年05月20日 22:12
rukuninaritai さん

"アホウのように振る舞う賢さを持っている"というのは、
時と場合に依り、その様に振る舞うことも出来る精神のしなやかさを持っている、という意味で使ったつもりなのですが、誤解を招いたかもしれません。
たとえ、自分が真理を見極めていたとしても、それを鼻にかけるようでは、まだまだだということにも通じます。
ホンモノは、誰に認められなくても、ホンモノだとわかっていますから、誇示する必要はありません。
そのことを知っている人が、真の賢者であるという揺るぎない自信があれば、
すべては、自己の中で完結するので、外に承認を求める必要はありませんから、
そういう人は、知らないふりをしたり、アホウのようにも振る舞うことができる、ということになります。

これも、個人的な観念として読んで頂けると、大変有り難いです。
Posted by 智慧愛 at 2015年05月21日 00:55
智慧愛さん、

仰るとおり誤解しておりました。
補足の説明ありがとうございました。
Posted by rakuninaritai at 2015年05月21日 22:03
Rukuninaritai さん

こちらこそ、ありがとうございました。
そして、生意気なことを書きまして、申し訳ありませんでした。
Posted by 智慧愛 at 2015年05月22日 01:19
智慧愛さん・・・書かれてくれてありがとうございます。

HP(ブログでなく?)の開設を楽しみにしています。
必ず、ここに お知らせして下さい。
Posted by アゲハ at 2015年05月22日 08:03
*「本当のわたし」に出逢いましょう♪

http://www.premagrace.com/index.html
”目覚めのとき~本質の流れのままに~”


*ひと時の楽しい夢をご一緒に♪

http://www.music-energy2015.com/
”魂の音楽と本質のエナジーのコラボレーション” (6月にUP予定)
Posted by アゲハさんへ at 2015年05月23日 00:31
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。