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古都と首都機能都市

  奈良や京都は、しばしば古都と呼ばれる。いうまでもなく710年の平城京や、794年平安京のことだが、ところで、あまり知られていないのかもしれない が、大阪は、奈良や京都より古い都でもあった。645年の難波長柄豊埼宮(なにわのながらのとよさきのみや)であり、大化の改新の時の都だ。飛鳥板葺宮 で、蘇我入鹿が殺され、都が飛鳥から大阪に移され、現在の大阪城の南に位置する難波宮史跡公園の地が都となる。この難波長柄豊埼宮は、日本最初の全国的な 都として本格的に造営され、秀麗な宮殿も建てられてといわれる。隋の使者の裴世清によれば、住ノ江(大阪湾)の海から望むと、白亜の宮の建物、四天王寺の 五重塔、白砂青松の美景の住吉大社の社前、そして仁徳のものと伝えられている巨大な陵が一望出来たとのことだ。大伴家持は「桜花、今盛りなり 難波の海、押し照る宮に 聞こしめすなへ」(万葉集 巻20- 4361)と歌っている。大阪は、その後も難波京が造営されるが、大阪を古都とする形容は聞いたことがない。それは、大阪が、その後も、本願寺の本拠地と なったり、豊臣秀吉の大阪城や、江戸時代の「天下の台所」としての経済的な中心地、さらに近代日本の経済的首都として、現在進行形で展開したからだろう。 地球広しといえど、古代に首都として栄え、現在も世界的な大都市として存在しているのは、大阪の他には無いとさえいわれているらしい。
  関西の地盤沈下、つまり大阪の没落が始まるのは、1960年代であり、日本の経済が世界を相手にしようという時、政治の中心と経済の中心を、東京と大阪に 分けるのではなく、戦略的に一元化する方途が選択され、大阪にある経済の東京への移転が図られるようになる。この時に、大阪に対するネガティブ・キャン ペーンが大規模に展開されたといわれ、昨今、多くの人が抱いている大阪についての否定的なイメージは、この時のネガ・キャンペーンの大阪オリエンタリズム 的産物ともいわれている。
  幕末から明治にかけて、大阪遷都論があった。政治を刷新するため、首都を京都から大阪に移すという案だが、東北にはまだ旧幕府の残存勢力がおり、また江戸 は放置すれば滅びるということで、暫時的に東京に首都機能を置くことにした。当時は、首都機能の都市については定着しておらず、千年の都の京都と、江戸期 の経済的首都でもあった大阪、そして徳川幕府の所在地であった江戸(東京)が、首都(首府)候補地として、「県」とは区別されて「府」とされた。
  この時、かつての平城京の故地であった奈良で、奈良県ではなく、「奈良府」とする要望の声が上がり、ちよっとした運動も展開されたらしい。古都の奈良とし ては、京都に先行しており、十分に「府」となる資格があると考えたのだろうが、この動きはしばらくして収縮した。しかし、過去に都となった地が府となるの であれば、大津宮などのあった滋賀県も滋賀府となる資格があるということにもなろう。
  古都といえば、現在、奈良や京都と共に鎌倉が加えられている。しかし、鎌倉は古都なのだろうか。古都が古の都のことであるならば、鎌倉は古都ではない。な ぜなら、鎌倉は都になったことがないからだ。鎌倉は、源頼朝による幕府の所在地となり、行政の所在地となったことはある。しかし、鎌倉は都ではなく、鎌倉 幕府の時代も、都は京都だった。その意味でいえば、鎌倉は、所謂歴史都市ではあるものの、古都という概念からは外れるだろう。
  ところで、現在の首都は何処だろうか。多くの人は東京だと思っている。実際、東京には、国会や政府その他があり、皇居もある。しかし、東京を首都とする法 は無く、ある意味で、なし崩し的に東京が、事実的な首都機能の所在地となったままだといえる。法的には、平安遷都の際のものが否定されておらず、東京への 遷都令が発布されていないことから、依然として法的には京都が首都ということになる(「京都」という地名も、普通名詞として読めば「首都」という意味にな る)。
  もう一つ、伝統的な都の観念として、天皇の所在地つまり天皇の本宅の所在地が都であり、現在でいえば首都だという見方があるが、天皇をはじめ天皇家は東京 に居る。ということは、伝統的な都の観念では、東京が首都になるのだろうか。この場合に重要なのは、東京の皇居は、天皇の本宅かということだが、天皇の本 宅は、天皇が座る高御座の在る処とされる。そしてその高御座は、現在、東京ではなく京都御所にある。現天皇が即位する際、京都御所から東京へ運び、測位の 式が終わると京都御所へ返している。つまり、京都御所こそが、天皇の本宅であり、従って皇居となり、東京の旧江戸城跡の皇居は、明治以来、天皇家が長逗留 しているものの、そこには高御座が無いことから行宮であり、旅先の宿泊の宮ということになる。とすれば、伝統的な都の観念からしても東京は首都とはならな いことになる。
  ちなみに、通称「関西」と呼ばれている地域は、正式には「近畿」という。「九州」や「四国」「中部」「関東」「東北」なら分かるが、「近畿」とは何なの か。このいささか抽象的な名称は、古代以来の「畿内」に由来している。「畿」とは「都」であり、「畿内」とか「近畿」は、現代風にいえば「首都圏」という 意味となる。
 

 

 

 

 

古都と首都機能都市

 奈良や京都は、しばしば古都と呼ばれる。いうまでもなく710年の平城京や、794年平安京のことだが、ところで、あまり知られていないのかもしれないが、大阪は、奈良や京都より古い都でもあった。645年の難波長柄豊埼宮(なにわのながらのとよさきのみや)であり、大化の改新の時の都だ。飛鳥板葺宮で、蘇我入鹿が殺され、都が飛鳥から大阪に移され、現在の大阪城の南に位置する難波宮史跡公園の地が都となる。この難波長柄豊埼宮は、日本最初の全国的な都として本格的に造営され、秀麗な宮殿も建てられてといわれる。隋の使者の裴世清によれば、住ノ江(大阪湾)の海から望むと、白亜の宮の建物、四天王寺の五重塔、白砂青松の美景の住吉大社の社前、そして仁徳のものと伝えられている巨大な陵が一望出来たとのことだ。大伴家持は「桜花、今盛りなり 難波の海、押し照る宮に 聞こしめすなへ」(万葉集 巻20- 4361)と歌っている。大阪は、その後も難波京が造営されるが、大阪を古都とする形容は聞いたことがない。それは、大阪が、その後も、本願寺の本拠地となったり、豊臣秀吉の大阪城や、江戸時代の「天下の台所」としての経済的な中心地、さらに近代日本の経済的首都として、現在進行形で展開したからだろう。地球広しといえど、古代に首都として栄え、現在も世界的な大都市として存在しているのは、大阪の他には無いとさえいわれているらしい。
 関西の地盤沈下、つまり大阪の没落が始まるのは、1960年代であり、日本の経済が世界を相手にしようという時、政治の中心と経済の中心を、東京と大阪に分けるのではなく、戦略的に一元化する方途が選択され、大阪にある経済の東京への移転が図られるようになる。この時に、大阪に対するネガティブ・キャンペーンが大規模に展開されたといわれ、昨今、多くの人が抱いている大阪についての否定的なイメージは、この時のネガ・キャンペーンの大阪オリエンタリズム的産物ともいわれている。
 幕末から明治にかけて、大阪遷都論があった。政治を刷新するため、首都を京都から大阪に移すという案だが、東北にはまだ旧幕府の残存勢力がおり、また江戸は放置すれば滅びるということで、暫時的に東京に首都機能を置くことにした。当時は、首都機能の都市については定着しておらず、千年の都の京都と、江戸期の経済的首都でもあった大阪、そして徳川幕府の所在地であった江戸(東京)が、首都(首府)候補地として、「県」とは区別されて「府」とされた。
 この時、かつての平城京の故地であった奈良で、奈良県ではなく、「奈良府」とする要望の声が上がり、ちよっとした運動も展開されたらしい。古都の奈良としては、京都に先行しており、十分に「府」となる資格があると考えたのだろうが、この動きはしばらくして収縮した。しかし、過去に都となった地が府となるのであれば、大津宮などのあった滋賀県も滋賀府となる資格があるということにもなろう。
 古都といえば、現在、奈良や京都と共に鎌倉が加えられている。しかし、鎌倉は古都なのだろうか。古都が古の都のことであるならば、鎌倉は古都ではない。なぜなら、鎌倉は都になったことがないからだ。鎌倉は、源頼朝による幕府の所在地となり、行政の所在地となったことはある。しかし、鎌倉は都ではなく、鎌倉幕府の時代も、都は京都だった。その意味でいえば、鎌倉は、所謂歴史都市ではあるものの、古都という概念からは外れるだろう。
 ところで、現在の首都は何処だろうか。多くの人は東京だと思っている。実際、東京には、国会や政府その他があり、皇居もある。しかし、東京を首都とする法は無く、ある意味で、なし崩し的に東京が、事実的な首都機能の所在地となったままだといえる。法的には、平安遷都の際のものが否定されておらず、東京への遷都令が発布されていないことから、依然として法的には京都が首都ということになる(「京都」という地名も、普通名詞として読めば「首都」という意味になる)。
 もう一つ、伝統的な都の観念として、天皇の所在地つまり天皇の本宅の所在地が都であり、現在でいえば首都だという見方があるが、天皇をはじめ天皇家は東京に居る。ということは、伝統的な都の観念では、東京が首都になるのだろうか。この場合に重要なのは、東京の皇居は、天皇の本宅かということだが、天皇の本宅は、天皇が座る高御座の在る処とされる。そしてその高御座は、現在、東京ではなく京都御所にある。現天皇が即位する際、京都御所から東京へ運び、測位の式が終わると京都御所へ返している。つまり、京都御所こそが、天皇の本宅であり、従って皇居となり、東京の旧江戸城跡の皇居は、明治以来、天皇家が長逗留しているものの、そこには高御座が無いことから行宮であり、旅先の宿泊の宮ということになる。とすれば、伝統的な都の観念からしても東京は首都とはならないことになる。
 ちなみに、通称「関西」と呼ばれている地域は、正式には「近畿」という。「九州」や「四国」「中部」「関東」「東北」なら分かるが、「近畿」とは何なのか。このいささか抽象的な名称は、古代以来の「畿内」に由来している。「畿」とは「都」であり、「畿内」とか「近畿」は、現代風にいえば「首都圏」という意味となる。

帰路につく女性戦士

 数日前、家の前を掃除していたら、とてもお洒落な出で立ちのミニスカートの若い女性が、長い髪をなびかせ歩いていた。私の家のあるところは、古代の万葉集に、その風光明媚さが歌われ(今は、それを偲ぶ縁もないが)、江戸時代からある古い閑静な町でもある。そのような中を、しかも朝の8時頃、お洒落な装いの若い女性が歩くとは場違いであり、日常の中を非日常が歩いているという感じとでもいえようか。
  そこで、ふと思ったことは、その女性は、風俗系のコンパニオンとでもいうのだろうか、つまり性的な仕事に従事する女性であり、おそらく、近くにある何処かの客の家に泊まるか何かで、性的な仕事を行った後、帰路についたのではないかということだ。近辺は、元の地主などの古い旧家も少なくなく、また、比較的、高齢者が多い処だが、そのような処に、まだ若い性的コンパニオンを呼ぶような人間がいるとすれば、意外なことでもある。  
 私は、30歳頃、まだ東京の西新宿に住んでいた頃だが、スポーツ紙や娯楽誌の記者兼ライターという仕事を、私には珍しく数年ほどしたことがあった。その当時は、性的な風俗業界には仕事の関係から通暁していたが、その後は、そのような世界とは、ほぼ全く無縁になっていたので、その現状はどうなっているのか、よく知らない。
 ただ、個人的には、性的な風俗業に従事する女性たち、例えば、ソープからデリヘル、さらにはAVに至るまで、そのような女性たちに対して、私は奇妙な親近感がある。20代半ばの頃、少林寺拳法2段の腕と、うまが合ったことで、美貌で知られたストリッパーの用心棒になったことがあり、また20代の最後の年に、その頃に別れた内妻と所用で会うため、彼女の郷里を訪れた時、地方の小都市の夜が早いことが分からず、夕食を食べそこねたことがあった。そのような時に、夜の街で娼婦から声をかけられたのだが、私は、性よりも食事であり、そのことを言うと、親切な娼婦は、彼女たち専用とでもいうような、夜遅くまでやっている食堂へ案内してくれた。店内では、何人かの娼婦が、夜の戦を終えた後の腹ごしらえでもしている様子だった。そこで、しばらく食事をしながら彼女たちと、とりとめもない世間話をした。その時、彼女たちに不思議な親近感を覚えたのだった。
 それは、少し前まで、政治闘争に従事していた自分を戦士と自己規定していたことと、戦士と娼婦の、いわれるところの最古の職業的一対性の感覚に依るものだったかもしれない。娼婦の女性たちからすれば、脳天気な男と思うかもしれないが、ジョセフ・ド・メーストルが言うように戦争が聖なる行為だとすれば、性も文字通り同様で、それに従事する戦士と娼婦もまた同様だ。
  話を戻せば、私が早朝に見かけた女性だが、彼女は、性の戦士としての任務を終え、作戦地域から撤収していったのだろう。



 ※写真は、単なるイメージ画像。

米国の原爆攻撃は犯罪なのか。






●広島でのオバマ大統領のスピーチを讃めたり貶したりする声があるが笑止千万だ。あれは国家同士の手打ちの儀式以上でも以下でもない。またオバマが原爆投下についての米国の責任を避け人類へすり替えているという批判もあるが、それは倫理的かもしれないが、政治が分かっていない。ホロコーストについてのヴァイツゼッカーの有名な演説も、ドイツというより人類の問題としてなされており、これが高等政治というものなのだ。政治は、個別責任を普遍化し、個別を回避するところに倫理とは異なる内実があるといえよう。それに腹を立てるのは倫理だが、倫理で政治を撃つことは出来ず、そのような狡猾さが政治の政治たる所以だろう。
●日々の生活と共にあり、現実の肯定が前提であり、その意味では政治とは無縁な人々ならばともかく、生活の外としての政治や思想に関係する立場についていえば、右翼の一部には、米国の原爆投下は犯罪であり、謝罪を求める声があるが、本当に右翼なのか。原爆攻撃を犯罪視するのは敗戦思想であろう。
●米国は敵ではあるが悪ではないのであり、敵役と悪役を混同してはならない。右翼ならば対米報復攻撃を志向すべきだろう。原爆投下は、米国の犯罪ではなく、米国の軍事の一環であり、謝罪ではなく、逆に撃滅をこそ志向すべきだろう。犯罪や謝罪をいう立場は、実は対米追随の余波だと知る必要がある。
●また核廃絶をいう左翼だが、そのような左翼は反革命であり、主観的にはどうであれ、構造的には資本主義の傭兵にすぎない。革命は、地球レベルの機動戦としての革命戦争が最終的には必要になり(だからネグリあたりのマルチチュード革命論は、グローバルな構造改革にすぎず、その実態は、革命を僭称する体のいい反革命でしかない)、核が切り札となるだろう。その場合、人類が滅びていいのか? という恫喝は、現状肯定に通じることを知る必要がある。逆にいえば、革命は人類の死滅を肯定する思想が必要といえよう。また右翼は国民死滅の思想が不可欠だ。
●いずれにせよ、日本には怯懦な、革命を忘れた左翼や、独立心のない右翼しかいないのか。だから、左翼も右翼も、革命や国家独立の思想を確立しえず、左は社民や文化左翼が、右は保守の類が幅をきかせることになる。社民や文化左翼と保守は、一見、対立しているようだが、共に現状肯定を前提で部分的な修正を志向するだけであり、本質的に同類であることだ。
●革命とは、生活を良くすることではなく(それは革命ではなく改革であり、それ自体としては反革命)、現実という存在の無根拠性の肯定なのだ。そして革命が創造する国家とは、無根拠の肯定の政治的様式といえる。
●米国の原爆攻撃に対しては、核武装した現代版の富嶽による厚木航空隊の再形成を志向すべきであり、もし再び玉音の阻止が必要ならば、現在の畑中少佐たちの行為は、神武帝の建国(国家創造)の革命性の大義に基づいてなされるべきだろう。これを否定する右翼は反天皇的であり、否定する左翼は反革命的だろう。そしてそれが現実には不可能であるならば、思想的な本土決戦(つまり、日本における総動員の完遂でもある)により、敗戦を徹底化すべきだろう。そうすれば勝敗を突破した自己規定が可能な存在になり得よう。少なくともそのような歴史的根拠を持つ思想を確立すべきだろう。

エルンスト・ユンガーの鋼鉄の体験と人口知能

 毎月の定例の研究会は、ほぼ土曜日に行われていたが、今月は都合により5月15日の日曜日になった。土曜日は翌日が休みなので、参加者も時間的なゆとりがあるのに対し、日曜日は翌日は仕事なので、どうだろうかと思ったが、いつもと、ほぼ変わらないくらいの参加があった。回によって参加者の顔ぶれも、大体、半分ほどは異なるが、昨日は、比較的年齢の高い人(といっても40代前後だが)が多く、20代は少なかったように思う。
 事前告知したようにエルンスト・ユンガーについての拙論を読んだが、少し内容を変えた。最初は、2009年頃に書いたワイマール戦間期のユンガーのナショナリズムについての文章を読む予定にしていたが、その前にナショナリズムの前提となるユンガーについても取り上げた方がいいと考え、1977年、私が27歳の頃に『現代の眼』という雑誌に書いたユンガー論を読むことにした。これは、ユンガーの第一作である『鋼鉄の嵐の中で』等の、彼の初期の戦争作品を取り上げ、その内容や戦争体験の様相、そしてそれを表現するユンガーの言葉について考察した文章だ。しかも、戦後世代では、最初のユンガーについての批評性を持った(ということは教科書的ではない)文章だと思う。書いたのが、まだ1970年代の後半であり、市民社会の可視的な風景からは、1968年闘争期の痕跡は消えていたが、私の中では、自分の闘争体験についての思想的な問いや総括が残っていた。その前に「総破壊の使徒バクーニン」という約400枚ほどのバクーニン論を『情況』に連載して、私自身の1968年闘争期のバクーニン主義的なアナキズムの総括を行い、次いで1968年闘争期のゲバルト体験、つまり暴力体験だが、それを総括したいと思いエルンスト・ユンガーに取り組み始めたのだった。なぜユンガーなのかというと、私は1968年として語らられる1970年前後の闘争は、政治闘争というより、性格的には一種の軍事闘争としての戦争(内戦)と考えている。つまり、政治的交渉ではなく、武装した部隊による実力行動だからだ。ブントの「丸太抱えて防衛庁」闘争や東大安田攻防戦は分かりやすい事例だろう。ゲバルトとは暴力であり、暴力は行使する相手の言語を封殺するところがある。逆に、こちらが封殺される場合もある。そのような暴力の行使体験をした者が、言葉に依拠した思想をやることは出来るのか、そんな言葉は、暴力を隠蔽した欺瞞ではないのかというのが、私がユンガーをやり始めた頃の問題意識だった。ユンガーは文字通り20歳前後に第一次世界大戦の最前線で壮烈な戦闘体験を重ね死地を潜っている。戦争は、端的に敵を殺すことだが、殺すとは、相手から言葉を奪うことでもある。だから、そのようなユンガーが、言葉をどのように考え、どのように言葉を獲得し、如何なる表現をしたのかということに強い関心があったのだった。
 だが、当時、ユンガーをやるには一つの困難があった。まず、今日と異なり、東大の独文の院生クラスでもユンガーを知らない者がザラであり(これは、日本の独文学界の本質的な問題として思想化出来る)、また翻訳がなかったことだ(最近は、少しずつ翻訳も増えているが、それでもユンガーの著作の、ごく一部にすぎない)。だからユンガーを読むためには、当たり前の話だがドイツ語が必要になる。私は、69年に京大の入試に落ちたままの高卒者であり、改めて一からドイツ語をやる必要があった。
 今回は、「エルンスト・ユンガーの体験──鋼鉄の嵐とその言葉」の前半を読んだ。次回は後半を読み、次々回に、当初の目的だったユンガーのナショナリズムについての拙論を読み始めることにする。







 今回は、来阪していた東京で美学校で講座を開いている美術家の中ザワ・ヒデキ氏と、11月に阿佐ヶ谷で「凸凹絵画─バルス」を開く予定の草刈ミカさんの参加があった。中ザワ氏とは、人口知能自身が行う美学と芸術について中ザワ氏たちが立ち上げた「人口知能美学芸術研究会」のことや人工知能について、やはり強い関心を持つ小灘君共々、反芸術から芸術の外部、私流にいえば、物理としての超芸術について、あれこれと話しをした。この人口知能の問題は、私の関心に引き寄せれば、ユンガーの『労働者』の理解について、面白いヒントを与えてくれたと思う。  研究会は、内容的には、思想から政治、文学、芸術まで多岐に及んでいるが、そのため、思想や政治だけでなく、音楽や美術、演劇、映像と芸術や表現関係も、遠路、東京からの参加者も含め、交流が多彩になっている。  いつもは、土曜日だから翌日が日曜ということで、交流会は、時には、早朝の6時頃まで続くことも少なくないが、今回は日曜で、翌日が月曜ということもあり、例外的に午前1時頃に解散した。

右翼と保守の違い

●毎月、難波千日前の味園ビル2FのTorary Nandで行っている私の定例研究会には、元中核派幹部やブント、全共闘から、様々な右翼組織など左右が集うが、そもそもTorary Nandの責任者が、民族の意志同盟の関西支部長でもある。だから、右翼が共産主義や無政府主義の、左翼が天皇や民族の、思想、運動、人間に接し、交流し、討議する場になることもしばしばだが、時折、参加する京都の新風の某氏が、保守は天皇を蔑ろにする傾向があると批判し、そのような保守と比べると、反天皇的な左翼だが、その中には天皇の存在価値を知る左翼があり、立場は反対だが、保守よりも天皇の存在価値を知る左翼との方が話は合うと言っていた。
●去年、ここでも書いたが福岡の九州ファシスト我々団の本営に行った折、その交流会で、九州尊皇派として活動する藤村修君から、時局対策協議会(時対協)に関係する攘夷戦闘紙『皇道日報』に、私の言葉が引用されていると教えてもらった。『皇道日報』は、数年前、東京での右翼の内部検討会にオブザーバーとして参加を求められた時の会合で会った防共新聞社の福田邦宏氏が関係する媒体だが、時対協の若き理事の『Will』に対する行動を見る時、上記の新風京都の人士の言葉を思い出した。
●昨今、右翼と保守は、しばしば混同され、区別がつかなくなっているが、拙論「日本は天孫降臨以来の革命国家である」(拙著『思想としてのファシズム──「大東亜戦争」と1968』彩流社刊、所収)でも述べたように、右翼には保守とは異なる存在の意味があり、これを見失った右翼は、保守に呑み込まれ、体よく利用されるだけになるだろう。時対協の若い理事の行為は、保守とは異なる右翼の存在する意味を示したと思う。
●保守の人間が言った「廃太子」云々発言に関連していえば、私は、それとは逆に、現皇太子の次の天皇は、秋篠宮家の悠仁親王ではなく、現皇室典範を変更する必要があるかもしれないが、愛子内親王が、男系の女性として過去にもあった天皇になるべきだと思う。悠仁親王は、愛子内親王の後に天皇になるべきだろう。

右を見ても左を見ても真っ暗闇じゃござんせんか




●ちょっと左翼的な言い方をすれば、日本はナチスがおこなったホロコーストに無罪ではない。日本もある意味では共犯者だったのであり、これが分かるかどうかに国際感覚の試金石の一つがある。
●ところで、今は何をやっても当面の場繋ぎの域を出ないのは、グローバリズムに対応した原理論が欠落しているからだ。だから情勢論や状況論ばかりだが、それは右の保守や左の革新という現実肯定派にはお誂え向きのことであり、現実変革を志向する左翼や右翼にはお先真っ暗であり、原理論なき状況論は必ず負ける。
●簡単にいえば、左翼は、反スターリン主義も含めてソ連崩壊後の革命理論が無く、右翼は昭和天皇の存在を前提とした昭和維新以後の展望が皆無だ。だから過去の原理論を摘み食いして状況論や個別論等をくっつけるのだが、所詮、その場凌ぎでしかない。
●注意すべきは、現実の変革を志向する左翼、極左は、一見、仲間のような左の革新派に、また現実変革を志向する右翼、極右は、やはり仲間のような右の保守派に、妙な錯覚や事実誤認で味方や同士と思わないことだ。彼らこそ、最も身近にいる、そして仲間面をした腐敗の膿の元でもある。
●現実には圧倒的多数は、左の革新や右の保守に追随するような、本質的には現状肯定のガス抜き的な改革や、やはりガス抜き的な反改革のデモや運動、活動しか出来ない。それが市民運動というものだからだ。それはそれでいいとして、それとは別に原理論への志向を持つことだ。
●別に左右の変革派が合流する必要はない。それぞれ固有の任務があるからだが、「別個に進んで共に撃つ」とすれば、左翼的なものを否定する右翼や、右翼的なものを否定する左翼には、近代ならいざしらず、グローバリズムにおいては展望は持ち得ないだろう。
●左翼の変革派に必要なものは、コミンテルン以降の思想の根拠だ。それを確立出来なかったためトロツキズムやその革命的後継は文学政治に終始し、右翼の場合は昭和天皇以降の天皇論の根拠だ。要するに、現実を変革する国家創造の史的根拠であるといえる。
●左翼の理論は、日本書紀が伝える神武建国神話に始まる歴史の批判ではなく、歴史のオルグを志向すべきであり、右翼の理論は、日本書紀が伝える神武建国神話に対する伝統的な国体論的解釈を否定し、神武建国として形象化されている事態の政治的現実を把握することだといえよう。
●そのためには、後に神武帝とされる人物、あるいは応神帝でも誰でも構わないが、その実在モデルとされる人物は、「良家の御曹司」なのか、あるいは「無名のカリスマ」なのかという認識が不可欠となろう。なぜ、天皇や皇族には、姓も苗字も無いのかということも考えてみる必要があろう。
●無思想の無知な馬鹿は明治天皇は大室某だと言って批判したつもりだが、そうだとすれば、だからこそ明治帝はカリスマ性を持ちえたのではないか。そして神武帝がカリスマであったなら、彼がいわば、初代の大室某であり、そして無名の誰かがカリスマとなるのが天孫降臨の現実なのだ。
●問題は、何を、どのように肯定したり否定するのではない。そうではなく、どのような理論で、何を肯定したり否定するかなのだ。

資本の総動員としてのグローバリズム




●政治といえば、現実を維持したり改変することと解され、それに応じて政治勢力も一方の保守から他方の革新にまで到る。その政治の組織論は、保守、革新を問わず選挙だが、むろんそれだけが政治ではない。そのような政治をトータルに否定する政治があるからだ。だがそのような政治は思想に亡命している。
●安倍の背後勢力でもある日本会議と、反安倍を叫ぶSealdsは、一見、対極的なようだが、政治的には似た者同士ではないか。日本会議は、右翼の現存国家を否定する国家創造的な民族派を、Sealdsは、左翼の現存国家を否定する国家止揚的な革命派を、それぞれ敵視しているからだ。
●グローバリズムにおいては、国家は秩序の基礎とはならない。近代以前においては教会だったが、グローバリズムにおいては会社だろう。近代の左翼の革命論や右翼の民族論が、政治的現実としては困難になっているのは、近代的な国家や民族は事実上、終わりつつあるからだといえる。
●その意味では、社会科学の基盤となるのは、法学段階から政治学段階を経た後の経済学の段階も過ぎ、経営学になるだろう。
●要するに生き残りであり、サバイバルだが、パナマ文書の問題もそれに関連している。パナマ文書により、富裕層の資産隠しが問題になっているが、これもまたグローバリズムの問題と繋がる。その有限的な限界が具体化した地球においては、もう無限の生産は不可能なのだから、富裕層にしてみれば、零落しないためには手持ちを温存しなければならないということだろう。
●エルンスト・ユンガーがナショナリストからアナルクに転じたことを多くのユンガー研究は解明出来ていない。しかし、これは彼の『労働者』が軍秩序のグローバル性を把握 していたことを見れば分かる。ユンガーの労働者の世界は、近代の秩序や革命、民族を超えたものとなっている。資本主義はグローバリズムの段階において、ユンガーが言った「総動員」に、対極的に追いついたといえる。グローバリズムとは、資本主義の総動員であり、市民の会社員化だ。かつての兵士・労働者と市民の対立は、アナルクVS会社員となる。

(※以上は、Twitterからの適宜、転載。)

研究会の二次会は、早朝の6時半まで続いた

●土曜日の定例研究会は、多数の参加でToraryのスペースがぎっしりになったが、私の凡ミスがあった。その日、講読予定の拙論「革命は電撃的に到来する」はユンガー論ではなく、革命の無根拠性を肯定的にとりあげたものだった。ユンガーを目的に参加した人には申し訳なかったが、しかし、内容の過激なアジテーション性にみんなが興じ、研究会は盛り上がった。
●研究会の後半で、私が執筆予定のワーグナー論の話をし、以前に、彼方から神の声が、使命の声が、蜂起の声が聞こえる音楽の例としてあげた『ローエングリン』前奏曲を流し、しばし皆で聴く。
●ベケットの一人演劇を行っている演劇俳優の菅原顕一氏の東京から研究会参加があり、1970年代から現在に到るアングラ演劇の移り行きを、寺山修司の天井桟敷や新宿の花園神社の赤テントの頃の唐十郎から芥正彦、大駱駝館等の懐かしい名前や、2月にその演劇トークに参加した土方巽に繋がる舞踏的演劇の解体社まで、あれこれと話す。
●日独伊三国同盟の思想の問題からヨアキム主義と「第三」の神話に触れ、カンディンスキーからシュタイナー、さらにナチスとオカルトに話が転じた時、半常連的参加者である映像と錬金術の研究者である松本夏樹氏が、いろいろと奥義的な話を展開。
●Toraryの責任者の小灘君は、ドイツ・ロックに詳しい研究会参加者の宮川君と共に、私が「ファシスト唯美派」と勝手に銘打ったノイズ表現の活動を企画しているようだ。ちなみに宮川君は、やはりドイツ・ロックに詳しい九州我々団の東野君とは盟友であり、活動の広がりも期待される。
●何を馬鹿なという人もいるかもしれないが、二次会で、極左あるいは左翼の革命派(社民や構改系左翼や文化左翼ではない)が甦生するには天皇を肯定するしかなく、また極右あるいは右翼の維新革命派(体制派や保守右翼ではない)が甦生するには現天皇ではなく神武天皇の大御心に依拠するしかないという話が出た。
●政治では、個人的にはあまり興味はないが、安倍政権の性格や安倍晋三という人物の政治的背景を、母方の祖父の岸信介を含めた戦後日本の保守の分析から、あれこれと話す。つまり、安倍政権の奇妙な「左翼性」の実態は何であり、何に由来するのかということについて。また小沢一郎の黒幕的術策には長けているのにひきかえ、意外なほどの政治力の無さについて雑談。
●今回、予定していたユンガー論の講読は次回に回し、さらに今後の予定としとしては、私が1969年のアナキスト革命連合(ARF)等での活動体験を踏まえ、70年反安保闘争の後、1971年に21歳の時に書き、『情況』の1972年2月号に発表した「無政府主義革命の黙示録」(『歴史からの黙示』所収)を読み、1970年前後の時代の空気の充満した左翼革命派の理論表現の内容を取り上げ、さらに日本書紀や北畠親房『神皇正統記』等の講読を考えている。



今月の定例の研究会の告知










●今月の定例研究会は、4月16日(土)、PМ6:00~9:00。以降は随時解散まで思想や芸術、政治等について自由に談義する二次会。今回は、拙稿 「革命は電撃的に到来する」を読み、取り上げている戦間期のユンガーについて解説する。場所は、いつものように難波・千日前の味園ビル2FのTorary Nand。自由参加で、費用は無料だが、ワンドリンク制。
●戦間期のユンガーとは『鋼鉄の嵐の中で』から『労働者』までのユンガーであり、その時期のユンガーの戦争論、革命論、ナショナリズム論、総動員論などの構造的な全体像の端緒でも展開出来ればと思う。
●「革命は電撃的に到来する」は、その生涯の約半分にあたる36年半を断続的に牢獄で過ごし、牢獄の革命家といわれ、武装蜂起のカリスマ的革命家でもあり、ベンヤミンによればニーチェ的な永劫回帰の思想の持ち主だったったブランキの言葉。
●Torary Nandは、関西のマリネッティ主義的未来派の芸術集団並びに民族の意志同盟関西支部のスペースであり、月一回の定期研究会の他にも、様々な表現の画廊的 スペースにも転じ、普段は、正体不明の店(?)として、毎週、木・金・土とPM7:00頃よりオープンしており、興味の在る方は是非立ち寄られたい。
●極左も極右も、ファシストからアナキスト、ボルシェヴィキ、国体論者、唯美主義者までが集う定例研究会の二次会は自由な歓談をしており、他ではなかなか 接することの出来ない思想の内容や、また一般にはなかなか分からない左翼や極左、右翼や極右の現実や思想、また個々的な評価等について、興味のある方は知 ることが出来るだろう。
●むろん自由な二次会なので、思想関連の話ばかりではなく、また若い者の参加も少なくないため、禁煙や借金解消、恋愛その他から、思想書の読み方、語学の 学び方に到るまで、その時の雰囲気でいろんな話が登場したりもする。何か悩み事でもある人は、立ちどころに悩みも解消する可能性もあることを(効果ではな く、個別的な体験の感想として)付言しておきたい。

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