子どもたちの目は鯖のようである。
特に退屈なのは国語である。
まず、みんなで教科書を読む。
そして先生が黒板に短冊カードを張る。
そして曖昧な問いかけをする。
反応のいい子が手を挙げる。
指名して発表させる。
その発表を「こうだよね」と教師の言葉にすり替え、板書する。
またカードを張る。
これを淡々と繰り返す。
このような30分の間に、ただ席に座って手も顔を上げもせずぼーっとしている子がクラスの7割。
教師と3割の子が手を挙げ、活躍して進んでいく授業がある。
たまに手を挙げない子にあてると授業は停滞する。
教師はとまどい、適当に切って流れに戻る。
子どもの頃から私は退屈が嫌だった。
多動症の傾向にある。気が散りやすく、集中が持続しない。
だから話の本題はわからないけどつまんないのでいつも授業中チャチャを入れていた。
当然先生には歓迎されない。授業をかき乱す危険人物である。
しかし、多くの仲間たちはあの退屈さに耐えていたのだから偉いと思う。
私の座右の銘は「退屈な授業は罪」である。
だから退屈な授業を見ると気になって仕方ない。
どうして、小刻みなノート作業をさせたり、隣と相談させたり、黒板の方に出したり、席を立たせたりしないのか。手だては山ほどあるはずだ。
子どもが動きたくなる時間設定、空間設定、もの、ひと、課題設定が授業研究の中核だと思っている。なのに「全員の子どもを参加」させようという教師の意気込みが感じられないものがいかにおおいことか。
そのような公開授業では何を提案したいのか私はいつもわからない。
つまんない組み立てでも参加できる器用な子は3割です。