カピバラ日和

カピバラ日和

東京女子流が大好きです。

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 死んだヲタク、いつもカピバラです。相変わらず女子流は聴いています。

 

 山戸結希監督の商業デビュー作は2014年の『5つ数えれば君の夢』で、私も本作をきっかけに監督のファン(ヲタクともいふ)になったわけですが、この作品はテアトルグループやパルコの販路で推されたものの、今のところシネコン上映を果たしておらず・・・ クラウドファウンディングを募って駅構内やビル外装などの侵略には成功したものの、TVCM,中吊,POPなど一般にイメージされる映画っぽい広告展開もなく・・・ ソフト化は成し遂げたものの定番化には程遠く・・・ 要するにインディーズ感がまだあった気がします。

 

 それと比較すると本作『溺れるナイフ』は、車内広告,ファミチケでの前売販路,(観ていないけど)TVCMや各番組への露出,そしてシネコンでの上映とPOPの掲示など、これまでとは桁違いの推されようをしており、これが噂に名高いギャガ様の御業かと、五体投地して鼻の頭を地面に擦り付けること頻りであります。

 

 本作は主役二人のほか、脇を固める俳優陣も押しも押されもしない大物キャスト揃いで、しかも原作は(読んでいないのは申し訳ないけれど)伝説的な少女漫画ときており、これぞ最近の邦画あるある、キャストと原作のネームバリューでスポンサーとにわか層を引っ掛けて金を絞り、原作厨には金だけはたかせて苦汁を飲ませ、最後に円盤を投げて出涸らしをすすれば後は知らんという、ああいつものあれかという構造が透けて見えるのですが、さてその実はどうかといえば、パンフレットを読んでみるとわかります。

 

 女子流で1本撮ったほかに、バンドじゃないもん,神聖かまってちゃん,西野七瀬,乃木坂46などMVでの実績をあげ、映画のメイキング映像を手掛け、雑誌に寄稿し、ミスiDの常連となり、青田と呼ぶにはかなりその実りが見えるような、勢いのある女流監督といってよいかと思うのだが、おそらくそこに企画としての将来性が見いだされたのかもしれないが、山戸監督が撮ることを出発点とした話が持ち込まれたという。

 そして今回の原作も山戸監督側からの提示というのみならず、大好きな漫画ということで、どうだろう、きな臭さは和らいで、ヤマトンに何か好きなものを撮らせてみようという大らかさが何だか嬉しい(何様)。

 

 

 

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(以下いつものごとくネタバレ)

 

 

 

 

 ストーリーはやはり、すました美少女が大切な人と別れるという、あれ山戸監督の映画って短編以外はみんなこんな感じじゃんという話。むしろヤマトン作品が本作に影響を受けている?

 

 ただ、今回の主人公夏芽はここではない世界へ飛び出したさはそれほどではないように見えた。自分の世界だと思っていた東京でのモデル稼業を見つめ直すと、本当の自分ではないのではないかという不安に襲われ、ただ神々しいコウという存在に自分の輝きの証明をぶつけたくて、もがいてみる。現状に不満足ながら、どちらかというと過去の栄光を取り戻すことに執心している。そして夏芽は一度は道を見失いながらも、コウのために輝くという目標を見出した。コウは浮雲という土地の神に等しく、自分の尺度で面白いもの美しいものを選び取って手に入れる。そして夏芽を選び取った。

 互いに夢を見るというテーマがここにも非常に効いていて、ティーンのカップルは結局、火祭りの夜に彼女の身に起きた事件を乗り越えることができなかった。

 

 

 事件をきっかけとして起こる、「特別だった」美男美女の変容が容赦ない。

 芸能人として再び花開くチャンスを失い、アイデンティティも半ば失い、普通の田舎のJKと化した夏芽。

 コウも、自分の力で夏芽を護れなかったことで誇りを失い、ガラの悪い連中と絡んで暴力に明け暮れる。

 ここには過去への郷愁すら存在せず、過去を振り返れば、二人を変えてしまったあの事件だけが横たわっている。

 

 そしてただ偶然によって、二人はまた出会う。

 夏芽はコウの輝きが戻ることを願う。コウは夏芽に対する今の自分の不全感に苛まれ、夏芽を突き放す。

 自身の不全感を払拭する原動力とするために、夏芽はコウを求めたのかもしれない。

 

 

 コウとの思い出とともにどこかへ置いてきてしまった、外の世界へ羽ばたく翼が、また風を受け始める。

 夏芽は中学時代から仲の良かった眉毛くんと付き合い、田舎娘の青春を味わう。そこへ、かつて夏芽の写真集を手掛けた写真家の広能が手掛ける映画への出演話が持ち込まれるが、夏芽は断ろうとする。そして当の広能は夏芽を一目見て、あの頃の撮りたかった夏芽ではないと失望を露わにする。

 

 東京を離れてからあまり時をおかずに夏芽の写真を撮りにきたとき、広能は、東京でもカメラの前の夏芽はここに居場所がない感じだったと軽くジョブを叩きこんできた。その写真集の夏芽の姿は、夏芽本人からして本当の自分ではないと感じた。これは同時にこの浮雲という土地、そしてコウの隣という居場所をもちはじめたという予感を表しているのかもしれない。ここから先、夏芽はコウのために芸能界を突っ走ろうとする。絶頂から転落を経ての再起は、当初のものとは全く意味合いが違っていたのだ。

 

 夏芽はコウと一緒に浮雲を脱出しようとするが叶わない。コウはすでに夏芽を護れる

だけの力を身に付けているようにも見えるが、不全感から離脱できない。夏芽は自分だけで浮雲を脱出することにして、眉毛くんに別れを告げる。

 なぜ夏芽はここでコウに頼ることをやめられたのか。ここの二人の会話が、過去の関係性を振り返りながら、現状と照らすという作業を行っている。夏芽は心の奥では自分の人生を自分の好きにしたい、好きにすべきと思っていたが、その動機をコウに求めていたことに気付いたのかもしれない。コウは夏芽に幻を見ていたことを繰り返し話すが、それでも夏芽の幻に応えたいという気持ちがプレッシャーとなり、夏芽に寄り添えない。

 

 ストーリーは、夏芽には決して芸能界の権威にすがることを許さず、真ん中で戦うか、俗物の間に伍するか、二つの選択肢の間を往復するのみである。『おとぎ話みたい』では、しほがそんなことを言って河西さんを攻撃していたが、ヤマトンはそういうスタンスを絶対に崩さない感じなのかもしれない。

 

 この後、コウはあの頃と同じように火祭りに参加する。コウは神性を再びその身に宿らせつつあるように思える。

 そして火祭りの夜、再び事件が起こる。コウは夏芽につきまとう影を葬り、ナイフとともに海に沈める。

 

 

 

 女の子は本当に潰したい奴には感情を露わにしないというのが、山戸監督作品のリアリティだと思う。夏芽が地団駄を踏んで悔しがるのはコウと広能だけだし、カナが疫病神と叫ぶときには目の前にいるのはコウである。男映画だと男女問わず気に入らないやつ同士がぶつかりあってそれがロマンのように描かれるが、山戸監督はそんな茶番は描かない。だから山戸監督が描く言い争いは、本当に痛々しい感情の高まりの閾値を超えた爆発なのだ。

 

 

 今回はキャストが多いことは何となく察していて、主人公一家が引っ越してくるという設定もあって、家族が描かれるのではと期待をしていた。

 『あの娘が海辺で踊ってる』では舞子が親と電話をする僅かなカットがあるだけで、向こうの息遣いも伝わってこない。『Her Res』ではミナミちゃんと母親とのやりとりがあるが、かなり戯曲化されている。『おとぎ話みたい』『5つ数えれば君の夢』ではJKのくせに夜遅くまで学校にいたり、そのまま泊り込んだりして、明らかに親御さんに心配をかけまくっているのだが、親の影が無い。みちるとたかしの関係もエディプスコンプレックスのロジックに包まれてしまい、家族然とした描写は無い。 つまり、これまでの山戸監督作品に無かったのは、血縁の描写,家庭の空気だったのではなかろうか。

 

 夏芽と両親,祖父(しかもミッキーカーチス!),弟の関係が描かれ、コウと父(しかも堀内正美!)の関係も描かれる。夏芽の両親の夫婦の関係も面白いし、親子の絶妙な距離感もまた愛おしい。山戸監督作品に子供が出てくるというのが既に私の中では異常事態なのだが、たぶんちゃんと子役の内部性の照り返しを検出して配置したのだろう。自然な感じでとてもよい。そして犬。山戸監督作品にペットが出てくるというのもかなり異常事態だが、なかなかよい動きをしておる。これも監督のアテ書きと囁きがあったのかな(たぶんない)。

 

 

 

 そして、人の死。これまでの山戸監督作品で描かれなかったもの。

 今回の人の死は完全にアクシデンタルなもので、何というか、本当に邪魔なものでしかないという位置づけなのである。死の重みはたぶん授賞式のスポットライトに照らされた夏芽の影で表現したのだろう。

 本作はタイトルにもナイフが入っているが、たびたびナイフが登場する。そして一人の死もナイフによってもたらされる。しかし、このナイフに殺気が感じられない。小舟の上でナイフをちらつかせるコウと、それを咎める夏芽のやりとりも、まるで靴ベラでも扱うような軽さがある。たぶんコウそのものが研ぎ澄まされた刃になりすぎているのだろう。それのせいか、頸動脈を切り裂いて1.5mは散るであろう血飛沫もなかったせいか、役者としてのナイフはあまり仕事をしていない印象。

 

 

 山戸監督が得意とする芸(?)も多い。 

 「女の子なんだから」「のどに触って」「自分を擦り減らす」など、山戸監督らしい言い回し。そしてカラオケ。今回もまたしてもカラオケ。山戸監督の映画でカラオケが出てこなかったものは一つもない。そして吉幾三。これはすごい。ジャニーズが歌う吉幾三。

 何より水落ち。今度は海水である。そして2回。どちらも水中カメラマンによる美しい映像がやばい。

 

 

 ヤマトン厨として素朴な感想は、音楽もだいぶ大人しくなり、台詞も分かりやすくなり、構成はやや技巧的になり、たぶん大衆に向けた過渡期にある作品なのかなと。

 スクリーンから一瞬たりとも目を離すことができず、今は目がしょぼしょぼしているのだが、そういった支配力は間違いなくある。そしてこれまでの主人公は皆が外に向かって羽ばたくまでを描いていたのに対して、翼折れた後の物語を描いている点で、深みが増している。

 ただ無鉄砲な部分の描写が少なくて、スクリーンを越えてくる痛さはあまり無かった。「コウのために映画に出るから」「つまらんのう。」あたりのすれ違い、膨らましようによっては何人か心停止させられたかもしれない。

 

 ということで、結論としては、今から山戸監督を知るならまずこれを観ろということです。