大切なものや人と別れる時、私は決まって「楽しかった。ありがとう。大好きだよ。」と言葉を連ねていることに気付く。なるべくすっきりと想いを口にしたく、なるべく笑顔で手を振りたいのだ。「別れ際はスマートに」っていうのは、物心ついた頃からずっと私の理想だ。
東京でひとりで暮らし始めて一年が経った。
叫びだしそうな興奮を胸に夜の街を足早に歩く度に、東京は私にとって特別な場所になり、眠れぬまま朝を迎える度に、以前は絶望でしかなかったその光を美しいと思えるようになった。夜の闇と朝の光だけは、誰にでも平等に訪れる。きっと 所謂 あの 神の愛だ。
この街で生きていくことに決めた。この街にいる限り、私は何かを愛することをやめられない。
東京タワーは赤くて好きだ。遠くから見るのが一番良い。
たまに煙草を吸うようになった。
煙草は自分が吸うよりも、好きな人が吸っている煙を、吐き出した煙を傍で吸う方が好きだ。
嫌いな父が吸っていた銘柄を何故か私も吸っていて、この煙草は火を点けずに咥えた瞬間バニラの匂いがするのだと知った。
私のことを只管に可愛がってくれた人が死んだ。
悲しさ寂しさよりも、人間というものに対しての、死というものに対しての疑問の方が圧倒的に勝っていた。しっくりこないお経や有り難いお話を聞きながら、考えても何か一つの答えには到底行き着かなかったけれども、これだけはわかった気がする。死というものは恐くない。だから安心して。
泣かなくても、落ち込まなくても、薄情者なんて言わないでほしい。いつか必ず私も灰になるのだとこの目で確かめたから、生きていけると思ったのだ。だから安心して。
楽しかった。ありがとう。大好きだよ。
もうすぐ無期限活動休止をする大好きなバンドのラストライブに行った。
悲しくて涙が溢れてしまうような、そんなセンチメンタルなのを想像していたけれど、楽しくて楽しくて、楽しいまま終わってしまった。馬鹿みたいに笑って飛び跳ねて、そうしていたら終わってしまった。一人になればやっぱり寂しいけれど、この先どれだけ時間が経っても、彼らの音楽を聴く度に、青春とはどんな色温度匂いだったか何度でも思い出せるのなら、それはそれでサイコーなことなのだった。思い出す為にさ、これから先死なない限り生きていってもいいかな。彼等の歌に合わせて、人生万歳!って歌っていってもいいかな。馬鹿だと笑ってくれてもいいよ。
「サヨナラを肯定するバンド」と名乗る彼等のさよなら。楽しかった。ありがとう。大好きです。
始まっては終わっていくものばかりだ。そもそも終わりがないものは始まらないのではないかと誰かが言っていたけれど。
終わりがあることは救いでもある。終わりは時として始まりよりもずっと愛おしい。
でも、やっぱり「終わり」と「悲しみ」は切り離せなくて、私達は胸を痛めて泣く。
それでも、それなのに、終わっていくものばかり好きになる私は、終わりがあるとわかっているものばかり愛することをやめない私は、狂っているのだろうか。可笑しいのだろうか。
それならそれで良い。
「十代」と眩しく名付られた時代が終わり、「はたち」と特別に名付られた年が終わり、ただの二十代になる。終わっていくのだけれど、別れを決めたのは私自身だ。
二十代、と時代のように言うのは、これからも生きていくのだという勝手な決め付けであり、言い換えれば私の決意である。
いつ死んでも良いと思う傍らで、真っ暗闇の中に希望や夢を見付けてしまって、これからも生きていくと決めてしまったのだ。二十代を始めてしまった。朝が来てしまった。
その理由はもう分かるよね。しっかりと与えられた終わりという奴の所為で、こんなにも下らなく切なく幸福なものを、好きになってしまったのだ。取り返しはつかないのだ。
ディタラトゥウェンティ
死にたくないとか生きてゆけないとか
若き日によくこぼしたあの口癖は
いつの日か誰かの心を癒やすでしょう
そしてまた新たに生きる歓びを知るのでしょう
東京でひとりで暮らし始めて一年が経った。
叫びだしそうな興奮を胸に夜の街を足早に歩く度に、東京は私にとって特別な場所になり、眠れぬまま朝を迎える度に、以前は絶望でしかなかったその光を美しいと思えるようになった。夜の闇と朝の光だけは、誰にでも平等に訪れる。きっと 所謂 あの 神の愛だ。
この街で生きていくことに決めた。この街にいる限り、私は何かを愛することをやめられない。
東京タワーは赤くて好きだ。遠くから見るのが一番良い。
たまに煙草を吸うようになった。
煙草は自分が吸うよりも、好きな人が吸っている煙を、吐き出した煙を傍で吸う方が好きだ。
嫌いな父が吸っていた銘柄を何故か私も吸っていて、この煙草は火を点けずに咥えた瞬間バニラの匂いがするのだと知った。
私のことを只管に可愛がってくれた人が死んだ。
悲しさ寂しさよりも、人間というものに対しての、死というものに対しての疑問の方が圧倒的に勝っていた。しっくりこないお経や有り難いお話を聞きながら、考えても何か一つの答えには到底行き着かなかったけれども、これだけはわかった気がする。死というものは恐くない。だから安心して。
泣かなくても、落ち込まなくても、薄情者なんて言わないでほしい。いつか必ず私も灰になるのだとこの目で確かめたから、生きていけると思ったのだ。だから安心して。
楽しかった。ありがとう。大好きだよ。
もうすぐ無期限活動休止をする大好きなバンドのラストライブに行った。
悲しくて涙が溢れてしまうような、そんなセンチメンタルなのを想像していたけれど、楽しくて楽しくて、楽しいまま終わってしまった。馬鹿みたいに笑って飛び跳ねて、そうしていたら終わってしまった。一人になればやっぱり寂しいけれど、この先どれだけ時間が経っても、彼らの音楽を聴く度に、青春とはどんな色温度匂いだったか何度でも思い出せるのなら、それはそれでサイコーなことなのだった。思い出す為にさ、これから先死なない限り生きていってもいいかな。彼等の歌に合わせて、人生万歳!って歌っていってもいいかな。馬鹿だと笑ってくれてもいいよ。
「サヨナラを肯定するバンド」と名乗る彼等のさよなら。楽しかった。ありがとう。大好きです。
始まっては終わっていくものばかりだ。そもそも終わりがないものは始まらないのではないかと誰かが言っていたけれど。
終わりがあることは救いでもある。終わりは時として始まりよりもずっと愛おしい。
でも、やっぱり「終わり」と「悲しみ」は切り離せなくて、私達は胸を痛めて泣く。
それでも、それなのに、終わっていくものばかり好きになる私は、終わりがあるとわかっているものばかり愛することをやめない私は、狂っているのだろうか。可笑しいのだろうか。
それならそれで良い。
「十代」と眩しく名付られた時代が終わり、「はたち」と特別に名付られた年が終わり、ただの二十代になる。終わっていくのだけれど、別れを決めたのは私自身だ。
二十代、と時代のように言うのは、これからも生きていくのだという勝手な決め付けであり、言い換えれば私の決意である。
いつ死んでも良いと思う傍らで、真っ暗闇の中に希望や夢を見付けてしまって、これからも生きていくと決めてしまったのだ。二十代を始めてしまった。朝が来てしまった。
その理由はもう分かるよね。しっかりと与えられた終わりという奴の所為で、こんなにも下らなく切なく幸福なものを、好きになってしまったのだ。取り返しはつかないのだ。
ディタラトゥウェンティ
死にたくないとか生きてゆけないとか
若き日によくこぼしたあの口癖は
いつの日か誰かの心を癒やすでしょう
そしてまた新たに生きる歓びを知るのでしょう