アメブロは、

(1)バックアップの機能がない。
(2)一旦、パスワードを盗まれて、メルアドを変えられたら、どうしようもない。
(3)ちょいちょい、メンテで止まる。
(4)内容を読みもしないで、自動的に勝手に「不適当」とか言って、記事を閉鎖する。
(5)書いた記事を保存したり、公開したりしようとして、しばしば失敗する。

などの理由から、感じが悪いので、引っ越しすることにしました。引越し先は、

http://anmintei.blog.fc2.com/

です。コメントの記入を止めてしまったので、そちらにコメントしてください。

それから、マイケル関係のクローズドの記事は、しばらく公開できていないので、それはこちらで読んで欲しい。
池田氏は、私を犯罪者呼ばわりした記事で、

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暫定規制値(野菜の場合セシウム137が500Bq/kg)は実効線量係数(1.3×10-8)をかけると6.5μSv/kgだから、人体に危険とされる100mSvの放射線を浴びるには1年に15t食わなければならない。さらに先日のニコ生でも松田裕之氏が批判していたように、農水省は4月から規制値を100Bq/kgに引き下げる。これによって救済されるのは、1年間に野菜だけで75t以上食う人だけである。
=======

という計算をしているが、これは間違っている。何が間違っているかというと、放射線被曝の閾値の存在が立証されない限りは、線形閾値無し仮説で計算せねばならない。そうなると、

総被爆量=人×被爆量

で計算しないといけない。何人シーベルトで1人死ぬか、という係数をαとすれば、総被爆量/α で死者の期待値が出る。ゴフマンの係数では、2.68人シーベルで、一人が死ぬ。もちろん、これが正しいかどうか、私は知らない。

池田氏の計算では、15トンで 100mSv だから、これなら 1500トンで 10Sv になるから、四人弱が死ぬ、と期待される。日本人は、年間、ざっと100キロの野菜を食べるから、15000人で1500トンである。ということは、15千人で4人死ぬ、と期待されるわけである。もちろん、誰が放射性物質のせいで死んだのか、わからない。ゴフマンの係数が厳しいとしても、その四分の一に値切っても、このレベルの野菜を一年間食べれば、15千人に1人は死の宝くじに当たる。15百万人が食べれば、100人である。この数値をどう解釈するかは、そこから先の問題であるが、私は、政府や東京電力が、「どうせそのくらい死ぬだろうから、関係ねー」と開き直るのは卑怯だ、と言っている。

池田氏は、頭から、閾値仮説を勝手に前提しているので、上のような荒唐無稽な計算をしてみせるのであるが、それは彼が勝手に想定していることである。線形閾値なし仮説はICRPの基本原則であり、例の「ニコニコしている人には放射能は来ない」で有名な山下俊一教授でさえ支持しており、池田氏の大好きな中川恵一准教授だって、時には支持している。

影浦峡東京大学教育学研究科教授の指摘するように、どこかの親父が「少量のアルコールを子どもが飲めば健康に良い(あるいは、影響はない)」と勝手に信じて、自分の子供や近所の子供にアルコールを飲ませたら、犯罪である。そういう冊子を作って配ってもいけない。

池田氏がやっているのは、そういう行為である。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51769422.html

このブログを見て、本当にあきれてしまった。

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ところがメディアも、こうした過剰防衛を批判しない。直接的な「安心」のメリットは明らかだが、出荷停止で生じる補償金のコストは薄く広く納税者が負担するからだ。そして早川氏や安富歩氏のような「危険厨」は、放射能の影響を誇大にいいつのることが「正義」だと信じている。安冨氏は次のように彼を賞賛している。

早川さんのツイッターはしばらく前に分析して、深い思想と戦略とが込められた発言で、欺瞞でも扇動でもないことを確認しています。

早川氏と安冨氏の論理は同じである。彼らが「危険だ」という科学的根拠は何もないのだが、まさに根拠がないことが不安をあおる材料なのだ。何もわからないのだから危険だということもわからないはずだが、安冨氏はなぜか危険だということだけはわかると主張する。その根拠は「私は危険だと思う」という宗教的信念だけだ。彼らこそ二次災害を拡大する犯罪者である。
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そもそも、私がいつ、どこで、放射線被曝の危険を言い募るようなことを言ったのか、知りたいものである。こんなことで、人を「犯罪者」呼ばわりするのは、明らかに名誉毀損であって、これこそが犯罪だ。

それから、早川氏は、誠実な学者だ。それは間違いのない事実である。
自称「しがない私立大学に勤務している」経済学者の池田信夫氏は、東京大学の権威がお好きなようで、

東大医学部の放射線科の責任者と世界中の放射線被害を調査した専門家が一致して「福島で癌は増えない」と断定しているのだから、それに異論を唱えるなら、彼らの認めるような反証を出さないと話にならない。「わからないが遠い将来に…かもしれない」という類の「安冨話法」はお断り。

とツイッターで流していた。

「東大+医学部+放射線科+責任者」

と、4つもつけたので、恐れ入れ、ということである。

ここにいう東大医学部うんぬんというのは、中川恵一准教授のことである。正確に言うと彼の身分は、「東京大学医学部附属病院放射線科准教授・緩和ケア診療部部長」だそうである。つまり、「医学部の放射線科の責任者」ではなく、「医学部の附属病院の放射線科の責任者」と言わないと、こういうことにうるさい医学部ではこっぴどく叱られるから、池田氏は注意したほうがよい。

HPで医学部放射線教室のスタッフを見ると、

大友 邦 教授/放射線部部長
赤羽 正章 准教授/放射線部副部長
國松 聡 准教授/教育・安全担当副科長
中川 恵一 准教授/外来診療担当副科長/緩和ケア診療部部長

となっており、中川准教授は序列第四位のようである。

それで、私に対する池田氏の反論を分析したときに、

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そういえば思い出したのだが、私の記憶では、中川准教授は、疫学調査で見えるような被害は出ない、と言っていたのではなかろうか。
=====

と書いた。すると、池田氏は、

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たとえば彼は・・・と曖昧な記憶で言っているが、「アゴラ」の私の記事に貼ってある画像を見れば、中川氏が「フクシマではがんは増えない」と断定していることがわかる(本にもそう書いている)。彼はグロービスで行なわれた講演でも「癌は増えない。内部被曝も問題にならない」と断言している(彼も原発推進派ではない)。
=====

と書いた。それでグロービスの講演を見たのだが、その高度の東大話法に唸ってしまった。また別途、彼の話法を分析したい。

私が記憶だけで書いた中川氏の発言というのは、2011年7月8日に行われた

東京大学 大学院 人文社会系研究科 哲学研究室
第6回 応用倫理・哲学研究会
東京大学 緊急討論会「震災、原発、そして倫理」

におけるものである。

それで、公約通り発言内容を調べてみたところ、以下のような発言であったことが確認できた。

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(1)福島の学校で20mSvを限度とするということは、20mSvまで大丈夫、という意味ではない。20mSv以上には絶対に超えないようにして、できるだけ下げていこうという意味。

(2)正直にいえば、柏市の状況はたしかに問題である。

(3)日本人全体として現在1年あたり3.8mSvという医療被曝は多すぎるので大きな問題。

(4)放射線被曝は、ある数字以下だったら安心だというものはない。年1mSvまで、という被曝線量にしても、LNTモデルに立てば、危険がある。ゼロ被曝以外は全部グレーである。

追記:(2と3とは、「正直にいえば、柏市の状況はたしかに問題でしょう。しかしその前に、日本人全体としてみて、いま現在1年あたり3.8mSvという医療被曝をどこまで落とせるのか。これは除染と一緒で、大きな課題です。」というように発言された、とのことである。1/23追記)
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私はこれらすべての発言に、基本的に賛成である。「東大医学部の放射線科の責任者」が言ったのだから、池田氏も支持すべきだ。

これを東大で言っておいて、他所に行ったら、「フクシマではがんは増えない」と発言するのは、

完全に二枚舌

である。「正直に言えば」柏ですら問題なら、「正直に言えば」福島は大問題、と言わざるをえない。東大の権威を信じる人は、東大の先生が、東大で発言するのと、お座敷で発言するのと、どちらが重みがあると考えるのだろうか。

中川氏は、この両者の発言が、なぜ矛盾しているのかわからないのではないか、と私は疑っている。というのも、グロービスの講演のなかで「放射線に閾値があると私が考えるのは、塩に閾値があるのとおんなじだ」というような喩え話をしていた。しかし、塩はそのものに発がん性があるのではなく、国立がん研究センターのHPによれば、

食塩と胃がん発生
動物実験などから、胃の中で食塩の濃度が高まると粘膜がダメージを受け、胃炎が発生し、発がん物質の影響を受けやすくなることが示されています。そのような環境では、慢性的に感染することにより胃がんリスクを高めることが知られているヘリコバクター・ピロリという細菌の感染も起こりやすくなることが知られています。

とのことであり、間接的なものである。細胞の遺伝子やタンパク質に直接の破壊性がある放射線の喩えに、こんなものを持ち出すのは、あまりにも論理性を欠いている。

中川氏もさすがに医者なのだから、このくらいのことは知っているはずである。知らないとしたら、全然、信用できない。知っているとすれば、塩による発がんの機序と、放射線被爆の機序との、論理的な違いが直感できない、ということを意味する。こんな思考方法の人物に、「癌にならない」と言われても、信用できない。もし直感できるのであれば、それでもこんな喩え話をするとは、うそつき、であることを意味するので、これまた信用できない。

2月に『低線量被曝のモラル』(河出書房新社)という本で、このシンポジウムの議事録が出版されるのでそこでハッキリとわかるだろう。学内で聞いてみたところでは、

「中川氏は『調子がいい』ところがある」

とのことである。つまり、

【東大話法規則 7】その場で自分が立派な人だと思われることを言う。

をやっているのである。

池田氏は注意した方が良い。あんまり彼に乗っかっていると、風向きが悪くなったら、いきなり切り捨てられて、ハシゴを外される。東大ではそういうことを良く見聞する。
マイケル・ジャクソンの思想(と私が解釈するもの)著者:安冨歩

福井教授からメールを頂いて、ブログに載せて良いとお許しを頂いたので、掲載する。


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安冨様

福井です。オーストラリアに学生引率に出発する直前にやっと『原発危機と「東大話法」』を入手し、飛行機の中で読みました。夕方までの授業とその後の強行軍に疲れており、眠気もあったのですが、そんなものはたちまち吹っ飛び、一気に終わりまで読んでしまいました。安富さんのブログやツイートで内容はだいたい把握していたつもりでしたが、現物ははるかに迫力満点。いろいろな問題が一気に関連づけられ、もやもやしていた思いが晴れました。

安富さんの「立場主義」に関する分析は圧巻です。日本の「エリート」(本来的意味の”エリート”とはもちろん異なるものです)のかなり多くに見られる態度は、確かに「立場主義」の概念で把握することができると思います。「立場」こそが重要で、それを守るために都合よく、もっともらしい理屈をその場で蕩々と述べるというのは、日本の「エリート」にしばしば見られる態度です。

「立場主義」については、さらに掘り下げて専門研究としてまとめていくことをお勧めします。「立場主義」が日本の宿痾みたいなものであることは明らかです。同書は、山本七平氏の『「空気」の研究』(同氏の主張には異論があるかもしれませんが)とも並ぶ、日本人のあり方の根幹に関わる問題提起だと思います。

私は、「立場主義」と法学教育が関連しているように思えてなりません。なぜなら、法学教育(とくに法曹養成教育)では、自分が感じたことを説得的に主張する方法ではなく、自分の主義主張はとりあえず措いて、たとえどのような立場であってもその相手方を圧倒することができるようになるようなトレーニングを行うからです。例えば、自分の主張がA説であるばあいに、反対説のB説に立って、A説を徹底的に論駁させるような論証トレーニングを行います。これは、原告と被告のいずれの代理人も務められるようになるための思考トレーニングです。このトレーニング自体が悪いものだとは思いません。というのも、このトレーニングは「相手の立場がわかるようになる」というメリットを持っているからです。しかし他方、権力志向のよからぬ思惑の人間がこのトレーニングを受けると、自分の「立場」を守るためにどんな論証でもやるようになります。レトリックを自在に使いこなし、それでもって自分の立場を守る。これに熟達してくると、それがレトリックであったことも忘れて自説を強弁するようになる。それがいかにグロテスクな強弁であるかすら感じなくなり、相手がそれを理解しないのは、相手の頭が悪いからだと思うようになる。彼らの発言は、その場その場での論証としては一貫しているけれども、多くの場合、他の場所での発言とは矛盾します。それでいて平気なのは、彼らの発言は心から出たものではなく、単なるスタンドプレーにすぎないからです。

大学でも、役所でも、企業でも、安富さんの指摘する「東大話法」に出会います。頭のいい人のはずなので、その人に理解してもらえると思って一生懸命説明するのですが、結論が先にあるのか、何を言っても同じところに戻ってくるという場面によく遭遇します。このような「話法」を生み出してしまう構造はどうなっているのか、その構造を変えていくことはできないのか、これは日本の将来にとって、多くの人が考える以上に重要な問題なのではないかと思います。

もちろん、「東大話法」と類似した問題は世界中どこにでも存在していると思います。このような問題を生み出すのは社会の構造であり、似たような構造があれば普遍的に生じると思うからです。この問題を普遍的な視座のもとできちんと捉えることができれば、私たちが日頃おかしいと感じている多くの問題がすっきり把握できるようになるに違いありません。

とりとめのないことを縷々述べさせていただきました。乱筆ご容赦ください。
かつて私は浜岡原発について、次のように書いた。

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過去に前例のない大事故が、浜岡原発よりもずっと可能性が低いと見られていた福島原発で起きたので、浜岡原発事故の可能性はもはや否定出来ない。また、現段階では福島原発に対応出来ていない状態であり、万が一、浜岡原発でも同規模あるいはそれ以上の事故が並行して起きたら、決して対応できなくなる。それゆえ、止めてしまうべきだという主張は、合理的である。
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この文章を、ツイッターでの対話のなかで池田信夫氏は、次のように解釈した。

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「人命を失う可能性のあるものはすべて止めてしまえ」つまり「リスクをゼロにしろ」というのが安冨さんの考えとしか読めないのですが、私の読解力が足りないのでしょうか。それともあなたが特殊な日本語を使ってるんでしょうか。
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どうしたらこんな風に読めるのか、不思議でたまらない。私が書いたのは、

(1)福島で地震が起きたのであれば、浜岡周辺で地震が起きる可能性が無視できない。
(2)そうなったら、大事故が起きる可能性が否定できない。
(3)もしそうなったら、福島だけでも大変なのに、浜岡まで事故ったら、人員不足などで、対応できなくなる。
(4)よって、浜岡を止めるのは、合理的だ。

ということである。虎が出たところに、ライオンまで出たらたまらないから、閉じ込めておこう、というわけである。

このように私は、

(1)「人命」については言及すらしていない。
(2)「すべて」についてではなく、「浜岡」についてだけ言及している。
(3)2つもやられたら対応できなくなり、リスクが非常に大きくなるので止めろ、と言ったのであって、「リスクをゼロにしろ」などとは言っていない。

のであるから、完全に池田氏の妄想である。

しかし、池田氏は、繰り返し、私の本など読むに値しないから、読んでいない、と言っている。ブログも、読むには読んだとしても、価値がないと思って読めば、それは読解力が落ちても自然な現象である、という可能性を考えなければ、公平ではないかもしれない。それゆえ、これだけでは、池田氏ご自身の言われるように、「読解力が足りない」とは言い切れない。

そこで、池田氏が、「価値がある」と思った本を、どのくらい読解できるかを、分析しておきたい。彼は、私への二つ目の反論のコメント欄で、「私は彼の昔の業績は評価しているが、最近の本は明らかにおかしい。」と言っている。昔の業績のなかには、彼が好意的に書評した、『生きるための経済学』が入っているのは確実であろう。

そこで、拙著への彼の書評を調べて、どのくらい、私の本を理解しているかを確認すれば、彼の日本語読解力が、公平に判定できるはずである。以下で逐語的に検討しておく。これを読んで、池田氏の日本語読解力の水準判定の参考としていただきたい。

========
「自由」という漢語に対応するやまとことばはない。Zakariaによれば、似た言葉がある文明圏でも、その意味は西欧圏とは違う。中国の自由は「勝手気まま」という意味だった。日本語でしいていえば、無縁という言葉が近いが、これは共同体から縁を切られるという意味だ。つまり選択の自由というのは、西欧文明に固有の概念なのだ。
========

これは既に述べたように、「「自由」という漢語に対応するやまとことば」として、なぜか漢語の「無縁」を挙げている点で、間違っている。更に「自由」という言葉が日本で中世から使われているのに、それを日本語に勘定していない。更に、「無縁」という概念を「自由」と結びつけたのは網野善彦であるが、網野は「こちらから縁を切る」という意味で使っているので、「これは共同体から縁を切られるという意味だ」というのは、間違いである。この本の76頁で私は、

「人々のつながりたる「縁」が呪縛に転じたときに、そこから逃れでて「縁切り」をしようとする人間の本源的衝動を基盤として無縁は成立する。」

と書いたのであるから、これは、明らかに読解できていない。


==========
しかし本書も指摘するように、プロテスタンティズムには自由の概念がない。カルヴァンの予定説によれば、だれが天国に行くかはこの世の最初から決まっており、人々は自分が救われるかどうかを確認するために蓄財する。この信仰は、新古典派経済学と奇妙に一致している。Arrow-Debreuモデルでは、人々は世界の最初に一度だけ、永遠の未来までの正確な知識をもとにして合理的な選択を行い、将来財まで含めたすべての市場がクリアされ、あとはそのプログラムに従って行動する。そこに自由は存在しない。
==========

ここでは、

「カルヴァンの予定説によれば、だれが天国に行くかはこの世の最初から決まっており、人々は自分が救われるかどうかを確認するために蓄財する。」

という文章が、厳密には不正確である。私は次のように書いた。

「カルヴァンの教義において、人間の努力はその目的を失い、自己目的化する。自分はまったく無力であり、自らの救済のために何もできないが、もしもサボるようなことがあると、それは自分が救われていない証拠となる。その恐ろしい証拠を突きつけられないためには、つねに何かに没頭して努力しつづけねばならない。このような人間の自己目的化した努力は、強迫神経症的であるとフロムは言う。」(82頁)

何が不正確なのかというと、(1)「蓄財する」とはどこにも言っていない。(2)救われるかどうかを確認するために努力するのではなく、救われないという証拠を発見しないために努力を続ける、というもっと恐ろしい話である、という点である。池田氏が書いているのは、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の通俗的説明であって、私の本の内容ではない。

========
この起源は、アダム・スミスの理神論にある。堂目卓生氏も指摘するように、スミスは利己心を「第三者の目を意識しながら自己の利益を追求すること」と考えた。 見えざる手とは、この社会的自我であり、神のメタファーだ。神が世界を調和するように設計するのは当然だから、利己心の追求によって秩序が生まれるのも自明だ。同じく理神論にもとづいて構築されたニュートン力学では、世界の動きはすべて物理的に決定されるので、自由意志の存在する余地はない。それをまねた新古典派経済学も、同じアポリアに陥ってしまうのだ。
========

ここは、私の本と全く関係のないことを書いている。スミスの「見えざる手」は、「神のメタファー」などではない。私は次のように書いた。

「スミスはここで、死者への同感とそこから生じる恐怖こそが社会の秩序をもたらしている、と主張している。秩序をもたらすのは彼のなかの「大拷問者」にほかならない。このような死に魅入られた精神の上に、ネクロ経済学は打ち立てられたのである。・・・実際のところスミスは人間本性を信じておらず、大拷問者の「見えざる手」の力を信じていたにすぎない。」(235頁)

それから、拙著のなかで彼が最も高く評価してると思われる『貨幣の複雑性』を読めばわかるはずなのだが、新古典派経済学は、ニュートン力学ではなく、熱・統計力学に似ている。


===========
これに対してマイケル・ポラニーは、選択の自由の起源をロックやヒュームの懐疑主義に求めた。それは、こうした決定論的な信仰が長期にわたる宗教戦争を引き起こしたことへの反省だった。しかし懐疑主義を徹底すると、それはすべての価値を否定するニヒリズムに到達する。ニーチェは「来るべき200年はニヒリズムの時代になる」と予言したが、このニヒリズムを克服すると称して登場したのが、ナチズムだった。
===========

池田氏は、「これに対してマイケル・ポラニーは、選択の自由の起源をロックやヒュームの懐疑主義に求めた。」と書いているが、これも間違っている。私は次のように書いた。

「ポラニーは近代の自由の概念の出発点を、宗教戦争への反動に求める。・・・英米文化圏において、自由主義を最初に定式化したのはイギリスの詩人ジョン・ミルトンと同じくイギリスの哲学者ジョン・ロックである。」(95頁)

なぜ、突然、ミルトンがヒュームに入れ替わってしまったのか、謎である。

また、「それは、こうした決定論的な信仰が長期にわたる宗教戦争を引き起こしたことへの反省だった。」というが、これもおかしい。私が書いたのはこうである。

「「哲学的懐疑」とは、ロックが政治的教義として定式化したものである。それは宗教的事柄においては、自分の考えを他人に押しつけることを正当化するほどに、真理について確信が持てることはけっしてない、というものである。」(95頁)

ロックの懐疑は、宗教的な「真理についての確信」を持てない、という話であって、「決定論的な信仰」への批判ではない。

それから、ニーチェとナチの話が出てくるが、そんな話を私はしていないし、ポラニーもしていない。


=========
著者はこのように、従来の経済学がナイーブに想定する選択の自由という概念が、論理的な矛盾をはらんでいることを指摘し、これに対してポラニーの創発の概念を対置する。これは10年ぐらい前の「複雑系」ブームのとき流行した言葉だが、そのとき行なわれた研究は、単なるコンピュータ・シミュレーションだった。著者の『貨幣の複雑性』もそうだし、私も昔、そのまねごとをやったことがある。
=========

「著者はこのように」というが、以上の池田氏の議論は、私の本の内容とはかなり食い違っている。「選択の自由」の論理的な矛盾は、物理学の熱力学第二法則・相対性理論・因果律との関係で論じているのであって、宗教的な話とは関係がない。

それから私の『貨幣の複雑性』は、「単なるコンピュータ・シミュレーション」ではない。シミュレーションに依拠しながら行った、哲学的・科学的な探究である。


==========
しかし、こういう研究はすぐ壁にぶつかった。これは本来の意味での創発ではなく、チューリングマシンが複雑に動作しているだけなので、モデルさえ変えればどんな結果でも出る。その結論もゲーム理論でわかっていることを確認するだけで、プログラミング技術を競うお遊びになってしまった。
==========

池田氏のモデルは「ゲーム理論でわかっていることを確認するだけで、プログラミング技術を競うお遊び」なのかもしれないが、私のモデルはそうではない。ゲーム論では考えることさえなかった問題を議論している。


==========
著者はポラニーに依拠して、このような客観的知識の延長上に「複雑性の科学」を築こうとするのはナンセンスだとし、暗黙知のような個人的知識の科学として経済学を構築しなおすべきだと論じる。しかし彼は、個人的知識を活用するために自由が必要だと主張したハイエクとは逆に、選択の自由という概念が近代西欧の幻想なのだから、『論語』で説かれているような道に倫理を求めるしかないと結論する。
==========

この文章は意味がよくわからない。私が提唱したのは以下のようなことである。

「それは、「創発を阻害するものについて考察する」というアプローチである。このアプローチのメリットは、創発そのものは暗黙の次元に属するが、創発を阻害するものは明示的な次元に属するので、いわゆる科学的分析の範疇に入る、という点である。」(125頁)

つまり、創発を阻害するものについての、客観的科学を構築しよう、というのが、私の主張である。

池田氏は、「選択の自由という概念が近代西欧の幻想なのだから、『論語』で説かれているような道に倫理を求めるしかないと結論する」と言うが、そのようには言っていない。私はフィンガレットに依拠しつつ、西欧的な思想では「道」といえば「分岐」して、正しい「道」を選択する、というように問題が設定されるが、『論語』では、道は分岐せず、そこから外れるのが誤りだ、ということになる、という話をした。


====
本書の議論はここで終わっていて、そこから具体的にどういう「生きるための経済学」が出てくるのかわからないが、彼の指摘そのものは的を射ている。経済学が数学技術を競うお遊びを脱却して、真の実証科学として生まれ変わるには、自由という幻想を克服することも必要なのかもしれない。
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池田氏は、あたかも、私が「自由という幻想を克服」する「必要」を訴えているかのように書いているが、これは大きな誤りである。私が幻想として否定したのは「選択の自由」であり、そんなものは「自由」ではない、と言ったのである。私が求めた自由とは、自分自身でありつづけること、である。つまり、

「選択の自由」という幻想を克服し、「自分自身であり続ける」という意味での「自由」を探求することが必要だ

と言ったのである。




==========池田氏の書評==========
「自由」という漢語に対応するやまとことばはない。Zakariaによれば、似た言葉がある文明圏でも、その意味は西欧圏とは違う。中国の自由は「勝手気まま」という意味だった。日本語でしいていえば、無縁という言葉が近いが、これは共同体から縁を切られるという意味だ。つまり選択の自由というのは、西欧文明に固有の概念なのだ。

しかし本書も指摘するように、プロテスタンティズムには自由の概念がない。カルヴァンの予定説によれば、だれが天国に行くかはこの世の最初から決まっており、人々は自分が救われるかどうかを確認するために蓄財する。この信仰は、新古典派経済学と奇妙に一致している。Arrow-Debreuモデルでは、人々は世界の最初に一度だけ、永遠の未来までの正確な知識をもとにして合理的な選択を行い、将来財まで含めたすべての市場がクリアされ、あとはそのプログラムに従って行動する。そこに自由は存在しない。

この起源は、アダム・スミスの理神論にある。堂目卓生氏も指摘するように、スミスは利己心を「第三者の目を意識しながら自己の利益を追求すること」と考えた。 見えざる手とは、この社会的自我であり、神のメタファーだ。神が世界を調和するように設計するのは当然だから、利己心の追求によって秩序が生まれるのも自明だ。同じく理神論にもとづいて構築されたニュートン力学では、世界の動きはすべて物理的に決定されるので、自由意志の存在する余地はない。それをまねた新古典派経済学も、同じアポリアに陥ってしまうのだ。

これに対してマイケル・ポラニーは、選択の自由の起源をロックやヒュームの懐疑主義に求めた。それは、こうした決定論的な信仰が長期にわたる宗教戦争を引き起こしたことへの反省だった。しかし懐疑主義を徹底すると、それはすべての価値を否定するニヒリズムに到達する。ニーチェは「来るべき200年はニヒリズムの時代になる」と予言したが、このニヒリズムを克服すると称して登場したのが、ナチズムだった。

著者はこのように、従来の経済学がナイーブに想定する選択の自由という概念が、論理的な矛盾をはらんでいることを指摘し、これに対してポラニーの創発の概念を対置する。これは10年ぐらい前の「複雑系」ブームのとき流行した言葉だが、そのとき行なわれた研究は、単なるコンピュータ・シミュレーションだった。著者の『貨幣の複雑性』もそうだし、私も昔、そのまねごとをやったことがある。

しかし、こういう研究はすぐ壁にぶつかった。これは本来の意味での創発ではなく、チューリングマシンが複雑に動作しているだけなので、モデルさえ変えればどんな結果でも出る。その結論もゲーム理論でわかっていることを確認するだけで、プログラミング技術を競うお遊びになってしまった。

著者はポラニーに依拠して、このような客観的知識の延長上に「複雑性の科学」を築こうとするのはナンセンスだとし、暗黙知のような個人的知識の科学として経済学を構築しなおすべきだと論じる。しかし彼は、個人的知識を活用するために自由が必要だと主張したハイエクとは逆に、選択の自由という概念が近代西欧の幻想なのだから、『論語』で説かれているような道に倫理を求めるしかないと結論する。

本書の議論はここで終わっていて、そこから具体的にどういう「生きるための経済学」が出てくるのかわからないが、彼の指摘そのものは的を射ている。経済学が数学技術を競うお遊びを脱却して、真の実証科学として生まれ変わるには、自由という幻想を克服することも必要なのかもしれない。
島薗教授のツイッターで以下のものが流れていた。

==============
1日本学術会議大西隆会長年頭メッセージ1/6。科学者への信頼が揺らいでいることをどう受け止めるかに言及。scj.go.jp/ja/head/index.… 「日本学術会議が基礎をおく科学は、実証的な方法で体系づけられた知識と定義づけられ、単一の真理を目指して磨き上げられようとするのですが」

2学術会議大西会長年頭メッセージ「現実には、異なる見解に至る科学的知識が存在するという実態にあります」。これは長瀧重信氏が主張する科学者は統一された一つの見解にそって行動すべきだという考えに対立。「われわれは…現に存在する認識の相違が何に起因するのかを科学的方法によって」

3学術会議大西会長年頭挨拶(『学術の動向』にも)「科学的方法によって明らかにすることも重要な営みと自覚する必要があります」。ここは「トランスサイエンス」に関わる。前に定義されたような「科学」を超える哲学や人文学、あるいは倫理的省察も必要になってくるが、その認識が欠けているのでは?

4学術会議大西会長年頭挨拶「昨年3月に起こった東日本大震災による津波災害と原子力発電所事故によって大きな被害が出たことは、この現代科学の不完全さをえぐり出すとともに、不完全な科学を応用に利用することに関わる科学者の悩みをも顕わにしたといえます」。重要な問題に近づく姿勢のようだが。

5学術会議大西会長年頭挨拶「日本学術会議もこの問題から無縁ではな く、国土や都市を構成するのに利用されてきた科学的知見のどこに脆弱性があったのか、原子力発電技術の不完全さとそれを応用するに際して慎重さへの認識がなぜ不足していたのか等を自問」。「無縁ではなく」?第1当事者では?

6学術会議大西会長年頭メッセージ「て慎重さへの認識がなぜ不足していたのか等を自問しつつ、復旧復興、放射能からの安全確保に向けた多くの提言等を公にしてきました」。自問は「提言等」のどこに提示されているだろうか?この挨拶も含め、原発災害については実際はほとんど弁明と逃げだったのでは?
==============

なので、

@anmintei 東大話法ですかね?

とツイートしたら、

===============
なるほど。そうなると、私も「東大話法」論が使えそうな気がしてきますね。練習問題、またお願いします。
===============

とのことであったので、練習問題にしておきたい。


【問題 2】

以下の文章は、2012年の年頭に出された、日本学術会議の大西会長によるメッセージである。

日本学術会議憲章
http://www.scj.go.jp/ja/scj/charter.pdf

および、大西会長の経歴

http://www.scj.go.jp/ja/head/pdf/profile.pdf


を参照しつつ、下記の文章のどこが、どのように「東大話法」であるのか、述べなさい。回答は、コメント欄に記入すること。

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日本学術会議が新体制になって丸6年が経過しました。再任なしの6年任期制、70歳定年制、女性会員や地方会員の増加、現会員が次期会員を選ぶ選出方法採用、連携会員新設等からなるこの改革の狙いは複合的ですが、その重要な一つが、会員を固定化せずに、広く科学者コミュニティーから選考することによって、代表制と活動力を確保することにあったのは間違いありません。現在の会員には、既に6年間、あるいは3年間会員を務めてきたメンバー、昨年10月に新たに会員になったメンバー等、異なる経歴のメンバーが混在していますが、新制度になって選出されたという共通性があります。つまり、6年前に行われた改革の意義が真に問われるのが、第22期の活動なのです。科学者コミュニティーはもとより、政府、産業界、国民が、特にこれからの3年間の日本学術会議の活動をどう評価するかによって、国の機関としての日本学術会議が、国民の信頼の下で、安定的に存在し得るかどうかが決まるといってもよいと私は思っています。

 日本学術会議が基礎をおく科学は、実証的な方法で体系づけられた知識と定義づけられ、単一の真理を目指して磨きあげられようとするのですが、現実には、異なる見解に至る科学的知識が存在するという実態にあります。われわれは、この実態を認識しつつも、それが科学の発展段階における過渡期のものであるという認識をもって、真理探究を継続する必要があるとともに、現に存在する認識の相違が何に起因するのかを科学的方法によって明らかにすることも重要な営みと自覚する必要があります。昨年3月に起こった東日本大震災による津波災害と原子力発電所事故によって大きな被害が出たことは、この現代科学の不完全さをえぐり出すとともに、不完全な科学を応用に利用することに関わる科学者の悩みをも顕わにしたといえます。日本学術会議もこの問題から無縁ではなく、国土や都市を構成するのに利用されてきた科学的知見のどこに脆弱性があったのか、原子力発電技術の不完全さとそれを応用するに際して慎重さへの認識がなぜ不足していたのか等を自問しつつ、復旧復興、放射能からの安全確保に向けた多くの提言等を公にしてきました。

 第22期においては、これらの活動をさらに発展させていくとともに、東日本大震災における経験を日本学術会議の強化に生かしていく活動を進めていきたいと考えています。折から、総合科学技術会議の改革が論じられ、科学技術イノベーション本部と科学技術イノベーション顧問の新設が提案されています。どちらも、科学的な発見や発明による知的、文化的価値の創造を、さらに経済的、社会的、公共的価値の創造へと結びつけることが日本の最も重要な活動分野であるとの認識に基づいた提案であり、科学を大いに奨励しようという意味を含んでいます。このように日本学術会議が本来果たすべき役割に期待が集まっていることを改めて認識し、学術の発展のために常にも増して充実した年にしたいものです。

2012年1月 第22期日本学術会議会長  大西 隆

http://www.scj.go.jp/ja/head/index.html

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$マイケル・ジャクソンの思想(と私が解釈するもの)著者:安冨歩


先日、ツイッターで

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私は重病になったら、多くの医者の議論を聞いて多数に従うのではなく、言葉を正しく使う医者を探して、その方に命を預けるつもりです。原発を推進しておられる方々は、揃いも揃って言葉が歪んでいるので、私はあのように不安定で複雑で、悪影響の大きいシステムを預けるのは、危険すぎると判断します。

原発は本質的に何か間違ったシステムなので、関与すると、自分を誤魔化すために、言葉が歪むのだと思います。
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と書いた。書いて、ナルホドな、と自分で思ったので、少し説明しておきたい。

私は医者が嫌いである。医者はもはや患者を診ないどころの騒ぎではない。患者どころか病気も見ていない。診察を受けにいってもこちらを見ようともせず、パソコンを見ている。自分で診ないで、すぐに検査にまわす。しかも検査結果すら診ない。データが何を意味しているのか、自分で理解するのではなく、それが正常値か異常値かを示す「*」しか診ていない。そこから自動的に病名を割り出して、自動的に薬を出す。

こんなアホみたいなことをされて、病気が治るわけがないと私は思う。なぜなら、人間の健康とは非常に複雑な現象であり、それが不調をきたすのが「病気」だからである。「病気」というものを実体化し、抽象化し、数値化してなんとかしようというのは、そもそもおかしい。それは「仕組みづくり」と同じ責任回避の発想である。こういう人が責任をもって診察しろ、と言われると、全ての検査項目を埋めようとするだけで、患者は何にもないのにあらゆる検査を受けさせられることになる。

こういう姿勢で患者に臨んでいれば、やはり言葉遣いがおかしくなる。それゆえ、まともな医者を探すには、その人がどういう言葉遣いをしているかに注目するのが有効だと考える。きちんと患者と対話するなかで、その人の「健康」を感知し、なぜその人がそこから逸脱しているかを見極めようとする医者は、きちんとした誤摩化しのない言葉を使う。

それは工場や機械の運営でも同じことである。きちんと仕事をしていれば、自ずと名が正される。というのも、実態に対してふさわしい「名」を与えてはじめて、人間はまともにコミュニケートし、判断できるようになるからである。「名」を歪めていては、決してまともなことはできない。

本書で述べたように、原子力関係者の言葉は名が歪んでいる。徹底的に歪んでいる。これだけ歪んだ言語体系で、まともに思考することは、絶対にできない。かくして思考はおかしくなり、やることなすことヘマだらけとなり、それゆえ、隠蔽工作に血道を挙げることになり、かくして事故が起きる。こういうことをしていれば、地震がなくとも事故は起きる。地震が起きたら、ひとたまりもない。

原子力安全欺瞞言語を使っている人々に、原発を任せるのは、藪医者に命を任せるのと同じように、危険な行為である。

そしてまた、原発は、必然的に言語を歪ませる。なぜなら、それは非常に大きな無理をしたシステムだからである。そしてまた、それ以上に、「原子力の平和利用」が、「核武装」をカモフラージュするためのものであって、そもそも欺瞞性を含んでいるからである。

そういうわけで、原子力を正しい言語で運営することが、原理的に不可能である以上、やめる以外に方法がない。

$マイケル・ジャクソンの思想(と私が解釈するもの)著者:安冨歩

役人は政治家は、何かというと、

「仕組みづくり」

という。原発事故が起きて二三週間たったときに、小出裕章さんがラジオの番組で電話出演していて、スタジオに民主党の議員が二人ほど来ていたのだが、彼らが「小出さんのような人を排除しないように、もっと幅広い人がこの問題に参画できる仕組みづくりが大切だ」というようなことを言ったのに対して、小出さんが、「原子力安全委員会というものが既にあるのだから、そんなものはいらない。今、戦争のような事態になっているのに、仕組みがどうとか言っている場合ではない。これだから私は政治が嫌いなんです」というようなことを言っておられた。

役人や政治家に限らず、今の人は「仕組みづくり」が好きである。東大でも、何か問題があると、「○○問題ワーキンググループ」というようなものがすぐにできて、そこではその問題を解決することより、今後、こういう問題が起きたらどのように対処するか、が主として議論され、その一環として目の前の問題が処理される、というのが「正しい」と認識されている。

こういう「仕組み」を議論しないで、目の前の問題をどうやって解決するか、だけを考えるのは、むしろいけないことなのである。

どうしてこんなことになるかというと、責任を回避するためである。たとえばAさんとBさんとがもめているときに、事態を吟味して「Bさんが正しい」とか結論を出すと、当然、Aさんに恨まれる。それは嫌なので、AさんとBさんとの間で生じる問題を一旦、抽象化して「○○問題」というようにモノとして実体化し、その実体化された「問題」について「合理的」な「基準」を設定するのである。そうやって設定した「基準」を、今度はAさんとBさんとの紛争へと具体化して適用し、その結果、「Bさんが正しい」というように結論する。こうしておけば、Aさんが文句を言っても、「これこれこういうワケで」と説明できるし、その基準の策定に多数の人が関与しておれば、「私個人としてはあなたの言い分も非常によくわかるのですが、ワーキンググループで合議を重ねた結果、このような一般的方向性が出されましたので、やむを得ません。」と言うことができる。

こういうことの積み重ねで、いろいろな「仕組み」が無限に出来上がって、「仕組みの生態系」が形成され、その生態系の自律的運動に人間のほうが巻き込まれていく。そうなると、もう何がなんだかわからなくなってしまうのである。

原発というシステムも、こういう「仕組み」で動いている。そうなると、もう、事故が起ころうが何が起ころうが、だれも止められない。放射能をバラまいても「大したことはない」と強弁し、原発が爆発しても「安全だ」と言い張る。そうしないと仕組みがみんなバラバラになってしまうからである。

「東大話法」はこの「仕組みづくり」と密接に関係している。

しかし、組織というものは、人間をコントロールするためにあるのではなく、人間が物事をコントロールするためにある。個々の人間が、創造的に事態に対処するために必要な手助けをするのが組織の役割である。「仕組みづくり」という考え方は、実は組織を破壊するのである。

「脱原発」というものは、こういった思考方法との決別がなければ、決して実現しうるものではない。昨今は、「脱原発」ではなくて「脱原発依存」とか言い出しており、またも言葉を歪めているが、これはもはや、仕組みの生態系に蹂躙されつつあることの表現である。

ここで立ち止まらないと、日本社会から人間が排除され、仕組みだけが残る。