2024年4月22日

 

 永井荷風の『花火』は大正8年7月、荷風39歳の作品である。

 『花火』は、もちろん荷風の実社会への冷ややかな、非関与というスタンスは変わらないものの、荷風が国家、社会に対する意識をかなり直接に表に出した珍しい作品である。

 『花火』は一般に、荷風が自ら、その文学者としての人生を江戸戯作者的なものに限定した動機・原因として、大逆事件における明治政府の不正義・理不尽に対して、自分がドレフュス事件に対して戦ったフランスの小説家ゾラの如くに戦えぬことを情けなく思い、自分を蔑んだためとしたものとして取り上げられることが多いようである。(大岡昇平はこの荷風の告白を「自己の無為を正当化するもの」として批判している。)

 しかし、『花火』はそれにとどまらず、学校で習った日露戦争の講和条件に抗議して発生した日比谷焼打ち事件、米価騰貴に怒って全国的に発生した米騒動の背景をなす、明治、大正期の庶民に形成されていた不安定な、自暴自棄的な心情を推測させてくれる。

 

 『花火』で言及されているは次の11件の社会的事象である。 

1東京市欧州戦争講和記念祭(執筆時)

2憲法発布祝賀祭(明治23年)

3大津事件(ロシア皇太子切付け)(明治24年)

4日清戦争開戦(明治27年)

5奠都(首都設定)30年祭における騒動(明治31年)

6日露戦争開戦(明治37年)

7日比谷焼打ち事件(明治38年)

8大逆事件(明治43年)

9事件名不詳の騒擾事件(大正2年)

10大正天皇即位式祝賀祭における騒擾事件(大正4年)

11米騒動(大正7年)

 

 そして、『花火』を読んで驚かされたのは、『花火』で初めて知った10の大正天皇即位式祝賀祭における騒動であり、それについての次のような記述である。

 「この日芸者の行列はこれを見んが爲めに集まり来る野次馬に押し返され警護の巡査仕事師も役に立たず遂に滅茶々々になった。その夜わたしは其の場に臨んだ人からいろいろな話を聞いた。最初群衆の見物は静かに道の両側に立って芸者の行列の来るのを待ってゐたが、一刻々々集り来る人出に段々前の方に押出され、軈(やが)て行列の進んで来た頃には、群衆は路の両側から押され押されて一度にどっと行列の芸者に肉迫した。行列と見物人とが滅茶々々に入り乱れるや、日頃芸者の栄華を羨む民衆の義憤は又野蛮なる劣情と混じてここに奇怪醜劣なる暴行が白日雑沓の中(うち)に遠慮なく行はれた。芸者は悲鳴をあげて帝国劇場その他附近の会社に生命(いのち)からがら逃げ込んだのを群集は狼のやうに追掛け押寄せて建物の戸を壊し窓に石を投げた。其の日芸者の行衛不明になったものや凌辱の結果発狂失心したものも数名に及んだとやら。然し芸者組合は堅くこの事を秘し窃かに仲間から義捐金を徴集してそれらの犠牲者を慰めたとか云ふ話であった。

 昔のお祭りには博徒の喧嘩がある。現代の祭には女が踏殺される。」

 

 また、5の奠都30年祭においても「式場外の広小路で人が大勢踏み殺されたといふ噂(うわさ)があった」とされ、9の騒擾においても「国民新聞焼打」「数寄屋橋へ出た時巡査派出所の燃え」「辻々の交番が盛んに燃え」「暴徒が今しがた警視庁に石を投げた」と、これまで知らなかった事件が書かれている。

 

 明治、大正期、東京には三大貧民窟と言われるスラム(四谷鮫ヶ橋、下谷万年町、芝新網町)があった。

 これに象徴されるように、後発資本主義国・日本の当時の庶民の日常的窮乏、貧富の格差は極めて重大なものであった。

 それを背景とする庶民の心の鬱屈が広く潜在する状態がその時代を通じて続いていたのだ。きっかけがあればすぐにこのような騒擾事件に発展する時代だったのだ。

 『花火』は短い文章ではあるが、今日の我々からは想像しがたい貧窮する庶民の荒廃した心情を浮かび上がらせる。

 

 

 

 

                     2024年4月21日

 

 朝日新聞俳壇、歌壇等からの印象句、印象歌の報告、第554回です。

 ウクライナ詠、パレスティナ詠が歌壇に4首、俳壇にはありませんでした。後ろに掲げます。

 

 

【俳句】

 

 

引く雁に・ひとり手を挙ぐ・畑の人 (東京都足立区 望月清彦)(高山れおな選)

 

 

(人とのコミュニケーションを失ったがゆえ。)

 

 

路地曲がる・こと嬉しがる・春の風 (垂水市 瀬角龍平)(大串章選)

 

 

(荷風『日和下駄』に曰く「かくのごとく路地は一種言いがたき生活の悲哀のうちにおのずから深刻なる滑稽の情緒を伴わせた小説的世界である」。)

 

 

【短歌】

 

 

次々と・「裏金」の記事・目に入り・古新聞を・縛る苛立ち 

                (気仙沼市 大崎泰史)(高野公彦選)

 

 

(縛ったうえで焼き捨てるがよし、あの犯罪者たちを。)

 

 

足湯にて・見知らぬ人と・話すのは・相撲の熱海・富士関のこと 

                 (町田市 山田道子)(高野公彦選)

 

 

(罪なき、汚れなき、損得離れた、ただ純粋な一生懸命の姿。話題に最適。)

 

 

真夜中の・ナースコールに・躊躇して・夜はオムツで・朝まで耐える 

               (京都府 片山正寛)(馬場あき子選)

 

 

(我が身にもあり得ることと教えられる。)

 

 

喰い散らし・トビの餌場の・惨(むご)たらし・魚(うお)、骨となり・鳥、羽根ばかり                     (瀬戸内市 田野一義)

 

 

(案外身近なきびしい野生。)

 

 

お座りを・やつとしてゐる・ガザの子の・つみ木のやうに・瓦礫に遊べり 

                   (横須賀市 今津美春)(永田和宏選)

 

 

(パレスティナ詠)

 

 

世界から・見捨てられたる・命とふ・ガザの看護師・現場離れず 

                   (秩父市 畠山時子)(馬場あき子選)

 

 

(パレスティナ詠)

 

 

「戦争は・悪だ」と詠みし・歌人あり・今こそロシアに・はたイスラエルに 

                   (多摩市 柳田主馬)(馬場あき子選)

 

 

(ウクライナ、パレスティナ詠)

 

 

ユダヤ人・アラブ人が共に・暮らしたる・フィルムに映る・眩しき春陽 

                  (石川県 瀧上裕幸)(馬場あき子選)

 

 

(パレスティナ詠)

 

 

 

 

                       2024年4月14日

 

 朝日新聞俳壇、歌壇等からの印象句、印象歌の報告、第553回です。

 ウクライナ詠、パレスティナ詠は歌壇にも俳壇にもありませんでした。

 戦争拡大の危険が迫っています。

 

 

【俳句】

 

 

すぐ上を・本物通る・犬ふぐり (町田市 岩見陸二)(小林貴子選)

 

 

(すぐ下を・同名花咲く・犬ふぐり。)

 

 

呈すべき・「我」なきままの・クラス会 (東京都世田谷区 田尾一吉)

 

 

(呈すること過剰な人もいる中で。)

 

 

樹のいずこ・知らず流れに・花筏 (津山市 町田三千代)

 

 

(隠れて見えぬところに一層のゆかしさが。)

 

 

はやにえの・百舌鳥(もず)鳴く声の・美しく(東京都 井田駒三)

 

 

(自然のちょっとした裏切り、意外性。)

 

 

【短歌】

 

 

公党の・裁きに見えた・その理不尽・一事が万事・我らにも向く 

                        (松江市 柳田十次郎)

 

 

(指導者のあの平気さは尋常ではない。その感覚で国民を扱うのだからこわい。)

 

 

                      2024年4月11日

 

 荷風にとっての女性とはお人形であった。

 したがって人格ではない。

 人格ではないがゆえに、かえってそれを崇めること人並ではない。

 まさにひざまずくのであり、ひれ伏すのである。

 そのような態度は荷風の作品中の各所に現われるのであるが、その極点というべきものを筆者は「断腸亭日乗」大正15年正月の記述に見る。

 「十二日‐‐‐この女父が豪奢を極めしころ不自由なく生い立ちしゆえ様子気質ともどもあさましき濁江の女とは見えざるもあながちわが欲目にはあらざるべし。瘦立ちの背はすらりとして柳のごとく、眼はぱっちりとして鈴張りしようなり。鼻筋みごとに通りし色白の細面何となく凄艶なるさま予が若かりしころ巴里の巷にて折々見たりし女に似たり。‐‐‐お富は年すでに三十を越え久しく淪落の淵に沈みてその容色まさに衰えんとする風情不健全なる頽唐の詩趣をよろこぶ予が眼にはダームオーカメリヤ(注:デュマの小説「椿姫」の主人公)もかくやとばかり思わるるなり。‐‐‐」

「二十三日‐‐‐夜初更のころお富来りて門を敲く。出でて門扉を開くに皎々たる寒月の中に立ちたる阿嬌の風姿凄絶さながらに嫦娥の下界に来たりしがごとし。予恍惚ほとんど自失せんとす。呵。」

 荷風は女性に媚びようとして過剰な表現をしているのではない。荷風はほんとうにそう感じ、その感じたままを、だから日記に、臆面もなく、正直に書いているのである。

 そして、かくも有り得ないぐらい崇め奉られた女性は、ほどなく、自分が実は人格としては遇されていないということに気がつく。

 その理不尽にいたたまれなくなって、荷風から離れていこうとする。

 一方、荷風の側においても、生活を共にすることによって否応なく、その女性が生ま身の人間であることに気づき、その人間臭さを嫌うようになる。

 荷風がその女性を嫌うようになったとき、企まずして、望みどおり、荷風は女性に捨てられるのである。 

 これを「啐啄同機」というのは熟語の誤用であろうか?

 かくして荷風の飾り棚に置かれるお人形は再三再四入れ替わることになることになるのだ。

 

 

                      2024年4月10日

 

 「セキュリティ・クリアランス制度」、「適正評価制度」などと訳されているが、何に対する「適性」かといえば、重要機密情報にアクセスすることについての「適性」であり、本人の能力を評価するのではなく、わかりやすくいえばスパイ行為を働くおそれがないかどうかを評価するのだ。これまで対象となる情報が防衛・外交・スパイ防止・テロ防止の4分野であったのに対し、今回経済安全保障という観点からの重要な経済情報、技術情報が加わることになる。これまでは対象となる人間はそのほとんどが公務員だったが(97%)、今回は民間人が多数対象となると予想されている。

 簡単にいえば、敵国に渡っては困る情報を取り扱える人間は民間人であってもあらかじめ国が調査し、合格しなければそのような情報を取り扱えなくなるということだ。企業の立場でいえば、国でアウトとされた従業員は特定の部署には配属できず、問題ない部署に回さなければならなくなるという、人事の強制が行われるのだ。

 この「セキュリティ・クリアランス制度」を導入する法案が9日衆院で可決され、参院に回された。共産党とれいわ新選組を除く野党もこぞって賛成したという。

 この制度の問題とされたのは、企業活動が制約を受けないか、プライバシー侵害が起きないかなどであったそうだが、野党は制度運用に対する国会の監視によって問題を回避しうるというような理解を示して賛成に回ったらしい。

 制度の必要性を一定程度認めざるを得ない現実、すなわち弱肉強食の国際的な敵対関係に我が国も巻き込まれているという現実、があることは確かだが、「セキュリティ・クリアランス制度」は長期的には人類に深刻な悪影響をもたらすことが考えられ、制度を導入せざるを得ないことは世界にとって極めて不幸なことと言わざるを得ない。

 

 国による「適性調査」は新しく内閣府に設立される機関によって行われるらしい。そして、調査項目としては、家族の国籍、本人の犯罪・懲戒歴、飲酒の節度、借金の状況、過去10年の海外渡航歴、税金の滞納歴などが挙げられている。

 しかし、制度が狙いとしているところを考えれば、すなわちスパイ行為の排除を考えれば、実際には以上のような調査項目に限られるはずがないことは明らかであろう。

 すなわち、スパイが生れるのは、経済的動機、異性関係といった個人的な事情にとどまるものではなく、思想信条、宗教その他による敵国との同調が大きな原因となるからである。

 したがって、対象者の思想信条、政治的傾向、支持政党、具体的国際紛争に対してとった立場等が調べられないはずがない。

 新調査機関が同じ内閣府に所属する内閣情報局、公安調査庁、また警察庁と横の連携を図るのは極めて当然のことであり、それをしないことはむしろ職務怠慢ということになる。

 「セキュリティ・クリアランス制度」を前にして、国家の重要機密情報になるような先端科学、先端技術にたずさわる優秀な学生たち、また若き研究者たちは、法文、諸規則、政府答弁が外見的にどうなっていようと、当然にこのような調査がなされることを予測するであろう。

 平和主義、国際協調主義が社会の好戦的な雰囲気の中でしばしば利敵行為と見なされ、弾劾されたことに彼らは鋭敏にならざるを得ないであろう。

 その結果、研究技術分野で将来名をなそうとする彼らの多くに起る対応は、政治的問題に耳をふさぎ、政治的関心を抑え、自分の専門の研究分野に閉じこもる、すなわちノンポリ、専門バカの道であろう。

 理科系、技術系の最優秀の人材から、湯川秀樹、アインシュタイン的な政治的な良心を発揮しようとする人物が生れてくる可能性が著しく狭められるのである。

 今年のアカデミー賞受賞映画、話題の「オッペンハイマー」が示唆するところは、ここにもあったはずである。

 極めて優秀な研究者たちの頭脳から発せられる貴重な人類レベルの警告を受けるチャンスを我々は失うかもしれないのである。

 

 すなわち「セキュリティ・クリアランス制度」の表面的な制度を検討するだけでは、この制度が本質的なところから検討されたことにはならない。

 野党の広い視野に立った本格的な対応を望むところである。

 

                      2024年4月9日

 

 永井荷風と言えば、狭斜の巷、脂粉の巷における四季の移ろいの中での女性の生態、男女の交情を描いた脱世間の作家というように一般に理解されている。そのとおりではあるが、荷風はその作品中の登場人物の口を借りて、あるいは作品中の人物の日記、手紙のかたちで、彼が生きている時代についての社会学的とも言うべき認識を開陳している。

 その鋭い、的確な認識ははるかに21世紀に至った我々の時代についても妥当する。

 荷風が曲がった曲がり角は我々に時代に通じる道への曲がり角なのだった。

 ここのところ筆者が遭遇した荷風の、その時代認識を以下に披露させていただこうと思う。

 

【「濹東綺譚」作後贅言(昭和11年)に登場する神代帚葉(荷風と交流のあった実在の人物で、街の雑学者)の語り】

 

「しかし今の世の中のことは、これまでの道徳や何かで律するわけに行かない。何もかも精力発展の一現象だと思えば、暗殺も姦淫も、何があろうとさほど眉を顰めるにも及ばないでしょう。精力の発展といったのは欲望を追求する熱情という意味なんです。スポーツの流行、旅行登山の流行、競馬その他博奕の流行、みんな欲望の発展する現象だ。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているということを人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人とわれわれとの違うところですよ。」

 

「何事をなすにも訓練が必要である。彼ら(注:この文章でいう現代人)はわれわれのごとく徒歩して通学した者とはちがって、小学校へ通う時から雑沓する電車に飛び乗り、雑沓する百貨店や活動小屋の階段を上下して先を争うことによく馴らされている。自分の名を売るためには、自ら進んで全級の生徒を代表し、時の大臣や顕官に手紙を送ることを少しも恐れていない。自分から子供は無邪気だから何をしてもよい、何をしても咎められる理由はないものと解釈している。こういう子供が成長すれば人より先に学位を得んとし、人より先に職を求めんとし、人より先に富をつくろうとする。この努力が彼らの一生で、そのほかには何物もない。」

 

「浮沈」(昭和17年)の登場人物越智孝一の日記

 

「私の観るところ現代のわかき人たちは過去の人々のごとくに恋愛を要求していない。恋愛を重視していない。彼らが活くるためにぜひにも必要となすものは優越凌駕の観念である。強者たらんとする欲求である。これは男子のみではない。女子の要求するところもまた同じく、恋愛ではなくして虚栄である。‐‐‐‐恋愛が女子死活の大問題とされたのは過ぎ去った世のことである。男児が理想のために自由のために戦って死を恐れず、女子が愛情と貞操とのために身を捨てて悔いなかった時代は今はすでに過ぎ去っている。」

 

「世に人爵を求めて止まない者があるならば、これとは全く相反したものを求める者もあり得ることである。今日世人の成功と呼ぶもの勝利と言うものの何であるかを解剖して見れば、落魄といい失意と称するものの、それほど恐るべく悲しむべきものでないことが知られるであろう。‐‐‐‐‐‐心あるものが一たび現代を観察してただちに知り得るものは、嫉視羨怨の悪風ではないか。成功者の持っている者を未成功者が奪い取ろうとしている気運である。この一点より観察すれば現代の社会に起る事変という事変の真相はわけなく解釈せられ、従って恐るべきこの気運から遠ざかる道もおのずから明らかになるであろう。」

 

同じく「浮沈」(昭和17年)の登場人物藤木が玉の井の私娼窟で見つけた作者不明の手紙

 

「僕はある晩、千枝子さんが廊下の隅の部屋へ行ってしまった後、一人で眠られないので‐‐‐しみじみと千枝子さんの行動を観察した。そしてふと考えたのです。僕も千枝子さんのように運命や境遇に対して反抗もせず悲観もせず服従の中に安心を求めることはできないものだろうかと思ったのです。服従は恥辱ではない。僕は今まで自由思想を棄て全体主義に転向することを強者に強いられて屈服することだと考えていたんだが、千枝子さんはじめこの町の女性たちの生活‐‐‐否この町ばかりではない。女性の生涯は遠いむかしからすでに全体主義であったのだ。それをわれわれが無智だの何だのと考えたのは大乗的見地から見ることができなかったためでした。千枝子さんにはこんなことを言ったって何のやくにも立たないことは僕もよく知っていますが、そうかと云って黙っていることもできません。女性は我らよりずっと偉いばかりでなく、どこか奥底の知れない神秘そのものだ。千枝子さんが一人の男の要求に応じて、そしてすぐにまた次の男のところへ行く。その行動を静かに見ていると、僕はどうしても神秘を思わずにはいられない‐‐‐」

 

 

 

 

 

 

 

                      2024年4月8日

 

 マスコミは自民党組織的裏金作り問題の次の焦点は政治資金規正法の改正であるかのごとく報道しているが、笑止千万である。

 政治資金規正法の改正が重要な政治課題であると報じるのは、組織的裏金作りの問題の深刻性を隠蔽するために実態の解明を切り上げてしまおうとする自民党の作戦に乗るだけのものである。

 野党もそれなりの思惑があるので、政治資金規正法の改正に前向きの姿勢を示しているが、それを額面どおり受けとめるべきではない。(野党は自民党の金権体質を公然化すれば目的達成であり、政治資金規正法の改正それ自体はどうなろうとかまわないはずだ。)

 政治資金規正法の改正はほとんど無意味であって、それをめぐる議論は茶番でしかない。

 

 政治資金規正法の精神は、政治資金の収支を透明化するということにある。そのことによって違法な政治活動、すなわち選挙買収、口利き、贈収賄等を規制するとともに、政治活動を公的活動と位置づけて政党交付金の支給、政治資金の非課税という政治資金の特別優遇措置を講じることを制度的に支えるものである。

 しかし、一方で、自由な政治活動を保証する必要があるという名目で完全な透明化は好ましくないという立場がある。

 政治資金規正法はこの立場からの透明化阻止の圧力と法の精神たる透明化との妥協によって作られている。

 岸田首相が政党交付金から支出される政策活動費の透明化に一貫して消極的答弁を繰り返していることに象徴されるように、この構造はまったく変化していないし、変化しそうもない。

 したがって、政治資金規正法の改正が行われたとしても、透明化と非透明化との妥協点の位置に変化は生じるであろうが、非透明部分という「穴」が設けられないということは有り得ないことである。

 そしてさらに、税理に詳しい方ならば先刻御承知のように、専門の、第三者的、厳格な取締り機関がないかぎり、収支の透明化の完全を期すことは絶対不可能と考えなければならない。

 すなわち、政治資金規正法の改正によって透明化と非透明化との妥協点の位置が多少変化したとしても、我が国の政治制度に及ぼす影響はほとんど無いと考えるのが現実的なのである。

 そして、我が国の政治制度をより良くしていくためには、政治資金規正法の改正よりも、政治家という者に対する国民の冷静客観的な認識を育成するほうがよほど意味があるのである。

 すなわち、政治家とはかなりの割合(筆者の当てずっぽうでは自民党議員の過半)で、使途を明らかにする必要のない資金を求めるものであり、それによって票田を培養するとともに私的にも流用するものである、という認識である。

 「浜の真砂は尽きるとも」という現実認識が的確な対応方法を生むのである。

 政治資金規正法の改正をめぐる論議は時間と労力のムダと断言する。

 国民の正しい認識を醸成するために、今回の事件の実態をさらにさらに解明することが、我が国の民主主義にとってフルーツフルである。

 

 

                       2024年4月7日

 

 朝日新聞俳壇、歌壇等からの印象句、印象歌の報告、第552回です。

 ウクライナ詠、パレスティナ詠が歌壇に1首、俳壇にはありませんでした。後ろに掲げます。

 

 

【俳句】

 

 

春眠の・ままにひと日の・過ぎにけり (福岡市 釋蜩硯)(長谷川櫂選)

 

 

(まことにおだやか。このまま‐‐という気にもなってくる。)

 

 

人生は・落第しても・卒業す (筑紫野市 二宮正博)(高山れおな選)

 

 

(一般論か、具体的に対象となる人がいたのか、自分のことか。)

 

 

党処分・受けて変わらぬ・里の春 (八王子市 丸田三樹)

 

 

(自民党議員の代詠。)

 

 

【短歌】

 

 

「勇気ある国際的な女性賞」・五ノ井里奈さんに・贈るのは・日本ではなく・アメリカだった              (観音寺市 篠原俊則)(馬場あき子選)

 

 

(勇気ある第1句の字余り。)

 

 

美しき・畝(うね)を描(か)きつつ・春耕の・牛やわらかな・時間の中ゆく 

                  (垂水市 岩本秀人)(佐佐木幸綱選)

 

 

(今どき牛が耕すなどということが実際にあるのだろうか。記憶の世界だろうか。)

 

 

A級の・処分に至らぬ・淵にゐれば・花は咲いても・心は晴れず 

                          (東京都 川田憲一)

 

 

(岸田首相、画竜点睛を欠いた。)

 

 

住む人が・ゼロになるまで・続けると・いふのか今の・二つの戦さ 

                  (京都市 皐月直子)(永田和宏選)

 

 

(ウクライナ、パレスティナ詠)

 

 

 

                        2024年4月6日

 

 犯罪というものは、被害者の側に立って認定されるものである。

 殺された場合、殴られた場合、差別された場合、ハラスメントを受けた場合、いずれも加害者の意図の有無にかかわらず、正当防衛を例外として、被害者が被害を受ければ犯罪である。

 もちろん、その犯罪に対してどのような罰を加えるかは、加害者の意図(犯意)の有無によって変わってくる。

 一般的には加害の意図がある場合のほうが重罰となる。

 殺された場合、そこに殺意があったか、死に至ることを十分に予想しつつ加害に及んだか(いわゆる未必の故意)、傷害を与えるつもりが結果として死をもたらしたか(傷害致死)、過失によって死をもたらしたか(過失致死)、それによって加えられる罰は順に重くなってくる。

 逆に加害の意図がなく、無自覚のまま罪を犯したほうが、与えるべき罰の軽重は別として、問題として深刻な場合がある。

 差別の場合がこれに該当する。(ハラスメントの場合も同様である。)

 差別の意識がない差別的言動は、加害者の差別意識がそれだけ加害者に根深く体質化しているということを示している。

 身分制度が当然であった時代、民族差別が当然であった時代、差別は社会に組み込まれており、客観的には現代の眼から見れば差別が蔓延していたが、当時の差別者側は特段の差別意識はないまま差別を実行していたのである。

 加害者における封建的意識の残存が無自覚な差別、そしてハラスメントを呼ぶのである。

 

 川勝知事は差別発言をしたことについて、それを取り消し、撤回をしたが、その弁明において差別するつもりはなかった、仕事の違いを語ったにすぎない、誤解を受けたというような弁明をしている。

 犯意の不在をもって弁明となると川勝知事は思っているのだ。

 しかし問題の本質は、仕事の違いを「頭脳、知性」というような雑駁な表現で語ることにストップがかからないという川勝知事の精神にあるのだ。

 軽率にも差別発言をしてしまうということは、川勝知事の精神に深く差別意識が刷り込まれているということなのだ。

 犯意の不在は弁明になるどころか、川勝知事にあるより深刻な問題の存在を現わしているのだ。

 川勝知事は学者出身であり、話題性のある仮説を提唱した人であったと記憶するが、教養の欠如、専門バカ性を感じさせられる。

(以上は世間で問題になっているリニア新幹線の問題その他の川勝知事の言動に示唆を与える意図のものではまったく無いことを付言しておく。)

 

 

                       2024年4月4日

 

 今回の自民党の軽処分の背景を考えてみると、彼らの共通の精神として、「大義のためならば法律違反を厭わないという反法治国家的精神」があるというところに行きつかざるを得ない。

 この共通精神により、法律違反は法律違反と認めつつも、あってはならぬことを仕出かしてけしからんという怒りが生じる余地はなく、政治資金規正法違反などは大事の前の小事にすぎない、引っかかってしまった人はお気の毒、という心理が優勢とならざるを得ないのだ。

 その結果、総員が犯罪者であり、永久公民権停止となるべき者であることに思い至らない、軽処分の判断が生まれたのだ。

 

 この自民党員の共通精神によって、「大義のためならば国民の犠牲も厭わず」という反人権的思想への拡大も彼らにとって容易となる。

 では「大義のためならば」と何よりも優先される「大義」とは何なのか?

 「大義」が危機を迎えており、「大義」は守られなければならないというトートロジーがあるだけで、実はそこに何の合意もない。「国家」とか「民族」とかの単語に代替されることはあるが、所詮抽象性を免れず(そこをカバーするフェティシズムとして「君が代」「日の丸」がある)、「大義」という名のもとでの野合があるだけなのだ。

 そして「大義」に生きる自分の政治生命の維持こそが「大義」を守る前提としてなければならないという、手前勝手、自己中の論理が都合よくそこから抽出されてくる。

 「大義」とは彼らにとって都合のいい「虎の威」であり、彼らはそれを借りる狐なのだ。

 

 自民党の組織的裏金作りの問題はまだまだこれからであり、どのような展開を見せるのか、予断を許さないが、フラスコを激しく振れば振るほど、国民の前に自民党の本質なる成分がさらに析出され、結晶化してくることが期待される。

 十分な析出と結晶化を待って衆院選突入ということだ。