荒井修のブログ

荒井修のブログ

ブログの説明を入力します。

Amebaでブログを始めよう!

少し体調壊して入院していましたが、どうにか1週間で外へ出てきました。

入院というと病院の食事が美味しいかどうかという.のがポイントでもあり

入院の食事のおいしい病院ベストテンなどが週刊誌に載っていたりするようだが、そんなことで病院を選ぶ状態でもなく、それまで通っていた病院にそのまま入院するケースが多いのだろう。

そして私の今回入院した病院は上野駅に近い総合病院であるのだが、なにせかぼちゃが出る確率は3日に2度であった。

私はごく若い頃はかぼちゃは嫌いではなく、芋のような感覚で普通に食べていた。

その頃よく遊んでいた歌舞伎役者に初代尾上辰之助こと本名藤間亨がいた。

実はこの人こそが大のかぼちゃ嫌いで、凄いのはまだ誰もふたを開けていない弁当でも「中にかぼちゃが入っているから、俺は食べない」というので、誰かがその弁当の一つを開けると、煮物の中にかぼちゃが入っているので驚かされたことが何度もあった。

ある時私は「かぼちゃのどこが嫌いなのですか?」と聞くと「中と外があんなに色が違うんだぜ、そんな理不尽なものなんか食えるか」とわかったようなわからない返事が返ってきた。

そして私にも「お前もあんなもの絶対食うなよ」と言われてしまった。

だからそれ以来私はかぼちゃを食べないできたのである。

それなのに、おかずの種類の少ない病院の食事でメインの皿か2番目の器いっぱいにかぼちゃが入っていたのでは、ごなんが食べられないのである、そこで、緑の所を食べず、黄色いところだけを食べた、「これなら理不尽じゃないでしょ、亨さん」

本当は昼夜通しで見るつもりであったが、体力的に無理だと言われ、昼の部は倅に行かせた。

それでも夜の部を見に行くのが待ちきれず、少し早目に中村座に着いてしまった。

五軒長屋のうち三軒が職人仲間で、なんだかとっても嬉しかった。そして彼らの仕事場にはそれぞれに私の本が積まれていて、「荒井さん売れてますよ」とにこやかに迎えてくれた。

その後勘三郎夫人や勘九郎夫人、亀蔵夫人、弥十郎夫人などに次々に会い、

健康の心配を戴き、場内に入るなり勘三郎の目を探した。

勘三郎の目を探しながら私の席まで来たが、その間勘三郎の目は見つからなかった。

最終的には二つ見つけたがそれ以上は見つけられなかった。

私の見つけた場所については、これから中村座へ行く方の楽しみを奪わないようにここでは書かないことにする。

妹背山は七之助が一回り大きくなったというか、大人の女形になった感じがしたのと、七緒八を見られたことに尽きる。

私は亡き勘三郎に代わりジイジ気分でいるので、七緒八が出ていればそれだけでご機嫌なのである。

その後の高杯は勘三郎に似ている勘九郎に泣き、鶴松の成長に泣き、中村座という芝居小屋が持つ独特の環境の中で見る幸せに泡沫(うたかた)のような世界を感じられた。

そして高杯が終演になり、あとは幡随院というところの幕間で小屋の外へ出てみると倅が迎えに来ていた。

「だいぶ寒くなってきたから、今日はここで帰って、幡随院は改めて暖かい日にチケットとってもらって見に来れば良いじゃない」と言ってきた。

仕方ないので私は帰ることにした。

そして倅と帰ろうとするとみんなが出てきて「気を付けて帰ってくださいね」と言われた。

早く元気になって見せないと、芝居に行くのも自由にならないようだ。


平成中村座の碑および鼠小僧像の除幕式が少し遅くなったが10日に決まり、その協賛社の名前を印刷したものが巻物の形になり、その巻物には忠臣蔵をまねて「一味徒党の連判状」と書かれた物を碑の地中に埋めることにもなり、そして亡き十八代目との約束通り、勘三郎が還暦を迎える年に平成中村座を浅草の地に呼ぶことが出来、本当に幸せである。

明日の初日は昼夜通しで見るつもりであったが、体力的に無理のようであり、昼を倅に譲り、私は夜の部を拝見することにした。

いつもの中村座であれば舞台稽古から顔を出すところだが、今回はまだ中村座に顔を出していない。

それだけに、明日が楽しみで今もワクワクしている。

私の本「浅草の勘三郎」の発売日でもあるがそちらの方はすべて小学館にお任せして、私は中村座を見に来ているであろう十八代目と共に初日を楽しませてもらうつもりだ。

まして七緒八も出演するのだから、涙もろくなった二人の爺がハンケチ片手に見ることになるのであろう。