ピアノには、誰もいなかった。
いなかったはずなのだ。
暗かったからといって、見間違えたということはありえない。
それなのに。
確かに、ピアノの旋律が、風香の弾いていたメロディが、あたしの耳には響いていた。
しかも、それは、あたしだけではなく、隣にいた風香にも、はっきりと聴こえていた。
・・・空耳な訳がないじゃない!!
目の前に起こった現実を信じることができないまま、あたし達は学校を離れた。
明日から、どんな風に学校に行けばいいのやら。
彼女と何も会話らしい会話も出来ない状態で別れたことを、少し後悔して。
「・・・はあ」
深夜2時。いつもの時間。あたしはお風呂から上がった体を上気させて、バスタオルで体を包んで部屋に戻ってきた。
しばらく、絨毯の上にそのまま座って、ぼんやりと今日のことを思い浮かべる。
・・・やっぱり、どう考えても、空耳ではないし、誰もいない中でピアノは弾かれていた。
これが夢ならいいんだけど、まぎれもない現実だ。
.「・・・はあ」
ため息しかつきようがない。
あたしは箪笥から下着を取り出す。
誰もいない部屋ではあるけれど。
カーテンもちゃんと閉まっているけれど。
あたしはバスタオルを外さずに、おそるおそる下着をつける。
窓に背を向けて、用心に用心を重ねて、パジャマを着ようとしたとき。
「ため息ばっかだな、今日のフミカは」
突然の少年の声が、当然のように。
・・・もう、これにも慣れた。
慣れたくはないんだけど。
「・・・相変わらず、ノックとかしないよね、マサキは」
プライベートもへったくれもありゃしない。
背を向けたまま、さっさとパジャマを全部着てしまって、あたしはベッドに横たわった。
ほとんど毎日のように、彼はあたしの部屋に勝手に入ってくる。
しかも、入ってくるところはドアではなく、一軒家の2階にあるあたしの部屋のベランダの窓から。
「それだけここが、俺にとってお気に入りの場所って事じゃん」
・・・またそーいう、嬉しくなるようなことを言う。
顔がにやけてしまうのがバレたくないから、あたしは顔を枕にうずめたまま。
少年は勝手にカップを取り出して、ポットのお湯を注いでいる。
「おっ、フォションかー。なかなかいい物買ってきたなー」
昨日彼のために買ってきた、アールグレイの香りが漂ってくる。
リプトンのティーパックだと文句を言ってくるから、仕方なく買ってきてあげたのだ。
・・・全く、最近はもう、あたしの部屋の物の配置まで覚えてしまったものだから。
部屋の主になんの断りもなく、勝手に使いたい放題しやがって。
「アンタさあ、そのカップ、いつも誰が洗ってると思ってるのよ?2人分をバレないように洗うのだって、一苦労なんだからね」
ふくれっ面をわざと見せ付けるために、ベッドに横たわったまま、少年を見た。
「ふーん、じゃあこれからはカップ持参のほうがいい?」
あたしの膨れた頬をあっさり受け流す様は、相変わらず、いいとこ中学生ぐらいにしか見えない。
紅茶の葉を入れた網をカップから外して、彼は瞳を閉じてその香りを嗅ぐ。
「うーん、まあまあだな、まあこんなちゃっちい網じゃしょうがないか。・・・やっぱティーポットも持参しよっかな」
そんな仕草が、やたらと様になっているのは、やっぱり彼の年齢が200歳を超えているからだろうか?
・・・彼の名前はマサキ。苗字は知らない。
マサキはいつも深夜にあたしの部屋にやってきて、夜明けまでに帰っていく。
そんな彼は、吸血鬼という。
実際に血を吸っているところを見たことがないので、これは彼の言うことではあるけれど。
しかしながら、空を飛び、念力を使い、体に付いた傷が一瞬で癒されるところは拝見させられてしまったので。
まあ、嘘ではないと思われます。はい。
そして、彼に言わせると、あたしの血は特別な物、らしい。
なにがどう特別なのかはさっぱり分からないし、別に知ろうとも思わないのだけど。
その血を吸わせてしまうと困るらしい、化け物の大群に襲われてしまうくらいなのだから、その話も本当のことなんだろう。
あたしが恥ずかしながら自殺を図ったとき、どうせなら血を吸わせろ、といきなりこの部屋にマサキがやって来たのがあたし達の出会い。
結局、マサキと出会って、あたしは自殺なんか考えることをやめた。
それからというものの、何故かずっと、この少年のようなドラキュラとの縁は切れぬままに、半年が経っていた。
「・・・で?なんで今日はため息ばっかな訳?」
相変わらず、熱いはずの淹れたての紅茶をごくごくと飲んでいくマサキ。
「んー・・・」
「なんだよ、はっきりしないな」
「信じてもらえるのか、あたし自信ないんだけど・・・」
横たわった体を起き上がらせて、ベッドの上に座って、枕を抱きかかえた。
「信じるもなにも、話してくれないことには理解のしようもないんだけど」
そりゃまあ、そうなんだけど、さ。
どうもあたしも、どう説明すればいいのか、よく分からない。
「・・・なんだよ、男に告白でもされたか?・・・ああ、そんな物好き、そういないと思うから、それは断るのはどうかと思うぞ」
そんな、失礼な言葉を平気な顔で放ってくるので。
「アンタねっ!」
・・・もちろん、グーパンチ。今日もバッチリ、クリーン・ヒット。
マサキの頭は、なぜかいつもあたしの右手の軌道にとって、都合のいいところにあるものだから。
「いって・・・あのな・・・」
涙目になって顔をしかめる、自称ドラキュラ。
「俺の天才的な頭脳を収めた美しい頭を、毎回毎回、グーで殴るな!グーで!」
「着替えの覗き方だけなら、まあ天才的って認めてあげてもいいけど?」
わざと、にっこりと笑うあたし。右手を握りこぶしのままで上に上げる。
「・・・フミカのヌードには全く興味ないんだけどなー・・・」
それを意に介さず、紅茶を飲み干す少年。
「悪かったわね、ご期待に添えない体で」
「いや、フミカの下着のラインナップは、なかなか俺好みでいいと思・・・ぶっ!!」
「死ね変態」
必殺の右ストレートが、マサキのあご辺りに炸裂した。
「ナ・・・ナイスパンチ・・・」
よろよろとよろめくマサキに、絨毯に少しこぼれてしまった紅茶が染みになる前に、きれいにさせてから。
今日起こった出来事を、洗いざらい、あたしはマサキに説明した。
「・・・ふうん、ま、ピアノの音が二人とも聴こえたっていうんなら、そりゃあ鳴ってたんだろうな」
それほど面白くなさげな表情で、マサキは2杯目の紅茶を飲み干した。
「・・・まあ、そうなんだけど」
「でもさ」
マサキはあたしが口を開いている間に、先を続ける。
「そのフーカ?ってのはそれなりにピアノが上手いんだろ?」
「・・・え?うん、だって、雑誌にも紹介されるくらいだよ?」
「じゃあ、そのピアノを弾いている幽霊ってのは、よっぽど上手いんだな。少なくとも、フーカと同じくらい」
・・・そう言えば、そうだけど。
マサキの着眼点は、あたしとはずいぶん違っていた。
「あの・・・さ、幽霊、っていう部分は、マサキにとってどうでもいい部分・・・なの?」
「どうでもいいんじゃない?俺幽霊って見たことないし」
「え!マサキでも、見たことはないものなの?」
ドラキュラであるマサキなら、幽霊の存在はいて当たり前なものだから、どうでもいい、という意味だと思ってたから。
「幽霊って、生きているモノの魂が、肉体だけ滅んだあとも現世に留まったモノの事だろ?人間的に言うと」
「・・・まあ、幽霊の定義って、そんな感じだと思うけど」
「俺が普段見るのは、死んだ肉体が動く方だからね。魂なんて俺も見えるものではないし、どうでもよくない?」
「そ・・・そう、ね」
なんとか頷きつつも。
死んだ肉体が動く方、を想像してしまって・・・気持ち悪くなってしまった。
「ま、なんにせよ、幽霊っていうのは魂だけで、肉体がないんだから・・・普通に考えたら、ピアノなんて、まず弾けないぜ?」
「そ・・・、そうなの?」
あたしが普通に考えても、そんなこと分からないんだけど。
なんて言葉は、当然伏せておく。
「当然だろ。肉体がないのに、どうやってピアノに触るんだよ?」
「えっと・・・マサキみたいに、念力みたいなので弾くとか?」
「あのな、この俺様でもピアノを念力で弾くなんて、鍵盤のキーを押すだけならまだしも、曲をまるまる弾くとかそんな器用な真似なんぞ出来ないって。それを幽霊なんて中途半端なやつに、出来るわけないだろ?」
マサキ様は、ご自分がお出来になれないことは、他人も出来ないと判断されるお方らしい。
けど、なんとなく、念力でピアノを弾くっていうのは、難しそうではある。
なんて、念力なんて全く使えないあたしが言うのも、変な話であるけれど。
「じゃあ・・・幽霊じゃないとしたら、ピアノは、誰が弾いてたの?」
当然の質問、だった。
けど。
「そんなの分かるワケないだろ」
あっさりと一蹴される。
「もう・・・なによ、それじゃなんの解決にもならないじゃない!」
「なんだよ、俺に解決して欲しいワケ?」
ニヤリと笑うマサキ。
「う・・・」
確かに、マサキは話を聞いてくれただけで、学校のことは彼に何の関係もない。
それに、あたしは、マサキの力が、卑怯なくらい凄いことであるってことを、十分理解している。
だからこそ、あたしに出来ることであれば、マサキの力に頼ることなく、あたし自身の力でやりたい。
でも。
こんな得体の知れない話だと、話は違う。
マサキがいてくれないと、正直心細い気がしてしまう。
どちらかと言うと、むしろあたしではなく、マサキ寄りの話と思えてしまうからだ。
「・・・ま、新しく紅茶を買ってくれたし、そのお礼くらいしないとなー」
そんなあたしの頭の中は、やっぱりこの子憎たらしいドラキュラには透けて見えてしまってるんだろうか?
「フミカ、久しぶりに夜の散歩に行くか」
「え?」
「そう言えば、俺、フミカの学校は行ったことなかったなぁ。今日はそっちに行ってみるか」
「・・・マサキ、いいヤツだねぇ」
「言っとくけどな、散歩だからな。散歩」
「はいはーい」
あたしは嬉しくて、つい、顔がにやけて崩れてしまったのも忘れていた。
・・・あまり可愛くないって自分で思うから、マサキには見せたくないんだけど。
「まったく、いっつもそうやって笑ってくれてたら、お願いされても聞きやすいんだけどなー」
なんて、ぶつくさとマサキが言うものだから。
やっぱり、あたしは、恥ずかしくなって、彼から顔を背けてしまった。