行ってきました!作家さんたちのライブペインティング。
豪華メンバー。
スズキコージさん
いちいみかさん
あおきひろえさん
田嶋ゆきひこさん
青山ともみさん
うえだまことさんみなさんの描いていく様子は、まるで絵でおしゃべりしてて、はじめは遠慮したり打診しながら、そして、いつしか、まざりあい、溶け合い、そこから、一人の作家さんからでは出てこない深い深い愛と希望が出てきました。会場にいた私たちは、その始まりから完成までを見届け、愛と希望をたっぷり充填して帰りました。
また、スズキコージさんがトークで、
「これからずっと続いていく問題だから、ふざけたりして、楽しくやらないと、やってらんない。」と話されるのを聴いて、
「そうやわ。ほんま。」
と、思った。
今日また、作家さんたちの作品からも、トークからも、エネルギーをいただいた。
しかも、ポキンと折れないように、ふざけながらね、というコツも教わって。
よっしゃ、いける!
楽しくのびのび。
つながって、伝えて行けたら!
何万年先まで、ね!
進行役みかさんはじめ、みなさんの自然体のしなやかな信念を感じて、よし、自分も!
と思いました。ありがとうございました。たくさんの方が見に来て、作家さんと自分の思いを交流できますように。
芸術の力を目の当たりにした日でした。

手から手へ展、京都のマンガミュージアムにて開催中。
今日は、作家さんたちのライブペインティング。
メンバーが豪華。
スズキコージさん
いちいみかさん
あおきひろえさん
田嶋ゆきひこさん
青山ともみさん
うえだまことさん

どんな風に描くのかな?と興味深々でいきました。

ナージャの村の映画監督 本橋成一さんもトークに来てらして、
本橋さんといちいさんのトークと同時に作家さんたちが描きはじめました。
ゆるゆる、豪快に、作家さんたちが、自分ワールドを大きな大きなパネルに描きます。
つぎは、余白見つけては描きます。
余白がなくなり、ついに、
誰かが描いたところに手を加え始めました。
面白くなったのはそこからでした。
トークも本橋さんと他の作家さんも順番に話すので、そちらを、うんうんと聴いていて、
ふとライブペインティングに視線をもどすと、

わ!そうなってますか?!
とワクワク。

となりは、三重の素敵な山の絵本屋さんkiwiの田端さんご夫婦とその子どもたちと一緒なので、
5歳のよういちろーくんが、
ライブペインティングを
面白い、
面白い。と見てるのもワクワク。

トークで、
あおきひろえさんが、もう終わりなのに、こんなの描いてなんになるの?と思うけど、
と話されるのを聴きながら
わたしは、あおきさんたちの祈りのこもった作品を見ることで、また、気持ち新たに、元気づけられる、見に来たみんながそうなんだ、とおもった。

また、スズキコージさんが、
これからずっと続いていく問題だから、ふざけたりして、楽しくやらないと、やってらんない。と話されるのを聴いて、
そうやわ。ほんま。
と、思った。

震災すぐ、
中央図書館で、チャリティこどもたちGO! の実行委員でがんばった。
次はいちいみかさんのNOゲンパツ展大阪巡回を仲間で主催した。
また次は、スズキコージさんと山福朱実さんたちの ぼくらの原始力展の大阪巡回を仲間で主催した。

それでも大飯原発が再稼働したとき、
関電本社の前で泣いて、
力尽きた。

そして、選挙、政治。
巷の無関心。

いろんなことに傷ついて、
疲れてたと思う。

今日また、
作家さんたちの作品からも、
トークからも、
エネルギーをいただいた。
しかも、
ポキンと折れないように、
ふざけながらね、というコツも教わって。

よっしゃ、
いける!

終わってから、
あおきひろえさんに、伝えにいった。

あおきさんの、気持ちわかるけど、見に来た私たちは、確かに、作品からまた元気もらいました、と。

そして、ふざけながらね、というのもありがたかったね、と。

楽しくのびのび。
つながって、
伝えて行けたら!

何万年先まで、ね!
月曜日の校庭での全校朝会。
「つぎは図書委員会からです。」
わたしと、6年男子の図書委員長が朝礼台にのぼります。
ふたりして、礼。
まずは私。

「図書委員会からのお知らせです。今度の水曜日と木曜日の20分休憩に、
図書室開放をして、
これはのみのぴこ の早読み大会をします。
ちょっと、ここで、本を紹介します。」
で、
おもむろに「これはのみのぴこ」をひらき、

「これはのみのぴこ。」
ページめくって、
「これはのみのぴこのすんでいる
ねこのごえもん」
まためくって
「これはのみのぴこのすんでいるねこのごえもんのしっぽふんずけたおすもうさん。・・・・・
というようにどんどん増えて最後のページはこんなになります。
この最後のページをどんだけ早く読めるか?の大会です。では、ここで、
委員長のOOさんに、見本で読んでもらいます。ではどうぞ。」

6年、一歩でて、
「これはのみのピコ・・・・…・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

とみごと一気に早く
読み切りました。

すると、全校生の拍手~~~。

さて、
水曜日は高学年
木曜日は低学年

たくさん来てくれるといいな。
でも、20分間、おおさわぎやろな~~。

澤俊夫氏(筑波大学名誉教授、ドイツ文学者、口承文学・メルヒェン研究、小澤征爾氏の兄)から「できる限り広めてください」という言葉と一緒に回ってきましたので、どうぞ読んで拡散してください。

メール通信 昔あったづもな 第1号

日本はこういう国だった
戦後に生まれたあなたに
発信者 小澤俊夫 小澤昔話研究所所長

昨年12月6日に成立した「特定秘密保護法」は国民の首をじわりじわりと絞めていくことになる危険な法律です。日本人は1945年8月15日の敗戦まで「治安維持法」や「国家総動員法」によって苦しめられて来ました。ぼくには、あの日本がまたやってくるという強い危機感があります。安倍首相が選挙で唱えた「日本を取り戻す」とは、そういう日本のことだったのです。

ぼくは2014年4月に84歳になります。戦後に生まれた人にとっては、敗戦以前の日本がどんな国だったか、ほとんど想像がつかないでしょう。そこで、ぼくが体験した、そして実際に見た、そして聞いた日本のことを、勝手に「通信」として広く読んでもらおうと思いたちました。内容に納得できた方は、どうか知人・友人に回してください。メールでも紙でもかまいません。ぼくに断らなくて結構です。そしてその知人・友人にも、もし納得できたら更に広めるよう依頼してください。特に若い人たちに読んでもらいたいと思います。

この「通信」を読むほとんどの方は、生まれた時にはもう現在の平和憲法があり、自由で民主主義を標榜する日本になっていたであろう。今の平和憲法を獲得するまでの、暗い日本のことは知るはずがなく、今の日本が当たり前と思っていることだろう。

だが、今の平和憲法を獲得するには、約三百万の日本人が命を落とし、約三千万のアジアの人が命を落としたことを忘れてはならない。そして、日本は暗い秘密国家だったことを。

ぼくは昭和二十年八月十五日まで、東京の陸軍第二造兵廠で神風特攻隊用の爆薬を作っていた。戦争中の日本の雰囲気にもろに呑み込まれて軍国少年だった。当時日本国民は戦争についての真相はまったく知らされず、日本は勝つものだと信じ込んで、ひたすらお国のために働いていたのだ。大事なことはすべて秘密のベールの中だった。日本海軍がミッドウエイ海戦で壊滅的打撃を受けたことなどまったく知らされていなかった。その後の敗戦のプロセスについても、きれいな言葉でごまかされていた。

後で退却だったことが分かったマダガスカル島の戦況については「戦略的転向」と報じられた。ビルマ(今のミャンマー)戦線の敗戦も「戦略的転向」だった。アリューシャン列島のアッツ島での全滅は「玉砕」と言われた。もちろんそれは「全滅」だと想像できたが、国民はあからさまにそうは言えなかった。そのうちにアジア各地の前線での「玉砕」が報じられるようになった。国民は不安を感じ始めたが、「大本営発表」は「皇軍は赫々たる戦果を挙げている」とか、「敵を殲滅した」とか、「最後の勝利は我にあり」というばかりだった。そして、極めつけは「そのうちに必ず神風が吹く」という言葉だった。国民はみんなそれを信じさせられた。笑ったら国賊と呼ばれた。

だが、昭和20年3月10日のいわゆる「東京大空襲」の時も、5月25日夜の東京西部地区(中野、荻窪、阿佐ヶ谷方面)の大空襲の時も、吹いたのは神風どころか、火災による大風で、そのためにあたり一面、完全に焼け野原になったのである。ぼくは立川でその空襲を経験したのだが、東の空が真っ赤に焼けて、新聞が読めるほど明るくなった。

情報は大本営発表しかなかったから、軍の高官や政治家、官僚、有力者たちが陰で利権をあさったりピンハネしたりしていてもわからなかった。それがわかったのは、敗戦後、いろいろな暴露雑誌が出始めてからであった。暴露されてみると、秘密裏に行われていたことは、ひどいものだった。

ぜいたく品追放とか、精密機械製造に必要と称して国民に無償提供させた貴金属類は、軍部の高官や政治家たち、官僚たち、地方のボスたちがポケットに入れてしまったということだった。戦車製造のためと称して供出させた鉄類の多くは、放置されたまま錆ていったということだった。

それらのことが秘密裏に行われていたということは、一般国民にはそれを知る権利はまったくなかったということである。今回成立した「特定秘密保護法」でも、国民の知る権利については、「配慮するよう努力する」程度のことでごまかされている。知る権利がないということは、知ろうとしたら犯罪になるということである。

戦争中、「壁に耳あり、障子に目あり」という言葉が国中に徹底して言われていた。それは、どこにスパイがいるかわからないから、発言に用心せよという意味で言われていた。だが、当時、鎖国状態の日本国内のいたるところにスパイが潜んでいるはずはなかった。本当の意味は、国民に、「何かを知ろうとすることはやめろ」という意味だったのである。「目も耳もふさいでいろ。何かを知ろうとしたり、考えたりすることをやめろ」という意味だったのである。

では、それをやめて何をしろというのか。「ひたすら、政府の言うことだけを信じて、黙ってついてこい」というのである。言論の自由の正反対の考え方である。「特定秘密保護法」はそれをめざしている。なんとしても廃止しなければならない。(2013/12/26)


今日はえほんひろばの日でした。
港区民センターで。
もう、5年目になります。
はじめて港区でえほん広場を開催できた2009年。。。
あまりにしあわせすぎて、スタッフと抱き合って泣きました。

昨年まで、がっつり関わって、港区の絵本ひろばを支えてきました。
ことし、仕事がフルタイム教師ということで、
動けなくなりました。
なので、土曜の今日だけ、遊びにいきました。

おなじフロアの別の部屋では、
おもちゃ図書館も開催されています。
こちらも、たちあげのきっかけづくりと支援をさせてもらったので、
おなじ日におなじフロアで、
たねを蒔いたコトがふたつおこなわれてるな。と思って、
どんな風に根付いていっているのかなぁ??とワクワクしていきました。

子育て支援の方々や、学校の先生など、港区のいろんな方々が、力強く
えほんひろばを始めようとしてくれているのを目の当たりにしました。
そんな話を聴いてたら、
おもちゃ図書館に遊びに来た学校の教え子が、
えほんひろばにいるわたしを呼びにきてくれたので、
おもちゃ図書館へ遊びに行きました。

そして、今度はおもちゃ図書館にいるみんなで、えほんひろばへ遊びに行って、
加藤さんのえほんひろば読み講座に参加・・・
のつもりが、
途中から、加藤さんが
教え子きょうだいAとBとわたしにむちゃぶり。。。。
Aは、ためらいなく、教室でよくみんなで読んでいる「もけらもけら」を手に取り、
わたしの手を引っ張って、持たせました。http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4834004023/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books

三人読みが始まりました。
そして、そのままそこにいるみんな読みがはじまりました。

加藤さんが、「ほなこれも。」って

「ぐやん よやん」を。

ぐやん~~よやん~~
と体と声をよじりながら読みはじめると、
Aらが自分なりのおもしろい動きを始めました。
「さぁ、みなさんも~~。」で、よじれてよじれて~~
みんな思い思いにぐにゃぐにゃ~~


すると今度はGが見つけてうれしそうに手渡したのが
「大阪うまいもんのうた」
ことしの夏、中央図書館のユニバーサルおはなし会では、Aはもじもじしていたのですが、
昨日も、たまたま、長谷川義史さんのCDかけながら歌って踊っていたので、
とっても上手にみんなの前でやってました。
「さ、みなさん立って~~!!」
ノリノリでみんなでわ~わ~踊って。
おつかれさま~~!!


「ではこれにて、みなさんにご挨拶。ちゃ~~んちゃ~~んちゃ~~~ん♪(和音」
A,B,満足げにお辞儀~~~~!!!!


ひゃ~~、無茶ブリに驚いたけど、
Aの普段通りのふるまいにリードされて、されるがままに
たのしいおはなし会で、会場み~~んなが最高の笑顔になっていました。

絵本。
えほん。

やっぱりすてき!!!
やっぱり、これからも
えほん!!!