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コルシカ。

乗り遅れたような。コルシカ。

買った雑誌を送料程度を負担すればOCRしてくれるなら、役に立つぞ。現物は年に一回まとめて届けてくれればそれでもいいよ。とはいえ、雑誌の品揃えとか、ORCの精度とか、ファイル形式とかにもよるから、コルシカがうまくいくかどうかは別の話。

栗ブログ(仮)
http://www.techvisor.jp/blog/archives/553
では、合法性と出版社の許諾の可能性を考えていたけれど、今の著作権法上は、だめだとして、そして許諾は得られないだろうとして、、じゃあ(ちゃんと全部買うのなら。保管はコストの問題だけど、廃棄の方法は問題となるかもね)それは「フェア」なのか、というところを考えたい。一般条項としてのフェアユースが議論されているんだから。

とりあえず、思いつくまま考えてみる。

要は、これは、「私的」な目的に限定したメディアシフト代行なわけだ。で、公表されたコンテンツを使って、コンテンツホルダーが用意しないサービスのところで、利益をあげる。実際にあげれるかどうかはわかりませんけれど。

その著作物を享受している側から見れば、財産権としての複製権や公衆送信権への対価は雑誌購入代金として支払っていて、コルシカ、書店、出版社と経由して、著作権者に届けられる。メディアシフトによって、出版社、著作権者、流通過程にある諸業種が得る対価は減少しない。

画像に広告が残るのはむしろ当然ではないか。広告が除去されるならば、コルシカを利用することで、広告主は損害を蒙る可能性もある。

スリーステップテスト的には、これを「特別の場合」としていいかどうかはわからないけど、「著作物の通常の利用を妨げず」「その著作者の正当な利益を不当に害しないこと」はだいじょぶなんじゃないか。出版社から、取次や書店の利益も害してないよね。

全部買ってない「かもしれない」とか、デジタル化されることで不正な利用が容易になるから損害がでる「かもしれない」とか、そういうことで、デジタル化で私的に得られる利便性の可能性を封じられるのは、いやだなあ。利益をかっさらわれるのがいやなら、出版社はもっと早く、もっと美しいデータで、できるはずなんだし。

どこか見逃してる?

中古本の利益の一部を著作者に還元


アーカムしゃちょう日記:アーカムでできること。
http://arcam.typepad.jp/arcamstaff/2009/05/post-febc.html
アーカムしゃちょう日記:著作権者に利益を還元すること~みなさんの意見、ブロガー編
http://arcam.typepad.jp/arcamstaff/2009/05/post-637e.html

えーとえーと。これ、難しいな。

ここでは、著作権法はとりあえず関係ない。古書店の人が、古書の売買について、著作権者に何かを支払わなければならないわけではないし、購入者も、それは同じ。

今の著作権法は、流通の前段階でコントロールするというモデルになっている。他方、著作物の流通による利益の一部を著作者が得られるべきという考え方もあるだろうし、ペイ・パー・ビューのような享受への対価のほうが自然だという考え方もあるだろう。で、それぞれに、いろいろ制度上の難点がある。

これは、今後の著作権のあり方についての話であり、権利のありようについての話になる。ぼくらにとっては、何に対価を払うのか、払っているのか、という問題でもある。でも、ここで考えるのは、現行制度の中で、一部の古書店が、その利益の一部を著者に還元することは、どういうことか、ということになるだろう。


本の著者に支払われる対価というのは複製権および譲渡権の許諾に対するもののはず。実際には、音楽の世界、たとえばCDだと明確に使用料という形になっているけど、出版の世界は契約がどうなっているか明らかではなくて、複製の許諾についての支払いはなく、別の名義で支払われているかもしれない。まあ、それは考えすぎということにしておく。慣行としては、定価の10パーセントが、許諾の対価として支払われる、と言われてる。印刷した部数×定価×0.1が、著者に支払われる。売れなかろうが、読まなかろうが、著者は対価をあらかじめ得ている。

この本の購入者は、複製=本を手元に置くことの対価を支払う。購入者は、複製するわけではないから、ここでの支払いは、現実的には複製の許諾について出版社が支払った分を補填することになるとしても、複製の許諾についての対価ではありえない。最初の購入者だって、著作権使用料は払っていないわけだ。新刊書店だって、強いて言えば譲渡権が及ぶというのかもしれないけど、そんな意識してないよ。ひとたび公衆に譲渡されたならば譲渡権は及ばないから、その後の売買でも、著作権使用料はやりとりされない。

今の著作権制度では、そうなる。

1000円の本を買って、200円で古書店が買い取って、400円で売られる。最初の購入者は100円分の著作権使用料を、出版社を通じて支払っている。これを、「享受すること」の対価と考える。この場合は、じゃあ、実際どれくらい読んだか、ということが問題になる。それを考えると、現行の制度は、売れなかったり読まれなかったりしていても支払われている分と、繰り返し読んでいて支払われていない分を、おおざっぱに相殺しているということになる。ここでは、古書店による二次的な流通というのは、本質的な問題ではなくなってしまう。享受の程度に応じて制度設計をしなおすとなると、どこがどうなるのかは、わからない。今と同じだけその作品を読む人がいたとしても、今の印税収入のほうが多かったなんてことにもなりうる。

現実的には複製の許諾について出版社が支払った分を補填することになる、というところを考えよう。1000円の本を買って、200円で古書店が買い取って、400円で売られる。最初の購入者は100円分の著作権使用料を、出版社を通じて支払っている、と捉えることは、できなくもない。そのうち、20円が戻ってきて、享受したことではなくて、複製物を手元に置いていた分の対価として80円払った。古書店は、最初の購入者と出版社を通じて、20円分を負担する。その後、40円を古書購入者から得るのだから、この20円を著作者に還元するという考え方は、ありえるのかもしれない。

もちろん、この流通の中で、料率を10パーセントにしなければならない理由はない。無体物としての著作物は、最初の購入者がいかに読みまくったとしても、摩滅することはないのだから、古書店の買取価格のうち100円、古書の購入者の購入価格のうち100円が著作権使用料に相当していると受け取ることもできる。あるいは、発表当初から時間が経過した分著作物としての価値が下がるという考え方もあるだろう。

いずれにしても、この考え方に立つなら、既に古書店は仕入れ時に著者に先払いされた使用料を補填しているのであって、抱えている在庫や廃棄する分については、最終負担者となる。

ついでに言うと、複製、というのは、その様態を問わないけど、本なら紙に印刷して製本するということに限定できる。この方法で複製すれば、かなりの長い期間、その著作物を享受できる状態が維持されるし、複数の人が受け継いでいくことも可能。これらのことは、複製の依頼あるいは許諾をするときに、十分想定できることなので、複製の許諾にかかる対価には、これらの想定は織り込まれていると思われるし、織り込まれるべきだ。

だとすると、著者には既に十分な対価が支払われていて、それを出版社が肩代わりしているのだから、現行制度のなかで二次的な流通から著作権にまつわる何らかの対価を支払うなら、著者ではなく、出版社に還元するべきだという考え方もあるんじゃないかな。

もし、自分の店で独自に、ではなく、古書店が連合して、あるいは法制化して一律に、ということを考えるなら、一度公衆に譲渡されたものにも引き続き譲渡権が及ぶ、ということになる。これは問題が大きい。

差止や価格決定ができるようでは、古書市場はその存在意義をなくすだろう。明らかに採算が取れるだけの需要があるのに作家があれこれ言って復刊を認めないから、値が上がるわけですよ。新刊の値段が払えなかったり払いたくなかったりするから古書店に出るのを待つわけですよ。

販売価格に対する料率を定めて強制許諾で報酬請求という形にするとしても、誰が払う? 購入者に転嫁するなら戦前の雑誌なんかの場合は保護期間切れとそうでない著者の区別をしてくれる? それとも後で切手代で赤字になることを承知で請求しないといけない? 著作権者を探す労力を誰が負担する? 分配はどうする? 複写ですらろくに機能していないのに。補償金? 包括契約? とりわけ、古い本を扱う昔ながらの古書店は混乱するし、矛盾も生じる。どうしようもなくなるよ。それならいっそ、古書店関係なく、少なくとも今後はデジタルでダウンロード出版にして絶版はなし、保存用に一部は書籍として販売というようなことまで視野に入れるなんてことも考えられる。著作権制度というよりは、本のありかたそのものが変わるだろうけど。


たぶん、新刊書店にも並んでいるような比較的新しい本で、作家も現役で、ある程度の数が流通しているような場合で、何度も買い取られたり売られたりするようなモデルだと、古書店での流通が、著者・出版社・書店の利益に及ぼす影響があって、しかも古書店からの分配コストが低く抑えられる。このモデルは、要するに、貸与に近いモデルというわけだ。返却するかどうかは自由だけど、破損などがなければ買い取りが保障される。新古書店が、現実的にそういう機能を果たしているということなら、新古書店側からのこの申し出は、もっと広く検証してみる価値はあるだろう。

法制化するなら、何らかの形で新古書店と古書店とレンタルブックの間に線を引き、該当する新古書店は分配のための管理団体のようなものを作り、強制的に加盟、とかね。インフラさえ整えられれば、負担やリスクはそれほど大きくなさそうだ。読者も含めて、みなが納得するものにするのは難しいだろうけど。

そして、これはたぶん、新刊の刷り部数や定価を変えてしまうだろうし、それは購入意欲に結びつくものだから、売れ行きにどういう影響を及ぼすかはわからない。意外と、おっかない、と思いました。

こっから先は、いまいち実感がつかめないのでよくわからん。自分では、新刊書店と新古書店と古書店は別物で、新古書店で買うのは、その値段しか出すつもりがないからってことで、新古書店がなければ新刊書店で買っていたということではないし、ちょっと前に出てて、版元品切れだけど、従来の古書店で扱うほどのものというわけではない、というようなものを探すときに新古書店は重宝する、なんてのは、出版社のビジネス上の判断が顧客を逃しているに過ぎないわけだし、買った本はまったく売らないので、貸与に近いモデルには組み込まれていないのさ。

ぼくだって、昔は、古書を買うときに、著者にこの代金の一部が届くことを願ったことがあるんだけど、今の著作権法から考えると、それは既に支払われていると捉えるほうが自然かなと思うようになった。さっき書いたみたいに、自分が古書店に支払う代金は、めぐりめぐっていくらかは既に支払われたものの補填として機能すると考えることはできる(補填という意味では、新刊を買うのと同じだ)。さっきの話で言えば、何もしなくても、古書店だって既に20円は著作者に補填していると考えることはできるんだ。今の制度下で、古書店が独自に著作者なり出版社に何かを支払うというくらいなら、品揃えの充実なり書店員の教育なりに使って欲しいかな。


文化庁のアンケートの元ネタを読む

文化庁の「著作物の利用についてのアンケート調査」について、copy & copyright さんが気にかけていらっしゃるので、基となる『チャレンジする東大法科大学院生―社会科学としての家族法・知的財産法の探究』(商事法務 2007)も図書館で見つけたことだし、読んでみました。以下、文体とか書式とかむちゃくちゃだけどそのまま。


法も社会学も統計も、別に専門的に学んだわけではないですけれど、なんだかなと思う。ここで感じている疑問が、統計的にキャンセルされるようなものだとも思えないし。


とはいえ、調査・分析は院生の人たちということになっていて、まあ、未熟だなあと思うところも多々あるのですが、発想としては、すごく面白いものだと思います。 偉そうに言わせてもらえば院生にしてはGJ。最近の著作権まわりのいろんな議論を追っている人と、統計に社会調査をちゃんとやってる人が、一度ちゃんと批判的に読んでいれば、もっといいものになるのになあ。以下、ぐだぐだと書きますが、ま、現時点で官庁が人様の手を煩わせてやるようなもんではないと思いました。


本は
http://www.shojihomu.co.jp/newbooks/1484.html

このへんから始まってるのかな。

2002年度研究成果 法創造教育方法の開発研究 -法創造科学に向けて ...
http://www.meijigakuin.ac.jp/~yoshino/clmp/result/result2002.htm
立法事実アプローチによる法的ルールの評価と選択
http://www.meijigakuin.ac.jp/~yoshino/clmp/files/2002oota.pdf
規範の進化モデルと世論
http://www.meijigakuin.ac.jp/~yoshino/clmp/files/2003oota.pdf

今回のアンケートに至る過程としては
過去の著作物等の保護と利用に関する小委員会(第5回)
議事録
http://www.bunka.go.jp/chosakuken/singikai/hogo/05/gijiroku.html
著作権保護期間に関する意識調査について(太田氏発表資料)(PDF形式(242KB))
http://www.bunka.go.jp/chosakuken/singikai/hogo/05/pdf/shiryo_06.pdf

意識調査自体への反応としては

Copy & Copyright Diary
文化庁が「著作物の利用についてのアンケート調査」を実施
http://d.hatena.ne.jp/copyright/20081107/p1
文化庁のアンケート調査に対する懸念
http://d.hatena.ne.jp/copyright/20081107/p2
文化庁が著作権に関する国民意識調査を実施
http://d.hatena.ne.jp/copyright/20081011/p1
文化庁のアンケートの概要
http://d.hatena.ne.jp/copyright/20081113/p1

万来堂日記2nd|文化庁のアンケート結果はまだでてないから、元になった調査を読んでみよう!(1)
http://d.hatena.ne.jp/banraidou/20081120/1227195396


んじゃ、いきます。

まず、この調査の目的としては「著作権法制,現状の法制度と国民の著作権意識の乖離の有無を探究したい」「法改正の方向を探る基礎的資料を提供したい」と委員会で述べられています。

本のほうでは、著作権意識について調査に関する章の「はじめに」のところで
「法制度が国民の意識と乖離したものとなれば、その法制度は国民から支持されず、結局失敗に終わるだろう。したがって、国民の意識を踏まえた、バランスのとれた政策が形成される必要があり、その前提として国民の意識を正確に把握する必要がある」(p.103)

とあります。資料を見ていると、なんだかややこしい話が続いていますが、立法事実というのは、法律を作る際に、法を必要とする事実がないといけないわけで、その「事実」を指すのだけれど、立法の正当性や合理性を支える諸事実としてではなく、法的価値基準や法規範の正当性や合理性を支えるものとして、また立法に限らず、法の改正や裁判過程での法の解釈までを含む概念として用いられている、とされています。非常にラフな理解としては、法を作ったり、運用したり、考えたりする際に、その背景となる事実や意識などの総体をまとめてしまった概念として「立法事実」というものを再定義する。そこで、コンテキストとしての国民の意識を知るために社会調査を行うことに有用性があるわけですが、もちろん、これは恣意的な理由付けにも繋がりかねない。「一部の企業や省庁などの行う『社会調査』や『統計的分析』の中には、『ためにするもの』であるとの批判を免れ得ないようなものもないではないが、それらは社会調査の誤用・濫用である」(pp.15-16.)。


ふむふむ。では、著作権意識の調査を見てみることにする。

留置調査で400人を対象とするが、サンプリングで「著作物の利用の頻度や用途につき、全体的な平均像に近い構成になるよう、調査対象者を選定」(p.107)している時点で、この調査の意義は既に損なわれているといわざるを得ない。「先行研究が乏しく」て「本調査に直接利用できない」(p.105)という状況であれば、やむをえない部分があることも理解できるが、それはすなわち「著作物の利用の頻度や用途につき、全体的な平均像」が得られていないということでもある。ここで得られた調査結果を国民の著作権意識を表すものとして受け取ることは難しく、たとえばパブコメ参加者のような偏りが予想される他のサンプルとの比較対象に用いることはできないだろう。サンプル全体の性別や年齢構成などは明らかにされておらず、図18からいくらか推察されるところからは、本調査が20歳以上を対象としていると思われるが、20歳以下であっても著作物の利用は行われており、「全体的な平均像」とは乖離することは明らかであろう。著作権意識が低いとされるグループ3の特徴として若年層が多いことがあげられているが、平均年齢は30台後半であり、たとえば中高生を指すわけではない。ただし、いくらか概観を示すこと、以後の調査や分析の是非について検討するための素材として、調査・分析の方法論を築く叩き台としては有用ではあろう。

さて、調査は著作権意識に関する質問(Q1-13)から、回答者を「厳格型」「事案型」「ルーズ型」の3つのクラスタに分類し、年齢など、その他の質問から得られる情報と合わせて、以下のような背景と意識が浮き彫りになったとする。
① 厳格型グループ:年齢が高く,無職層が多く,法に対する姿勢が肯定的
著作権意識:慎重厳格
② 事案型グループ:学歴,収入,生活満足度が高く,年齢は中年から若年に分布が多い
著作権意識:事案の悪質度合いに的確に対応した回答
③ ルーズ型:若年層が多く,学歴,収入は高くなく,生活満足度も高くなく,一般的遵法意識も弱い
著作権意識:ルーズで薄弱な保護意識

ところが、これらの分類や特徴づけは、適切なものとは言えない。

まず、

「著作権意識」とは、法的な知識の有無の問題ではなく、著作権を尊重する傾向や態度を指す。そこで、回答の選択肢は「非難されるべきと思う」と「非難されるべきではないと思う」の間の5段階尺度とした。このように「非難されるべき」か否かを問うことで、法的な判断をひとまず脇においた「社会的に許容されると思うか」が回答に表れるように配慮した。(p109.脚注4)

とされている。質問状では以下のようになっている。


まず、著作物の利用に関する意識についてお聞きします。Q1からQ13の文章について、あなたのお考えをお聞かせください。

これは法律についての知識を問うものではありません。
あなたの常識に照らしてどうお考えになるかを、お答えください。

Q1.大学生のAさんは、2万円で購入したワープロソフトのCDを10枚コピーし、秋葉原の路上で、1枚3千円で10枚全部を販売しました。Aさんは、ワープロソフトのメーカーから許可を受けていません。
Aさんの行為は非難されるべきだと思いますか、それとも、非難されるべきではないと思いますか。

1───── 2 ───── 3 ───── 4 ───── 5

非難されるべき    どちらともいえない     非難されるべきではない


まず、「非難」というのは、一般的には「欠点・過失などを責めとがめること。非として難ずること」(広辞苑第二版補訂版)、「相手の欠点や過失を取り上げて責めること」(大辞林 第二版)という、比較的厳しい表現であって、正しくない行為や脱法行為であると判断することと、その行為者を「非難」することの間には、かなりの隔たりがある。ひょっとしたら刑法周辺での使われ方から、それほど強い表現であるとの意識なく言葉を選んでいるのかもしれないが、そうした語法に親しんでいる回答者は多くないだろう。

ここで問われているのは、他者であるAの行為をどう評価するか、であって、回答者自身がその行為を行うかどうかではない。質問作成上、Aと回答者を同一に置くことは難しいとしても、他者のふるまいについて厳格であったり寛容であったりすることと、本人が自らの振る舞いについて厳格であったり寛容であったりすることは、一致しないことも多い。ここで集められた個々の判断は、自身が著作権に対してどのように振る舞うかというこではなく、自身から切り離された他者の行動についての判断であって、それはつまり、設問に現れた行為が社会的に非難されるべき行為か否か、という判断である。回答者自身と、その判断の厳格さや寛容さを単純に結びつけることは適切ではない。


「『非難されるべき』か否かを問うことで、法的な判断をひとまず脇においた『社会的に許容されると思うか』が回答に表れるように配慮した」とあるが、『社会的に許容される』かどうか、非難するかどうかの判断には、法的な判断も重要な要素となるのであって、「法律についての知識を問うものではありません。」とする程度では、法の知識自体も「あなたの常識」に含まれているのだから、法的な判断を脇に置くという効果を得られているとは言えない。

この調査では、法と国民の意識の乖離の有無を調べようとしているのだから、回答者が「法でいけないと定められているから、あるいは法によって罰則を受けるから、このような著作物の利用をするべきではない」という判断をなすことを回避する必要があり、また、そのような前提で分析を行う必要がある。「自身の考えとしては非難に値しないが自分の法的知識に基づけば適法ではないから非難されるべき」という判断で回答をする者も、「現行法上は適法だが、非難されるべき(であって、何らかの対応を希望している)」という考えで回答するものも同じ答えに属してしまう問いは、調査の結果を不確かなものにするのは、明らかであろう。回答者が、現行法でどのように扱われるかを知らず、またはたとえ現行法では適法であることを知っていたとしてもが、行為としては非難すべきであるという回答が集まってはじめてその国民意識と法の乖離を見出し、これを広義の立法事実として受け取ることができる。


個々の質問の内容については、後ほど改めて検討することとする。

前述のとおり、この調査では三つのクラスタに分け、全体にそれぞれを「厳格型」「事案型」「ルーズ型」と名づける。


既に述べたとおり、問いの形式から、厳格な回答を寄せているグループが厳格に著作権法に従った行動をしているというような関連性は導く事ができない。ところが、ここでは「著作権保護意識の低い層を特定するため、これらの回答につき非難されるべきでないと回答する傾向のあるグループを括りだし、そのグループの特徴を検討」してしまう。このような予断の下、「全般に非難すべきでないと回答するグループ3」は、「著作権侵害を許容する傾向にあるもののグループ」であると捉え、「ルーズ型」とネーミングされる。グループ3に属する回答者は、「著作権侵害を許容」しているのではなく、著作物の利用に関して寛容であるのであって、「『著作権侵害に過度に寛容』という意味でのルーズな者が相当数含まれている」わけではない。著作物の利用に寛容であることを、現行法の著作権の規定から設問にある行為が侵害に当たるからといって「著作権侵害」としてしまうなら、結局のところ法の知識を問うているのであって、国民の著作権法の理解を調査し、その理解の不足を見出しているに過ぎない。当然、ここでのネーミングは「寛容型」であるべきである。


なお、このグルーピングに際して、「たとえば、Q13の高価な予備校テキストの複製について」、1/3が「非難されるべきでない」あるいは「どちらかというと非難されるべきでない」とこたえていることを挙げ、「こうした、侵害行為に過度に寛容な者が増えれば、著作権保護政策が骨抜きになってしまうおそれがある」と述べられているが、この講座の費用が500万円であろうが500円であろうが、現行著作権法上侵害かどうかの判断に変わりはない。このQ13の行為については、「高価」なのはテキストを得るために受けなければならない講座の費用であり、テキスト自体の価格は明らかではなく、テキストの複製を得ようとしている5人は、その金額の負担量から講座自体には価値を置いていない(講義を受けているAと受けていない4人の負担額の違いは、コピー代分のみである)にもかかわらず、必要以上に「高価」な講義を受けなければテキストを得ることはできない状況にある。Aが独自に講座を受けてテキストを得て4人に貸与し各々が自分のために複製をした場合や、Aが自身の勉強のために4部を複製した後に友人の依頼を受け対価を得て複製物を譲渡した場合であれば、適法であることを考えれば、この問いについて、非難されるべきではないという判断をすることは、必ずしも否定すべきではないだろう。

これに対して、「厳密型」では、Q5を引き合いに出し、年賀状での漫画の模写について3割以上が「非難されるべきだ」「どちらかというと非難されるべきだ」と回答していて、「悪質でない著作物利用についても『非難されるべきだ』と回答する傾向があると述べているが、「厳密型」の4割ほどが、中学生のAさんが図書館で調べものをして本の1ページをコピーして持ち帰るという適法な行為を「非難するべき」「どちらかというと非難するべき」としていることを挙げていれば、読者の印象は変わるだろう。


著作権意識に関する質問であるQ1-13以外に、著作権意識を説明するための項目を作るにあたって、以下の考慮および年齢や学歴などのデータを利用するとしている。


著作権法に関する知識の乏しい者は、保護意識も低いのではないかと考えられる。また、実際に著作物を広く利用しているものは、著作権を尊重すると考えられるが、その一方で、インターネットなどで気軽に利用する者には、著作権意識の鈍磨が生じることも考えられる。さらに、社会的に保守的な層は、著作権違反にも厳しいのではないかとも考えられる(p.111)。


繰り返しになるが、著作権意識の回答で現行法において著作権侵害に当たる行為を非難すべきでないと回答をした者を、著作権侵害に過度に寛容であるとみなすことは、この考えを検証することなく当てはめているに過ぎないことを改めて確認しておこう。


著作権法に関する知識としてQ14-17、一般的な遵法意識としてQ19-22が設けられている。

Q14は著作権法という法律があることを知っているか、Q15は条文を一部でも読んだことがあるか、Q16は学習の有無についての問い。Q17では、「他人の著作権を侵害した場合、侵害をした人にはどのような不利益があると思いますか」と問われ、回答としては「1.」が「損害賠償を請求されることもありうるし、犯罪になることもありうる」、2.では賠償請求はありえるが犯罪になることはない、3.はどちらもない、4.はわからない、という選択肢が用意されている。説明なしに、「犯罪」が単に「罪を犯すこと」ではなく、法律用語として「刑罰を定めた諸規定に示された一定の構成要件に該当する有責・違法の行為」(広辞苑)という意味があり、損害賠償と異なる内容を指すということが理解されているとは思えないということは指摘しておく。それよりも、この問いについての分析において(pp.133-134)、「グループ2が、他のグループに比べて、正答の回答が顕著に多いことがわかる」とされているが、図23によれば(数値は示されていない)、正答率は78%、82%、80%と、「厳格型」よりも「寛容型」の方が高く、3グループの差を見ても「グループ2が、他のグループに比べて、正答の回答が顕著に多い」という表現には疑念を抱かざるを得ないとしても、この問いにおける分析の文脈においては「寛容型」が法の知識に欠けるわけではなく、指摘したとおりこの結果が法の知識に結びつかない可能性があるとしても、法による規制があることを踏まえて、なお寛容であろうとしていると分析されるべきだろう。


一般的な遵法意識としての問いQ20、Q21を見てみよう(Q19は「法」という言葉への印象を選択するもの、Q22は紛争における交渉態度などを問う)。

本文中「(iii)法一般に対する意識について」では、○2「必ずしも法を守る必要は無い」、○3「法を守るのは時にばかげた事である」という見出しの下で、グループ3が他よりも顕著に「賛成」と答える比率が高く、法遵守意識が低いことを指摘する(「○2」などは丸数字を指す)。ところが、問いの文章は、


Q20 「法のとおりに生きると損をすることがあるから、そのような場合には必ずしも法を守る必要はない。」という意見について、賛成ですか、反対ですか。あなたの意見にもっとも近いもの1つに○をつけてください。

Q21 「法を破っても見つからないと思われるとき、法を守るのは、ときにバカげたことである」という意見について、賛成ですか、反対ですか。あなたの意見にもっとも近いもの1つに○をつけてください。


となっている。Q20における「法のとおりに生きると損をすることがある」ということは、文章上は自明な前提とされているが、これは自明ではなく、賛成意見を出す者は、この前提を共有し、かつ、これが理由になるという条件の下では、法を守る必要がないこともありうるという意見である。反対意見のなかには、損をするからという理由ではないが、法を守る必要はないと考える者もあるだろうし、「法のとおりに生きると損をする」という前提について、たとえば「法のとおりに生きると損をするように思うが長期的には得になる」と考える者もいるだろう。この二つの設問から導かれるのは、遵法意識が低いということではなく、Q20については、「法のとおりに生きると損をする」という認識を持っているであろうこと、そのような条件下において法を守ることが適切ではない場合もありうると考えていること、Q21については、見つからない範囲であるということが、法を守らない理由となりうると考えているということ、それは時に「バカげたこと」とみなされるほどのことであるということだ。


回答者は、法の専門家ではなく、すべての法を理解しているわけではないし、問いの中で用いられている「法」を厳密にすべての法と捉えるべきか、一般的にイメージされる範囲のものとして受け取るべきか、は、明らかではない。加えて、この「法」は、日本の現行法を指しているとも限らない。たとえば、緊急避難的な状況において「法」を守るかどうか、禁酒法や戦時下の諸法などについて、思想信条などを犠牲にして見つからない状況で法を守ることがバカげていないかと考えてみるならば、この問いに賛成と答えることはありうる。これは「遵法意識が低い」のであろうか。


そもそも、著作権法は、著作権者に非常に強い権限を与えているため、多くの局面で侵害行為は発生している。たとえば職場で仕事に使う文書を複製することは、現行著作権法上は適法ではないことを踏まえれば、この問いに対して「反対」と答えることは難しいはずだ。本調査の対象が著作権法であり、特にQ1以降で権利制限に関る事例を扱っているのだから、そのような状況を考慮に入れないことは適切ではない。

以上のことから、たとえばpdf資料に現れる


⇒国民の間の著作権意識を向上させるには,ルーズ型の層をターゲットに,啓蒙活動が必要
⇒ルーズ型層は単なる啓蒙ではなく,刑事制裁等の具体的な広報が必要かもしれない

という意見は、根拠がない。むしろ、著作権を侵害した場合の不利益は周知が進んでおり、不利益があることを知った上でなお寛容であろうとする意見が得られているなかで、刑事制裁などの法改正や広報が有効はいえないだろう。むしろ、著作権というもの自体の周知はある程度進んでおり、保守的な層とされる「厳正型」に対して適正な利用についての周知が必要な段階に進んでいると受け取るべきではないか。本分析では、著作権に対して寛容な意見を持つ者であっても、法の知識が欠けていることは示されておらず、寛容な意見を持つものが権利侵害を行う傾向にあることも示されていないにもかかわらず、刑事制裁を持ち出すのは、社会調査の誤用・濫用とすら言えない。


では、Q1以降の問いの回答結果についての分析を見てみる。設問の要素の組合せに用いた(作成段階で考慮した)要素は、対象ジャンル、営利目的の有無、行為の対象、結果の大きさ(数)、行為態様だとされる。


Q1-13で扱われている行為は、ほぼ著作権法の権利制限に関する行為である。表1では「各質問項目の内容・特徴」として、「行為」「相手」「数」「営利性(利益)」に分けているが、少なくとも設問を考える時点で、3-step testや米国著作権法のフェアユースで挙げられている内容、たとえば、「使用の目的および性質(使用が商業性を有するかまたは非営利的教育目的かを含む)」「著作権のある著作物の性質」「著作権のある著作物全体との関連における使用された部分の量および実質性」「著作権のある著作物の潜在的市場または価値に対する使用の影響」「未発行かどうか」「権利者に不利益があるか、不当な不利益があるか」といったあたりは視野に入れておく必要があっただろう。もっとも、「相手」や「数」、「営利性(利益)」といった項目の扱いがこれでは、望むべくもない期待ではあるだろうか。

a1

図30では、各項目が違法かどうかについて書かれている。「違法」というのは、明確に定義された法律用語ではないはずで、これが何を指すのかは明らかではない。著作権者に告訴の意思があるかどうかは示されていない。おそらくは現行法に規定されている権利を侵害していることを指すと思われるが、それほど容易に判断できるものではない。権利の濫用も考慮しなければならないものもあるだろう。調査で考慮されていた要素と違法かどうかをまとめた表と、筆者なりに要素を考えて、ちょっとアレンジしなおしたやつも用意してみた(なお、「損害」については、設問から推察される、複製物を入手していなければ正規に購入したとした場合の売り上げ上の金額を記したが、価格などa2 によって正規の入手経路では購入しないことは考えられるし、著作権者あるいは著作隣接権者の損害とは異なる)。


ざっと思いつくものを挙げると、Q3ではコピー先がMDまたは音楽用CD-Rなのかデータ用CD-Rなのか、Q5は同一なキャラクターと捉えられるとしても本質的な部分を感得するだけの類似性があるのか、Q9ではパブリシティ権の問題はあるとしても、ドラマの本質的な部分を感得できるか、俳優の演技に創作性が認められるか、Q4についてでも画質などについては考慮する余地があるだろう。Q7では複写をしたとは書かれていないが、1000枚それぞれに雑誌から切り抜いたものを貼り付けていた場合はどうなるか。Q2ではコピーをしたのが誰か、1ページの内容が何かということについては、ガイドライン上の問題が生じうる可能性がある。


Q11の映画が日本で公開されておらずDVDでの販売もない映画で自ら字幕を付けてアップロードしていたら、どういう意見がつくだろうか。たとえば、再放送の見込みのないテレビ番組のアップロードはどうなるか、研究や職務のために自分が使うための複写はどうか、といった問いでは、どういう答えが得られるだろうか。


すでに述べたとおり、これらの問いは、現行法での扱いとは切り離されて考えられるべき事柄である。「非難されるべき」として他と比較して明らかに多くの意見を集めているのはQ11、Q1、Q4となるが、これらは、不特定の公衆を相手とし、これらの映像やソフトウェアを必要とするものは適正に購入する事ができるという点で一致している。このような場合には、権利侵害となるという理解は、広 く得られていると捉えられるだろう。その上で、さまざまな要因が加わることで、非難されるべきではないという意見が現れる。


これは、国民の感覚として公正な利用かそうでないかという調査に他ならない。直接の代替物が存在しない場合や、権利者を探したり許諾を得る交渉をすることが困難と思われる場合の限定的な使用などについても、このような国民の感覚を知ることは、重要だろう。つまり、今検討されている日本版フェアユースに向けて、このような調査は、その大枠を提供してくれるものとなるはずだ。


ここでいう「立法事実」というのは、法を修正することも視野に入れたものであるのだから、国民の感覚と法の齟齬についての解決策は、厳罰化だけではない。現行法では侵害となるもので、国民の感覚として非難するべきではないという結果が得られるものについては、容易に想像することは難しいけれども権利を付与しておかなければ著作者が不当に不利益をこうむる事例があるとか、なぜ法で規制されなければならないかということについてきちんとした説明がなされるべきだ。もちろん逆もまたしかり、でしょう。


文化庁アンケート

さて、この調査と、ほぼ同じ内容の調査が、パブコメ協力者に対しても行われている。残念ながら、パブコメを投稿した人たちへの調査は、社会調査としてまともなものにはなりえないし、事前の調査との比較も意味を成さない。

ろくに告知されていなくて、そこそこ著作権関連の知識を持っている事が前提とされている、けっこうな分量のテキストをいきなり読まされて、議論の経緯を追うための誘導もろくにされてないような募集に意見を投じる人が母集団なわけだ。

まあ、事前にアンケートをとることは明らかにされていたので、なんらかのルートで、既存のビジネススキームのなかで利益を得てきてそれを守り、あわよくば利益を増やしたいと考える権利者さんや、権利を扱う団体さんの職員さんや、利害関係のある人たちが、個人として意見を出していたりはするでしょう。そうではない考えの権利者さんほかもいらっしゃるでしょう。それから、そうしたところとは関係なく、われわれの文化的な営みは創作的な表現なしに行われることはないという意味において自らも著作権者であり、すでに、または潜在的にその権利から利益を得ることもある、著作権についての意識の高い人々が、意見を出しているのでしょう。となると、クラスタに分けるとしても、前回調査とは別物。今度は、ある程度著作権法の知識がある分、Q1-13での問いに、どういうつもりで答えているか、問いが求めているものが何かという推測によって答えは異なってしまう。あ、むしろ、知識があれば「どちらともいえない」を選ばざるをえないところも多いかも。

ああ、そうそう。保護期間。

現行の保護期間(個人死後50年、団体公表後50年、映画公表後70年)は「おおむね長い」という結果が出ていて、延長を希望する者は「かなりの少数派」という結果が出ている。

パブコメ協力者へのアンケートでは、接木されて、問題が増えていますが、既に指摘されている論点を示し数で計るという、先行する調査の本来の目的とは異なる、単なるアンケートとなっています。母体に偏りがある集団で、これを問うてどれほどの意味があるのか。

これこそ、広く国民に問いかけてみるべき問いかもしれません。その際には、保護期間を調査の対象として、Q1-13に類する形に置き換えていくのがよいでしょう。「写真に写った祖父が着ていた着物の柄が珍しいのでネットで公開したいのだけれど、撮影者がわからないので、そのままアップロードしました」とか。もちろん、長い保護期間を設定している欧米諸国は、日本よりも自由に使える範囲が広いということを示した上で、ですね。たとえば、米国での延長をめぐる裁判(Eldred判決)や、他国のフェアユースの状況を示す必要はあるでしょう。

今村哲也「著作権の保護期間延長と表現の自由についての小考」
http://www.21coe-win-cls.org/english/activity/pdf/7/17.pdf
著作権法における権利制限規定の拡充について
http://thinkcopyright.org/Report_fairuse.pdf


というわけで、これはMIAUとか、知財本部のほうで、ちゃんと質問票作り直して調査するのがいいんじゃないかなあ。文化庁は、今回得たデータを、個人情報等には配慮する必要があるけれど、とにかく生に近い形で提示するべきでしょう。それを使ったからといって、分析といえるようなものは得られないけれど、手法をブラッシュアップさせるステップとして使えると思います。


MIAU法人化記念パーティーには行けなかった

MIAU法人化記念パーティーには行けなかった。平日の参加は難しい。MIAUのイヴェントには、一度も参加できていない。MIAUへの違和感は、ずっと抱えていた。


MIAU誕生のアナウンスは、あまりに唐突で、その目的や実態が掴めないものだったけれど、可能性を感じるものだった。その可能性とは、特に著作権行政について、何らかの不満や理不尽さを抱き、また切実な自分自身の問題として、ブログを書いたり署名をしたり、そのほか、いろんな「活動」をしてきた身にとって、対外的な交渉ができる団体が存在し、、信頼できる理論的な裏づけを示す事が出来る専門家との連携もできるというのは、自分だけでは解決しきれない困難を打破するものとしての可能性だ。極端なことをいえば、MIAUが存在して、誰かが動いてくれていれば、それでいい。


しかし、ぼくがMIAUに期待したもののなかには、かつてBBさんが使った表現を借りれば、ブロガーの「ゆるやかな連帯」を集約するもの、という位置取りもあった。


輸入盤問題のシンポジウムを中継していた津田さん、iPOD税の論客として颯爽と現れた小寺さん、池田信夫さんの名前を知ったのは、輸入盤問題の情報まとめサイトだった。


輸入盤規制の時は、電子署名とリアル署名で何万という署名が集まり、何百もの音楽メディア関係者が賛同リストに名を連ねたけど、じゃあ、どうするか、どうすればいいかというところで、いちいち立ち止まらなければいけなかった。署名には、何を書かなければいけないか、どこに提出するかといったこともわからなかった。著作権法の条文をはじめて読み、分厚い解説書を図書館で借り出し、使い勝手の悪い文化庁の審議会情報を過去に遡った。

輸入盤規制の時は、最初、2chにしか情報がなかった。人がだんだん増えて、いろんな情報を持ってきたり、それぞれが出来ることとして作業を分担したりするようになって独自の動きをつくり、何人かがブログで意見を書いたり、調べたことをまとめたりするようになってからは情報を交換するバザールのようなものとしても機能した。


iPOD税のパブコメの時には、その時の連携がさらに発展したと言えると思う。えこりんが速報し暇人#9が情報整理して踏み込んでいく。パブコメジェネレータのプロトタイプみたいなものになったりもしたな(オープンコンテンツの面白さに気付いたのはこの時だ)。それから、PSEか。


いつもいつも、問題となったのは、ユーザーの意見を代表するような窓口の不在だった。そこには、行政上の手続きをある程度わかった上で(あるいは、それを調べることを代行してくれる)、という意味合いも含まれるかな。政治家に委ねたり、有名人に委ねたり、ということではなく。私的録音録画保証金制度においては、津田さん個人が担わざるを得なかった。


それがMIAUという組織になった、ということなのか。つまり、MIAUは、津田さんと小寺さんの団体なのか。それとも、津田さんと小寺さんが作った、ユーザーみんなが、なんらかの形で参加しうる団体なのか。そこが見えてこない。MIAUの実態とは、何か。どうやって参加するのか、参加するとはどういうことなのか、自分がやりたいことを、MIAUと共に、MIAUを通じて発信するにはどうすればいいのか。自分がMIAUを手伝えるなら、それはどうすればいいのか、自分がどういう形で関るのがいいのか、関らせてもらえるものなのか、よくわかんない。いあ、もっと積極的にコミットしてくれば、門戸は開いている、ということなのかもしれないけど、能動的に自分に出来ることを自分でやるなら、自分で勝手にやるわけで。


法人化の一連の騒動は、古典的なたとえだけど、MIAUは「伽藍」を作ろうとして、失敗しちゃったように見える。そして、「バザール」に戻ろうとしている。新宿のロフトプラスインワンの座敷で「中継」という仕事を担っていた金髪の兄ちゃんの後姿を思い出す。


バザールを作るのも、簡単ではないだろう。でも、そのほうが、しっくりくる。


池田さんや白田さんや公文さんといった、名のある方々と縁があり、協力していただけるのだとしても、ユーザーという視点から見れば、彼らも一人のユーザーでしかない。オブザーバーとして、見守っていただき、困った時に、それぞれの専門的な知見から、ほんのちょっとの手助けをしてくれるなら、それで十分なのだと思う。


自分に出来ると思っていなかったことが、出来ることなんだと気付くこと。出来るようになるためには、どうすればいいかという端緒を得ること。自分に出来ることが、全体の中で有用なのだと気付くこと。


ぼくは、2004年から、少しずつ、そうやって足を進めてきた。MIDI音源や、二次創作や、ビデオゲームや、貸与権で、著作権のことをわがこととして考えてきた先人たちに、助けてもらいながら。ブログやBBSや書籍や論文で情報を発信してくれる、政治家や弁護士や官僚や学者や評論家に、教えてもらいながら。顔も名前も知らない人たちと、ゆるやかに協同しながら。そのプロセスを、効率よく進めていく場として、存立できないのだろうか。


くだらないなあとか、無邪気だなあとか思いながら、いくつかのエントリを読んだ。MIAUには、ちょっと距離を置いてきたし、まだしばらく置いたままなのかもしれないけど、何か書かずにはいられなくなった。

最近の私的録音録画補償金制度関係を読みながら、ぼんやり考えてること。

ひとことだけ - 言いたい放題

http://d.hatena.ne.jp/okeydokey/20080711/1215709205


に釣られて久しぶりに。


俺が買ったものから俺が別の環境で聞くためにシフトする分には金を払いたくないけど、

誰かがダビングして友達に渡してる分については制度上それしかないならちょっとくらいなら負担してもいい。


てのが基本かなあ。


結局、ダビング10みたいな複製制限てのは、ここまでなら零細な複製と認められる範囲を権利者が設定するってことじゃないのかなあ。それは、放送に乗せるときの契約時に決めればいいんだし。DVDで出すことが確定してるなら、制限してても不満は少ないと思う。


ただ、報道関係は複製制限措置はしちゃだめだ。


それから、ムーヴは相応な数可能にしておいたほうがいいと思う。どんな番組であれ、自分が関連した番組(視聴者参加番組とかで)を、保存する方法はあったほうがいいってことなんだけど。子供のころにベータで録画したやつをVHS→DVD→HDと移して、わが子に見せようってのは、許されないんでしょうかね。


で、制限かける場合は、放送局に保存義務を課すといいよ。将来的に検証する必要とかあるだろうから。国会図書館で保存して全国民が閲覧できる制度作るようにするってのがなおよし、か。


そのあたりは、著作権関係ない。総務省で決めちゃえばいいんだ。


著作権に話を戻すと、範囲を狭めてもいいから、私的使用ってのは権利制限の対象としておくことが、自分にとって大事かなと、ずっと思っている。友達とか、なんなら別居している兄弟のためにコピーする分は、複製への対価として払ってもいいんだ。四十九条に類する制約をかけていいってことで、使用料的には、正規に販売するような複製よりは低くなるようなら。


レンタルCDやレンタルビデオというのは、貸与権+私的録音録画補償金というかたちになっている。複製の数なり量なりに比例して課金することは妥当で、MDなら、録音メディアに対して課金することで、著作権者への還付状況の透明性と、制度から外れるような自身の著作物や著作物でないものなどについての返金制度さえ確保していれば、複製の実態にある程度沿わせることができた。そして、これは「私的」ではなく、上で述べたような「複製」として捉えたとしても違いは生じない。


複製先のメディアが、制度上対価を必要とする著作物の録音や録画に限定されないような場合、汎用のCDやDVDやHDとなったら、メディアへの課金は、録音や録画の実態とは合致しなくなる。貸与の実態と、録音・録画の実態のほうが、合致する度合いは圧倒的に高いのだから、貸与権に一本化するのが妥当だろう。実際の貸与回数に応じた分配が可能となり、権利者によってはコンテンツによって使用料を変えることも可能になる。


放送からの録音や録画も、上記「複製」に相当する。この場合、公衆送信権等に一本化するのが妥当かどうかは、ちょっとわからない。録音録画メディアへの課金は、やはり無理がありそうだとしても、たとえば、録音・録画機器への薄い課金という制度は、検討する余地があると思う。


もう一度放送に戻る。


コピーネバーなり限定的な複製制限を課すなら、権利者の損害は零細であるとして、公衆送信についての契約に複製回数などに応じて反映させればいい。逆に言えば、そうできる範囲に限定させるだけの複製制限を課せばいい。


コピーフリーとした場合、公衆送信権等に一本化するのは、依然としてひとつの選択肢になりうる。著作権者としては、嫌なら許諾しなければいい。放送局としては、これまでよりも国内の外部著作物について放映権などは高価になるかもしれないし、管理団体との包括契約はややこしいところもでてくるだろうが、無料放送での複製制限は国際的には一般的ではなく、自社製作のコンテンツについては、自らコントロールすればいいことで、放送とパッケージソフトとの差別化も可能だ。


録画装置などに課金、てのも、悪くはないと思う。頻度が高ければ、買い換える程度に消費財なので、複製の実態とはそれなりにリンクする。とはいえ、返還や、どうやって権利者に分配するか、は、難しい。それは現状から悪くなるものではないから、今から考えるってことでもいいのかなあ。結局そのへんは、録音以上に録画の実態がわからないからよくわかんないや。


タイムシフトなどについての、広告主の問題は、それほど大きなものではないはずだ。録音できないなら、そもそもその番組を見れないという事例は多いだろうし、広告を自動的に除去する装置を付けないという程度のことは、JEITAも合意できるのではないか。

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