贄の女(エピローグ)
「あゆみちゃん。大丈夫?」
あの後わたしは満江さんと他の姉妹達に助けられたのだった。
わたしたちにひどいことをしようとした人達は全身の筋肉が弛緩して呼吸ができなくなり、死んだ。雨宮は結局、満江さんにはめられたと分かった時点で狂ってしまっていたらしい。すっかり息絶えた医者を蹴りつづけながら何も分からずに死んでいった。
そして、わたしたち五人が屋敷に残された。
雨宮祥蔵はキメラを利用して、金儲けと自己の快楽の両方を満たしていたのだった。仲間達の命と引き換えに彼の稼いだ莫大な資産が残されているので、わたしたちが生活するのには恐らく一生困らないだろう。
彼はキメラの売り手を厳選して、あの場に集めていたのだけど、みんな背徳の快楽を人にばらすわけには行かないから、ここに来たことは秘密にしていたそうなのだ。つまり、あの場で死んだ人間は全て行方不明として扱われることになる。死体は取りあえず実験用の巨大な冷凍庫に放りこんでおいた。彼らの死体だって使い道は幾らでもある。わたしたちと違って「毒」も無いんだし。冷凍庫には仲間達の遺体も残されていたが、それはきちんと庭に埋めてお墓を作った。雨宮たちの快楽の犠牲になった可哀想な子たち…。
庭の片隅はちょっとした墓地となり、そこに花を供えるのもわたしたちの日課の一つとなった。
満江さんはわたしよりも三つ年上のキメラだったのだ。雨宮のほかにもキメラを譲り受けた人がいて、その人が結構可愛がってくれたのだという。
「彼はわたしがどこまで知識を吸収するか興味を持ったのよね。自分の娘のように思えたらしいのよ。それでわたしが医学の勉強に興味を示すとどんどんその知識を与えてくれたの。お陰で普通の医者よりか知識も豊富な筈よ」
一緒に暮らしていた人が亡くなる前に、満江さんは他のキメラがひどい扱いを受けていることを聞き、助けようと思ったのだという。
「雨宮の連絡先はブリーダー仲間ということですぐに調べがついたしね、彼のところに身元を隠して面接に行ったのよ。本当の病院じゃないから資格よりも実力が欲しかったみたいだし」
雨宮はもしものことを考えて身寄りのない人間ばかり集めていたのだが、結局彼にとってはそれが災いとなったのだ。
あゆみさんはここに来てしばらくは、相手を安心させるためもあって言うとおりにしていたが、生贄の祭りが始まる前にキメラを元の毒性の強い体質に戻す薬をわたしたちに打っていたのだ。あの痛い注射がわたしたちを助けることになるとは思わなかった。その間はデータを全てでっちあげて周りにはどんどんわたし達が彼らの言う「商品」になっていくかのようにみせかけていたのだから、満江さんの芝居も相当なものだった。
エリカや他の子たちもみんなわたしと同じような部屋をあてがわれていたので、取りあえずはそこを自分の部屋として暮らすことにした。地下室はもう不用なのでだれも行かない。これからは自由に外にも出られるし、好きなことが出来る。
わたしも殺風景だった部屋にぬいぐるみや人形を持ち込んだ。代わりに低い唸り声を上げてわたしを暗い気分にさせるモーターはもういらないから、全て運び出した。
ちょっと女の子らしくなった部屋で、わたしは満江さんと一緒にベッドに座っていた。
「ねえ、満江さん。これからどうしよう?」
ベッドの上で満江さんのからだに甘えるように持たれかかりながら聞いてみた。
「そうねえ、これからは楽しまなきゃね。でも、まだこの世界には同じように苦しんでいる仲間がいるからやっぱり見過ごすことは出来ないわね」
満江さんの手が優しくわたしの髪を撫でる。気持ちいい…
「じゃあ、また勉強?」
「そうよ、ここにはいっぱい資料があるし」
思わず文句を言いたくなった。これからは遊べると思ったのに。
「その代わり、外に出て男の子を捕まえてきてもいいのよ?」
「本当?」
「だって仲間を増やさなきゃならないもの。今までは彼らの慰みものにされていたからわたしたちの数も抑制されていたけど、これからは違うわ」
「でも、わたしたちは人間と比べて年を取るのが早いのでしょ?」
「うーん。しばらくは大丈夫だと思うけど。それにその辺の研究もみんなでやればある程度人間と同じような年の取り方に合わせられると思うし」
「出来るかなあ?」
「出来るわよ。わたしたちは人間が十年かかって覚えることも一年で覚えちゃうのよ。それにね」
そういって、満江さんは口を尖らして、ふーっと息を吹きかけてきた。
「わたしたちを受け入れられない男の子なんて要らないじゃない?」
そのとき、わたしは雪女の話を思い出した。あれこそ、もしかしてキメラのことではなかったのだろうか?
「それに助かって自由になったキメラってわたしたちだけじゃないはずよ。姿形は人間と同じなんだから、うまく暮らせば分からないはずだもん。その人達と連絡が取れて一緒に行動を起こせば、そんなに難しくないわね」
満江さんの話によると、人間が気づかないだけで多くのキメラが社会に溶け込んでいるのだと言う。わたしたちは仲間達を見分けられるので、糸をたどるように仲間を集めてゆけば、後はきっかけさえあれば皆わたしたちと行動を共にするだろう。
「仲間達をみんな助けられたら次はどうするの?」
そうねえ。
満江さんは天井を見つめていたが、ベッドをぽんと勢い良く叩くとこっちをむいてにやっと笑った。
「世界征服!」
それも悪くないな、と思った。
戦争画
「確かに気味の悪い絵ですね」
坂口は芦沢が示した絵を見て率直な感想を述べた。暗い色調の水彩画だった。深い緑色をした森の中に黒い神社が描かれている。人物は描かれていない。神社の雰囲気が何とも重苦しく、見ているだけで押し潰されそうになる。
「この絵を見て気分が悪くなる人が続出したそうだ」
そういう芦沢もどこか顔色が悪そうに見える。
「何でも鑑賞中に倒れた人もいるとか聞きましたが」
「倒れたのは年寄りばかりだったけどな」
「年をとると刺激が強いものはだめなんですかね」
芦沢はため息をついた。坂口はそれが自分の発言に対するものか分からなかった。
「この絵が描かれたのは昭和二十年の正月らしい。作者の橡健介は元々躍動感溢れる明るい絵で有名だったのがこの絵を契機に画風が全く変わってしまっている」
この絵にまつわる不吉な噂は坂口も聞いていた。見れば不幸になると言われ、逆にそれが評判を呼んだがそれに比例して美術館に苦情が来るようになったため、やむなく展示を中止することになった経緯がある。
「なんでそんな時期にこんな絵を描いたんだろう、と普通は思うよなあ」
「戦争中ですよね。橡って戦争画でもかなりの物を書いてたんじゃないですか」
「橡はこの絵を最後に戦争画を辞めた。これは彼の最後の戦争画だったんだよ」
「でも、ここに描かれているのは神社で、戦いの場面じゃないですよ」
「橡は本当は戦争画なんて描きたくなかったんだ。事情があって描いていたが、彼の絵を見て気分が高揚し、戦地に赴くものも少なくなかった。それをとても後悔していたそうだ」
坂口は戦争中、神社がどういう位置付けだったのかを思い出していた。坂口の祖父も戦争に反対したことで酷い目にあったと幼いころ良く聞かされたものだった。
「思うんだが、倒れた年寄り達はあの当時何らかの形で戦争に加担していたんじゃないかな。何人かの口から、俺が悪かった、許してくれという言葉が出ていたし」
芦沢は続けた。
「この絵を見ていると唸りのようなものが聞こえるという。ほら、お前にも聞こえないか」
言われてみればさっきから何かざわめきのようなものを感じていた。坂口はそれが身体にまとわりついて離れないのではないかと思い、ぞっとした。
「橡はこの絵に呪いを込めたんだよ。戦争で無念に命を落とした人たちの怨嗟を」
視線を絵に戻した坂口は、はっとした。誰もいなかった筈の神社に人影が集まっている。
見るたびに人が増えてゆき、神社の前に押し寄せていた。
芦沢と坂口は絵の前で直立不動で立っていた。姿勢を正さずにはいられなかった。
坂口は、何故か人影の中に見知った顔があるような気がした。
贄の女(39)
「ちょっと待て」
握り締められたナイフの雨がわたしに振りそそごうとした瞬間、声が響いた。
声の主は先頭にいた雨宮祥蔵だった。後ろを向いて両手を広げ、皆の動きを制している。
「何か匂わないか」
「匂うって」
「そういえば、甘酸っぱいような香りがさっきからうっすらと漂っているような…」
雨宮の問いにざわざわと反応が広がっていった。
わたしはそのとき覚悟を決めていたのだけど、どうも周りの動きがおかしい。
「甘酸っぱい…」
雨宮は皆に下がっているように言うと一人で近づいてきて、くんくんとわたしの匂いを嗅いだ。
途端に雨宮は顔を思いきりしかめ、手に持っていたナイフをぽろっと落としてその場に立ち尽くした。体が震えている。
「祥蔵さん、一体どうしたんだね?」
「早く始めようよ。ここまで待たされたんだ。もう俺たち待ちきれないぜ」
「どうしたんです。早く始めませんか。何突っ立ってるんですか」
雨宮はゆっくりと皆のほうに振り向くと、ぼそっと呟いた。
「…だよ…」
周りは一瞬しんとしたが、すぐに罵声が飛んだ。
「何言ってんだよ、早くしろよ。俺らが何の為にあんたに高い金払ってんのか分かってんのかよ」
雨宮はうつむいた顔を上げて周りをにらみつけた。
「失敗なんだよ!」
途端に周りから雨宮を非難する声が乱れ飛んだ。
「どういうことさ。失敗って」
「何が起きたのかちゃんと説明してよ、ええ?」
雨宮がこぶしを震わせている。怒りが頂点に達しているようだった。
「やかましい!今から説明するから騒ぐんじゃない」
雨宮が怒鳴ると,周りは急に静かになった。やはり彼に敵うものはこの中にはいないのだ。もしかすると助かるかもしれない。わたしは落ちついて状況を観察することにした。
「毒抜きはしていた筈なんだ…。毎日順調に値も下がっていたし…」
それって生贄が毒を持っているってことですか?と質問が飛ぶ。
雨宮は忌々しげに「そうだ」と答えたあと、はっとしたように周りを見まわした。
「加藤は?加藤はどこへ行った?」
加藤…?満江さんのことだ!
さっきまでいたのにいつのまにか姿が消えている。
満江さんがその場にいないことを知ると、雨宮は唇をかみ締めた。
「くそっ、あの女に諮られた!」
何のことか説明しろよ!と罵声が飛ぶ中、雨宮はそれを無視してエリカの檻に走って行った。エリカを檻から引きずり出して猿轡をはずした途端、雨宮が「やられたっ!」と叫ぶ。縛られたままのエリカの腹を蹴ると雨宮は口を抑えてまたこっちに走ってきた。
エリカはおなかを苦しそうに曲げながら、涙を浮かべて咳き込んでいた。なんて可哀想なことをするのだろう?エリカやわたしが何をしたって言うの?
「俺たちはあの女にだまされたんだ。こいつらの毒抜きが済んだというのは嘘だ。データも全部でっちあげだったんだ」
叫びながら雨宮は横にいた医者の斎藤の顔を思いきり横から殴りつけた。斎藤は吹っ飛んで机にぶち当たった。倒れた斎藤がうめいているのに執拗に腹を蹴り上げる雨宮の目つきはもはや正常じゃなかった。
はっと我に返ったかのように羽佐間がハンカチを鼻と口に当てながら出口だ!と叫ぶ。
「早く出ないと間もなくこの部屋はキメラの体から出るガスが充満してしまうぞ!」
叫ぶと同時に入り口に突進した羽佐間は力いっぱい扉をひっぱった。だが、がちゃがちゃと音をたてるだけで扉はびくともしなかった。
「閉じ込められた!」
何だって?!
部屋の人間達がドアに殺到する。しかし幾ら引っ張ろうが体当たりをかまそうがびくともしない。
雨宮一人がぐったりしている医者を尚も蹴りつづけていた。
「お前がちゃんとしないから、お前がちゃんと見ないからこうなるんだよ!」
雨宮の耳にはこの会場の騒ぎも聞こえないようだった。
「裏口だ!」
再び思い出したかのように叫ぶ羽佐間。
彼らが裏口に向かおうとしたとき、扉が開いた。
扉を開けたのは、満江さんだった。
「見苦しいわねえ。あゆみちゃんやえりかちゃんの命なんてなんとも思ってないくせに、自分の命にはそんな一生懸命になっちゃって」
満江さんは二人の女の子を連れていた。二人ともわたしやエリカにそっくりだった。
「お前、そ、それは…」
「この子たちもパーティーに呼ぼうと思って連れてきたのよ。あんたたちがどんなひどいことをやっているか見せるためにね…」
一人の「わたし」がすっと扉を閉め、満江さんを挟んでもう一人の「わたし」と反対側に立った。
「お前、そんなことをして只で済むとでも思ってるのか」
羽佐間が満江さんに向かって殴りかかったが、逆に殴り返されて後ろに飛んだ。
満江さん、強い…
「かなりいい空気になってきたと思うわよ、キメラが五人もいるんですもの。ほら、身体に力が入らないでしょ」
そういえば、さっきからみんなの動きがぎこちないと思った。この部屋は一番換気が悪いもんねえ、と満江さんが笑う。
「みんな、さっきから興奮してるし、呼吸量も増えているものね。どんどん綺麗な空気は無くなっていってるわよね。いっぱい毒を吸って早く死んでね」
にっこりと微笑む満江さん。
「こんなことをして、お前だって死ぬんだぞ?」
あなたって最後までバカねえ?
満江さんが羽佐間に向かって笑う。
「キメラは五人っていったでしょ?」