「時は流れない。定まった時の中を人間が流れるのだ」という格言があります。

確かに時間というのは定まったものです。1日は24時間、一月は30日か31日か28日(4年に一度は29日のときもありますが)、1年は365日かこれも4年に一度ですが366日と決まっています。

「今月はあっという間に過ぎてしまった」と言う人も「今月はなんだか日の過ぎるのが遅かった」と言う人も過ごした時間は同じなのです。

となると、時間の過ぎるのが早いと感じるか遅いと感じるかはその人が定まった時間の中でどう生きてきたかで決まるものではないでしょうか。

好きな人とのデート、気の会った仲間との食事やおしゃべり、楽しい旅などはあっという間に時間が過ぎます。厭々やらされている仕事、することもなく無聊に過ごす一日、病院のベッドで寝たきりなんてときはなかなか時間が過ぎてくれません。

東北をおそったあの震災から1年余が過ぎました。「早いものですな、もう1年が過ぎたんですね。その割には復興が遅々として進みませんな」と嘆く人も居れば「この一年は一生に匹敵するくらい長かったです」とつらかった思いを語る人も居ます。

瓦礫の処理すら一向に進まない現状にいらだった思いでいる私なんかにしてみれば「もう1年もたってしまったんだぞ。こんな調子だったら2年、3年なんてあっという間じゃないか」と言いたくなります。

子供の頃よく母親に「せないかんことはちゃっちゃとしなはれ」と叱られたものです。

どうもこの「ちゃっちゃとする」ということが震災復興にしろ政治の世界にしろ昨今なおざりにされているような気がします。

しなければならないことは手早く決断を下して手早く実行することが時間の無駄遣いをなくし定まった時間の中を中身のある流れ方をさせるんじゃないでしょうか。

我々は時間という河を流れる水ですな。激流となって流れるか、ゆるやかな大河となって流れるか、濁流となるか清流となるか、いずれにしろ最後の海へ着くまで精一杯の流れ方をしたいものであります。


神武天皇が即位したのは高千穂ではなく大和橿原の宮でした。記憶違いでした。高千穂の嶺は天孫降臨につながる神武天皇の出身地です。

2月11日は何の日?と問えば大抵の人は「建国記念日」と答えます。中には「何の日だったっけ」と言う人も居ます。「紀元節」と言う人はさすがにいなくなったようですが。

実は2月11日は「建国記念日」ではないんですね。正しくは「建国記念の日」どっちでもええやないかと言われそうですが実はこの「の」の一字が問題なのであります。

そもそも昭和20年の終戦まではこの日は「紀元節」とよばれていたことは年配の人ならご存知。私なども小学校の頃に学校の式典で”雲にそびえる高千穂の高嶺おろしに草も木も・・”なんて紀元節の歌を歌わされ、紅白の饅頭をもらった記憶があります。

日本書紀という神話によると、日本の最初の天皇である神武天皇が高千穂で即位した日が紀元前660年の1月1日でこれを明治政府が新暦に直すと2月11日であるとのことから建国記念日とし紀元節と定めたものであります。つまり日本の歴史は紀元前660年1月1日からはじまったということにしてしまったんですな。

ですから今年は西暦で言うと2012年ですが日本暦(紀元暦)では2672年になるわけです。

そういえば昭和15年(1940年)が紀元2600年に当たるというんで国中で祝賀行事があったような気がします。

”紀元は二千六百年・・・”なんて歌も歌った気がします。

終戦と共に「紀元節」はなくなりました。アメリカの意向で「天皇制に基づいた建国記念日は認めない」といことです。

その後20年間日本には建国を祈念する日が無かったんです。建国記念日を設けることには異論はないがそれを何月何日にするかで意見が分れ論議は10年あまり続いたのでした。

そもそも神話と言う曖昧な事実的根拠の無い記述に基づいての決め方はおかしいではないか、第一神武天皇の存在すら事実とはいえない、しかも紀元節を復活させるのは天皇制の復活つまりは軍国主義復活につながるというのが2月11日に反対する人々の論拠です。

確かに諸国の建国記念日をみてみるとそれぞれその日と決めた根拠がはっきりしています。

アメリカ合衆国の7月4日は独立宣言に署名した日、フランスの7月14日はバスチーユ牢獄を開放してフランス革命が起こった日、ドイツはベルリンの壁が崩れて東西ドイツが再統一された日、中国は毛沢東が天安門広場で建国宣言を行った日、などだれもが「成程この日だったんだ」と納得できる歴史的事実に基づいた日です。

いっそのこと日本が大きく変わった8月15日がふさわしいのでは、いや明治維新が成功した大政奉還の日は、などの意見が出るのもむべなるかなであります。

とどのつまりようやく2月11日ということに決まったのですがこの日は「建国の日」ではなく「建国を記念する日」という分ったような分らんような理由で「建国記念の日」と定められたわけです。

いってみれば何月何日でも構わないのですが紀元節にこだわる人々とそれに反対する人々との折衷はかるといういかにも日本的な解決策として「建国記念の日」という「の」の字が入ったのです。

「建国を祈念し国を愛する精神を涵養する日」だそうですが愛国心の薄れきった今の若者たちにとってこの曖昧な記念日はどんな意味をもっているのだろうか、ちょっと考えさせられます。

十日戎の日に近所の戎神社に参詣。参詣客の群れに押されるような足取りで本殿をくぐり抜けようとすると入り口の両脇に神官姿の青年が立っていて手に持った御幣で参詣客にお払いをしてくれています。頭の上でお払いを受けながら本殿に入っていくわけですが、そのお払いに身が入っていないこと甚だしいのです。

生あくびをかみ殺しながら片手で御幣をもちおざなりに打ち振り空いた片手で首筋の辺りを掻いたりしておりましてなんの有り難味もありません。

長時間立ちっぱなしで延々と前を通る参詣客にお払を続けるのは実に単純作業で疲れるんだろうなとは思いますがこちらは今年一年少しでも良運を授けてもらおうと多少なりとも真摯な気持ちで本殿にむかっているんです。

「いい福が授かりますように」くらいの声をかけてくれてもよさそうなものですがあのだれきったなげやりなお払いはないだろうと思いましたな。

あんなお払いを受けたせいでかえって今年の運が逃げてしまうんじゃないかと心配しております。

多分アルバイトで期間中だけ雇われたのだと思うのですがそれなら尚のことまじめに働けといいたくなります。

お参りのあと福笹を買いましたがこちらはこれもアルバイトだと思うのですが元気な可愛い女の子。一番安い笹を買ったんですが「福さずかりますように!」と笑顔で声かけられて先ほどの身の入らないお払いへの怒りも少しうすれました。

昨今の風潮はどこの職場でも若い男より女の子の方がはるかに元気とやる気があるということです。

恋人同士でもデートの行き先食事のメニューなど殆んどを女性が決めて男は唯々諾々と従っているというのが多いようです。おまけに勘定だけは男が払ったりして、草食系というんですかこれから先日本の国はどうなるのか心配この上ないのですが。



去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの。私の好きな高浜虚子の句ですが、暮から正月にかけてのあっという間の年の改まりの速さは正に一本の棒で突き刺されたようです。

若い頃は年の初めには「よし、今年は去年やり残したあれをもう少し頑張って形のあるものにしてやろう」なんて決意めいた感慨に耽ったりしたものですが、最近はまず「去年やりのこしたもの」がない。したがって「今年はこれを」というものがない。要するに貫く棒がないのです。

「幾つになっても新しいものへのチャレンジを」なんて人は簡単にいいますがそう簡単にチャレンジ精神なんて湧いてくるもんじゃないです。

なにか新しいものにチャレンジするなんてことはある程度の気力と体力が要りますからね。

ところがその気力とか体力ってやつはいったん落ち始めると初心者のスキーヤーの直滑降みたいなもんで止まることが出来ない。行き着くところまで滑り落ちるか途中で転倒して骨折か悪くすればそのままあの世行きです。

どこかでありったけの技術を駆使して制動をかけて上へ向かって歩く努力をしなければいけません。

とりあえず転ばないようにだけは気をつけて平坦なところまで滑り落ちたらそこからリフトにでも乗って、なんて横着なこと考えてるもんですから暮れであろうが正月になろううが無為の時間を過ごしっぱなしでありました。

横並びのロクデモないテレビ番組をみて「俺もかつてはこんなくだらない番組を作っていたのだろうか」と肌寒さを覚えたり「いや我々の世代はもう少し中身のあるものを作っていたぞ」と自負めいた回顧と共にチャンネルを回したりの日がな一日でした。

かろうじて少しばかり見入ったのが「箱根駅伝」かな。それも母校の早稲田が上位で奮闘してくれたからで終盤は東洋大のぶっちぎりでがっかり。

それにしても規定時間を過ぎたチームはたすきも受けずにスタートするなんてルールに疑問を感じたのは私だけなんでしょうか。どんなに遅れようが次の走者にたすきを渡していくのが苛酷だけれど公平な駅伝のルールではないのでしょうか。

まさか交通規制の時間的な問題とか、大相撲の取り組みみたいにテレビの放送時間に合わせたものじゃないでしょうな。

誰か私を納得させる説明をいただけませんか。

1位でゴールを駆け抜けようが健闘むなしく20位に終わろうが10人の選手が順番どおりの時間で区間を走りぬいてたすきを受け渡していく姿に我々は感動するのですがね。


日本の政治家たちのだらしなさについては今更いっても詮無いことなんですが、つい最近もそのことを感じさせられる光景を見ました。

橋下大阪新市長が中央政界へのあいさつ回りを行った際に各党トップクラスの面々がこぞって橋下市長を歓迎。歓迎ならまだしもどうみても新市長にすり寄ってるとしか思えない光景には唖然とさせられました。

いやしくも国政をになっているはずの国会議員のそれもリーダーたる立場にいる人たちが、いかに大都市とはいえ地方都市の新人市長に接するあれが態度かと思えば情けない思いをさせられたのは私だけでしょうか。

橋下氏の説く大阪都構想を基盤とした地方主権に「我々も同じ思いだ」なんて追従するのだったら何故選挙の時に橋下氏を前面支援しなかったのか。政治家のいい加減さをまたまた垣間見ましたな。

圧倒的な得票(といっても選挙民の60%のうちの更に60%の得票なんですが)を勝ち取った橋下人気に逆らっては今後あのラジカルな言動の矢面にさらされる、今のところはこの若僧によいしょしとこうかという打算も感じ取れました。ですから、あいさつ回りのあと橋下氏が「いつ騙されるかわかりませんからね」といっていたのには思わず笑ってしまいました。

そこまでみすかされ、なめられて怒らないのですかねえ。

「地方の首長は教育について語るなと言うことか。首長をバカにした決定だ」と高木文科大臣に噛み付いていましたが、政府の答弁書は首長と中央行政との権限の違いを述べただけで首長をバカにしたものでは決してないはず。そんな極端な表現は橋下氏独特のキャラなんだから教育行政のトップたる文部科学大臣がオタオタした返答するなって。

「維新の会がなんぼのもんじゃ」と一人でも言ってくれる政治家がいれば(本当は心のなかで思っている人は居るんでしょうが)面白いのですが。

それにしても大阪市長への歓迎ぶりだけがヤケに目だって肝心の大阪府知事への対応はどうだったんでしょう。確か一緒にあいさつ回りの上京だったはず。まさか知事が市長の随行員を勤めたんじゃなかろうに。

先日認知症のテストを受けました、いえ受けさせられました。

道路交通法により運転免許更新時に70歳を超える人達には「高齢者講習」の受講義務が課せられています。

この講習を受けないと免許の更新が出来ないのです。

講習は近所の指定された自動車教習所へ行って受けます。いつ行ってもいいというわけではなく自分でしかるべき教習所に連絡を取り、決められた受講日に出向くわけです。

受講者の中で75歳を越えたいわゆる後期高齢者には認知症のテストが加わります。

受講料が6000円(内500円が認知症のテスト代です)

「なんで俺が認知症のテストなんか受けなきゃならないんだ。今のところそんな傾向はこれっぽちもないぞ。馬鹿にするな」と思っていたら講師の係員曰く「高齢になると自分では気がつかない間に認知症が進んでいる方がおられます。そのためのテストでしてこのテストで認知症の傾向が見られた方は医者の診断をうけてもらうことになります」

「ということはひょっとして俺も気がつかない間に・・」と少しびくついた気持ちで受けたテストがやっぱり「馬鹿にすな!」といった内容でした。

「今日は何月何日何曜日ですか」[時計の文字盤を書いて長針短針で1時45分を書いてください」とか16種類の色んな絵をみせあと「なんの絵がありましたか思い出すままに書いてください」といったもの。

介護認定を受けるために介護士さんの質問の途中で「馬鹿にするな」と怒り出す方がよく居るそうですがその気持ちがよくわかりました。

認知症テストのあとが視力検査(これはわかります。年とともに動体視力が衰えたり視野が狭くなってきているのは自覚もしていますから)。そしてゲームセンターでのシュミレーションゲームみたいなもので反射神経やハンドル操作のテスト。そして最後が教習所のコースを実際にハンドル握って走らされます。

以上のテストの所要時間が約4時間。

実は私「テスト」といいましたが正確には「テスト」ではなくて「講習」なんです。ですからこの結果どんなに点数が悪くてもとんでもないへたくそ運転をしようが多少の注意をうけるだけで免許の更新が出来ないわけでもなんでもないのです。

高齢者の事故が増えてきている昨今の対策として決められたものなんでしょうがこんな内容の講習でどれだけ高齢者の運転技術が向上するか非常に疑問を感じた次第であります。

百歩ゆずって講習を行うのはいいとしても国が義務付けて行うものなら6000円の受講料は高すぎるのでは。

自動車教習所が国とつるんで儲け仕事に考え出したんではと疑われてもしょうがないです。そしてもうひとつ、

どうしてこの講習を受けたその場で免許更新の手続きをさせてくれないのか。後日受講済みの証明書をもって更新センターへ行かなければならないのは二度手間ではないか。しかも更新のときに又二千数百円の手数料。

これも二重行政の好例でしょうな。

ぼやきながら教習所からタクシーで帰宅し家内に「馬鹿馬鹿しい認知症のテストまでうけさせられたよ」と言ってる最中に肝心の証明書をどこかに忘れたきたことに気付きました。

方々立ち寄り先に問い合わせた揚句タクシーに忘れたことが判明。家内曰く「やっぱりそろそろ認知症のテストは必要なのと違う?」馬鹿にすな!



一年ぶりに何か書いてみる気になりました。3.11の震災以来いろんなことに対しての意欲を失ってしまいました。ちょっと大げさかもしれませんが人の世の無常を思い知らされた災害でした。

人間なんて自分の力で生きているつもりがそうではなく天の力で生かされているだけなんだ。しばらくの間はあれをしよう、これをしようなんて気にならなかったのです。

多くの人達が被災者の方々へ慰めや励ましの言葉を送ったり、被災地へボランティアに駆けつけたり、義捐金を送ったりしているのをみても正直ある種のそらぞらしさを感じたこともありました。

良寛さん曰く「災難に逢うときは逢うがよろしかろう。それが災難から逃れる妙法にて候」。つめたい言い方かもしれませんが所詮人間なんて自然のなすがままに身をゆだねて生きていかなきゃしょうがないんですな。

と思い出すと何をする気にもならない。

このブログしかり。ことさら他人様にお伝えするほどのことでもない身辺雑記を書き連ねる気にもならず年の瀬の今まで過ごしてきました。

たまたま今日は誕生日。せめて誕生日ぐらいはなにか自身のメモリアルみたいなものを残しておこうかと思い出したのがこのブログであります。

とパソコンの前に座ったんですが何を書くか考えているうちに疲れてきました。

そうだ、最近ちょっと腹の立つ納得のいかない出来事があった。それを明日(多分)書こう。

この歳になるとなかなか物事に感動したり手に汗握る思いをしたりすることが少ないのですが久しぶりに我を忘れて応援に夢中になったのが女子バレーボール世界選手権での日本チームの戦いぶりでした。

緒戦のポルトガル戦の逆転勝ちからはじまってすべてが善戦を絵に描いたような試合。特に準決勝戦での世界ランク1位のブラジルを相手に2セットを連取したあとの逆転負けには試合の終わったあとしばらくは虚脱状態でした。

そして最終戦の世界ランク2位のアメリカとの銅メダルを賭けての戦い。今度は2セットをとられてからの逆転勝利。こんな息づまる思いでスポーツの試合をみたのは久しぶりでした。

胸のすくようなアタックもさることながら、床上数センチ(にみえる)のところでボールを拾い上げてアタックに繋げる神業のようなレシーブ(特に竹下選手の小柄ながらの技)は正に「鳥肌もの」でした。

野球、ゴルフ、水泳、スケート、柔道、体操、etcスポーツ界での日本は今堂々と世界の国とわたり合ってその力を発揮しています。それに引換え日本の政治、特に外交の情けなさには怒る言葉さえみあたりません。

日本がホスト国だった先日のAPECでの首脳会談では今もっとも力を入れて話し合わなければならない中国の胡錦涛主席とはわずか20分のとても会談とはいえないもの。

20分というのは互いに通訳を介してですから正味10分程度の会話じゃないですか。何を話したんでしょう。尖閣の「せ」も話せなかったと思いますよ。

ロシアのメドベージェフ大統領とは40分、一番の友好国であるはずのアメリカのオバマ大統領とも1時間の会談。それでも菅首相はホスト国のホストといえるのだろうか。

バレーボールの選手たちは中国、ロシア、アメリカを相手に2時間を超える丁々発止の勝負を繰り広げたのですぞ。

オバマ大統領も鎌倉まで抹茶アイスクリーム食べに行く時間があるのだったらもっと菅さんと話しこんでほしかったし、それが出来ないのなら広島へ行ってノーベル平和賞受賞者の核廃絶のためのサミットに参加してほしかったですな。自身が直近の平和賞受賞者で核廃絶を訴えたばかりじゃないですか。

鎌倉で抹茶アイスなんて菅さんが「ちょっと待っちゃ」をかけなきゃ。


プロ野球日本シリーズはロッテvsドラゴンズということになりましたがなんとも盛り上がりに欠ける対戦になってしまったなというのは我々関西の野球ファンだけじゃないような気がします。

地元の名古屋でも東京でもさほどの熱狂的ファンが多くいるとは思えませんからね。

聞くところによると日本シリーズ第1戦はテレビ中継が東京大阪の地上波の局では見られなくなりそうだとか。視聴率が期待出来ないという放送局の思惑もあってのことなんでしょうか(確かに私なんぞはまったく見る気がしません)。

なおさら盛り上がりませんな。

日本シリーズに勝ったチームが日本一というのもなんとなく釈然としません。

ドラゴンズが勝って日本一というのならともかく、ロッテはパリーグのリーグ3位ですからね。それも最後まで日本ハムと4位を争っていて最後の最後でやっと3位になったチームです。

もしドラゴンズに勝って日本シリーズ優勝しても「俺たちが日本一と威張っていいものだろうか」という内心忸怩たるものがあるんじゃないでしょうか。

「7ヶ月にもわたって144試合も戦ってかろうじて6チームの中の3位になったチームがクライマックスシリーズと日本シリーズあわせてわずか10試合ほどの戦いで勝ってセパ12球団のトップ、日本一だといっていいものだろうか」という思いを、私がロッテの選手ならもちますな。

ドラゴンズにしたって優勝しても「相手がソフトバンクスなら大きな顔して日本一だといえるんだがな」という思いがあるはずです。

「クライマックスシリーズ」なんていかにも盛り上げようというネーミングですが要するにプレーオフ。

プレーオフというのはどんなスポーツにしろ最後まで争って同点、同率、同スコアーの場合にやむなく決着をつけるために行うプレーのはずです。144試合も戦って厳然たる順位が決まっているのにもう一度上位3チームで1位を決めろというのは年間144試合のリーグ戦は何のために戦ってきたんだということになりませんか。

日本一を決めるのが日本シリーズなら当然セパ両リーグの優勝チームが争うのが正当じゃないですかね。

シーズンの終わりにもう一盛り上げしたイベントでお客を集めたいというならネーミングは「クライマックスシリーズ」でもいいから、たとえばセパ両リーグの上位3チームの6チームでの総当りリーグ戦をやったらどうですか。日本一という目標はない代わりに賞金総額10億円、優勝チームの賞金3億円てなことになれば各チームはハッスルすると思うんですが。

3億の賞金を選手全員で山分けということにでもすれば中には年俸よりも沢山の実入りになる選手も出てきたりして。

ゴルフでも賞金総額1億を超えるんですから観客動員数から考えたら10億は出せると思うんですがね。