時代が移り変われば、考え方や価値観は変わる。

変化は大概、良くも悪くも刺激をともなうから、

歓迎する人もいれば、拒絶する人もいる。





いずれにせよ、

戸惑いや違和感は味わざるを得ないし、

そういった感情の揺らぎが、

後押しとなったり、

モチベーションとなったりするわけで。





社会といった大きな世界にて、

これまでの仕組みや枠組み、ルールや流行は変わる。

個人といった小さな世界にて、

同様に、いろいろなことが変わっていく。

ある程度の年月を経たあとで振り返ると、

そうした【変化】は、

当然のように起きて、

当然のように拡大し、拡散し、

いつしか当たり前になっていき、

スタンダードになっていく。





とはいえ、

そうした時代の変化という【うねり】の、

渦中にいる人、渦中にいる時、

そんな大局を眺めるような、俯瞰するような、

そうした心持ちではいられない。





冷静に落ち着いて構えていられるタイミングでは、

一時的に、そうした高い視点(視座)で

観察することは可能だし、

可能であるなら、

そんな観察タイムを今後も取ろうと試みるだろう。





けれども、

基本的には、

【そんな悟ったかのような考え&心持ちを維持しつつ日常を送る】

なんてことは難しいものです。

無理ゲーです。




 




変化の兆しが垣間見えたなら、

戸惑います。違和感を覚えます。

これまでとは違う何かを感じます。

私達の人生において、

就職や結婚などの、

転機となるようなイベントごとでさえ、

いろいろと気持ちがうごめくのです。





私達個人という単位ではなく、

時代という単位で訪れるのならば、

それはもう、お手上げです。





これまでと同じ考えでは、

何かと不都合が生まれるでしょう。

私達自身も、少なからず変わらねばなりませんから、

そこには葛藤も、不快感も、憂鬱さも生まれます。





そしてそれは、

もちろんあなただけのものではなく、

誰にとっても訪れます。





私は…

揺らぎ、葛藤し、

時に歓迎する変化はあるけど、

拒否したいほどの事柄だってあるかもしれない。


あなたは…

揺らぎ、葛藤し、

時に歓迎する変化はあるけど、

拒否したいほどの事柄だってあるかもしれない。


見知らぬ誰かも…

揺らぎ、葛藤し、

時に歓迎する変化はあるけど、

拒否したいほどの事柄だってあるかもしれない。





みんながみんな、

変化のうねりに巻き込まれる。

時代という大きな単位での変化は、

つまり、そういうことです。





ただ、そこには【グラデーション】があります。





揺らぐ度合いと、

揺らぐ方向性のグラデーション。

要は、

どのように感じ、

どれくらい感じるのか。





大小さまざまな波があって、

それらが目の前に起こるタイミング。

要は、

変化の兆しはいつあって、

変化を促されるのはいつなのか。





それらは人それぞれなのでしょう。

早めの変化を促される人もいれば、

大多数とともに変わる人もいれば、

遅めの人もいるでしょう。

そして、

時代の大きな変革の時期が、

そろそろ訪れる、あるいは、すでに訪れている。

今は、そういうタイミングと言えます。





変化と聞いて、

ポジティブよりもネガティブに

捉えてしまう人が多いのは、

生命の維持を根幹とする

我々人類として当たり前のことかもしれません。





ただ、「変化が起きやすい」ことと「怖い」ということは、イコールではありません。

結果的にそう感じる、

という繋がりはあるでしょうが、

全部が全部、そうではありません。





見通しを立てにくい変化は怖いものです。

未知というのも怖いものです。

けれど、これまでの人生、

そうした恐怖は、程度はどうあれ、

日常的にあったはずです。





私達は成長する存在です。

成長とは、変化をともなっています。





時代の大きな変革であっても、

私達は、これまでと同様に、

少しずつ、たまには2段飛びで、

進んでいくわけです。



 


- 新しい器 -





変わりたい!

変えたい!

と願っても、

なかなか進まなかった過去があったとして、

この度のタイミングでは。

時代という大きな波が、

後押ししてくれる、とも捉えられます。





これまで通り、いえ、これまで以上に、

安定を求める動きであるならば、

時代に尻を叩かれるような、

そんなことも起こるかもしれません。





けれど、変化の流れに乗るならば、

大きなサポートがあるようにも思いませんか?





戸惑い、違和感を覚え、

最初は拒絶したくなる。

けれど、心を落ち着ける時間にて、

少しずつ受け入れていく。

すべてを拒絶することなく、

すべてを受け入れる必要もなく、

揺らぎつつ、少しずつ少しずつ、

選択していく。





あなたの近くにいる人も。

見知らぬ誰かも。

そうした揺らぎの中にいて、

うねりの中にいます。





だから、

自分以外の人も、ある程度、大目に見てあげてください。





そして、

自分自身をも、大目に見てあげてください。





【変化しなければいけない時期】

ではなく、

【変化しやすい、後押ししてくれる時期】

と捉え、

変化そのものを

味方につけていきたいですね☆

コツコツと積み上げてきたもの。

繰り返し試してきたこと。

成功を目指して失敗し続けてきたこと。

度重なる軌道修正をしていること。





いわゆる試行錯誤は、

誰しもが、日常的に、行っています。

「今日も試行錯誤していこう!」

みたいな意気込みは無くとも、です。

意識的にやっているかは置いておきます。





今が平凡なら、満足な日々を。

今が退屈なら、より楽しく心震えることを求めて。

今が不幸なら、少しでも幸福に近づけるような。

今が絶望なら、掴めるワラや糸はどこかと。





 





現在位置と目的地は違えど、

より良い時間、より良い日々を求めて、

広い意味での「試行」「挑戦」「思案」が、

頭の中でも、心の中でも、動いているはずです。

あるいは、

そうしたいけど出来ない!という「葛藤」

といった面も含めて。





目指す場所が、

「平凡さ」であっても、

「特別性」であっても、

「幸福」であっても、

「満足」であっても、

やはり私達人類が求めているのは【成長】です。





「成長なんてしなくていいから、現状維持で」

という声があるかもしれません。

今が厳しすぎると、幸福よりも、

まずは安定や平穏を求めてしまうので、

それはしょうがないことです。

ただ、冷静に考えてみると、

(例えば他人事のように)

現状維持するにしても、

【ある程度、または、ある方向性の成長】

は必要でしょう。





現状・環境・体調などで、

頭と心は左右され続けますが、

根本的に私達は、成長を渇望し、歓迎し、喜び、尊ぶ…

そんな存在だと思うのです。





【成長】に紐づくこととして、

【拡大】や【変化】があります。

どちらも文字通りですが、

【その2つは目的ではない】

という点は重要です。

意外と知られていないというか、

ちょっとした盲点になり得る、と言えます。





拡大や変化は経過あるいは結果です。

広がっていく、広がった。

変わっていく、変わった。

というように。

「私は変わっていかなければならない」

「私は変わりたい」

その向上心やモチベーションは良きものですが、

「なんでもかんでも変われば良い」

「とりあえず変われれば良い」

という安易な真意ではないでしょう。





「○○になるため」

「○○を得るため」

「○○を達成するため」

何らかの目的(あるいは目的地)があって、

今の自分が、

今までのやり方、思考、習慣では、

到達出来なさそうだから、

「じゃあ、変わらなければならないな」

「じゃあ、変わりたいな」

という変化を求める思考になったはずです。





まず願望があり、

達成するために、

変化や拡大を求め、

舵をきる。




 


-生まれ出たもの-





成長も、見方次第では、

これらと同じように解釈できますが、

意味合いは異なってくると思います。

成長という言葉はもっと広く、

経過にも結果にもなるし、

目的にもなり得ます。

【あらゆる面で、自分を成長させていきたい】

そんな文言が成立しているように。





変化しようという心持ちは、

決して悪いものではありませんが、

一歩、自分の奥に踏み込んだ時、

「なぜ変化しようと思っているの?」

に返答できるか否か。

曖昧でもかまいませんが、

何かしらの目的や願望があってのことなのか、

という点は、おおいに重要になってきます。





目的地は、ある意味で未開の地。

少なくとも、自分自身にとっては未開拓なので、

「あれはこうして、ここをこうして、次にそれを…」

なんてことが、

出発段階からわかるとは限りません。

行ってみなければ、

進んでみなければ、

踏み込んでみなければ。





なので、

変化したい気持ちの奥底にある願望が、

必ずしも明確でなければならない、

なんてことは無いです。

細部まで決めている必要はない、ということです。





とはいえ、

ざっくりした青写真はあるはずです。





もし無いならば、

あるいは、

単語ひとつで終わるような願望ならば、

それは、あなたの願いでは無いでしょう。





単語ひとつで終わるような願望というのは、

例えば、

「幸福」「満足」「安定」「充実」「平穏」など。

どれも単語ひとつです。

それが願望だと言うならば、

今のうちに、もう一歩でも二歩でも、

自分自身の奥へと踏み込んだ方がよろしいかと。

【幸福とは何でしょう?】





とはいえ、例外もあります。

「願望も何も、よくわからないから、とりあえず動いていみる」

という指針の場合です。

八方塞がりとか、

押しても引いてもびくともしないとか、

そういう場合、

「とりあえず変化してみる」

という、

変化すること自体を目的にすることが成立しています。

意識的に動くことで、

願望や、打開策や、案などが

生まれてくるかもしれません。





【願えば叶う】

数々の書籍、多くの人達が、

手を変え品を変え、

言葉を変え表現を変え、

しかし、同じようなことを言っています。

やはり、これは真実の一端ではあるのだと思います。





ただ、そうは言っても、

なかなか納得のいく答えを得られていない人も、

また数多くいるように思います。





とはいえ、願望は持つに越したことはないです。





いつだって、

私達を激励し、どん底から這い上がらせてくれるのは、

希望であり願望です。





叶うか、叶わないか。

それは確かに重要ではありますが、

願望を持たずして、叶う叶わないも無いです。





それに、きっと、

【願ったすべてが叶っているわけではない】

でしょうが、

【願った幾つかは叶っている】

はずなのです。





冷静に、

落ち着いて、

他人事として、

親友からの相談事として、

そんな視点でしっかりと眺めてみれば、

【願って、そして、叶ったこと】が、

きっと見つかるはずです。





そしてまた、願っていきましょう。

そうやって見つけたように、

次の願いも、叶うかもしれない、のですから。

卵が孵化し、成長し、いつかは大空を舞う。

鳥になぞらえると、そんな過程を辿るわけで。

「一歩一歩、少しずつ」とも言えるし、
「一つずつ階段を越えて」とも言えます。
着実に、という単語の通りです。




それは私達にも当てはまるのでしょうか。
もちろんイエスでしょう。
積み重ねた努力は、いつか身を結ぶ…
それは昔から言われていることですし、
時代が変わった今も、定着して存在します。




ただ、
努力すればなんでも良いのか、
努力さえすればなんでも叶うのか、
というと、そういうことでもないのでしょう。




 

- 飛翔 -




努力の方向性や目的地(ゴール)の設定。
そして私達自身との一致度合い。
幾つかの要素、というより、
あらゆる要素が混じり合って、
うまい具合に噛み合っている時、
最短で、最善で、理想に近い、
そんな未来に到達出来るのかもしれません。




「理想論で夢物語でしかない!」
これまで努力が結ぶような経験が少なかったり、
理想とはかけ離れた結果が現れたり、
ただひたすらに走ってきた人の中には、
そのような言い分となり、




「努力すれば叶う、なんてことは一握りの人間だけのもの。私なんかには当てはまらない」




と辟易し、結論づけてしまう人もいるかと思います。
そうなると、努力は無駄だと断じてしまい、諦め、
他者に当たったり、押し付けたり、
程度はどうあれ、そんな風に発展することも。





かくいう私も、そんな辟易していた時期はありました。
自分と向き合うという視点(発想)は、
例えば就職を前にしての自己分析など、
学生の中で、あるいは社会的に、機会はあったはずです。
しかしながら、どこか表面的というか、
頭で考えた「理想的な自己分析」
でしかなかったなと思っています。




自分と向き合うという視点に立てたのは、
心理学やスピリチュアルに出会ってからです。
もちろん、当時は甘々でしょうが、
それでも、入口には立てた。
意思を持てた、と言えます。




日常的とはいかずとも、
【自分と向き合う】ことは、
自分を知るという意味でも、
日常生活を送る上でも、
必須事項であろうと感じています。




自分と向き合うことなく、本音はわかりません。
どう思っているのか、どう感じたのか。
本当はどう対応したかったのか。
なぜあの時、自分を出さず、
なあなあで済ませてしまったのか。
抑圧と我慢を続けている理由は?




適切な努力というものがあるならば、
それはきっと、
自分自身の本音に沿っている事柄なのでしょう。




鳥は、空を飛ぶ種において、
例外なく、大空を飛ぶことを目指します。




 




私達は、すべての人が、
大空に憧れを抱いているわけではありません。
大地に根付いた生き方もあれば、
人工物に囲まれるという、かけ離れた生き方もあります。
大海を好む者もいれば、
空を遥かに越えた宇宙に興味を抱く者もいます。




大金を稼ぐことに生きがいを感じる人も、
名声を高めたり、肩書を求める人も。
素朴な家庭で幸せを見出す人も、
一人時間を人生をもって謳歌する人も。




好み、と言ってしまえばそれまでですが、
「みんな同じように」
という教育や生活を送ってきた私達にとっては、
「こうありたい!」
と思う気持ちや形が、
自分自身の意に沿っていないケースが多いでしょう。




むしろ、幼少期から、
【自分の本音というものに、寄り添い、聞き取り、一直線に生きている】
という人が珍しいかもしれません。
ただ、そういう方々が増えてきているような昨今は、
時代の移り変わりと、
その速度が変わってきているのだなと、
そう痛感もしますね。




私は、私の本音を知らない。
私は、私の本音をしっかり聞き取れてはいない。
私は、自分と向き合っているようで、ズレている。
私は、これまでずっとズレていた。




そんな可能性があるものと仮定する。
そういう向き合い方もあります。
これを続けると、自身を否定しているようで、
なかなかに気持ちが沈みますが、
たまに機会を設けるのもありです。




実際、
私達はどれくらい自分のことを知れているでしょうか。
少なくとも向き合っている時間は、
ある程度知れていると仮定しても、
そういう姿勢ではない日常の中ではどうでしょう。
時間はどんどん流れていきますから、
瞬間の出来事も、瞬間の感情も、
次から次へと、訪れ、沸き、そして消えていく。




私は、私のことを、
ほんの少ししかわかっていない。




自己卑下ではなく、
自己嫌悪でもなく、
過度にネガティブでもなく、
自分を責めているわけでもなく。




私は、私のことを、
ほんの少ししかわかっていない。
だから・・・




思い返す度に、その都度、
わかっていないからこそ、
わかろうと思う気持ちを抱く。




初心にかえる。
真摯に向き合う。
謙虚でいる。




そのような丁寧な毎日を送っているかというと、
こう書いている私自身、簡単に頷けるものではなく。
好ましくない出来事や、心や体の不調があって、
ようやく還る視点・姿勢ではありますが(苦笑)




けれど、着実に回数(機会)を積み重ねているならば、
これもある意味「努力」とも呼べるわけで。




だからこそ、
「前はもっとダメージ受けてたよな…」
「あんなに毛嫌いしていたのに、なんか普通だわ」
「あっさりハードル越えちゃった?」
などなど。
日常のことから、非日常のことまで、
なんやかんやと実を結んでいることもある、
ようにも見えます。




実際に、
ハードル越えて飛んだ!!
なんてことがあったので、
人間って、
いつ変わるかわからないし、
どう変わるかわからないけど、
いきなり変わることは無くて。




それまでに準備していた
「変化のための経験値」が閾値に達して、
「目の前に現れた結果だけ見たら、なんの脈絡もなく、
いきなり変わったって言えるかもね」
ということなのでしょう。




いかがでしょう?
大空を舞うための経験値。
貯めていらっしゃいますか。


私達は時折、何かを求めてさまよいます。

人によっては、
「時折」ではなく「常に」
という人もいるかもしれない。
当てもなくさまよう時もあれば、
特定の何かを求めてさまよう時もある。
名前も形もわからないけれど、
答え、あるいは、ヒントのような何かが、
きっとあると信じて進みます。




探索は入口から入り、さまよう。
ゴールは出口とは限らず、
道すがら遭遇する宝箱かもしれない。




- 探索 -



さて、宝探しに来たのではなく、
答えを求めてのさまよいなので、
これはなかなかにネガティブ。




トレジャーハントの物語には、
夢か希望が込められているもの。
歪んでいようが、邪悪であろうが、
探索者が抱くのは、そういうポジティブな気概。




「ネガティブだったら宝が見つからないのか?」
そういうことではないのだけれど、
スタートからゴールまで、
それはそれは苦難の道のりに
なるのではないでしょうか。
少なくとも、【足は重い】でしょう。




求めているものが大きかろうが小さかろうが、
嫌だな…とか思いつつの宝探しは、
どうにもアンバランス。
足は重く、腰が引けつつ、頭は不快。
例えば、
その分かれ道を右に進めば宝が見つかる!
という分岐点に来たところで、
求めているのはきっと、




左に進むではなく、
右に進むでもなく、
立ち止まるでもなく、
引き返したいだけ。




それはつまり、
【求めていない】
のです。




「私は本当に答えを求めているのだろうか?」
これは単純で、当たり前のような
問いかけではありますが、
とても重要な一手です。




現状がどうにもこうにも
上手く行っていないならば、
どうにかしたいと足掻くこともあれば、
嘆くこともあれば、神様に頼りたくもなります。
そんな時、現状打破となる答えを私達は求めます。
それはごく自然な気持ちです。
しかし、
そうしてもたらされる答えがあるのだとしたら、
例外なく【変化】であるはずです。




日常生活にエッセンスを加えるような
【小さな変化】から、
考え方や価値観、環境などを
がらっと変えなければいけない
【大きな変化】まで。




時代の流れというものが目まぐるしい昨今、
激動と呼べるような変化をする人達も、
多くいることでしょう。
変化に苦痛を伴うかどうかは、
人それぞれであり、感じ方それぞれ。
しかしながら、
【これまでとさほど変わらない気持ちのままで】
というのは、
なかなかズレているようにも感じます。




レベル1という小さな変化が起こり。
レベル2、レベル3と、
着実に経験値を上げていき、
ついに到達しました!レベル10!
・・・という、ゆるやかな上昇とは限りません。




レベル1という小さな変化の後、
「やるべき使命があるので、待っていられません!」
と神様が出張ってきて、
いきなりレベル9の課題を
ドンと置くかもしれません。
「大丈夫。10は無理っぽいけど、9ならなんとかクリア出来る難易度だから!」
と、満面の笑みを見せてくれるかもしれません。




強制終了ならぬ、
効率的レベルアップのための強制イベント!
ですかね。




これはまあ、例え話であって、
ファンタジー要素満載ではありますが。
けれど、捉えようによっては、
こんな風に展開されている可能性はあるわけです。




希望に満ち溢れた変化の道のりか。
苦痛をともなう変化の道のりか。
その時々で変わるでしょうし、
希望だけの道も、
苦痛だけの道も、
無いでしょう。




不快、とまではいかずとも。
これまでとは違う選択肢、違う道なのですから、
違和感のようなものは、生まれて当然です。




「私は本当に答えを求めているのだろうか?」
答えを求めての入口も、
進んだ先の道のりでも、
このような問いかけは、
きっと必要になってくる。




入口に入らない選択肢をした場合も、
また時期が来ます。
その時には改めて、
世界はあなたに問いかけるでしょうし、
あなたも自分に問いかけるでしょう。




目を見開き、
見たいものを見るために。






耳を傾け、
聞きたいものを聞くために。




それに、きっと、
あらゆるタイミングが揃った時には、
希望とか、苦痛とか、
そんな諸々を考える必要も余裕もないくらいに、
自然に選んでいるはずです。




そのための問いかけ。
答えを求めての探索だけではなく、
私自身を知るための探索。




それは旅のような、
非日常で特別なものだけではなく。




呼吸して、食べて、寝て、自然を味わうような、
日常生活という名の、探索です。
調和とは、どのような状態を指すのでしょうか。

【バランスが取れている】

それは確かに調和が取れていると言えます。




個々がどれだけ乱れていても、
煩雑であっても、アップダウンが激しくとも、
1つのグループとして見た時に、
「なんやかんやあるけれどバランスが取れている」
のであれば、
それは調和が取れている、調和状態にある、
と言えるのかもしれません。




これは、いささか極端な例であり、言い分ではありますが、言葉の意味だけを捉えるのであれば、さほど逸脱はしていないでしょう。




しかし、個々に目を向けるのであれば、
それは、調和が取れているとは言い難い状態です。
マクロの視点とミクロの視点と言ったところです。





- 調和 -




私達個人にとって、
アップダウンが激しかったり、
こころの状態が安定しなかったり、
極度の不安状態に陥っているのであれば、
それは明らかに【不快な状態】です。




であるならば、改善したいと思います。
その時には、快を求める、というより
平穏を求めます。
なぜなら、マイナス状態からプラス状態へ移行するにはギャップが大きいからです。




マイナス値が大きければ大きいほどに、
いきなりプラスへ移行するのは困難でしょう。
そのように願うこと・考えることは、不自然、
というか無理がある、と思うのです。




マイナス状態であるならば、
まずはゼロに到達し、プラスへ移行する。
それが自然でしょうし、
結果的に最短コースになるのではないでしょうか。




起床してすぐ、
嫌なことや不安なことを思い、
不快になる。ネガティブに陥る。
そのまま時間が経過し、一日の終わりに近づき、
眠りにつくまで、ずっと不快のまま。
少し楽しいことがあったかもしれないけれど、
不快のマイナス度合いが高すぎて、
「そんな小さな楽しさでは、私の気は晴れない!」
と、やさぐれてしまう。拗ねてしまう。




きっと、その小さな楽しさは、
もっともっと注目したら、
実はもっともっと大きくて、




これまでのネガティブを吹き飛ばしてしまう!
それほどの充実感を味わえていたのかもしれない。
けれど、それは叶わない。
なぜなら、朝からずっと不快が続き、
不快を引きずり、不快のままでいるから。




【不快でいるのが普通になっているから】




人間関係や仕事など、
自分の外側の問題によるもので、
私一人の力ではどうにもならない!
そんな外的要因があるかもしれない。
こころを奪われ、気持ちが囚われ、
動き出そうにも足かせがはまっているような。




けれど、不快さを引きづっているのは、
やはり自分自身。
一時的でも、そこから抜け出る手立ては、
日常の中にちりばめられているはず。




それをキャッチ出来ないほどに消耗し、
不快に囚われている、とも言えるでしょう。
けれど、ここは心苦しいですが、
しっかりと認めてしまった方が良いです。




私は、不快を引きずっている。
私は、不快のままでいるのに慣れてしまっている。
私は、不快から抜けられるかもしれない「小さな楽しさ」を軽んじている。
私は、それらを自分以外の外側のせいにした。
私は、今はそこから抜け出せない。




ぜひ、最後の一文は、
しっかりと認識してあげてください。
マイナスが大きいのであれば、
いきなり抜け出すのは無理です。不自然です。
マイナス100だから、
いきなりゼロにしなければいけないと思う必要はありません。




とりあえず、マイナス50を目指して。
なんなら、マイナス99でも良いのです。
そのために必要なのが、しっかりとした認識です。




今すぐには抜け出せない。
それはつまり、
【今後、抜け出せる可能性がある】
ということです。




認識しなければ生まれなかった可能性が、ここにあります。




いつ抜け出せるかはわかりません。
期間を定めたら辛くなるだけです。
現在の状態を打破出来る、
そんな可能性が拓けた、それで十分です。




着実にマイナス値を減らしていき、
マイナスも20くらいになったら、
ここに書かれたようなメッセージではなく、
もっと前を見るような、前進するような、
ゼロに戻りプラスに移行していくような、
そんなメッセージが目の前に現れるはずです。


例えば、新聞の見出し、
気になって読んだ本の一節、
ネット上の誰かの記事、などなど。




元気が無いときは、元気が出るような。
身体が不調なら、改善するような。
気分を変えたいなら、趣味の話題を。
環境を変えたいなら、旅行の計画を。
「私に必要な情報はコレ!」
ではなく
「今の私に必要な情報はコレ!」
なのです。




良くも悪くも情報過多な社会ですから、厳選しなければならないものの、必要な情報が得られない世の中ではないのですから。

パーツごとに見れば、

めっちゃ細かったり、

ふわふわしてたり、

とげとげしてたり、

よくわからなかったり(笑)

けれど、かろうじて、であろうとも、バランスが取れているなら。ひとまずOKを自分に出し、それからパーツごとに見ていけば良いのだと思います。改善していけば良いのだと思います。

なんなら、ひょっとすると、「かろうじてバランスを取れている」ように見えるそれが、

とても美しく感じられる。

そんなことがあるかもしれません。そう感じたのなら、それは間違いなんかじゃなく、そんな状態をも美しいと捉えられる、新しいあなたの誕生です。