1.杜の都のデパート・藤崎

2011311日金曜日の、東北デパート報告。茨城・水戸京成百貨店、福島・うすい百貨店、中合、宮城・仙台三越、さくら野百貨店仙台店を巡りましが、今回は宮城県仙台市「藤崎」です。思えば私が、故郷宮崎にて「藤崎」という、気さくに呼びやすい素敵な名前に魅かれ、仙台を旅したのは高校3年生の時。それからは何度か訪れ、従業員の方とも知り合いになりました。杜の都仙台の地に誕生して192年目に訪れた大災害。果たして、藤崎はどのようにあの日を迎えたのでしょうか?お話をお伺いしたのは、営業企画部・三浦晃さん、千葉拓さん、小笠原順子さんです。ちなみに、取材メモで使用した愛用のペンは、藤崎オリジナル・青葉通で地下鉄工事の為に伐採された欅で作られたボールペンです。

2.希望へ 復興へ

午後246分。仙台市青葉区は震度6弱でした。当時店内にいたのは3000人ほど。年2回の避難訓練を受けていた従業員は、本番を迎えたかのようにお客さんの避難誘導に勤しみました。揺れで腰を抜かしたお客さんは背負って避難させました。怖がるお客さんには2人がかりで上にかぶさり、励ましながら守りました。ある従業員は、「私たちはしっかり訓練を受けていますのでご安心ください!」と言葉をかけながら、お客さんを避難させました。

藤崎がある一番町一体は停電。青葉通りの信号機が止まり、交通が混乱しました。

従業員は外で雪が降る中、コートも着ずに制服姿で、車がスムーズに動くよう交通整理をしました。店内は、商品、什器や設備など被害を受けましたが、店内にいたお客さんには大きな被害はありませんでした。帰れないお客さん、従業員は近くの避難所で一夜を過ごしました。

 15日、16日には玄関で、食料品や衣料品をワゴンで販売。午前11時から午後2時までという数時間の販売でしたが、通信手段が遮断されている中、口コミでお客さんが殺到したそうです。19日には本館1階・地下1階、大町館1階で営業再開。700人が列を成したそうです。よく売れたのは、ごはんやおにぎりでなく「焼きたてパン」だったのは意外でした。避難されている人は、避難所などでおにぎりは食べていたそうで、あつあつの焼きたてパンが恋しかったのではないかと三浦さんは仰います。

 

この日、藤崎三郎助社長は、午前9時45分の店内放送でこう語りました。

「本日が藤崎の再生の記念すべきスタートの日です。全従業員の皆様、これからも

様々な苦労や困難が待ち受けているかもしれません。私たちはこの苦労や困難を

乗り越え、藤崎が再生できる日まで、共に頑張ってまいりましょう。皆様のご協力を、是非ともよろしくお願いします。」

大事なお客さんを失くされた仙台のデパート。従業員さんも家族など失った方がいらっしゃいます。全員が辛い経験。藤崎が未来の為に掲げたスローガンは「希望へ復興へ」です。

3.藤崎気仙沼店へ

藤崎には宮城県内に店舗を構えています。取材の翌日には、藤崎気仙沼店へ伺いました。取材にご対応してくださったのは、気仙沼店長の堂靖剛さんです。気仙沼店の立つ場所も津波が1m80cmありました。従業員は無事でした。堂さんは3月に気仙沼店に配属されたばかり。その直後に前代未聞の災害に見舞われたのです。瓦礫と泥まみれになった気仙沼の町。道路の真ん中に家がある。陸に船が4隻ある。言葉にならない風景を見て、堂さんは「再開は出来ない」と思ったのだそうです。

 しかし、地元から「藤崎さんにはお店を開いてほしい!」「いつ再開するんですか?」と、営業再開を望む声があり、再開への道を目指しました。津波で崩壊した什器や壁などは修復できるものの、一番頭を悩ませたのは、猛烈な匂いです。こればかりは町に充満しているので、その為に、3か月開店を待ったそうです。

 6月10日、オープンの日は大盛況でした。身の回りの商品だけではなく、お見舞いのもの、お供えするものが売れました。堂さんは「おそらく、避難所生活などを得て、買い物できないというストレスがあったのではないか?」と言います。確かに「デパートで買い物をする」という行動ほど日常に還れるものはないはずです。「撤退しなくてよかった!」と心から思ったそうです。この日ほど、堂さんはデパートは素晴らしいものだ。デパートの神通力は凄い事を改めてかみしめたそうです。

 堂さんは最後にこう言いました。「気仙沼店は地域の人を大事にするお店なんです。商品を売る事はもちろんですが、地域に貢献できるボランティアを第一に考えて歩いていきます」と。この場を借りて…堂さん、また気仙沼行きますね。その日までお元気で。

4.好きさ、この街が…

仙台市内は今、活気に満ち溢れています。取材に訪れた6月末日も、お中元売場は大盛況でした。震災で亡くされた方へのお見舞いが多いそうです。店内のエスカレーターでは、宮城県民ならCMで皆知っているという、藤崎のテーマソング「好きさ、この街が…」(唄・ビリーバンバン)がエンドレスで流れています。歌詞をご紹介します。

「好きさ、この街が…」 詞 葉山真理  曲 菅原 進

好きさ、この街が… 風が季節運び 夢は心誘う 人は行き交い 街は輝きだす

足どり軽やかに 口笛流れ出す 何かいいこと ありそうな予感が今するね

好きさこの街がいつでも 好きさこの街がいつまでも 好きさこの街がいつでも 好きさこの街がいつまでも

いつもどこかで笑いがこぼれてる 雨が虹をつくり 恋は愛に変わる 人が集まり、街は宝石箱みたい

東北、茨城のデパートを取材してきて思うことは、みんな故郷がいつまでも大好きで、故郷と共にこの苦難を受け入れて生きていく思いでした。福島の中合、うすいも、放射能で苦労しているけど、改善に向けて福島と共に生きていく姿勢を垣間見たのです。

デパートはその故郷の皆さんを支える家族のような存在です。

仙台の恒例の祭りといえば、七夕だけではありません。市民総出で踊る「仙台すずめ踊り」です。藤崎の従業員も参加します。今年は、復興の思いを込めて、踊る前に、テーマソング「好きさ、この街が…」を皆で歌いました。沿道の皆さんからは拍手が起こったそうです。

最後に、小笠原さんがお客さんからの1通のメールを見せていただきました。

藤崎の従業員を励ましたメールだそうです。掲載させていただきます。

こんにちは、初めてメールいたします。名取市に住むY(48)と申します。

震災以来、どうも歳のせいもありますが、涙もろくなりまして、特に誰かの笑顔には

めちゃくちゃ弱くなってきております。

昨日のすずめ踊り…色々なチームさん達が汗かきながら、でも思いっきりの笑顔で幸せそうに

踊っていて、その姿とか笛太鼓の拍子が、もう僕自身の中で弾けそうになり、唇をかみしめ

涙をこらえて見ていました。

藤崎さんのチームの踊りがはじまりました。

「好きさこのまちがいつでも・・・好きさこのまちがいつまでも」

何か聞き覚えのあるフレーズ…?

震災時には「上を向いて歩こう」とか色々な曲が応援ミュージックとして流れてましたよね。

だから、あ…誰の曲だったっけ?と、次の瞬間に思い出して体中が熱く熱く…。

涙があふれ出して止まりませんでした。

「好きさこのまちがいつでも・・・好きさこのまちがいつまでも」

東北に来てから29年、ずっと聞きなれてたこの曲…。今更ながらに、とても優しく素敵な

フレーズですね。このフレーズがすずめ踊りとともに自分の中に、すぅ~っと、まるでスローモーションを見ているようにしみ込んできました。

素敵なすずめ踊りを見せていただいてありがとうございます。

このあともずっと仙台の顔・藤崎さん。頑張ってくださいね。応援してます。

デパートの力は永遠です。茨城、東北のデパートの皆様、取材にご協力いただき本当に

ありがとうございました。次回は取材ではなく、いちデパートファンとして伺いますね。

1.毎月の避難訓練が功を奏した 中合福島店

2011 年3 月11 日午後2 時46 分。あの東日本大震災の被災地に建つデパートで
何があったのかを取材する第2 弾。前回は、茨城県水戸市・水戸京成百貨店と、福島県郡山市・うすい百貨店で、復興に向けて励むお話をお伺いしました。今回は、北に上
り、福島、仙台までの取材をご報告します。
福島市・中合福島店。取材したのは5 月23 日。私は3度目でしたが、外観をよく見ると外壁に白いデザインがありました。あれは何だろう?と考えながら入店。お話をお伺いしたのは、営業本部リーダー、菊田直樹さんです。
福島市は震度5強。思わず体が飛ばされてしまいそうな、強烈な揺れは10 分程の長さに思えた程だそうです。ですが、中合の社員は迅速に、エスカレーターを停止させ、お客様を迅速に避難しました。それには理由がありました。

中合は、毎月1 回避難訓
練をしています。避難訓練の日は、毎月11 日の開店前。火災訓練、地震訓練を交互に
行っており、2 月は火災訓練でした。
つまり、3 月11 日の開店前、地震訓練を行っていたのです。こんな偶然はあるでし
ょうか?その為、「本番が来た!」という感覚で、2 時46 分の地震は迅速に対応でき
たそうです。天井が落下するなどの被害はありましたが、けが人はいませんでした。
地下の食品フロアでは、従業員の咄嗟の判断で、揺れながらもプラスチックの買い物
籠をお客さんに配り、落下物が命中しないようヘルメット代わりに配りました。マニュアルにはない事だったそうですが、お客さんの安全第一を考えた素晴らしい判断だと思
います。
中合は福島駅前に立地します。帰宅できないお客さんがいましたが、車以外のお客さ
んにはタクシー代を負担し、送りました。
商品が落下し、什器が崩れた店内を見て、菊田さんは「再開までは1 か月は無理じゃないか」と落胆したそうです。しかし、福島県民の事を思い、3 日後の3 月14 日、
店頭にて食品と生活雑貨品の販売を開始しました。コンビニに全く商品がない非常時で
ありながらの販売。口コミで「中合が商品を売っている!」という情報が広まり、店頭
にはたちまち行列が出来たそうです。

震災から5 日後の16 日には、地下食品フロアと学生服売場が再開。福島市内はス
ーパーマーケットも開店できない状況の中、物流ネットワークを駆使した営業再開でし
た。学生服売場には1000人のお客様が来店。混雑を防止するため入店制限を行った
ため、購入するのに5~6時間かかったそうですが、お客さんは誰一人苦情や文句を言
わなかったそうです。菊田さんは「その心が東北人の素晴らしさなんです」と語りまし
た。24日には1号館がオープン。化粧品や玩具が売れたそうです。現在は2号館も再開し、

震災前とほぼ同じとなっています。

しかし、福島は原発問題と戦っています。菊田さんはお子さんがいるそうですが、外で遊べないし、

窓を開けれないし、洗濯物も外に干せません。水道水も飲まず、ミネラ
ルウォーターで生活しています。店内の売り上げは好調だった日もありますが、県内の
観光客は激減。桜が満開の花見山公園は、悲しいほどほとんど人がいなかったそうです。
しこれからは、お客さんの放射能に対する安全と、社員の安全を考えながらの経営とな
りますが、そんな先が見えない状況の中、菊田さんは言います。「お客様が外出されな
い状況でも、中合は答える」と。今回の震災で、菊田さんは、お客様とのつながりの大
事さを再認識したそうです。そして、毎月11日に避難訓練をしていた結果が、お客さ
んに安心を与えました。日頃の訓練は絶対だと、菊田さんは言います。
最後に質問しました。「外観の白い模様は何ですか?」菊田さんはこう答えました。
「福島市の木、ケヤキです」と。本当に、いつも福島を考え、福島を愛するデパートで
す。

2.小売りの使命は… 仙台三越
福島の取材から1月後の6月24日、宮城県仙台市へ向かいました。仙台市の一番町
に建つ仙台三越。お話をお伺いしたのは、取締役総務部長の戸田哲郎さん、営業統括部広報担当課長の

相原由香さんです。

仙台三越がある仙台市青葉区は震度6弱。戸田さんは三越付近の信号にいて、揺れで立っていられなくなり、柱にしがみ付かなければならない状況だったそうです。急いで本館に向かったところ、避雷針が折れる瞬間を肉眼で確認しました。ですがお客さんは無事でした。毎月フロアごとに行う避難訓練により、迅速に避難誘導しました。

店内では本館5階の紳士服オーダー売場でスプリンクラーが作動し、店内が水浸しになりました。

什器なども崩壊しました。
しかし、なんと翌日のお昼12時から店頭で生活用品、食品を販売しました。コンビ
ニが閉まっている状態。市民が食品を探すものの、販売する店がなく、市内を彷徨うような状態だったそうです。「この商品を購入しなければどこで食べ物を購入するのか。」
それほど、ライフラインが完全に途絶えた仙台市内は過酷で悲惨な状況でした。
そんな中での店頭での営業再開は、どれほど仙台市民に勇気を与えた事でしょうか。
そして震災から3日後の14日には、地下食品売り場を再開。昼間の数時間という短い
営業時間にも関わらず盛況。生活用品は、カセットコンロが売れたそうです。今まで仙
台三越でカセットコンロを大々的に販売した事はなかったそうです。
同時期、仙台三越には、三越伊勢丹ホールディングスからの救援物資も届きました。
地域に貢献する三越は、名取市や多賀城市などの避難所に届けました。また、九州のデ
パートからは、トラックに乗って救援物資を届けてくれたそうです。
「九州の皆さんには本当に感謝しています」と、戸田さんは語ります。
3月26日には建物の補修を終え、全面開業。
4月26日には「北海道物産展」が開催されました。まだ仙台空港も再開されていな
い状況で。北海道から仙台まで直行便が無い状況にも関わらずです。これは、物産展の
人々が「なんとか東北復興に貢献したい」という熱意があったからこそ実現したのだと、戸田さんは言いました。
5月号でも記しましたが、「株式会社三越100年の記録」によると、昭和20年7月10日、仙台三越は空襲により全館消失。しかし、その20日後の8月1日には、1階のみ復旧して営業再開とあります。この時、仙台市民に
とって希望の星だったに違いありませんが、戦後60年以上たった今、震災が起こり、同じように仙台三越は希望の光となりました。
戸田さんは言います。「食べるものがない、着るものがないという状況にしてはなら
ないのが、小売りの使命です」と。そして、営業再開したとき、お客さんに言われた「開
けてくれてありがとう」という言葉は、一生忘れないでしょう…と。

仙台では、来月号にて、さくら野仙台店、藤崎、藤崎気仙沼店の取材を掲載する予定
です。実は、津波の犠牲者の多い宮城県のデパートの取材では、従業員の方、パートの
方で、お亡くなりになった方がいらっしゃる事を知りました。
大事で愛おしいデパートで働かれる方をお亡くしになるのは、各店舗、想像を絶する
お辛い気持ちだと思います。そして、この震災で犠牲になった方は、同時に大事なお客
さんが多くいらっしゃるのです。子供のころからそのデパートに通い、人生の節々で、
そのデパートで買い物をし、共に歴史を歩んだような、濃密な関係を築いたお客さんを
亡くされているのです。今でも、大事な人を亡くした遺族の方、家が流され避難所で生
活する人が、様々な感情を持って来店されています。尐しでも東北地方のデパートが、
被災にあわれた皆さんの心に温かい火を灯す存在でありますように。心よりご冥福をお
祈り申し上げます。それでは、次号も仙台のデパートを巡ります。

物凄く久しぶりの更新です。


先日、東日本大震災の被災地のデパートに行き、

お話を聞いてきました。


日本百貨店協会の会報誌に掲載しましたが、

自分自身の記録の為に、こちらにしも記しておきます。


1.水戸京成百貨店

あの忌わしい東日本大震災から3か月が経とうとしています。

今もなお、人の心や、暮らし、美しい風景への深い傷は消えません。前回は、東北地方のデパートに訪れた思い出ついて記しましたが、今、被災地のデパートはどのようにあの記憶を刻み、前を向いて歩いているのかを知りたくなりました。テレビや新聞でもあまりお店の様子を知る事は出来ませんでした。

5月下旬、取材行ってきました。まずは、茨城県水戸市・水戸京成百貨店。

快く取材に応じてくださったのは、副本店長の橋本人志さん、営業政策部課長の菅谷毅展さん、堀口昌弘さん。

3月11日14時46分。水戸市は震度6弱だった。揺れは猛烈に激しく、エスカレーターが大蛇のように揺れて目を疑ったという声もあった。

当日館内には1000人ほどいたが、従業員は揺れながらも、お客さんを抱きしめ、一生懸命落ち着かせながら各階の安全な場所に避難をしたという。

エスカレーターは破損した。しかし、耐震構造のため、連絡通路が破損した以外は建物に大きな損傷はなかったという。今も水戸京成の店内は震災前と何も変わらない。

地震から2時間後には、建物の外へ全員避難する事になった。しかし、東京から来たお客さんなど、帰宅困難なお客さんがいた。そこで、「安全な京成で一晩お過ごしください」と、館内に宿泊させる寛大な対応をとった。寝具売り場から値札のついた布団を出し、食料品売り場の食材を非常食として提供した。水戸市は停電していたが、自家発電装置があるので、暗闇の水戸市の中で、煌々と明かりがつき、市民は「まるでオアシスのようだ」と、安心したという。

夜、不安そうな女子中学生がドアを叩いて現れた。聞くと、何キロも離れた市内郊外のショッピングモールで地震に遭い、帰宅できず、とにかく不安で市街地まで歩いてきたら、水戸京成だけ電気がついていたので、気になってドアを叩いたそうだ。

その女子中学生を店内に入れ、食材を与え、店内に宿泊させた。

後日、その女子中学生のお母さまが来店し、「娘を助けていただきありがとうございました」と、お礼を述べられたそうである。震災の中でもデパートとお客さんにはかたい絆が結ばれた。

 3月12日には、食料品を、すべて100円、200円均一で玄関前で販売し、

口コミで市民が殺到。長蛇の列が出来た。当日はコンビニもスーパーも開店していなかった。お客さんは店員の手を握って、「ありがとう」「安心した」と感想を述べた。

 全面開店しても、エスカレーターの復旧には時間がかかった。お客さんは階段で売り場に移動する事になったが、苦情よりも「運動になるからいいわ」と、

庇う意見ばかりだった。橋本さんは「デパートに勤めていて本当に良かった」と

実感するという。また、13日には食品売り場と学生服販売を営業再開。学生服の販売の際は、ライフラインが無い中で、同世代の子を持つ母親たちが集う事となり、

「デパートが安否確認の場所になった」という声もあったという。

橋本さんは言う。「非常事態でも、常に地域の為に役割を果たすにはどうしたらいいかを優先したんです」と。

水戸市民の為に水戸京成がどうであるかを考えた結果は、お客さん、店員さんも大きなけがをした人はほとんどいなかった。そして、お客さんとの絆が生まれたのだ。

.うすい百貨店

翌日私は、いわき市を経由し、福島県郡山市へ入り、うすい百貨店を訪れた。

東北最大級の売り場面積を誇り、福島県民なら皆「うすいのテーマ」を歌えるほど、郷土に親しまれているデパートである。

郡山市内は、地震によってできた段差が至るところにあり、建物も崩壊したままのものが多くあった。駅前の商業ビルも未だ営業再開していない模様。

しかし、うすいは元気に営業していた。

対応して下さったのは、平城大二郎代表取締役社長。いささか緊張しながら応接室へ入りご挨拶。すると社長、おもむろに「ではこの歌を聞いていただきましょう!」と、「うすいのテーマ」歌・いしだあゆみ、曲・いずみたく、曲・山上路夫(作詞作曲、由紀さおり「夜明けのスキャット」を産んだゴールデンコンビ)をかけてくださり、緊張がほぐれた。社長ありがとうございます。

郡山市は震度6弱。店内は大きく揺れたが、従業員はとにかくお客さんを落ち着かせて、1人もけが人が無く避難させた。しかし、うすいの正面に建つ別のビルが崩壊し、落下外でけがした人がいたため、救急車を手配し、搬送された。

お客さん避難後、帰宅困難な従業員は社員食堂に退避し、一夜を過ごしたという。

13日には食料品と1階にて生活用品の販売をし、営業再開。開店前から300人が列をなした。当日、水戸市同様、コンビニやスーパーは営業していなかったが、取引先がうすいへ優先的に商品を送り込み、豊富な食材を用意する事になったという。お客さんからは「ほっとした」という安心感、「さすがうすいです」という声もあった。全面開業は26日となったが、それまでは従業員通勤手段が大変だった。ガソリンを給油するのもままならない状況。相乗りして通勤したという。

 再開当日は化粧品、書籍、玩具の売り上げが好調だったという。また、お見舞いのお返し品も殺到した。

 しかし、福島県内は目に見えない恐怖、原発問題を抱えている。放射能を除ける為、長袖の服、帽子、レインコートも売れるという。平城社長も、洗濯物は室外に干せないし、窓も開けられない生活を送っているという。従業員入口では、放射線量が計測され、社員が把握できるようにしている。屋外駐車場の係員はスクーリングも行い、長袖を着用するようにしている。今後は、ガイガーカウンターにて放射線量を測定し、従業員・お客さんの安全を徹底的に管理していく。

社長が今回の震災で得たものがあるという。一つは、無駄がわかった事。ダブルクロスエスカレーターを節電の為に停止していても売り上げが下がらなかった。照明など、いかに過剰投資しているかが分かった。二つ目は、団結力が増した。この災難に対し、社員が一致団結し、お客さんに信頼を産んだ。3つ目は、郡山の皆さんが本当にうすいが好きだという事がわかったという。この日、催事場では「うつくしまふくしまの物産展」が大盛況。店内には、猪苗代湖ズの「I love you I need you ふくしま」がエンドレスで流れていた。次回は福島市、仙台市を訪問し、デパートの声を聴きます。


9月6日(月)20:00~21:48 やりすぎコージーは、

「やりすぎ昭和ヒット歌謡バカ」2時間SPです!


以前テレビマンズで研究した「石川さゆり」天城越え研究の、

最高のうなりも登場します!


ぜひ!!!


懐かしの(秘)映像大公開▽近藤真彦、石川さゆり、チェッカーズ、西城秀樹、キャンディーズ…が!▽美空ひばり&友近の奇跡のデュエットに涙▽石原裕次郎が愛した絶品ウニ鍋


出演者【司会者】今田耕司、東野幸治、千原兄弟、野性爆弾、大橋未歩(テレビ東京アナウンサー)【ゲスト】玉袋筋太郎(浅草キッド)、クリス松村、椿鬼奴、友近、大吉(博多華丸・大吉)、藤井隆、ますだおかだ…他【スペシャルゲスト】八代亜紀


番組内容番組ではこれまで「どうぶつバカ」「美容バカ」「iPhoneバカ」など様々な「○○バカ」が登場した。今回は懐かしい昭和の歌謡曲を愛してやまない「昭和ヒット歌謡バカ」の皆さんにトークで、歌で熱い思いを披露して頂く…!セットも特別に往年の名歌番組、TBSの「ザ・ベストテン」風に…!