にぶんのいち×2

にぶんのいち×2

所属:地方公務員、でもあいかわらずの兵庫県弁護士会
小児がん「頭蓋咽頭腫」→難病「下垂体機能低下症」という、準先天的な難病系弁護士です。

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首を切ることになりました。

いや、いくら管理職とはいえ、勝手に職員をクビにすることはできませんよ。リアルに、自分の左頸部を手術するハメになりました。

私の下垂体の病気は、動脈硬化リスクもあるとのことで、転職する少し前に頸動脈エコーをとりました。すると、動脈硬化はなかったのですが、その代わりに嚢胞が見つかってしまって「!?」となりました。

ところが、嚢胞って、症状が出ていない限りは「放置」が一番いいと言われ、しかも頸部の腫瘍はそれほど成長する速度が早くないとかで、見た目にヤバくなってきたら切除すればいいわ、ということでずっと放置でした。

しかし最近、どうもほおづえついていても触ってわかるようになってきたしなー…と思っていたら、今年のMRI検査で「や、ちょっと大きくなりすぎじゃね?」という話になり、切除の方向となりました。

 

下垂体機能低下症との相性の悪さ

頸部嚢胞の手術自体は、本当になんてことないものっぽいのですが、いかんせん私は下垂体機能低下症なので、ACTHコントロールをしないとうっかり死んでしまうかもしれません。副腎皮質ホルモンの分泌が鈍いため、身体的ダメージを受けた場合にそのまま副腎不全まで行ってしまう可能性が出てきます。

くびの主治医にそれを伝えると、分院(簡易な手術ばっかりする病棟があるらしい)ではなく、本院でがっつり内分泌とチーム組んでやる、とか、何があるかわからんから手術日は月曜日がいい、とか、とだいぶビビられてしまいました。ええ、ビビってもらえた方が、私も安心です。

ただ、麻酔科の主治医によると、たしかに部位的に全身麻酔せざるを得ないけれども、本当に大したことない手術だから、標準治療的に副腎皮質ホルモンを足さなくてもいいくらいなんだけどなー、と言われました。

・・・手術日までに、見解をまとめておいてほしいと思います。

 

全身麻酔って

私の中での全身麻酔のイメージは、

・ 前日朝から絶飲食

・ 当日朝から浣腸(死ぬほどつらい)

・ 当日朝からへそのごまを取る(意味が分からない)

・ 術後1週間は嘔吐地獄

…という、この世の地獄そのものです。

麻酔科の受診で、「何か不安なことは?」と聞かれたので、以上すべてをぶつけてみたところ、「いつの時代の麻酔やねん」と爆笑されました。

た、たしかに、これ全部頭蓋咽頭腫の手術(注:当職6歳)の時のイメージ…

うすうす、前日から絶飲食とか、浣腸はさすがにないだろうと思っていましたが、聞くと下剤すら飲まないでいいようでだいぶ安心しました。

ただし、術後の吐き気はないとは言い切れない様子でした。一時的にせよ、吐き気が出る人は今もいるんですって。ただ、30年前の手術は、それこそ30年も前の話ですし、なにより脳の手術だった、という部分が大きいんじゃないの?ということで、さすがにあそこまでひどいことにはならなさそう。

 

多発性嚢胞?

それにしても、私は体のいたるところに嚢胞ができます。

頭蓋咽頭腫もおそらく似たようなタイプの腫瘍ですし、それをのけても整形外科的にいう「ガングリオン」だの「ドケルバン病」だの「副腎腺腫」だの、嚢胞っぽいものができる病気にしょっちゅうかかります。

これまで、下垂体、右足の裏(穿刺)、右手首(切開)、右手のひら(切開)、左手薬指付け根(穿刺)、副腎(経過観察)、左頸部(切開)、うん、多すぎる。そして毎回痛い。

これ、全部まとめて絶対同根の原因かなんかあるやろ・・・と思っていました。

すると、上司に入院報告をした際に、「多発性嚢胞かなんかでしょ? あるよ、そういうの」と言われました。保健所なので、上司は医者です。説得力ハンパない。

「人より早く高血圧になったり、人より早く腎機能が落ちたりするから、いろいろ気をつけて生きていかないといけないけどね~」・・・って、面倒くさいことが一つ増えた気がしますが、注意して生きていこうと思います。

 

ちなみに、保健所って上司が医者ですし、同僚も部下も保健師などなど医療職ばっかりなので、私の病気への理解と配慮が、今まで生きてきた中で一番心地いいです。

これは、ここへきて予想もしなかった気づきでした。

福祉職は、やさしいんだけど、同僚に対しては結構体育会系なところもあったからなぁ。

タイトルを見ただけで、頭の中はうっかりエアロスミスです。

Don’t wanna close my eye~♪

いえ、違います。インディペンデントリビングです。
十三という”ディープ大阪“にある第七藝術劇場まで行ってきました。結婚してから、こういうマニアックな映画館へ行くことが増えている気がする… 去年は、”ディープ神戸“新開地の映画館まで、「道草」という映画を見にいったりしてました。
 
大阪府内で暮らす重度障害者の”ひとり暮らし(自立生活)”=Independent Livingの様子をまとめた映画です。私と、重度障害者の自立生活との出会いは、弁護士登録後わりとすぐに控訴審から弁護団入りした和歌山石田訴訟の原告の生活です。こう見えて、弁護士になるまで障害のある人と接したことは一度もなかったので、生まれて初めての車いす当事者が原告の石田さん、生まれて初めて見る重度障害者の生活が自立生活という、偏りまくった「入口」でした。
一般的に、首から下が動かない、寝たきり、などの状況の人は、どこでどうのように生活していると思われているんでしょうか。正直、施設もろくに行ってみたことがないので、一般的なイメージもよくわかりません。津久井やまゆり園のようなところを想像するんでしょうか。やまゆり園だって、本来の生活の様子はまだあまり伝わってきていませんので、施設の日常なんてわからないですよね。
それはさておき、重度障害者のひとり暮らしは、当然一挙手一投足に介助が必要です。必然的に夜間も含めた24時間、ヘルパーによる介助が必要です。複数のヘルパー事業所からシフトを組んで介助者が家に常駐し、必要なときに空調のリモコンを操作したり、ご飯作ったり、水分補給したり、背中掻いたり、寝返りしたり、全部介助します。
介護保険制度のイメージからかなりかけ離れています。「なんか贅沢だな」と思った時期が私にもありました。しかし、24時間、常時他人が家の中に入っている状況は、想像するだけでかなり精神的に息苦しいです。しかも1人の利用者にかかわるヘルパーの数はかなりの人数で、それぞれキャラクターも相性もあるはず。そして介助はすべからく、かなりのプライベートゾーンにまで侵入されますので、結構なストレスがありそうです。このマネジメントは利用者自身がしなければなりません。ちょっとした中小企業の社長のようです。単純にヘルパーがいればなんとかなるというものではなく、ある程度「人を選ぶ」生き方だなぁ、と思います。私だったらできるだろうか…
それでも、施設ではなく、自立生活がいい、といってひとり暮らしに飛び出していく重度障害者がいて、支えるヘルパーたち、支えられる利用者、それぞれに自立生活に向けて一丸となって毎日精一杯生活する様子が、私は好きです。
なんというか、言葉で伝えるのは難しいので、法律家の方は上記の和歌山石田訴訟他の各種判決文の事実認定部分を、映像でイメージしたいという方は、この映画をごらんください。
 
ここでやっと、映画を見た中の感想を少々。
 

「やりたいこと」を全力で叶える事業所

道中、自立生活を始めようとする青年に、事業所のボスが「やりたいことは何?」と聞きます。ぱっと聞き、まぁまぁムリめのことをおっしゃるのですが、事業所全員でそれをかなえる様が一番印象に残りました。映画の後の、田中悠輝監督と玉木幸則さん(NHK「バリバラ」などでおなじみ…)とのトークショーではまったく触れられていませんでしたけど、私にとってはそこが一番グッときました。

今、なかなか「意欲」すら湧かない方の支援をしているから余計、なのかもしれません。逆に言うと、一度湧いた「意欲」は、それがどんな内容のものでも全力で叶えるありようは、なによりもかなえられる人、かなえる人、双方にとって楽しそうです。

何より、元気。重度障害者のうち、少なくない割合で難病です。脳性麻痺だけじゃない。この映画に出てきた当事者も支援者も、骨形成不全症とか、シャルコーマリートゥース病、多発性硬化症、だいたい難病です。でも元気です。彼らは「元気?」って聞いたら「元気。」って答えるでしょう。

「やる」って大事。

 

身体障害者、だけじゃない自立生活

この映画には、いわゆる「身体障害者」だけではなく、知的障害者や高次脳機能障害の方も自立生活の当事者として登場します。かつては、本人意思が明確に読み取れる、身体障害の人を中心とした運動として自立生活運動は展開されてきたように思います。しかし、この映画では、知的障害のある人に対しても、高次脳機能障害の方に対しても、必死に意思決定支援をしながら、一人暮らしを支えようとしていました。コミュニケーションを図り、意思をくみとるには大変な専門性が必要です。なんというか、こういう専門性にもっとお、お金を、お金を…と生々しいことを考えてしまうのでした。私なんかよりはるかに尊い仕事をしてはるよ、ほんま。

 

しかしまだインクルーシブではない

ひとり暮らしをしようとする人を中心に、業としてとはいえ事業所一丸となって自立生活を支える営みというか、この雰囲気が私は好きです。

ただ、この映画もそうですが、その営みの大半は、障害のある人の世界でとどまっているように見えます。それを、非常にもったいないことと思います。

ひとり暮らしをした誰かが、たとえば東京オリンピックの会場案内とかしてたら面白いのに。介助を受けながら、市民後見人として別の知的障害のある人を支えてたらいいのに。あるいは、車いすで地域の合唱団と一緒に舞台に乗るとか(「glee」の見すぎか…)。
そういう意味では、まだ自立生活は障害のある人だけの世界にとどまっていて、「世界の一部になる」つまり「インクルーシブ」になりきれていないです。何度も言いますが、非常にもったいないです。
「いきづらい」とか「孤立している」とかいろいろ暗雲垂れ込める色彩の今の時代ですが、この、みんなでひとりの人をオットコマエにするためにわいわい試行錯誤する生き方は、もっと共有されて、誰もが「いいなぁ」と思えるようにしたいです。
 
そういえば昨年、「こんな夜更けにバナナかよ」がメジャー公開されるなど、だいぶ「重度障害者が一人暮らししてる」という生活のありようは、一般社会に近づいてきている気がします。あれを見て「いいな」と思った人は、こういうディープなやつも見てみてはいかがでしょう。

(続き)

2 居場所がなさすぎる

これは、ひきこもりの人が家から一歩社会へ出ようとしたとき、家族以外の人といきなり円滑にコミュニケーションをとって、人間関係をつなぐということが難しいため、社会参加へのリハビリ支援の一歩として、地域の中に安心して過ごせる「居場所」が必要ではないか、というものです。

たしかに必要なのですが、それを言い出すと、難病なんか本当に当事者が一人二人で運営しているような小さい「難病カフェ」に頼らざるを得ないところがあるので… 難病当事者からみると、ひきこもりの方がだいぶ「居場所」研究は進んでいるように見えるのです。

ともあれ、これも地域共生社会推進検討会の議論を経て、既存の法律(介護保険法、障害者総合支援法、生活困窮者自立支援法)の中での「居場所」に関する事業を組合わせ、ひきこもりを含む社会参加困難な人の居場所を創設する新たな事業を始めようとしているようです。

 

ただ、これも「居場所」といってもそのフェーズは一つではないように思います。これまで、地域での「居場所」の理想形として想定されてきたものは、高齢、障害、障害者、こどもなど、多様な人が集う地域のサロンです。ところが、ひきこもりの人々が必要とする「居場所」は、そうした多様性ある場への「貢献」としての参加を希望する場合もあれば、どちらかというと自助グループ的機能を期待している場合もあります。この点、参加対象者をどのようなニーズのある人に設定するか、そこは主催者が慎重に見極め、発信する必要があるでしょう。また、「居場所」の議論をする際も、いずれの性格の居場所の議論をしているか、ひきこもりの人々の繊細なニーズをうまく吸収できるような、慎重な議論が必要です。

 

3 憲法感覚がなさすぎる

ひきこもりの人々の相談を聞いていると、弁護士の立場からはびっくりするようなことを言われることがあります。たとえば、「扶養義務(民法877条)」について、民法には直系血族と兄弟姉妹には原則として扶養義務がある、と書かれているため、親は死ぬまでこどもと同居し、面倒を見続けることを義務と考えていたりします。同じ事が兄弟姉妹でもあり、もし同居している親に何かあった場合、兄弟姉妹である自分が、ひきこもっている本人を、親が今までしてきたのと同様に面倒を見なければならないのではないか、と考えている人もいます。

一般的には、生活保護を利用する際に、直系血族と兄弟姉妹への扶養照会の是非をめぐって説明されることが多い扶養義務ですが、これは、扶養義務のある者が、自分の社会的地位や収入に相応した生活を送ったうえでなお余力がある範囲で生活に困窮した親族を経済的に支援する義務」をいいます。

まず、「ご自身がきちんと収入や社会的地位に相応した生活を送れていること」が前提となりますので、その生活を崩してまで何かを求められる義務ではありません。

次に、支援する内容は経済的なものが大前提であり、同居したり、家事・買い物その他の事実行為をすることまでは、扶養義務には原則として含まれません。

 

…という点はよく聞くのですが、本書ではさらにびっくりするエピソードが出てきます。「勤労の義務」がひきこもらざるをえない遠因となっている、という話です。

「働かざる者食うべからず」の誤用(働いていない者は食事にありついてはならない、という発想)から、せっかく趣味の集まりなどに出かけて行っても、「現在働いていない状況」のために話題に窮することもないはずだ、働いていないことでそうした集まりにも行けないし、相談でも責められているような気がして行けないし、就労がメインの相談支援をされても話が合わない。だから、勤労の義務がひきこもりを生んでいる、というものです。

そういえば、中学校の公民の時間、「日本国憲法は、国民の三大義務を定めている。それは「教育(を受けさせる義務)」「勤労」「納税」の三つだ」と必ず教わります。しかし、よく考えたら大学の憲法の授業で、この三大義務はほとんど紹介されません。司法試験でも絶対に問われません。大学で、憲法学の教育を受けていれば、「憲法が国民に何らかの義務を課す法典ではない」ということは体に叩き込まれます。しかし、ここをスルーすると中学校の公民の知識のままで日本国憲法の理解は止まってしまいます。その結果、「教育」「勤労」「納税」は、何が何でも全国民が守らなければならない義務なのだ、と誤解してしまう国民が大量に発生してしまうのでしょう。

しかし、憲法のどの教科書を読んでも、「義務」について触れている個所はごくわずかで、いずれも「憲法上の国民の義務を定める規定には、格別の意義は見出しがたい」だの、「注意的に規定したものにとどまる」だの、そういったことしか書かれていません。このため、ひきこもりをはじめとする社会参加支援で、いの一番に就労を挙げてしまう風潮は、憲法上の要請ではまったくないのです。

 

昨年、たしかに、年末にかけて就職氷河期世代の就労支援に、国が本格的に乗り出すという報道が相次ぎました。その際、「当事者の意見を聞きながら」ということで、NPO法人KHJ全国ひきこもり家族会連合会もヒアリングを受けていました。しかし、ひきこもりの多様な状態のうち、「働き口さえあればすぐに正社員就労が可能」という状態にある人が果たしてどれだけいるでしょうか。いずれも、社会への信頼をなくし、自分の身は自分一人で守らなければならないという不安に縛られた状態にある人が多い中、就職氷河期世代とひきこもり支援は、思っているほど重複しないのではないか、という感覚です。

 

ひきこもりの人に勤労の義務を言う前に、自己決定権や個人としての尊重(13条)、生存権(25条1項)を先に十分に保障することが、憲法上の要請です。

新年早々ではありますが、こんな本を一気読みしました。

 

私が、ひきこもりの担当部署を拝命することになってまず最初に読んだ本が、この筆者による「ルポひきこもり未満ーレールから外れた人たちー」でした。

 

これを読んで、「大変なことになった」と思ったものです。当事者たちの、自分以外の世界のすべてへの不信感がいずれの事例も強烈で、彼らの信頼を回復することなどできるんだろうか、という大変さです。

昨年(もう昨年になりましたね…)は、ひきこもりという単語が今までになく飛び交った年でした。今年も含め、まだしばらくは、というか、今後ますます見ることになっていくのでしょう。そうした年末に、ずっとひきこもりの人々を追い続け、ご自身もNPO法人KHJ全国ひきこもり家族会連合会の広報担当理事を務めておられるジャーナリストの池上正樹氏の、昨年の集大成のような本でした。

 

特に8050問題的側面の強い、高齢層のひきこもりにつき、筆者の主張及び私が本書から感じたことを大きくまとめると、下記の3つの「なさすぎる」があげられます。

  1. 法的根拠がなさすぎる
  2. 当事者らの社会内の「居場所」がなさすぎる
  3. 憲法感覚がなさすぎる

 

1 法的根拠がなさすぎる

「ひきこもり支援法」のような、「ひきこもり」の単語が入った法律を聞いたことがないことからもわかる通り、ひきこもりを支援するにあたって明確な根拠となる法律は現在のところありません。このため、特に行政機関が相談支援をする際の「たらいまわし」の原因となっている様子が、本書には随所にあげられています。

明確な法律がないとはいえ、ひきこもりは、いきづらさの結果顕在化する「状態」なのですから、そのいきづらさの原因を分析すればまったく根拠がない、という事態は実は言われているほど多くはないと思われるのです。ご本人の状態を丁寧に聴取すれば、何らかの精神疾患が疑われる場合は少なくありません。その場合は、保健所が中心となり、精神科医療へつなげる支援が可能です。また、ご本人が高齢のご家族に対し、暴言であったり暴行であったり、何らかの権利侵害行為を継続的に行っているのであれば、高齢者虐待の認定をしたうえで、その「養護者支援」として高齢者の部署や地域包括支援センター職員が関わる必要があるはずです。この場合、ご本人の年齢は関係ありませんので、「65歳じゃないのでお話は聞けません」の抗弁は立ちませんので、65歳未満でもつなぐべき先までつなぐ必要があります。

ちなみに、「暴行はありますが、物にあたっているだけなので虐待ではありません。」というお話をよく見かけます。たしかに、高齢者自身にけがが生じていない場合、身体的虐待と認定しづらい面は否定できません。しかし、たとえ物にあたる行為であっても、その行為態様や頻度によっては、心理的虐待に該当する可能性は十分にありますので、「人に向かった暴力ではない」というだけで虐待から外すのは早計であるように思います。

 

とはいえ、明確な法的根拠に乏しい場面があることは否定できません。大きく分けて、「平時の相談支援の根拠」と「緊急介入の根拠」に分けられると思われます。

まず、平時の相談支援の根拠については、現在厚生労働省で、地域共生社会推進検討会でずっと検討がされています。これを見ていると、そのうち社会福祉法で設計するのか、どうなのか、というところです。

ここで、あえて「ひきこもり」を看板に掲げた立法が必要なのかどうなのか、と考えると、そう単純でもないような気がします。

まず、平時の相談支援の根拠ですが、たしかに現在は特に年齢で切られてしまって残念な結果に陥ることが多かったでしょう。ただ、同様に、制度の谷間的扱いで窓口で残念な思いをする論点はひきこもりだけではありません。難病も、正直なところ、私自身が患者としての経験の中で、あまりパンチの利いた相談支援をしてもらった経験がありません。同様に、高次脳機能障害だったり、若年性認知症だったり、こうしたテーマについても、それぞれに立法すべきではないかという声を聞くことがあります。ただ、テーマごとに法律を乱立させることで、かえって「関心の谷間」を生んだり、彼岸と此岸を分けるような事態が生じてしまい、逆に理解促進から逆行する結果も招きかねない、という懸念があります。発達障害を見ていると、そんな気がしてしまいます。

 

また、緊急介入の根拠についても、どのような場面で、どのような根拠が必要であるか、慎重に検討する必要があります。本書では、法的根拠さえあれば、支援拒絶の意思が固いご家庭でも何かできることがあったのではないか、という問題意識を強く感じます。しかし、ご本人らから明示された意思は、よほどのことがない限りは尊重しなければなりません。それが、憲法上保障された自己決定権です。また、矯正介入を許せば、その場は収まったとしても、おそらくご本人やそのご家族と行政機関との信頼関係は不可逆的に崩れてしまうおそれがあります。そのため、ご本人の意思に反して、公権力が介入できる場面は、相当に絞り込む必要があります。

介入を検討すべき場面の一つの基準が、「生命への危険」でしょう。支援への拒否的な態度により、親や本人に生命の危険がせまる、いわゆる強固な自己放任(セルフネグレクト)状態を認めた場合に、119番相当になる手前で介入できるようにできるといいのかもしれません。

 

現時点で、生命の危険が生じた際に明確に介入の根拠を与えている法律が、児童・障害者・高齢者の虐待防止法をはじめとする法律です。しかし、これらは、本人が「児童(18歳未満)」「障害者(確定診断つき)」「高齢者(65歳以上)」でなければ発動しません。また、健康な成人を対象とした同旨の法律として、DV防止法があります。しかし、これも「(事実婚を含む)配偶者」であることが前提です。

…だめです。65歳未満のひきこもりご本人が生命の危機に瀕していても、介入する根拠がないわ。

 

このように、「いずれも高齢者に至らない年齢の成人間における家庭内虐待行為」については対応できる法律がありません。比較的若年で、かつ暴力や経済的搾取を伴うひきこもりの場合、親が65歳に満たないために適用できません。他方、ひきこもり以外にも、中には児童虐待に近い親子関係を引きずったままこどもが成人してしまうようなケースもありますが、その場合も、対応できる法律がありません。

上記のような事情から、ひきこもりの緊急時支援の根拠としては、

 ① 「家庭内虐待防止法」のようなものの立法化

 ② 「虐待」の中に、自己放任(セルフネグレクト)ケースを明確に含める

の2点があるといいんでしょうね。そんなこと言ってる人、聞いたことないけどね!

 

・・・派手に長くなってきたので、ここでいったん切ります。

 

 

2 居場所がなさすぎる

これは、ひきこもりの人が家から一歩社会へ出ようとしたとき、家族以外の人といきなり円滑にコミュニケーションをとって、人間関係をつなぐということが難しいため、社会参加へのリハビリ支援の一歩として、地域の中に安心して過ごせる「居場所」が必要ではないか、というものです。

たしかに必要なのですが、それを言い出すと、難病なんか本当に当事者が一人二人で運営しているような小さい「難病カフェ」に頼らざるを得ないところがあるので… 難病当事者からみると、ひきこもりの方がだいぶ「居場所」研究は進んでいるように見えるのです。

ともあれ、これも地域共生社会推進検討会の議論を経て、既存の法律(介護保険法、障害者総合支援法、生活困窮者自立支援法)の中での「居場所」に関する事業を組合わせ、ひきこもりを含む社会参加困難な人の居場所を創設する新たな事業を始めようとしているようです。

 

ただ、これも「居場所」といってもそのフェーズは一つではないように思います。これまで、地域での「居場所」の理想形として想定されてきたものは、高齢、障害、障害者、こどもなど、多様な人が集う地域のサロンです。ところが、ひきこもりの人々が必要とする「居場所」は、そうした多様性ある場への「貢献」としての参加を希望する場合もあれば、どちらかというと自助グループ的機能を期待している場合もあります。この点、参加対象者をどのようなニーズのある人に設定するか、そこは主催者が慎重に見極め、発信する必要があるでしょう。また、「居場所」の議論をする際も、いずれの性格の居場所の議論をしているか、ひきこもりの人々の繊細なニーズをうまく吸収できるような、慎重な議論が必要です。

 

3 憲法感覚がなさすぎる

ひきこもりの人々の相談を聞いていると、弁護士の立場からはびっくりするようなことを言われることがあります。たとえば、「扶養義務(民法877条)」について、民法には直系血族と兄弟姉妹には原則として扶養義務がある、と書かれているため、親は死ぬまでこどもと同居し、面倒を見続けることを義務と考えていたりします。同じ事が兄弟姉妹でもあり、もし同居している親に何かあった場合、兄弟姉妹である自分が、ひきこもっている本人を、親が今までしてきたのと同様に面倒を見なければならないのではないか、と考えている人もいます。

一般的には、生活保護を利用する際に、直系血族と兄弟姉妹への扶養照会の是非をめぐって説明されることが多い扶養義務ですが、これは、扶養義務のある者が、自分の社会的地位や収入に相応した生活を送ったうえでなお余力がある範囲で生活に困窮した親族を経済的に支援する義務」をいいます。

まず、「ご自身がきちんと収入や社会的地位に相応した生活を送れていること」が前提となりますので、その生活を崩してまで何かを求められる義務ではありません。

次に、支援する内容は経済的なものが大前提であり、同居したり、家事・買い物その他の事実行為をすることまでは、扶養義務には原則として含まれません。

 

…という点はよく聞くのですが、本書ではさらにびっくりするエピソードが出てきます。「勤労の義務」がひきこもらざるをえない遠因となっている、という話です。

「働かざる者食うべからず」の誤用(働いていない者は食事にありついてはならない、という発想)から、せっかく趣味の集まりなどに出かけて行っても、「現在働いていない状況」のために話題に窮することもないはずだ、働いていないことでそうした集まりにも行けないし、相談でも責められているような気がして行けないし、就労がメインの相談支援をされても話が合わない。だから、勤労の義務がひきこもりを生んでいる、というものです。

そういえば、中学校の公民の時間、「日本国憲法は、国民の三大義務を定めている。それは「教育(を受けさせる義務)」「勤労」「納税」の三つだ」と必ず教わります。しかし、よく考えたら大学の憲法の授業で、この三大義務はほとんど紹介されません。司法試験でも絶対に問われません。大学で、憲法学の教育を受けていれば、「憲法が国民に何らかの義務を課す法典ではない」ということは体に叩き込まれます。しかし、ここをスルーすると中学校の公民の知識のままで日本国憲法の理解は止まってしまいます。その結果、「教育」「勤労」「納税」は、何が何でも全国民が守らなければならない義務なのだ、と誤解してしまう国民が大量に発生してしまうのでしょう。

しかし、憲法のどの教科書を読んでも、「義務」について触れている個所はごくわずかで、いずれも「憲法上の国民の義務を定める規定には、格別の意義は見出しがたい」だの、「注意的に規定したものにとどまる」だの、そういったことしか書かれていません。このため、ひきこもりをはじめとする社会参加支援で、いの一番に就労を挙げてしまう風潮は、憲法上の要請ではまったくないのです。

 

昨年、たしかに、年末にかけて就職氷河期世代の就労支援に、国が本格的に乗り出すという報道が相次ぎました。その際、「当事者の意見を聞きながら」ということで、NPO法人KHJ全国ひきこもり家族会連合会もヒアリングを受けていました。しかし、ひきこもりの多様な状態のうち、「働き口さえあればすぐに正社員就労が可能」という状態にある人が果たしてどれだけいるでしょうか。いずれも、社会への信頼をなくし、自分の身は自分一人で守らなければならないという不安に縛られた状態にある人が多い中、就職氷河期世代とひきこもり支援は、思っているほど重複しないのではないか、という感覚です。

 

ひきこもりの人に勤労の義務を言う前に、自己決定権や個人としての尊重(13条)、生存権(25条1項)を先に十分に保障することが、憲法上の要請です。

 2019年も残すところあと1日です。

 今年の4月29日、「平成最後の昭和の日に、大正製薬のリポDと明治乳業のR-1(←令和元年)を撮ったどー」とかわけのわからないことを言っていたのが懐かしいくらい、いつの間にか令和になじみました。



 そして私は、この年末で公務員として当初予定されていた任期の5年を終えます。在野弁護士をしていた期間がまる5年だったので、年明けからは、公務員をしている期間の方が長くなります。

「あんたは3か月で出てくるやろ」と言われた割には、おかげさまで長続きしています。

 そこで、ちょっと公務員弁護士と在野の「弁護士」となにが違うのか、思いつくままに振り返ってみたいと思います。

 

■ 「急に具合が悪くなる」私の働き方

そもそも、私が公務員、というか組織内弁護士への転向を考えた契機の一つが、副腎クリーゼという、私の下垂体機能低下症の宿痾の一つを経験してしまったことにあります。これは、下垂体前葉から分泌されるホルモンの一つである副腎皮質ホルモンの分泌が低下し、何らかの身体的、精神的ダメージを受けた際に副腎不全が起こり、処置が遅れると死に至るものです。私は、下垂体機能低下症を発症してから、副腎皮質ホルモンの分泌に障害はない、と言われてきたため、30歳を超えるまで副腎はノーマークでした。これが障害されるのが私の病気で一番しんどいところなので、もし最初からこうだったら、私はおそらく弁護士を目指していなかったと思います。

ところが、ある冬にインフルエンザを発症してから、熱が下がった後も嘔吐が止まらず、内分泌の主治医のいる病院に救急で診てもらったところ、副腎不全を起こしていることがわかりました。これがたしか32歳のことです。

下垂体機能低下症患者としては25年以上のキャリアがありました。しかし、副腎皮質ホルモンのコントロールに関しては、そこから付き合いがスタートします。そして主治医に「ずっと副腎皮質ホルモンは大丈夫だと言われていたのに、なんで今さらこんなことに。」と聞いたところ、「加齢だね。この病気も、ゆっくり進行するんや。」と言われてそれなりにショックだったことを覚えています。6歳で、頭蓋咽頭腫を摘出し、そこで症状固定したと信じて25年以上生きてきたのに、今更「進行性です」と言われても、どうしたらいいのやら。

とにかく、今以上によくなることはない、ということを覚悟しなければなりませんでした。また、その時の副腎不全のダメージが酷く、退院後も倒れる前と同じレベルに動けるようになりませんでした。その後、転職後も含めて3回ほど同じように突然嘔吐をくり返して入院する、という「事故」にあいますが、毎回、入院前のレベルに戻らないのです。

突然やってくる副腎不全リスクを抱えながら、基本的に「その事件の担当者は自分だけ」という状況にならざるを得ない「弁護士」という業務は、根本的に見直す必要がある、と思いました。事件数を落としてもダメです。「替えが利かない状態」がダメでした。私の関心分野は福祉関係であり、正直それだけで採算が取れる分野ではありません。この分野の弁護士であれば誰しも考える、「採算事業」との両立が必要になるところ、私のこの身体では、稼ぐことだけで精一杯です。それでは、弁護士になった意味がないので、そういう働き方をするくらいならやめて体力的に安定する仕事に就いた方がまだましかもしれない、とも考えていました。

 

しかし、だからといって弁護士の資格とまったく関係ない仕事をするのも悔しいじゃないですか。昔なら、他の弁護士に迷惑をかけないように、一人で独立するくらいしか方法はなかったと思いますが、今は「組織内弁護士」という選択があります。本当にいい時代だと思います。なんとなく、製薬業界でインハウスになるか、地方自治体で任用されるか、ということをぼんやりと考えはじめ、今の仕事を見つけます。

 

実際、公務員転職後も、いろいろなきっかけで副腎クリーゼを起こしてしまい、そのたびに上司や同僚には迷惑をかけることになります。本当に申し訳ないのですが、でも、私が突然いなくなっても、市役所はつぶれません。私の部署も、つぶれません。そして私の勤め先は大量に弁護士がいるので、弁護士プロパーの仕事もみんなカバーしてくれます。かつて「弁護士」だったころ、緊急入院になるとまず期日調整からして大惨事でした。管財人もしていたので、突然期日を飛ばす影響は大きく、事務所には多大なる迷惑をかけてしまいました。そのころを思うと、様々な場面でカバーしてくれる「組織」のありがたさを、毎年のようにかみしめています。

「弁護士」には「弁護士」の、公務員には公務員のしんどさがあります。しかし、どれだけしんどくても、やはり「弁護士」に戻ろうとは思いません。戻れる気がしません。

 

■ 事件処理の考え方が大きく変わった

公務員になって最も頭をかち割られたのが、「世の中には、弁護士の前には表れないところに法的課題を抱えたまま生きている人が山のようにいる」ということでした。これは、公務員弁護士を経験した人であれば、だいたい同じような感想を抱くようです。そうした日常を5年間経験する中で、私の弁護士としての事件感覚は、「弁護士」のそれとかなり大きくズレてしまったことを自覚します。

一番わかりやすい事例が、以下の事例でしょうか。

地域から、軽度知的障害の人(生活保護利用中)の法律相談が上がってきた。本人の家に行くと、数社の債権者から「督促状」と書かれた郵便物が届いている。本人は、記憶にないしどうすればいいのかわからないので、郵便物が届くたびに不安になり、不穏になる。どうすればいいか。

典型的な相談です。

債務整理で例をあげましたが、「兄弟から突然相続の連絡がきた」「家主から退去するよう言われた」などなどを代入しても、以下の手法はあてはまります。

 

こうした事案に対し、私の処理方針は以下のように変わっていきました。

第1段階(入庁当初):放置

生活保護利用中の人であれば、生活扶助費の中から債務返済に充てることは適切ではないし、かりに債権者から訴えられ、債務名義を取られたとしても差押禁止なので、現在の生活に支障は出ないだろうから、とりあえず放置で大丈夫。

 

第2段階:無理にでも破産

しかし、上記の方針を取ると、「たびたび来る督促状」にご本人が対応できず、そのたびに不穏になってしまいます。「なぜ放置でも大丈夫なのか」を理解してもらうことが難しいのです。そこで、弁護士又は司法書士に代理人についてもらい、請求行為を止めてもらう努力をしていました。

 

第3段階:(1周回って)スクラムを組んだ戦略的「放置」

ところが、第2段階も限界を迎えます。

まず、採算性が合わなさすぎて、受けてもらえる先生に限りがあります。

また、現実的な問題として、ご本人が打合せに応えるのが難しいです(破産手続に必要な資料収集や家計収支表作成もおぼつかない)。

そうすると、「相手方から致命的な手続きを取られるまでそっとしておく」という方向に最近は変わってきている気がしています。

今、本人はどのような状況にあるのか、これから相手方からどのような手続を取られる可能性があるのか、どのような郵便物が届いたら本気で焦らなければならないのか。このあたりの情報を支援者で共有し、本人が焦ったときには支援者が自信をもって「大丈夫だよ」と言えるようにしておきます。

 

このように、「法律行為に直接関与するのではなく、事実行為を介して法的リスクへの対応を図ろう」とするアプローチから、権利擁護と社会福祉の支援を説明しようとしている本がありました。

 

そんな感じの仕事になりつつあります。

おかげさまで、弁護士会などで「弁護士」とお話すると、実務感覚が大きくズレてしまったことを自覚します。なにか問題があったときに、即座に訴訟などの権利救済の話になってしまう点で噛み合わなくなってきました。これが「元に戻すべきこと」なのか、このズレを抱えたままの方がいいのか、それもよくわかりません。

ただ、在野の「弁護士」が存在していることで、はじめて公務員弁護士の存在意義が発揮される、ということはあると思います。「外」できちんと受け止めてくださる弁護士の層が厚いこと。この条件があって初めて、公務員弁護士は生きるのです。

 


■ 公務員には公務員の役割がある

決して、どちらが楽とか、どちらがしんどいとか、そういう話ではありません。弁護士がその資格を生かして仕事をできるフィールドは、事務所経営型だけではない、ということをもう少し柔軟にとらえてもらっていいのではないかと思います。

今、私の10年後輩にあたる72期の先生方が弁護士登録をされ、SNSでは大真面目に「死ぬな」という助言が流れています。私も、一瞬「死ぬかも」と思ったクチなので、その切迫感はよくわかります。今は、「弁護士」でなくてもいくらでも仕事できます。「弁護士」になることを目的として登録をしたのであれば仕方がありませんが、何かしたいことがあり、その手段として弁護士資格を取ったのであれば、それを生かせるフィールドは探せばあるはずです。

私のような仕事は、採算性を気にしなければならない「弁護士」だと、相当な鉄人でないとちょっとしんどいように思います。「弁護士」をしていて、「公」に関心が出てきたのなら、こういう仕事もいいかな、と思ってもらえたら幸いです。

 

さて、私は任期の定めのない常勤弁護士として、年明けから「6年目」を迎えます。

これまで全国的に「任期付職員」だった弁護士職員が、常勤化するとどのような役割を担うようになるのか。任期付きの時と役割は同じなのか、違うのか。そこは、これからそれぞれの自治体と、中で働く弁護士とで模索していく必要のあることなんだろうなと思います。