佐原敏剛文学塾

佐原敏剛文学塾

日本文学、海外文学を多角的に分析、批評する。名作といえど問題点は容赦なく批判する。

「人生は一行のボオドレエルにも若かない」 『或阿呆の一生』の「時代」と題された第一章に芥川龍之介は書きました。 私には時代とともに青春を駆け抜けた芥川の悲痛な叫びというように受け取れます。青春が過ぎ去った作家には最早人生に意味を見いだすことは不可能でした。

 今朝は午前二時に中途覚醒し、その後二時間眠ったが四時に起きてから頭がすっきりして久しぶりに早起きする気になった。朝、起きて二種類の皮膚科の軟膏を陰部に塗り、寝間着から普段着に着替え、顔を洗い朝食にコンビニで買ってきたミックスサンドとトーストを食べ、使った食器を洗うまで、いつもだと三回以上ベッドに逆戻りして寝るのだが、今日は一度も寝なかった。いや、コンビニへミックスサンドを買いに行くのは早起きした時だけで普段は買いに行かない。そんなにお金がない。それにコンビニへ行く気力もない。

 中途半端に早起きするとどうしても眠気が付きまとう。正直な所、今も完全に眠気が去った訳ではない。今日は施設へ行く日だが、天気予報によると帰りに雨に降られるようなので午前中で帰ってこようかと思う。ブログを書いて歯を磨き、髭も剃り、掌の軟膏を塗るまで一度も寝ないで済むかどうか自信がない。

 五十を過ぎて初めて中途覚醒というものを知った。精神疾患で中途覚醒や早朝覚醒を知らない人は珍しいだろう。しかしこんなにきついものだとは思わなかった。ああ、もう眠気が。顔を洗ってきた。コーヒーは却って眠くなるので飲まない。このパソコンは誤変換が多い。「却って」が「帰って」と誤変換された。

 私は統合失調症になってから手書きで書くと誤字が頻出するようになった。そこでパソコンが必要になり、お金を貯めてパソコンを買った。しかしこのパソコンはスペックが悪いようだ。14万もしたのに。いつものことだがやる気が出ない。早起きしてブログを更新しているだけでも少しはましだが。

 早く病気を治して働きたい。睡眠障害も治したい。人間の三大欲求の一つである睡眠が取れないようではきついことこの上ない。ああ、元気が出ない。朝食をしっかり摂るべきだな。ご飯に味噌汁に鮭の焼魚、野菜炒めが理想なのだろうがそれは私にとっては夕食のメニューなので、朝からそんなに沢山食べていたら破産してしまう。

 ご飯に味噌汁、それに目玉焼きなら出来る。そうしようかな。ちょっと後片付けが大変になるが。アントニオ猪木ではないが「元気があれば、何でもできる!」というのが当たっていると思う。元気をつけるために動画を貼っておく。エアロスミスの『アザーサイド』。よく聴いたなあ。

 

 

 今日はスマホの機種変のデータ移行をして貰う為にドコモショップまで予約をした上で行ってきた。約二時間かかってデータの殆どは移せたが、アマゾンやフェイスブックその他移せなかったアプリもある。今日は風呂と洗濯の日なのだがどうにも億劫で動く気になれず、一時過ぎになってコーラを買ってきて飲みながらブログを更新している。明日は施設へ行く日なのだがこの調子だとまず、行けない。

 こんな極端な夜更かしは酒を飲んだ日以外にやらないのだが、どうにもやりきれない。風呂に入るのは後にしてカップ麺でも買ってきて食べようかと思う。今日はエイプリルフールだ。小説家なのだし、嘘の一つでも書ければいいのだが真面目過ぎて書けない。今、ブログを書く気になったのはほんの気晴らしに書きたくなったからで、それ以上の理由はない。

 一日二十四時間をどう使うか。生活保護で暮らす者たちにとってこれだけは自由である。金はないが時間はある。ただしその時間は矢のように飛んでいく。従って夜更かしするしかなくなる。正直な所瞼が少し重くなっていてこのまま風呂には入らずに寝てしまおうかとも思う。こうして書いていると中学高校時代、試験勉強で深夜まで勉強していたことを思い出す。あの頃は本当によく頑張っていた。

 ただ、私は他の人間とは違うという気がしていた。即ち作家向きの性格であると。現実に対してより空想の世界に生き甲斐を感じていた。風変わりな事が好きだった。風変わりといえば私は高校時代に三島由紀夫の『青の時代』に関心を持ち、最初の方だけ読んだが難しくて投げ出してしまった。今なら読めるに違いない。『青の時代』は普通の作家が書くものと違いどこか変わっていた。その三島由紀夫の作品を最近連続して四冊読んだ。

 『美徳のよろめき』『宴のあと』『愛の渇き』『音楽』の四作で四年ほど前か『沈める滝』も読んだ。短篇集の『岬にての物語』は途中で挫折し、放り出してどこかへ紛失してしまいなかなか出てこない。上に挙げた作品の中では『宴のあと』が一番健全で面白かった。三島作品の登場人物たちは変わり者が多い。そこが面白いと高校時代の私は思った。

 『仮面の告白』『金閣寺』『永すぎた春』はもうかなり昔に読んだ。『金閣寺』が断然面白かった。短篇集『真夏の死』も同人会の読書会で取り上げられ、表題作のみ読んだ。しかしエンターテインメントに比較するとどれもがやや退屈である。その代わり読後感は充実している。二時になった。そろそろ書くのは止めよう。この後カップ麺を食べるか風呂に入るかはまだ分からない。気長にやろう。

 何をやっても満たされない。働いて小説を読んだり書いたりしていた頃は十分満ち足りていた。一体何が原因なのだろう。食べるものもインスタントかレトルトで、本格的に自炊する気力が出ない。これは食後の後片付けの時に症状が出るからでもある。終日部屋でごろごろしている。何もやる気になれない。辛うじて読書ぐらいなら出来る。

 六年近く前に退院してから約五十冊の小説を読んだ。それも大半は純文学だ。一年に九冊近く読んできたことになる。小説の創作は最近していない。小説を書くためには十分な栄養が必要だと思う。体力が勝負だ。レトルトやインスタントだけではどうしようもない。それに刺激が必要だ。

 今私は缶コーラを飲みながら書いているが、コーラでも飲まないと文章が書けない。当面の生活目標は自炊をしっかりすることだ。五十八歳、病気が再発して八年、退院後六年が経つ。レイモンド・チャンドラーは五十八歳の時、『長いお別れ』を執筆していた。あのチャンドラーが。いや、確かめてみると『長いお別れ』が出版されたのは1954年のことでチャンドラーが生まれたのは1888年だから『長いお別れ』はチャンドラーが六十六歳の時の作品である。執筆に確か五年を要しているから書き始めたのは六十一歳の時だったろう。五十八歳の時は『かわいい女』を執筆中だったと思われる。

 何か新しい趣味でも始めるといい。金がかかるのは駄目だが。食生活は重要だ。美味しいものを安く作る。栄養のバランスも考えて。そろそろ書くことも尽きてきた。この間、昔飲み仲間だった蒼井上鷹さんの『4ページミステリー「震える黒」』を読んだ。彼は今、新作を書いていない。4年ほどブランクが空いている。プロとして二十年近くショートショートを主に書いて来たが、私が彼の作品を本で読んだのは新人賞を受賞した『キリング・タイム』が載った『小説推理』と今度読んだ『4ページミステリー』だけである。

 彼は今追い詰められているのではないか。心配である。流石はプロで作品の完成度には文句のつけようがない。次に読むのも蒼井さんの本にしようかと思う。そして一通り読んだらファンレターを出して、編集部にお願いして電話で話させてくれないか頼もうかと思う。今の所突破口はそこにしかない気がする。『4ページミステリー「震える黒」』は累計二十万部を突破している。純文学なら三万部売れればいい方である。大体、売れる小説を書くことは当たり前だが非常に難しい。私もそろそろ動き出すか。

 今日の夕食はもやしラーメンにする。もやしの袋を昼に半分使って味噌汁にし、あとの半分をラーメンの具にする。昼はドラッグストアで買ったおにぎり二個ともやしの味噌汁にしたがそれだけでは足りなかったので、納豆を一パック食べた。それにしても元気が出ない。食生活を見直す必要がある。たまには町中華のレバニラ炒め定食でも食べないとやっていられない。スパゲティーに頼りがちなのも問題だ。

 朝食もチーズトースト二枚だけでは足りない。月に一遍は酒場へ飲みに行く。しかし過敏性腸症候群があるために町中華へも酒場へも行くのが恐い。私はごく簡単な料理しか出来ない。レパートリーも少ない。それでももやしラーメンよりはましな物が作れる。ただ、後片付けをする時に強迫性障害の症状が出て辛い。何故なのかは分からないが料理を作ることがストレスになっていることが考えられる。料理を作っている時には症状は余り出ないが、後片付けは無味乾燥で退屈なので面倒な料理を終えた後、ストレスが一気に来るという感じだ。 

 今日も午前中は寝ていた。もう六十にもなろうという男が何もしないで日がな一日部屋でごろごろしている。仕事が出来ないなら出来ないで何か読書とか勉強とか施設へ通うとかしたらいい。しかし、施設へは週一で通うようになったが、過敏性腸症候群と強迫性障害の症状の為に週五で通うようになるにはまだ時間が必要だ。もしかすると週五は無理かもしれない。

 生きていても面白いことが無い。かといって死ぬほどつまらないという程ではない。せめて過敏性腸症候群だけでも良くなってくれたらと思う。精神科医樺沢紫苑によると過敏性腸症候群は完治は難しいらしい。しかし、いつのまにか昔に比べて良くなっているという事はよくあることなのだそうだ。今の所、毎日のように五回六回とトイレへ行くような状況ではない。むしろ便秘気味で一日中便通がないことも珍しくない。少しは前より良くなっている。

 今の所食べることが生きる上で最大の喜びだと思う。小難しい理屈も嫌になった。世の中はどうしてこう上手く行かないように出来ているのだろう。明日は通院日なのだが、体調が良ければフィリピンパブへでも行こうかと思う。フィリピンパブでは食事は出ないが三千円出せば飲み放題だ。徹夜で飲むことが最近なくなったが、大晦日ぐらいは家で酒を飲みたい。生活保護で年末は一万四千円以上の冬季加算が付く。それで飲む事が出来る。あとは特別給付金が年内に支給されれば安心だ。

 以前はブログを書くのが楽しかったが、今は少し億劫になっている。この文章を書き終えたらコーヒーでも飲んで気分転換をする。今月十七日は退院してから五年八か月が経つ。宅配ピザを久しぶりに頼もうかと思う。昨日は久しぶりに冷凍食品のたこ焼きを食べた。美味しかった。小さな幸せの積み重ねが人生を明るくする。まだ時刻は二時半になっていない。ブログだけでも毎日更新するか。動画を貼っておく。私はまだ観たことが無いが『老人と海』の映画予告編だ。原作小説はあまり面白くなかった。

 

 

 

 ふと見ると腕時計が止まっていた。また三千円出して買わなければ。腕時計がないと不安である。明日は午後から晴れるらしいので、三時頃行ってみるか。明後日はワクチン接種がある。暫くは副反応で動けないだろう。酒も暫くは飲めない。そろそろ退院してから五年七か月が経つ。

 私にとって三十代四十代はあっという間だった。五十代ももう終わりに差し掛かっている。五十代にもなるともう後がない。働こうにも年齢で切られる。今私が唯一出来る事といったら小説を書いて新人賞に応募することぐらいだろう。新人賞は年齢制限がない。三十代はよく働きよく遊んだ。四十代は遊び過ぎた。五十代は体を壊した。四十代で遊び過ぎたのは十代二十代の頃、碌に遊べなかった反動だったと思う。

 最近はブログを書くエネルギーも無くなってきた。私は今、週一回福祉施設へ通っている。毎週木曜日で今日がその木曜日だった。二年間利用でき、卒業証書が貰える。みんな卒業すると就職を目指す。しかし私が卒業するころには還暦が間近になっている。仕事があるかどうか。

 強迫性障害の症状は八年前からぶり返して今も続いている。おまけに過敏性腸症候群にも三年以上前になってしまい、統合失調症も併発し、広汎性発達障害であることも判明した。統合失調症には陽性症状と陰性症状とがあり、私は今陰性症状で何もする気になれない毎日を送っている。

 施設へ行ってパソコンの練習をしたり、プログラムに参加したりする時には楽しさを感じる。今日は風呂へは入らないことにした。風呂へ入る時や食後の後片付けをしている時に必ずと言っていいほど強迫性障害の症状が出る。こうしてブログを書いている時には安定している。来年の二月末には五十八になる。こうして文章を書いていても内容に纏まりがない事に気付く。統合失調症の症状の一つに話に纏まりが無くなる、というのがある。昔はその症状の深刻さから精神分裂病という病名で呼ばれた。しかし、今は症状が薬物療法によって好転するケースも多くなり、病名が改まっている。

 私は幻聴なら経験があり、今もたまに瞬間的に音が聞こえることがあるが幻覚の症状はない。性格的に几帳面で真面目過ぎるので尚更きつい。死ぬまであと十年か二十年といったところだろう。その僅かな期間に何が出来るか。まず、過敏性腸症候群だけでも治したい。そうしないと外出した時、トイレの位置を常に意識しながら自転車に乗り、長時間の外出は出来ない。今日はふとブログを書いてみたくなったので、纏まりのない文章を書いた。

 もう寝る準備をしなくてはならない。大人になると夢を見なくなるものだというが確かに見られなくなる。読書も長いことしていない。ああ、酒が飲みたい。そうでもしなけりゃやってられない。彼女も昔ほど欲しいとは思わなくなった。食べて飲むことだけが生き甲斐だ。やっぱり酒を買ってくるかな。

 夏目漱石を読破した。二回目の読破である。今は太宰の『晩年』を読んでいる。新潮文庫版で手に入る太宰の作品は全て読むつもりである。勿論これまでにも何冊か太宰は読んだ。『晩年』は太宰の処女短篇集である。漱石の文章に慣れていたせいか、太宰は読みにくい。しかし太宰の作品には注解がない。それだけ読み易い筈である。

 夏目漱石は全部で17冊あった。太宰もそれ位はある。本当は漱石を読み終わったら纏め買いした思想書を読み始めようとしたのだが、ルソーの『社会契約論』を読み始めた途端、難解で投げ出してしまった。ブログに書くことも最近は無くなってきた。しかし、貴重な時間を何もしないで過ごしたくない。

 関係ないことだが最近パソコンの調子が悪い。一度起動したのに画面が真っ暗になり、スタートボタンを押すとまた起動する。このパソコンは主に小説を書くために買った。14万はしたと思う。生活保護の中から14万はかなりきつい。私は7年ほど前に統合失調症を発症したが、統合失調症は思考力が低下すると言われる。それでも書いている人がいるので勇気付けられるが、既に57歳であり、就職しようにも年齢で切られてしまうし、セックスへの情熱も若い時のようには激しくない。高校時代には好きな女の子の目を見ていると吸い込まれそうになったものだが、そう思えるのも30代までである。

 それでは何故、漱石は40近くなってから書き始めたのであるか。やっぱりセックスがその根底にあったのではないか。漱石の作品は大人の恋愛小説である。レイモンド・チャンドラーもまた45歳の時から中編を『ブラックマスク』誌に寄稿し始めている。晩年のチャンドラーは「私は女性がいないと生きていけない」と告白している。007シリーズのイアン・フレミングも40代になってから作品を書き始めた。

 実際に女性と付き合うとなると結婚した作家は水商売の女を相手にするかさもなければ不倫するかになってしまう。少子高齢化社会では老人の姿が巷に溢れ、そこには活気がない。かといって、今の若い人たちにそこまで期待出来るかというと、いじめ問題が無くならないこと一つ取ってみてもそれは難しいだろう。私は一人の大人として若者たちに模範を示さなければならない位置にいる。頑張り過ぎては病気を悪化させるので、あまり根を詰めてはいけないが、漱石は無理でも太宰に迫る位の作品を書きたいと思う。本棚に並んだ漱石の文庫本の背中が私を励ましてくれる。やるしかない。

 ツイッターには書いたことだが、今私が置かれている状況の謎を解く鍵は江戸川乱歩を初めとするミステリー小説やミステリー映画にあるといっていい。何か根拠があるのかと言われればそれはそれこそ謎である。統合失調症に罹患し強迫性障害を再発させたことに関してはこの限りではないが、およそ二十年前から私を取り巻く状況は大きく変わった。これは私が独身で妻子持ちでないこととも密接に関わってくる。結婚は人生の墓場だとは私が子供の頃言われたことである。私は小説と結婚した。

 統合失調症、もしくは建築現場でのトラブルで負った傷が原因で認知症や失語症と似た症状が出ているのかもしれない。しかしそれは仕方のないことで今更どうしようもない。私が問題にしたいのは、嘗てテレビCMで山崎努が

 

「御同輩。近頃どんな夢を見ておられるか」

 

 と鏡に映った自分の顔を見ながら吐くセリフに象徴される同世代の、また親世代子世代、或いは団塊の世代、しらけ世代の夢がどこでどう違っていたかであり、学校という場所でまだ教師になりたての二十二、三歳から二十四五歳の男女またはそれよりやや年上の三十代の教師達がいったいどんな夢を抱きつつ生徒に接していたか、また遥か年上の校長はそれを高みから見下ろしてどんな感慨を抱いていたかである。

 私にはもと東大和市立第二中学校の校長が知己としている。彼は団塊の世代だ。もう夢が見られなくなっている筈だが、音大の卒業で定年退職後、市内にミュージックスタジオを開いた。私も何度か飲みに行ったが今は下痢の為に行けない。そして顔は見えないが新聞記者諸君はもう殆ど私より年下である筈だ。そして現職の市議会議員はその半数が私と一歳違いか何歳か年上か年下の同世代になっている。

 大藪春彦のファンは二十代末が最も多いという。だとしたら私が中二中三だった頃教師になりたてだった男の先生二人は恐らく大藪を読んだろう。私が病気で、または怪我で書けなくなったとしたらそれは運命だ。しかしまだ解かなければならない謎がある。小説は劇という位だから激しい。そして厳しい。今も小学校中学校高校、そして大学でも若者たちが夢を見ていてくれるのを祈るばかりだ。

 

 

 今日は精神科へ行き、朝から読書をして頑張った。明日の朝は水道管が凍結する可能性があるという。蛇口を少し緩めて水を少し出したままにしてある。今読んでいる漱石の『行人』が後へ行けば行くほど暗くなっていく。主人公の一郎は学者で精神病に罹り始めている。発狂か自殺か、さもなければ宗教に入るか。そこまで一郎は追い詰められる。私はキリスト教に帰依しているが、依然として症状は消えない。

 薬師丸ひろ子をYouTubeで聴きながら書いている。この人はいつもどこかに寂し気な表情をして若いころから演じ続けてきた。今、『セーラ服と機関銃』『メインテーマ』等を聴いていると、私の世代の青春は終わったのだなと思わざるを得ない。薬師丸ひろ子は私より一歳年上である。演奏しているのも大体私と同じ世代のミュージシャンだ。

 青春――それは人生最良の時であり、時に未熟さゆえに道を踏み誤り、時に自己破壊への衝動に身を任せる。それが若いという事なのだ。新作の小説を書き始めているが、どうも乗れない。以前は命がけで書いていたものだが、その真剣さが鈍ってきている。書くことに夢中になることが出来なくなっている。

 空元気の時代と呼ばれた1980年代、時代はその空元気でここまで来てしまった。テレビドラマも映画も迫力の欠片もない。小説もまた然りだ。今夜は少し夜更かしするつもりでブログを更新している。34歳の終わりにネットで『風の描く虎狼』を不定期連載で書き始め、半分以上書いたところでそれを同人誌に前編として掲載した。後編の筋書きはまだ殆ど頭になかった。しかし前篇を活字にしてしまい、ネット上でも相当な量を既に発表したとあっては、今更後に退くことは出来なかった。

 実はネットはともかく、同人誌に載せられるという事が実際にゲラを貰うまで私には信じられなかった。前編が活字になり、私は勢い付いた。今日は徹夜で小説を書くか。後1ヶ月も経つと私も57歳になる。記憶が始まるのが4歳くらいだとしてもう53年、この世というものを見てきた。

 

 

 

その間膨大な量の情報がマスコミを通して報ぜられ、何十人もの作家がデビューして活躍してきた。しかし、私は、そして多くの人々が、文学の世界は1970年辺りを区切りに凋落の一途を辿ったと感じているに違いない。テレビがその元凶と言ってもいい。私が高校時代、一年生の頃地理を教えていた先生は家にテレビを置いていないと仰っていた。今はコロナの感染等、知らないと大変なことになる情報もあるので私はテレビを否定することはしない。もう11時15分だ。風呂へは入らないで寝ようと思う。明日は雪になるらしい。

 今日は早起きして昼寝はしなかった。読書は15ページ進んだ。ブログの更新は今日はこれで2回目だ。書くことがない。しかし夜7時半以降は風呂へ入るのが大体9時頃だから、そんなに時間がない。隙間時間にブログを書いていれば時間つぶしにはちょうどいい。

 後1週間で退院してから4年8か月が経つ。実に長い期間、病気の症状に耐えたものだと思う。外食でもして盛大に祝うつもりでいる。今日はこれからどうしよう。このペースを維持して来年からはフル稼働で行きたい。自転車に乗っていて滑って転んで左膝を痛めたのが3か月近くになる。まだちょっとでも走ると痛いし、朝方布団の中で痛む。サポーターは勿論つけている。完治までに年内いっぱいはかかりそうだ。

 来年は漱石を全部読み終えたら三島由紀夫か大江健三郎を読もうかと思う。太宰治も読みたい。それに纏め買いした思想書の山にそろそろ手を付けようと思う。藤村の『夜明け前』も途中で読むのをやめてから大分経つので全巻読むつもりだ。仕事を始めるのはまだ早い。どうしても無理がある。

 20代の頃は統合失調症の症状はここまでひどく出てはいなかった。あとは創作だ。やりたいことは沢山ある。レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』『ロンググッドバイ』『長い別れ』と訳者が清水俊二、村上春樹、田口俊樹とあり、村上訳、田口訳はまだ読んだことがないので、読み比べてもみるつもりである。

 それにしてもクリスマスとお正月が楽しみだ。来年2月末で私も57歳になる。人生100年時代と言われるが、私も生きている限りは何かに挑戦し続けたい。とりとめのない話になったが、何もしないでいるより遥かにましだと思う。今日はこの辺で。

 Dynabookの電話サポートがオペレーターと直接話す事が出来ず、メールでサポートするようになっているようだ。私が今使っているのがDynabookのノートパソコンだが、しょっちゅうトラブルを起こすので電話サポートがないと困る。

 今日は久しぶりに早起きしてコンビニへサンドイッチと新聞とカップ麺とウインナーを買いに行った。読売新聞の朝刊社会面に神戸市で中学3年生の女子生徒が2020年9月、いじめが原因で自殺していたことが確定的になったという記事が載っている。女子生徒は自殺した当時14歳だった。もう2年以上が経過している。対応が遅すぎる。これではいじめ自殺は増える一方である。ついこの間も北海道で女子中学生がいじめを苦に自殺した。日本の学校は世間体を気にするのでいじめのような問題は隠蔽する傾向にある。

 私が出た中学校でも在学中に男子生徒が一人、自殺している。「深く追求しないでほしい」と遺書には書かれていたという。実は他にも私の身近で自殺を遂げた人は何人もいる。しかしいじめを苦にした自殺は自殺の中でも深刻な部類に入る。統合失調症の患者の自殺率は高く、これも深刻だ。何故、人間はそのように苦しんでいる人を助けようとしないのか。私は強迫性障害の症状で入院すれすれまで追い詰められることがしょっちゅうである。

 今日は朝から起きているが、普段は午前中は11時まで寝ている。かったるくて仕方がないのだ。昼食もコンビニで買って食べ、その後2時半までは寝ていて2時45分から漸く夏目漱石を読み始める。何もしなくてもいいから1日起きていたい。何が私を無気力へと追い遣るのか。因みに夕食はレトルト食品やスパゲティーに偏りがちだが自分で作って食べる。生活のリズムが中々作れない。漱石は大沢在昌とは違い、どんどん読み進められるような解り易い文章で書かれてはおらず、1日に読める量も大体10ページちょっとである。それでも漱石は今年1月から読み始めて今11冊目を読んでいる。本当なら1日中漱石を読んでいたい。しかし、私の読解力では1日20ページがせいぜいである。

 私の読解力は19歳の時から病気の為に落ちた。同じ行を2回も3回も読み直さないと頭に入ってこない。主治医は確認恐怖だと言う。それでも作家になる夢を捨てずに今日まで来た。もっと料理の腕を上げて美味いものを食べたい。もしくはもっと食費にお金を使いたい。最近の私は食べることだけが楽しみになっている。食べることは生きる上で重要だ。それは生きる活力に繋がる。しかし私は過敏性腸症候群なので外食はそうおいそれと出来ない。外食だけではなく外出が恐くなる。

 今の私の目には日本人が全員チンピラに見える。もうこの国は終わりだと思う。日本人に限ったことではないだろう。悪がはびこり、正義が行われることは殆どない。人間は弱い。私は腕力では肉体労働者に負けるが男気なら負けると思わない。さあ、11時になる。いつもなら布団からやっと起きる時間だ。よく頑張った。これからちょっと新聞に目を通そうと思う。午後も1時から読書を始めたい。甘えを断つ。そうすれば自ずと結果が出せる。結果が全てだ。無理しない範囲で頑張る。