猫の後ろ姿 2284 世界の亀裂 混沌をめぐって
榎並和春個展「日々賛々」 4月25日~5月12日 西千葉 山口画廊
同時期に企画画廊「くじらのほね」にて ドローイング展を開催
画家・榎並和春さんが先日こう書いておられた。
絶えず動いて壊してまた作り直すみたいな、偶然とか即興や勢いなどロゴス的でないものを含んだ方が、より深く万物を表現できるのではないか。
まだ学校に上がる前の子供の絵や、アールブリュット(生の芸術)やアフリカの土着の人々の絵画やオブジェにこころ惹かれるのは、西欧型の理性やロゴスが取り逃して来た本来の混沌とした表現がそこにはあるからではないか。
もし我々が世界を表現しようと考えたなら、コンピュータやAIに取り込まれていないような情報や、取り除いてきた雑多な雑音さえも含めた混沌そのものを丸ごと表現することが必要ではないか。
ここで僕はまた白川静先生の『孔子伝』の言葉を思い返す。
美に対しては醜でなければならぬ。それは美を含み、しかもついに醜でな
ければならぬ。
真の実在とはカオスであり、実在の亀裂を示すものであり、渾沌たるもの
である。
新たに創り出されるもの(絵・文・音)は、今現在「美」とされるものに対しては、いまだ認められぬ「醜」なるものである。それゆえそれは、過去の「美」を含み、なおかつ過去の「美」を乗り越えて、新たな「美」すなわち「醜」でなければならない。
今この世にある「実在」は、過去の「美」を含み、しかもついに「醜」でなければならない。「実在」は「美」と「醜」の「混沌」たるものである。 「混沌」「亀裂」こそが、この世界の真の姿なのだと知る。
世界に深々と刻まれたこの「亀裂」をこそ、僕は観たいと思う。
猫の後ろ姿 2282 清水登之と石本秀雄の戦争画
相変わらず、性懲りもなく毎日、「戦時下日本の美術」のことを調べ、考えている。今日はふとこんなことに気が付いた。図版をご覧いただきたい。
上は、1944年11月の「戦時特別文展」に出品された作品。清水登之の「工兵架橋作業」、東京国立近代美術館所蔵。
下は、1942年12月の「第一回大東亜戦争美術展」に出品されたもので、石本秀雄の「後方架橋」。図版は、『大東亜戦争美術展画集』掲載。
ほとんど同じ構図であることは、文字通り一目瞭然。清水登之ほどの画家が先行作品を真似することは考えにくい。
考えられるのは、架橋作業を撮影した写真をこの二人が手本にして架橋作業の「戦争画」を描いたのではないか。写真を提供したのは恐らく軍部であろうけれど、新聞社ということもありうる。
大勢の人間が複雑に連携する「架橋作業」を描くには、写真を参考にせざるをえなかったということなのだろう。
しかし、岩本と清水はこの絵で何を言いたかったのか。近代化されておらず人力に頼るしかない日本軍の現状を批判しようとしたのか。それとも人力でこそ新たな時代は切り開かれるのだとやせ我慢をむしろ誇ったか。
しかし、この2点、そこそこに写実的で上手だけれど、なんとつまらない絵であることか。戦時下の日本の絵画が陥っていたのはこんな情けない状況なのだとあらためて思う。