Mr.ROYALの徒然日記 PartⅡ

Mr.ROYALの徒然日記 PartⅡ

ブログタイトルそのまま、「徒然なるままに」書きたいことを書いていこうと思っております。

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 仙台育英(宮城)下関国際(山口)を下し、春夏通じて初優勝を果たした。東北勢としても春夏通じて13度目の挑戦で初優勝となり、悲願の「白河越え」を遂げた。

 

 東北勢の決勝進出は過去に春3度、夏9度あったが、すべて敗れ準優勝だった。13度目の王手で初優勝。仙台育英は春夏通算4度目の決勝進出で初勝利となった。大越基投手を擁した89年夏は、帝京と延長10回に持ち込むも0-2で惜敗。芳賀崇投手の01年春は常総学院に6-7で1点及ばず。佐藤世那、平沢大河らの15年夏は東海大相模に8回まで6-6と食い下がるも9回に突き放され6-10で涙をのんだ。

 

 もうね、仙台育英が初優勝を決めた瞬間、東北の高校野球ファンは喚起したと思いますよ。

 

 なぜって?

 

 1915年に第1回大会が始まって以来、春夏通じて東北に優勝旗が凱旋したことがただの1度もなかったんですから。

 

 そして長年東北の地に優勝旗がもたらされなかった様を称していつしか高校野球ファンたちからこう呼ばれるようになっていました。

 

 「悲願の白河の関越え」

 

 長年野球不毛の地と言われてきた東北ですが、実は第1回大会において秋田中学(現秋田高校)が決勝に進み、京都二中(現鳥羽高校)との決勝戦の結果いかんでは優勝旗が東北にもたらされるチャンスはあったんです。もちろん、その時点で「悲願の白河の関越え」なんて言葉が生まれることもなかったはずです。

 

 しかしこの試合は延長13回の末に京都二中がサヨナラ勝ち。そこから長いトンネルに入ります。

 

 続いて東北勢で決勝に進んだのは半世紀以上経過して1969年の第51回大会の三沢高校。決勝戦での松山商業との延長18回のスコアレスドローによる引き分け再試合は高校野球史上に残る伝説の一戦となりましたが、翌日の再試合でここまでマウンドを1人で守ってきたエースの太田幸司が力尽き、2-4で敗戦。高尾でも準優勝に終わります。(なお太田投手はその端正な顔立ちと相まって俗にいう「甲子園のアイドル」の先駆けとなった選手です。)

 

 そしてその2年後には磐城高校が決勝進出を果たしますが、ここでも選手権大会初出場の桐蔭学園に敗れてここでも準優勝。その後1989年に仙台育英が決勝に進み、このあたりから徐々に東北勢の上位進出が急速に進み、2000年代以降になると「悲願の白河の関越え」は時間の問題と思われました。

 

 しかし、世の中はそんなに都合よく進むものではない。

 

 東北勢が「悲願の白河の関越え」を果たせないままに2004年、2005年に駒大苫小牧が夏の選手権大会2連覇を果たし、深紅の大優勝旗が白河の関どころかいきなり津軽海峡を越えてしまった。そしてその後もセンバツ大会も含めると仙台育英の他に東北、花巻東、光星学院(現八戸学院光星)、直近では「金農旋風」を巻き起こした金足農業が決勝に進みましたがことごとくあと一歩、という場面で勝ちきれずじまい。それもダルビッシュ有菊池雄星、吉田輝星といったのちのドラフト1位でプロに入団した好投手をを擁しながら。光星学院に至っては2011年の夏の選手権大会から3季連続で決勝に進みながらすべて負け、2012年の大阪桐蔭の春夏連覇を目の前で見せつけられる屈辱を味わうことになりました。

 

 管理人が高校野球に本格的にハマり始めた時期、と言えば東北・北海道勢は当時の練習環境の問題もあって全国大会に出てきても「出れば負け」の状態でしたし、ちょうどそのあたりから「1県1代表制(北海道、東京は2校)」「初戦の東西対抗戦」というシステムが本格稼働し始めたこともあり、当時の東北の野球レベルは一部の野球強豪校を除くとあまり高いものではなく、東北の代表校と初戦で対戦が決まった時点で「ラッキー」と言われるような状態でした。

 

 もっともその流れは2000年代に突入してから大きく変化します。

 

 ちょうどそのあたりから関西方面から東北の野球私学への野球留学が本格化してきました。

 

 東北の高校野球界にとっては全国大会に行っても「出れば負け」の状態を何とかしたい。

 

 選手たちにとっても地元で甲子園に行ければいいけれど地元に進学しても強豪校が多く、自らの進学先が3年間で甲子園に行ける保証はどこにもない。それ以前に自分よりうまい選手も多いので彼らを押しのけてレギュラーを獲得できる確率も低い。

 

 しかし東北ならば地元と比較すると甲子園を狙える学校自体があまり多くはないので甲子園に行ける確率は格段に上がる。かつ自分レベルの選手も地元と比べるとあまり多くはないからレギュラーになれる可能性は高い。地元を離れて失敗するかもしれないというリスクは確かにあるけれど、地元にいるよりは地方に行った方が「レギュラーとして甲子園に出場する」という自分の希望が叶う可能性が高い。こうして15歳にして野球留学という形で東北の学校から甲子園を目指す選択をする選手が増え始めたのもちょうどこのあたりでしょうか。

 

 そして彼らの存在は東北の高校野球界において「劇薬」ではあったけれど同時に思わぬ効果も生み出すことになります。

 

 最初は関西人独特のアクの強さに怖気づいていた感がある地元の高校生のレベルアップが進み、同時に東北の学校の指導者同士の横のつながりや練習環境が整備されたこともあって一部の野球私学による県代表独占、という問題は残るものの今や東北は全国有数の激戦区。春のセンバツの東北地区の出場校枠も現在は2ですが、近年中に増枠が確実視されることでしょう。

 

 こうして着実に力をつけてきた東北球界ですが、それでも深紅の大優勝旗が白河の関を超えることはなかった。

 

 しかし今年、大会が始まって100年以上経過した時点でようやく深紅の大優勝旗が東北の地に降り立った。

 

 これはもう高校野球史に残る快挙でしょう。

 

 残る悲願は「紫紺の大優勝旗(選抜高校野球大会の優勝旗のこと。優勝旗の色が私恨であることからこう呼ばれている)の白河の関越え」。

 

 こちらは深紅の大優勝旗のように津軽海峡を渡っていませんし、何より出場校のバランスや北海道・東北地方の気候条件のハンディもあってなかなかハードルは高いですが、こちらも管理人が生きている間に何とかして達成してほしいと思います。

 

 

 

 

 

 前回の続きから。

 

 さて、だいぶ引き延ばしに引き伸ばしてきましたが、前回のブログで管理人が話題にしていた吉良高校向ヶ丘桜高校戦がどんな理由で決着したのか、その理由をそろそろネタバレすることにしますか。

 

 この試合の決着方法、それは、

 

「向ヶ丘桜高校の選手たちが日射病に罹患→向ヶ丘桜高校の試合放棄」

 

 日射病、という表現は現在ほとんど使用されていませんし、そんな表現を知っている時点で管理人の年齢がバレバレなのですが(笑)。まあ、平たく言ってしまえば現在の表現でいうところの「熱中症」のことと考えていただければ結構です。この漫画が描かれた1970年代後半には「熱中症」という表現ではなく「日射病」と表現していましたので、ここから先は時代背景を考えて「日射病」として統一することにします。まあ向ヶ丘桜の選手たちがどういう流れで次々と日射病で倒れていったのかについてはこちらの「ドカベン」36巻の冒頭で明らかにされていますので興味がある方はぜひこちらの36巻をご覧ください。

 

 

 結果としてこの試合の勝者となった吉良高校ですが、作中では1試合も戦わずベスト8まで勝ち進むという前代未聞の珍記録を持っております。参考までに本来の対戦校と不戦勝となった理由を付記しておきます。(よくもまあ次から次へと理由を考え付くもんだと当時小学生だった管理人は驚いたものですが、全部が全部実際に起こりそうな話なだけに余計に怖い)

 

 1回戦 小金井西商業(在校生の校内での大乱闘事件→出場辞退)

 2回戦 市立水島高校(出発直前に集団食中毒発生→試合出場不能)

 3回戦 向ヶ丘桜高校(ベンチ入り選手14人中10人が日射病罹患→試合続行不可能となり試合放棄)

 4回戦 座間東商業(球場への移動途中にマイクロバスが追突事故→部員全員ケガ人となって病院に運ばれ、試合出場不能)

 

 結局ベスト8で明訓高校と対戦し、18-0でボロ負けするんですが、前回のブログでも触れた通り、素行不良学生のたまり場のような学校で、ひょんなきっかけで野球部を結成したのが夏の予選数か月前。野球の技術はもちろんのことですが、野球のルールすらまともに知らないような素人集団。普通に野球の試合をすれば今でもたまに地区予選で野球の試合とは思えないようなスコアの試合がありますが、間違いなくそのレベルでボロ負けするようなチームです。

 

 そして当然のことではあるのですが、当時の高校野球部における「常識」というのも全く知らないチームであります。

 

 一方、向ヶ丘桜高校は「1970年代後半当時の典型的な野球部」だと表現しました。

 

 そんな両チームの違いについて「ドカベン」35巻の明訓高校対白新高校戦の最終盤あたりから端的に描かれているのですが、さらに吉良対向ヶ丘桜の試合開始前に両者の決定的な違いが集約されたシーンがある1ページに掲載されています。

 

 まず最初に試合前に水を飲もうとした向ヶ丘桜の選手に向かって監督が「おい、水は飲むな!後でバテてしまうぞ!」と怒鳴りつける。

 

 次にヤカンに口をつけて水を飲んだはいいけれど、その水がまるでお湯みたい、と言って噴き出した挙句に仲間に「氷を買って来い!」と思わず怒鳴ってしまう南海権左

 

 さらにその様子を見て「うまそう…」とつぶやく向ヶ丘桜の選手に対し、「見ろ、1,2回でバテバテになるぞ。」と選手たちに改めて釘を刺す監督。

 

 現代の感覚でこのページを読んだうえで勘が鋭い方なら、この時点でなぜ向ヶ丘桜の選手たちが立て続けに日射病で倒れてしまったのか、なんとなく予想がついたと思います。

 

 そして管理人も小学生の時点ではこのシーンの重要性がまるでわからなかったのですが、水島新司先生の逝去に伴ってこのシーンのことをふと思い出し、この事実に気づいた時には旋律すら覚えました。

 

 そして向ヶ丘桜の選手たちが見舞われた悪夢の理由を明確にするためにもう1つネタバレをします。

 

 明訓対白新の試合途中で気温が35℃を超えていました

 

 そして吉良対向ヶ丘桜戦はこの試合の直後に行われました。時間までは正確に覚えていませんが午後2時から3時ぐらいだったと記憶しています。

 

 さて、ここまでくれば前回のブログで管理人が触れた

 

「40数年前の常識は現代の非常識」

 

の内容が何なのか理解していただけたと思います。そして水島先生が「本人が全く理解していない」ながら「結果的に現在につながるメッセージになってしまった」内容とはすなわち、

 

「夏場のスポーツにおける水分補給の重要性」

 

 おそらく水島先生は連載当時、南海権左を筆頭に吉良高校ナインのキャラクターを描いた時に「高校野球のアンチテーゼ」というよりは「高校野球の常識にそぐわないキャラクター」として作ったと思うんです。「暑いから試合前の練習をしない」「試合前に水を飲む」なんてことは当時の高校野球の常識からしてみればめちゃくちゃ非常識なことですからね。

 

 しかし吉良高校、という「野球ド素人集団」は高校野球に限らず、日本のスポーツ界に根強く残っている

 

 「練習中(試合中)に水を飲むな」

 

という当時の常識すら知らなかった。

 

 一方の向ヶ丘桜の選手たちは当時の常識に従って猛暑の中でも練習を続け、水分補給についてもマウンド上の南海権左相手に「無知」呼ばわりするような状態でした。

 

 しかし実際には猛暑の中の体調管理や水分補給に関しては現代の感覚に照らし合わせるとよっぽど彼らの方が無知でした。

 

 2012年の夏の選手権大会で公認野球規則7.10項、俗にいう「ドカベンルール」によって実際に点が入った、という事実から「ドカベン」35巻の存在がクローズアップされてきましたが、この巻でもう1つ重要な内容が含まれていることをぜひご確認いただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 日本の野球漫画の巨匠にして第一人者の名を長いことほしいままにしてきた水島新司先生が病気のため逝去されたのは今年の1月10日のこと。

 

 そして水島先生は人気漫画家であるのと同時に生涯「草野球の1プレイヤー」でもありました。

 

 そのため野球のルールにも人一倍精通しており、今回のブログでリンクを添付した「ドカベン」35巻で紹介されている公認野球規則7.10項(俗に言う「ドカベン・ルール」)に限らず、代表作である「ドカベン」以外の自らの著作で複雑な野球ルールの一端をこれでもかと披露しております。詳細については「ドカベン」以外の水島先生の著作を参考にしていただければ幸いです。

 

 そんなわけで管理人にとって水島漫画の立ち位置は野球漫画としての面白さを存分に楽しめるものであると同時に少年漫画でありながら野球のルールブック以上に野球のルールを学ぶ場だった、と言えます。 

 

 さて、前置きが少々長くなってしまいましたが今回リンクとして添付した「ドカベン」35巻は先ほどちょっとだけ触れた「ドカベン・ルール」によって1点が入り、しかもその1点が試合の行方を決めてしまった明訓高校白新高校戦が掲載されている「ドカベン」ファンにとっては31巻と並ぶ「神巻」と言ってもいいのですが、

 

 …今回紹介したいのは「ルールブックの盲点」明訓対白新戦の話ではありません。

 

 明訓対白新という名勝負の最終盤のあたりから始まっている吉良高校向ヶ丘桜高校戦の話です。

 

 実はこの試合、結論から先に言ってしまうと

 

 「吉良高校の不戦勝」

 

 正確には「吉良高校の不戦勝扱い」として決着します。

 

 そしてその決着となったオチについては35巻ではなく、こちらの36巻の冒頭できっちりとネタバレがされていますが、このネタバレについては後程。

 

 

 ちなみに「ドカベン」35巻ないし36巻が描かれたのは1978年から79年頃のこと。

 

 当時小学生低学年だった管理人が初めてこの話を読んだとき、「こんな決着の方法があるんだ」と驚いた記憶があります。

 

 そしてこの「ドカベン」35巻という「神巻」は明訓対白新の「ルールブックの盲点」ばかりに注目が集まりやすいですが、

 

 実はこの巻でさりげなく、しかし非常に重要なことが描かれているんです。

 

 そして管理人が大人になり、水島先生逝去の際にこの話のことを思い出したときに旋律すら覚えたほどです。

 

 おそらく水島先生自身も連載当時はその辺の意識は全くなかったと思うんです。

 

 しかし明訓対白新戦と並行して描かれた吉良対向ヶ丘桜戦の話がなぜ重要なのか?

 

 先ほども触れた通りこの話が書かれたのは1970年代後半と今から40年以上も前のこと。つまり、この話は40年以上前の常識に従って描かれた、ということを前提に、現在の常識と照らし合わせて読み進めていただけると幸いです。

 

 本来ならここから先が本番、というべき内容なのですが、ブログ自体がだいぶ長くなってしまいましたので続きは次回にしようと思います。

 

 そして最後に次回のブログ作成に当たって多少のネタバレをしておきます。

 

 まずは勝者である吉良高校。もともと野球部がない素行不良な学生ばかりの学校で、ひょんなきっかけで校内の不良たちにより野球部が結成されたはいいものの、エースの南海権左をはじめナイン全員が野球初心者で、野球のルール自体もろくに知らないド素人集団。

 

 一方敗者となった向ヶ丘桜高校は当時の典型的な野球部。

 

 しかしあまりに対照的すぎる両者ゆえに、誰もが予想しない展開で勝負が決まってしまいます。

 

 そしてこの試合の最大のキーワードと言ってもいいのがこちら。

 

 「1970年代後半の常識は現在の非常識」

 

 40数年前と現在において、一番変わった常識とは何でしょう?

 

 この試合の決着方法がいつ実際に起こっても不思議じゃない恐ろしさを感じつつ次回に続く。

 

 

<高校野球静岡大会:静清3-0聖隷クリストファー>◇28日◇準決勝◇草薙総合運動場硬式野球場

 

 聖隷クリストファーが、春夏通じて初の甲子園出場に届かなかった。前日27日からの継続試合で、0-0の3回表、攻撃する静清の1死二塁から再開された。聖隷の今久留主倭(やまと)投手(2年)は、この回に1失点し、7回にも2失点。打線は無得点に抑えられた。

 

 昨秋の東海大会で準優勝したが、今春のセンバツ出場校に選ばれなかった。落選の屈辱を、今夏の甲子園出場で晴らすことはできなかった。

 

 2022年の高校野球で一番話題になり、かつ高校野球ファンから今年の選手権大会への出場を一番熱望されたのは間違いなく聖隷クリストファーであることは間違いないでしょう。

 

 まあ何せこのチーム、東海大会直前に正捕手が故障で戦線離脱し、さらに大会中にチームの4番で主将でもあるエースが試合中に利き腕である右腕を投球骨折して戦力が大幅ダウンするハンデを控えのバッテリーを中心にチーム全体でカバーした結果、見事準優勝という結果を残し、過去40年間の東海地区からの代表校選出の慣例から春のセンバツ出場が確実視されていながら

 

「選手の個々の力量が勝る」

 

という長年高校野球を見てきた人間にとっても意味不明な選考理由の前に涙をのみ、そしてこの聖隷クリストファーのまさかの落選がきっかけとなってセンバツの不明瞭な選考基準に対する不満や聖隷クリストファーの追加選出を求める声が上がるなど2022年の高校野球の話題を一身に集める形となりました。(もっとも選出されたところで故障したエースが大会までに間に合うかどうかは微妙なラインだったとは思うのですが)

 

 しかし外野があれやこれやと騒いだところで結果が覆ることはない。

 

 彼らも99.9%選出されるだろうと思っていた甲子園への未練を断ち切り、夏の選手権大会に向けて気持ちを切り替え…とは簡単にいかなかったようで。全国の高校野球ファンからの思わぬ形での注目と、主力の相次ぐ故障からのチーム再建はなかなか進まず、春の大会は地区予選初戦でまさかのコールド負けを喫する事態。(まあ、対戦相手が「140㎞カルテット」と呼ばれる強力投手陣を要する常葉大菊川ですから別に驚く理由もないのですが〉夏の地区予選はノーシードで臨むことが決定し、開幕2週間前に行われた組み合わせ抽選では初戦から難敵を引き当ててしまうクジ運の悪さ。

 

 しかしそのあまりのクジ運の悪さが逆にチームの結束を強めたのか。

 

 それともちょうどいい具合にチーム力が仕上がってきたのか。

 

 大会前の下馬評を覆すがごとく聖隷クリストファーの快進撃が始まった

 

 1回戦 〇3-2 静岡市立(秋ベスト8)

 2回戦 〇10-5 浜松開誠館(第1シード&春の東海大会優勝校)

 3回線 〇8-5 浜松城北工(春ベスト16)

 4回戦 〇9-6 袋井

 準々決勝 〇10-3 三島北(秋・春ベスト16、8回コールド)

 

 初戦の静岡市立は秋の県大会準々決勝の再戦。リベンジを狙った静岡市立を逆に返り討ち。

 

 春の県大会&東海大会を制し、第1シードとなった浜松開誠館は当然今大会の優勝候補筆頭。しかしどんな強豪であっても初戦の入りは想像以上に難しい。そしてそんな相手の心理をうまくついて試合の主導権を握り、一時は同点に追いつかれるものの中盤以降に引き離して2020年の独自大会決勝戦以来の再戦を制す。ちなみに夏の静岡大会には「第1シードジンクス」というものがあるとはいえ、第1シードが初戦敗退するのは実に40年ぶり。

 

 3回戦の浜松城北工は序盤で5点をリードされる苦しい展開ながらも中盤以降にひっくり返して見事な逆転勝利。

 

 4回戦の袋井は比較的くみしやすい相手と思っていたらまさかの乱打戦。しかしチームとしての地力の差で振り切る。

 

 もうこのあたりになると聖隷クリストファーも秋季大会の勢いを完全に取り戻したようで、準々決勝はノーシードながら秋・春ともにベスト16に進んで比較的チーム力が安定している三島北相手に序盤から試合の主導権を握り、終わってみれば今大会初のコールドゲーム。しかもベスト8が揃った時点で秋季大会の上位3校(日大三島、聖隷クリストファー、静岡)が全部生き残っているという非常に珍しい展開。そして準々決勝の結果次第では県大会、東海大会と立て続けに敗れた日大三島と決勝戦で再戦→3度目の正直を制して悲願の甲子園出場、という小説のストーリーになりそうな展開すら期待した高校野球ファンも多かったと思うでしょうが、

 

…現実はそんなに甘くはなかった。

 

 準決勝の対戦相手は第4シードの静清

 

 実はこのチームも秋季大会の地区予選直前に野球部関係者の新型コロナウイルス感染により出場辞退に追い込まれ、戦う前に甲子園への道を閉ざされた聖隷クリストファーとは違う意味でのドラマを持っている。春の県大会でベスト4まで勝ち上がったとはいえ秋の時点ではチーム力が未知数。もしこのチームが秋季大会の時点で県大会まで勝ち上がってきたらどうなっていただろうか。

 

 雨天中止→翌日試合開始も雨天のため継続試合と準々決勝から結果的に3日空いた状態で再開されたこの試合、再開直後の3回表にいきなり静清に先制を許す苦しい展開。そしてこれまでどんなに不利な状況になっても跳ね返してきた打線も静清のエースの前に完全に沈黙。それでも1度は二死満塁、一打出れば逆転というチャンスを作ったもののそこは相手の好守備に阻まれて試合の主導権を握ることができない。そして7回表に2点を追加され、3-0になった時点で試合の流れはほぼ決まった。そしてそのまま打線を完全に封じられた聖隷クリストファーの大人の事情に振り回され続けた1年が終わりました。

 

 正直言いますとね、今年の夏に関しては聖隷クリストファーへの判官贔屓もあって対戦相手としてもやりにくかったと思いますよ。そして同時に聖隷クリストファーとしてもまさかのセンバツ落選から全国の高校野球ファンだけではなく、高校野球に興味がなさそうな人たちからも注目を浴びることになり、そんな中でチームのモチベーションを保つのも、故障した主力選手の復帰待ちからチームを立て直し、秋季大会の結果がまぐれではないことを証明するのは大変だったと思いますよ。それこそ春の地区予選初戦でコールド負けを食らった時点でほぼほぼ「高野連の見立ては正しかった」と断定する向きすらあったぐらいですからねえ。(そもそも春季大会は甲子園大会とは直接関係がなく、あくまで夏に向けてチームを作り上げる時期。1試合でも少ない試合数で勝ちあがるためにシード権を勝ち取ることも重要な戦略ではありますが、この大会にピークを持っていく必要はどこにもない)

 

 しかしそんな外野の声に惑わされることもなく、チームは見事に立ち直った。

 

 そして惜しくも準決勝で敗れ甲子園出場は逃したとはいえ、今年の聖隷クリストファーがセンバツ出場にふさわしいチームだったことは見事に証明された。少なくとも管理人はそう思いたい。

 

 さまざまなドラマを生み出してきた今年の静岡県の高校野球は今日の決勝戦を残すのみ。

 

 秋の東海大会を制しながらセンバツ初戦敗退のリベンジに燃える日大三島。

 

 戦う前にセンバツへの道を閉ざされ、夏の大会にすべてをかけて臨む静清。

 

 決勝戦は午前10時プレーボール。