ゴキゴキ殲滅作戦!

ゴキゴキ殲滅作戦!

念のために言っておくが、私はゴキブリではない。
さらに念のために言っておきますが、このブログはコックローチやゴキブリホイホイとは何の関係もありません。
本と映画と渋谷とフランスについての日記です。

エティエンヌ・バリバールの『マルクスの哲学』(杉山吉弘訳、法政大学出版局)を読了しました。1993年、「ルペール双書」(←入門双書だそうです)の一巻として刊行されたもので、著者は政治哲学の分野では国際的な名声を博する第一人者です。

 

マルクスの哲学を「学説」(原語は doctrine か?)としてではなく、互いに矛盾や緊張を含む「諸断片」として読解しようとする試み。

 

扱われる問題が多岐に渡るので、簡潔な「要約」は不可能です。あえて概略的に紹介すれば、本書の方針を述べ、マルクスの生涯を俯瞰した第一章に続いて、第二章では人間的主体を「社会的関係の総体」と定義し、その活動としての「実践」の重要性を強調して、「普遍的階級としてのプロレタリアート」を析出する。第三章で、知的な差異=「肉体的労働」と「精神的労働」の分割=「分業」と、「イデオロギー」=「普遍性という虚構」によるその隠蔽、「物神性」とそこからの「主体」の生成、さらにルカーチの「物象化論」が分析される。第四章では、「進歩」の概念と「歴史の合理性」=「革命の必然性」について詳説し、マルクス自身による自説の修正が語られる。そして結論に当たる第五章では、これまでの議論を振り返り、「マルクスのために、マルクスに抗して哲学する」ことの必要性を主張します。

 

「良書」だとは思うが、翻訳が生硬でひどく読みにくい。「主語」+「理由」+「結果」の構文(「○○は、××が□□であるがゆえに、△△である」)が頻出するが、ここで「理由」は関係代名詞の非制限用法ではなく、おそらく主節の後に置かれた「副詞節」です。それだと主節の後に訳さないと、論理の順序が逆転してしまう。大学での評価に例えば、「D/不可」とまでは言わないが、「C/可」ぐらい。フランスができる人には、原書で読むことをお勧めします。

 

先日読了したシベルタン=ブランの『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家』で、赤ペンでチェックした箇所を再読してみました。やはり難解で理解できない箇所が数多ありますが、考えたことをいくつか書いておきましょう。

 

・D=Gを読むに際して、たとえば「遊牧」と「定住」、「平滑空間」と「条理空間」といった単純な二項対立を用いて理解することには、徹底的に慎重になるべきである。なぜなら、これらの対置・対立は、数多くの「機械状プロセス」によって重層的に決定されており、それゆえ「遊牧」が「定住」(あるいは逆)に容易に反転したり、「平滑空間」の内部に「条理空間」(あるいは逆)が存在することも、しばしばあるからだ。

 

・数えることのできる「マジョリティ」と数えることのできない「マイノリティ」(無論、この対立も一筋縄ではいかないわけだが)。この議論を『友愛のポリティックス』におけるデリダの主張との関連で論じることができるかもしれない。というのも、同書によれば、「人間である限りでの人間」(それは絶対的な単独性であって、数えることはできない)と、(選挙や議決に際しての)「数えることのできる人間」とを架橋することこそが、政治哲学の課題だからである。

 

・国家なき原始社会に憑依する「原国家」。こうした「国家」の自己前提構造を、デリダの「差延」を用いて分析することができるだろう。さらにデリダの言う「国家創設の暴力」と比較すること。

 

・抵抗の拠点としての、国際的に連帯する「マイノリティー」による「同盟のブロック」=「新たなインターナショナリズム」。これはネグリ=ハートの言う「マルチチュード」と似ているようでいて、微妙に異なっているように思われる。それらの類似点と相違点は何か(あるいは本質的には「同じもの」と考えてよいのか)。さらに、デリダの言う「来るべき民主主義」と比較することもできそうだ。

 

ギヨーム・シベルタン=ブランの『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家/国家・戦争・資本主義』(上尾真道・堀千晶訳)を読了しました。原著は2013年に発表されたもので(邦訳は2018年)、著者はドゥルーズ=ガタリ(以下D=G)の政治哲学の研究で国際的にも有名なフランス人学者だということです。

 

一言でいえば、D=Gが『資本主義と分裂症』二部作(『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』)で提出している「国家・戦争機械・資本主義」の三位一体についての詳細な分析。

 

全体は三部・六章から成り、第一部(第一・二章)では、原始共同体においてすでに前提されていた〈原国家〉から「国家」が誕生するという自己前提構造、そのような「国家」の「力能」としての「捕獲」が分析されます。そして第二部(第三・四章)で、元来は「国家」の外部にあった「戦争機械」が「国家」によって「捕獲」され、そのことによって「国家」も「戦争機械」も変容していく様子が解析される。さらに第三部(第五・六章)で著者は、公理系としての「資本主義」が、「国家」と結託しつつも諸「国家」を超え、全世界を包摂するにいたる過程を詳説し、最後にそうした「国家・資本主義」に対する抵抗の拠点として「マイノリティー」たちと彼らの「連帯」に希望を託す、という構図です(←あまり理解できていないので、違うかもしれませんw)。

 

「リゾーム」や「器官なき身体」といった「派手な」語は用いず(「逃走線」は一回だけ出てきたかもしれません)、彼らの政治哲学をマルクスの発展形として地道に分析しています。

 

具体例をほとんど示さない抽象的な記述が多く、D=Gの原典ほどではないにしても、相当に難解です。おまけに前半部分(第三章まで/上尾訳)は訳文が生硬で、かなり読みにくい。

 

いつものように赤ペンでチェックしながら読みましたが、議論の「筋」がよく見えず、そのため「要点」もわからないので、チェックした箇所だけでも膨大な量になりましたw。これからその箇所だけを読み返し、何か気づいたら「その2」ということで書こうと思っています。

 

劉慈欣(りゅう・じきん)の『三体(さんたい)Ⅲ/死神永生(ししんえいせい)』上下(2010年、邦訳2021年、早川書房)を読了しました。上下巻で850頁を超える大作である上、勤務先の大学で通信教育の「スクーリング」の授業もあって、読み切るのに二週間もかかってしまいました。世界的ベストセラー「三体三部作」の完結編です。

 

地球を遥かにしのぐ科学技術を持つ三体世界。その宇宙艦隊が迫るなか、人類は「面壁(めんへき)計画」を遂行中である(『三体Ⅱ』)。しかし、その背後で進展する第二のプランがあった。それは「階梯(かいてい)計画」、人間のスパイを三体艦隊に送り込むというものである。かくて、主人公である若き航空宇宙エンジニア・程心(ていしん)に想いを寄せる、雲天明(うんてんめい)の脳を搭載した飛翔体が、三体艦隊に向けて発射された。

 

他方、前作の主人公・羅輯(らしゅう)は「暗黒森林作戦」の実行者である「執剣者/ソード・ホルダー」となっている。高齢のため引退することになり、第二代「執剣者」として圧倒的多数で程心が選出された。就任式典の直後、太陽系に潜んでいた「水滴」(←わずか一機で地球の宇宙艦隊2000隻を殲滅した)三機が地球に向けて発進する・・・

 

超微細人工知能「智子(ソフォン)」を搭載する女性型アンドロイド「智子(ともこ)」、地球の残存戦艦が深宇宙で遭遇する「四次元のかけら」、光速推進を可能にする「空間曲率ドライヴ」、三次元空間を二次元化してしまう超兵器、天明が廷心に贈る小宇宙「宇宙♯647」等々、アイディアの多彩さ、ストーリーの震幅が凄まじく、驚嘆することもしばしばです。

 

掛け値なしの「傑作」。絶対にお薦めですね!

 

劉慈欣(りゅう・じきん)の『三体(さんたい)Ⅱ/黒暗森林』上下(2008年、邦訳2020年、早川書房)を読了しました。世界的ベストセラーになった「三体三部作」の第二編です。

 

太陽系から4.3光年離れ、三つの太陽からなる三体世界。地球を遥かにしのぐ科学技術を持つ彼らは、地球を侵略すべく1000隻の宇宙艦隊を発進させた。彼らの宇宙船の速力は最大で光速の10%に達するが、加速・減速にも大きな時間がかかるため、地球に到達するのは400年以上未来のこととなる。

 

他方で、地球。三体文明が多数送り込んだナノサイズのスーパーコンピュータ「智子/ソフォン」によって、地球上では基礎物理学の実験がことごとく妨害され、もはや物理学の発展は不可能となった。同時に、地球側のあらゆる情報が「智子」を介して三体世界に報告されている。とは言え、「智子」といえども人間の心の中まで見通すことはできない。そこで、「惑星防衛理事会」は四名の「面壁人/ウォール・フェイサー」を選出し、来たるべき「最終決戦」に向けて戦略を立てることを依頼する。「面壁人」の一人で宇宙社会学者の羅輯(らしゅう)は・・・というお話。

 

壮大なスケールを持った重層的なストーリーが、凄く面白い。

 

200年の人工冬眠から覚めた羅輯が見る未来社会と「宇宙軍」の構想は、大変興味深いと思います。三体世界の探査艇「水滴」(形状からそう呼ばれる)一隻が地球艦隊2000隻を殲滅する場面は、背筋が凍る。また、地球を離脱した戦艦「自然選択/ナチュラル・セレクション」とその追撃船四隻の末期も、残酷ではあるが説得力を持っている。

 

オバマ大統領やメタのザッカーバーグCEOも愛読者だとのこと。お薦めですね。

 

本日、午前11時ごろ、今年の仕事を終えました。

 

大学の授業は22日(金)に終了し、その晩はZoomで会議。ここで「仕事納め」でもよかったのですが、「義務=やらなければならない仕事」が残っていると気分的にリラックスできないので、今のところできる仕事は全て片づけてしまおうと考えたのです。

 

で、来年度の「シラバス」で今書けるものは全て書き、一月の授業資料(3クラスだけ残っている)と期末テスト(5クラス分)を作成。さらに来年新しく使うことになった教科書(ある大学で「統一教科書」にしようという計画がある)の「練習問題」の「正解」と「和訳」をパソコンに入力する。それから、確定申告のため、「医療費」の一覧を作り、「決算書」(「原稿料収入」があるので)も作成しました。

 

その後はノンビリと、新聞の読み残した記事を読んでいます。明日、実家に帰って、お正月は図書館で借りてきた『三体Ⅱ/黒暗森林』の上巻を読む予定です。

 

では皆さま、よいお年をお迎えください。

 

『ドゥルーズ=ガタリ〈千のプラトー〉入門講義』(仲正昌樹/作品社)を、ようやくのこと読了しました。読み始めたのが10月8日ごろでしたから、まるまる10週間を費やしたことになります(学期中、読書に当てられるのは日曜と月曜だけなので)。

 

「入門講義」と称していますが、「入門書」ではありません。内容は相当に難解で、著者の解説を読んでもよく分からない箇所が多々あります。とは言え、そもそも原典が難解を極めるので、それはやむを得ないところでしょう。

 

著者は、あの浩瀚な書物で引用・言及される文学、哲学、文芸批評、言語学、文化人類学、考古学、経済学など多岐にわたるテクストを、実際に参照した上で、原典を丹念に読解して行きます。

 

私は『千のプラトー』後半部分では、「リトルネロ」と「生成変化」の概念がよく理解できていなかったのですが、仲正さんの解説は明晰で、今ではそこそこ分かったように感じます。

 

また、第13プラトー「BC7000年/捕獲装置」の国家論・資本主義論も晦渋で、理解できない部分もありますが、非常に興味深いと思いました。

 

森田裕之さんの『ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む』(作品社)に始まり、私にとってこの一年は「ドゥルーズの一年」でした。ここに来てようやく、ドゥルーズ(+ガタリ)の姿が、おぼろげながら見えてきました。

 

次は何か小説(←『三体Ⅱ』にしようかな)を読んで、冬休みに本書の赤ペンでチェックした箇所を読み返そうと考えています。

 

仲正昌樹さんの『〈千のプラトー〉入門講義』(作品社)を読んでいます。先月初旬に読み始めて、ようやく半分ほどが終わりました(学期中、読書に当てられるのは週二日だけなので)。

 

以前紹介した『「アンチ・オイディプス」入門講義』と同様、週刊読書人が主催した計7回の「連続講義」を書籍化したもので、二段組み440ページ超の大著です。

 

ドゥルーズ=ガタリの原著から引用しつつ、その内容を読み解いていくという形式ですが、「よくここまで調べたな」というのが率直な感想。「地層」の概念やイェルムスレウの言語学など、原著を読んだときは全く理解できなかった事柄が、目から鱗が落ちるように分かります。

 

サルトルやデリダについての記述など、「違うのでは?」と思う箇所もままありますが、全体的には「力作」と言ってよい内容でしょう。

 

上に書いたとおり厳しい読書環境ですが、何とか年末までには読破したいと考えています。

 

岩波書店創業百年記念シンポジウム『知の現在と未来』を再読しました。2013年に開催されたセッションの記録で、刊行は翌年の8月。購入後割と早めに読んだはずですが、このブログでは紹介していなかったようです。

 

全体は二部(←シンポジウムが二日間に渡る)から成り、それぞれ基調講演とパネル討論で構成されています。第一部は広井良典(現在は京都大学教授)の講演「ポスト成長または人口減少時代における科学と知」の後、広井、高橋源一郎他二名での討論。第二部は柄谷行人の「資本主義に安楽死はない」の後、金子勝(慶応大学教授)、國分功一朗(東京大学教授)他一名での議論でした。

 

広井の基調講演が圧巻。5万年前の「心のビッグバン」(=壁画や装飾品の出現)を狩猟採集社会の「定常化/停滞化」、紀元前5世紀頃の「枢軸時代/精神革命」(=世界各地における儒教・老荘思想、仏教、ユダヤ教、ギリシア哲学の同時多発的な誕生)を農耕社会における「定常化」の結果と捉え、さらに現代を人類史上第3の「定常期」とみなします。その上で、福祉・環境・文化・町づくりなどローカルなものを中心とする、新たな「倫理」の可能性を主張する。

 

第二部の柄谷の基調講演は『世界史の構造』の一部を要約したもののようですが、「要約」であるが故か、論理の飛躍や説明不足な部分が多く、いろいろな論者の意見を継ぎ接ぎしただけの「パッチワーク」のように見える。しかし、終盤での「ウクライナ戦争」を予言したような一文には戦慄しました。

 

セッションについて言えば、金子の「集中メインフレームから分散ネットワーク型へ」という主張は、第一部の広井の議論と重なって、大いに説得力があると思いました。また、國分の「これからの国家にどういう役割を求めるのか、それをしっかりと理論的に考えねばならない時期に来ている」という発言にも、同意します。

 

10年前のシンポジウムですが、古さは感じさせません。お薦めですね。絶版になっているようなので、図書館でどうぞ。

 

仲正昌樹さんの『ポストモダンの左旋回』(作品社、2017年)を読了しました。2000年前後に書かれた論考9編をまとめた旧版に、その後執筆された5編を加えた「増補改訂版」です。

 

マルクスから語り始め、柄谷行人と浅田彰、デリダ、ドゥルーズ=ガタリ、リチャード・ローティなどのポスト・モダンの思想家とその政治思想を分析。14の章はそれぞれ独立しているので、自分が読みたい章だけを読めばいい(実際私も、第4章のほとんどと第5章は飛ばしました)。

 

圧巻だったのは、柄谷行人の『マルクス/その可能性の中心』を高く評価しながら、90年代以降の柄谷・浅田の政治活動を批判した、第3章「マルクスの学位論文における『偶然』の問題――柄谷行人がやり残した課題」。

 

また、第8章「ポスト・マルクス主義としてのプラグマティズム――ローティの『文化左翼』批判をめぐって」も、ローティの思想を簡潔にまとめてあって、勉強になりました。

 

さらに第6章「ドゥルーズ=ガタリと『資本主義』の運動」、第7章「ポスト・モダンの『左』転回――デリダ、ローティ、そして柄谷行人(?)」も、読み応えのある良い論文だと思います。

 

ただ、新たに加えられた5編を含め、すべてが2004年までに書かれたもので、加藤典洋の『敗戦後論』(1997年)や高橋哲哉の『戦後責任論』(1999年)の批判などは、若干の「古さ」を否めません。

 

良書だとは思いますが、図書館で借りて、興味を感じた章の興味を感じた箇所だけ読めば、それでよいのではないでしょうか。