大河ドラマ『光る君へ』第15話「おごれる者たち」見ましたー。
どうやら定子と面会を果たした ききょう…というのが前回、次回予告で1カットあって。
清少納言が初出仕したのが、993年冬。
「もしかして次回、993年まで時間を飛ばされる…?」と心配していたら、永祚2年(990年)からスタート。
そうよね!990年から993年の間には、円融上皇の崩御とか、詮子が「東三条院」となって日本初の「女院」になるとか、定子の立后に出席しなかった道長とか、公任の出世事情とか、色々あるから飛ばされることはないよね!
…と思ったら、3分の1あたりで一条天皇が大人に御成りして、正暦4年(993年)にターイムスリーップ(笑)
紫式部大河なので、政治まわりのことは飛ばされても仕方がないとはいえ、なんかねぇ(慣れて来たとはいえ)
しかし、詮子が「女院」になる下り、やらなくていいの?ワタクシは詳しくは知らないけど、『源氏物語』にそれを下敷きにしたらしきお話があると聞いてますけど(繰り返すようですが、ワタクシは『源氏物語』読んだことがありません)
というわけで、その他の楽しかったところや、気になったところを、いつものようにピックアップしていきます。
◆詮子の子離れ
定子を「中宮」とした道隆の専横が始まり、詮子は追い出されるように「職曹司」へ移動させられておりました。
「職曹司(しきみのぞうし)」というのは、「中宮職」の庁舎。
「中宮職」は「三后」に付属しているオフィスで、その事務所…というわけ。場所的には「内裏」のすぐ東側。
事務所なので「居住場所」ではないのですが、「摂政・関白」の直廬(宿直する時の執務室)としても使用されていたので、「泊まれる所」ではあったんでしょうかね。
(内裏の右側にあります…が、小さくて見づらい…か。すみませぬ…)
『光る君へ』より百数十年前、清和天皇の時代の太政大臣(事実上の「摂政」)だった良房も「職曹司」を直廬としていて、「応天門の変」(866年)の時、跡継ぎの基経から「藤原良相と伴善男が、左大臣・源信を逮捕しようとしている」という急報を「職曹司」で受け、異変を鎮めるべく即座に参内しています。
藤原の兄弟たち(権力者選抜編)(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12802109450.html
(良房の場合、当時「病で半分隠居」状態だったのに「宿直」するかな?と考えると「泊まっていた」というより「住んでいた」ような気がするんですが、どうなんでしょうか…?)
ただ、兼家や道隆は内裏の「淑景舎(桐壺)」で執務していたようで、この頃の「職曹司」は、泊まる場所としては誰も使用しておりませんでした(ちなみに、後年の道長は「飛香舎(藤壺)」)
定子が入内して一条天皇と閨閥を形成すると、詮子は内裏を出て「職曹司」に居所を移しました。これを「追い出された」と見るかどうかは、意見が分かれるところ。
ところが「職曹司」の北舎で「怪異が出た」という報告があり、詮子はすぐに「職曹司」を退出して「東三条殿」へ里帰り。
やがて「土御門第(道長の邸)」に移るのですが、この時に「詮子と道長の関係」というのを、公家社会は強く認識した…と言われているようですねー。
後年、とある事情で定子が「職曹司」にやって来てしまうのですが、それはまた、その時に触れるかもしれませんね…ということで。
◆タナトスの誘惑
「頭中将(とうのちゅうじょう)が似合う人ベスト10」を作ったら、必ず入選する男、それが公任!(鼻息)
「頭中将さまがお越しです」と取り継ぎがあり(ここで思わず「おお!」と声が出てしまったワタクシ)、道長のところへやって来て、何の話かと思ったら…「お前の兄さん、うちに住み着いて困ってるんだけど」
な、なんだってー????
寝耳に水、藪から棒、青天の霹靂、Caught off guard!!(何)
道長が公任の邸に飛んでいくと、スッポンポン(頭が)になって酒をラッパ飲みしている道兼兄の姿。何故か女物の袿をかぶっておりました(何があったんだ)
「父上に騙されて己を殺して生きて来た」「妻や子にも捨てられた」「生きる場所なぞない」と、すっかりやさぐれたご様子。
「しっかりなされませ!」「この世で幸せになっていただきたい!」「これからではございませんか!」と、道長に励まされ、号泣。
こういう時、手を差し伸べてくれたのが「お前を置いてはいかぬ」といった道隆兄ではなく、あんなに争い続け、殴りかかって来たこともある道長とはねー。道兼と道長、初めてに近い兄弟らしいシーンが、こんな慰めの場面になるとは。
道兼は「死にたい」とか「道隆の首を取りたい」とか、すっかりタナトスに魅せられておりますな…。
あれだけの汚れ仕事をしながら、根は純粋ということなんでしょうか。思えば道隆一家の音曲を楽しそうに耳を傾けたり、「五節の舞い」を楽しみにしたり、まひろの琵琶に涙したり、ピュアな面は時々見せているんだよなぁ。
「摂政の首を取りたい」と言ったのは、「七日関白」の伏線もあるんでしょうけど、史実では道兼に仕えていた家人の源頼信(みなもと の よりのぶ)が「道隆の首を取ってやろうか」と言っていた…という『古事談』を元ネタにした台詞でしょうかね。
源頼信は「清和源氏」で、「河内源氏」の祖。「道長四天王」の1人。後に鎌倉幕府を開く頼朝の、6代祖です(頼信-頼義-義家-義親-為義-義朝-頼朝)
「寛和の変」の時、騙されたことを知った花山天皇が道兼に跳びかかろうとしたのを2人の武士が止めていましたが、そのうちの1人だっただろう…と予想されています(キャスティングに名があったわけではない)
「道隆の首を取ってやろうか」と言った頼信は、20歳年上の異母兄・頼光(摂津源氏の祖)に窘められたことで諦めた…とお話は続いております。
本当、平安時代って平安じゃないな…と思わせる代表格みたいな人物です(^^;
なお、史実の道兼は正妻と子がちゃんとおりましたし(尊子の母子ではありません)、二条に本邸、そして粟田に別荘を構えて、摂関家の子息らしい立派な生活をしておりました。
ここまで破滅しているのは大河オリジナルなのでご安心(?)くださいw
(993年の場面で「内大臣」になっておりましたし、次回予告でも「汚れ仕事は俺の役目だ」と、キリっとした横顔で言っていたので、立ち直ったのは表れておりましたが)
◆正暦4年の元日朝賀
時は流れて、正暦4年(993年)の雪の日。大人バージョンの一条天皇(13歳)が御成りあそばして、御前に公卿がかしこみ並びます。
正暦4年…ということは、これ日本史上で最後となる「元日朝賀」でしょうか。
「元日朝賀」は、「即位儀」に似た儀式を、毎年元日に開催することで天皇と貴族の関係を再確認する行事なのですが、800年代頃から廃れはじめて、一条朝の正暦4年を最後にやらなくなりました。
理由は、たぶん「もっさりし過ぎて面倒くさい」から(笑)。だいぶ小規模に収まった「小朝拝」に取って代わられ、天皇と公家の関係の再確認も、上層部だけで行うようになったようです。
ともあれ、これ「元日朝賀」だったらいいな…大人一条帝の初披露をするイベントとしても相応しいですし、ワタクシの中ではそういうことにしておこう!としました(何)
正暦3年(992年)に「蔵人頭」となった俊賢が姿を見せている(平安好きには、ここ重要)ほか、公任は黒い衣冠を身につけて「参議」に…。
えっ、頭中将はあの1回で終わり??「頭中将が似合う人ベスト10」を作ったら、必ず入選する男なのに…(←しつこい)
公任は、まだ花山朝の天元6年(983年)「左近衛権中将」になるのですが、一条朝になると父・頼忠が「関白」を停められてしまったせいか、昇進が止まってしまいます。
永延3年(989年)「蔵人頭」に任ぜられ、ようやく「頭中将」となりました。
実に、父が亡くなる4か月前のこと。ということは、最期を悟った父が「太政大臣」の意地を見せて、息子の出世をはかったのだろうか。
その後、またも昇進は捗らず、正暦3年(992年)に「参議」になるまで、ずーっと「頭中将」。
伊周がわずか5ヶ月で「蔵人頭」を辞して(永祚2年(990年)7月10日~翌年正月26日)「参議」に上がったのとは雲泥の差。同時期に道頼(伊周の異母兄)も1年半で「参議」になっているので、3年はだいぶ長過ぎます。
この「道隆政権」の冷遇に不満を抱いたことが、道隆と反目していたと言われる道兼に接近した、大きな節目だったとワタクシは思います(公任と道兼は「花山院歌壇」の歌人として親しい交流があり、公任の妻は道兼の養女です)
『光る君へ』では、頼忠が「道兼の懐に入れ」と助言しておりましたが、まさに「参議」への昇進は、道兼(この時は「内大臣兼右近衛大将」)が口添えしたんじゃないかな…と(確証はないけれども)
ともあれ、正暦4年にひとっ飛びということは、正暦2年2月12日(991年)に崩御した円融上皇の出番なし(ナレ死さえなし…)
円融天皇@坂東巳之助さんの最後の出番っていつだった??と探してみたら、たぶん第3話「謎の男」で、譲位について兼家に諮問しているシーン…1月でもう出番終わりだったんですね(驚)
てっきり「仁和寺御前試合」(986年)が描かれて登場すると思っていたので、油断してましたわ…。
※さらに探してみたところ、どうやら第4話「五節の舞姫」で、「毒をもったこと許さぬ!」と詮子に扇子を投げつけるシーンが最後っぽい。どのみち1月で終わっていたのか…
あと、同じ991年没の平兼盛(赤染衛門の実父とも言われる。『百人一首』40番の詠み人)と大中臣能宣(伊勢大輔の祖父。『百人一首』49番の詠み人)もお亡くなりに。『光る君へ』の登場ナシが決定しました(うん、知ってた)
◆栄転する者、残される者
まひろの弟・惟規が「大学寮」に進むことが決定!意外と優秀(笑)
まひろは琵琶を奏でて祝います…が、惟規の言う通り、琵琶の音は祝賀という感じがないですな…(楽器間違えとると思う)
そして、ききょうが「宮仕えが決まった」と、まひろに報告。
「父も夫もいないので、喜びを分かち合える人が居なくて…」と、来た理由を述べておりました。
…この大河、ホンマに清少納言と橘則光の交流を描く気ねーんだな(まぁ、紫式部大河なんで当然といえば当然…)
その後、取り残された まひろが憂いの表情を浮かべ、琵琶を眺めます。
SNSで「同じ場にいたのに、自分は採用されなかったのを憂いた」と評している意見がありましたけど、それよりは「自分のやりたいことが見つかる人がいる一方で、自分は何も変わらない」ことを憂いている姿ですよね。
台詞も「わたしは一歩も前へ進んでいない」でしたし。
この場面で(バイトで書いている?)漢詩を指でなぞるシーンがありましたが、これ白楽天の『琵琶行』だったそうです。
『琵琶行』白居易
潯陽江頭夜送客
楓葉荻花秋瑟瑟
主人下馬客在船
挙酒欲飲無管絃
酔不成歓惨将別
別時茫茫江浸月
忽聞水上琵琶声
主人忘帰客不発
尋声暗問弾者誰
琵琶声停欲語遅
移船相近邀相見
添酒迴燈重開宴
千呼萬喚始出來
猶抱琵琶半遮面
主人は馬より下り
酒を挙げて飲まんと欲するに管絃無し(杯を挙げて酒を飲むが興をそえる音曲がない)
酔うて歓を成さず惨として
別るる時
主人は帰るを忘れ
声を尋ねて暗に問う弾ずる者は
琵琶の声は
船を移して相近づき
酒を添え
白居易は生涯を通じて官吏としての人生を全うした人物でしたが、四十代の頃に越権行為を咎められて、一時期だけ左遷の憂き目に遭っています…というのは、以前にも語った通り。
漢詩の授業を想うて(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12842841117.html
『琵琶行』は、その左遷先で詠まれた「七言歌行(楽府の1種)」。
816年の作というので「香炉峰の雪のアレ」の1年前の作ですな。
「香炉峰の雪のアレ」は、左遷先で「長安だけが都じゃないさ」とふてくされている歌なのですが(言い方)、『琵琶行』は「左遷された身を嘆く」歌。
左遷先で客人を見送った時、たまたま芸者が弾く琵琶の音が聞こえて来て。
その芸妓を呼び寄せて話を聞くと、都から落ちぶれてこの地にやってきた者でした。
その身の上話を聞くうちに「この落魄した芸妓は流謫の身となった私と同じだ…」と感じ入って、詠まれた歌が『琵琶行』…となっています。
まひろがなぞっていたのは「声を尋ねて暗に問う弾ずる者は誰ぞと(声を尋ねて、そっと聞いてみる。誰が弾いているのかと)」の部分。
漢詩が指し示すその先の展開は「答えは返ってこない」。
「私は一歩も進んでいない。ではどこへ行くべきか?」を、琵琶は答えてくれなかったんですなー。
◆弓競べ
宮中のカネ使いが荒くなっている事情を調べ上げるべく、道長は道隆の邸を訪ねます。
「何故出仕されないのですか?」との問いに「朝から体がだるい」と道隆。お酒が過ぎますから兄上様…。
あれこれと苦言を呈すると「お前は実資か」と、明日使いたくなる日本語が飛び出します(笑)
道隆は「お前は実資か」で、道兼は「思い込んだら誰よりもしつこい人物」
実資の愛されキャラぶりよなw
今回の目玉のひとつ、道長と伊周の「弓競べ」は『大鏡』にも載っている有名なエピソード。内容としては意外性はなかったけど、やっぱり映像化するとええの~と感激しますw
なお、SNSでは「道長は関白になってないから、道隆が止めなくても的には当たっていなかった」というコメントが見られましたが、『大鏡』によると、射た上にちゃんと命中しています。
ご存知の通り「御堂関白」と呼ばれつつ道長自身は「関白」にはなっていません。
なのに、なぜ誓いの矢は命中したのか?は、謎。まぁ物語ですから…って感じですかね。
ただ、これより後世になって、「夜の関白」と呼ばれた藤原顕隆(鳥羽天皇の乳母夫。葉室家の祖)は「正三位 権中納言」だし、「平関白」と呼ばれた平時忠(清盛の正室・時子の弟)は「正二位 権大納言」。鎌倉時代に「源博陸(博陸=関白)」と呼ばれた源通親(村上源氏。後鳥羽天皇の乳母夫)は「正二位 内大臣」で、いずれも「関白」と呼ばれたのに「関白」になっていません。
というのを鑑みるに、権勢をほしいままにした執政者を「関白」と呼ぶ慣習があったのかな…というあたりに落ち着きますかね。
ドラマの結末の方が、「関白」にはなっていない伏線として機能するなぁという感じはありそうですかねー。
◆左大臣雅信さま薨御
正暦4年7月29日(993年)。左大臣・源雅信、薨御。
道長は後ろ盾を失って、出世に陰りが見えることになってしまいましたが、「権大納言なら素晴らしい」と義母さまが申しておりました。
いつの間にか「不承知」が決め台詞に…(笑)
「藤原氏全盛の世に16年の長きに渡って左大臣をつとめた」とナレーションで言ってましたが、これより2年前の正暦2年、同母弟の源重信が「右大臣」に昇っています。
つまり、この2年間、兄弟で左右の大臣を務めていたわけ。
朝堂のツートップに並び立つ兄弟の画ヅラ、なし…ってこと?見たかったなぁ…(涙)
ちなみに、雅信の後任には、この弟の重信が立っております。それは、きっと見れる…と信じたい。注目注目。
その左大臣危篤の知らせは、明子女王のもとで受け取っておりました。
明子女王も、兼家が亡くなってから憑きものが落ちたような顔になっております(まぁ、あの呪詛してる設定そのものが要らなかったんですが)
子供を身ごもっているようで、これは道長の次男・頼宗ですね。
そういえば、この年は伊周にも子息の道雅が誕生しています。
「いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで言ふよしもがな」の『百人一首』63番の左京大夫ですね。
これもまた、その機会があるようなら改めて…となりますかね。
◆清少納言の由来
ききょうがいよいよ、定子さまに面会。
顔を挙げた瞬間…やり過ぎなくらいに惚れ込んでおりました(笑)
「清少納言」は、彼女の周囲に「少納言」になった人物がいないので、由来が不明。『真田丸』(2016年)の時の「幸村」のようにどうやってその名になるか?は注目の1つでした。
定子が「せい…しょうなごん」と名付けた時、貴子が「さすが中宮さま。姓は清原、夫が少納言でございますのでね」と言っていたんですが、これって…?
貴子、ききょうの才能を見抜いて女房に…となった所までよかったけれど、身分がアレ過ぎて定子に渋られそうだったから、「夫が少納言なんですよ」というテイで連れて来たとか、そういうことですかね…?
しかし、ききょうは「夫とは別れましたし、そもそも夫は少納言ではありません」とバカ正直に(笑)答えつつ、「清少納言…それでいきましょう」とお気に入り。推しにつけてもらったんだから、そりゃ惚れちゃいますよねw
ちなみに、「少納言」というのは太政官の職の1つ。
なんとなく「大納言」や「中納言」が出席している「陣の座」に、「少納言」も顔を並べている…というイメージを持ちやすいのですが、「少納言」はこの場には上がれません。
「陣の座」には、「大臣(左・右・内)」「大納言」「中納言」そして「参議」が参加し、これを「議政官」と呼びます。
「議政官」の下には「左弁局」「右弁局」「少納言局」の3つの事務部局がついているのですが、少納言は「少納言局」に勤めているというわけですねー。
少納言のお仕事は政策決定ではなく、儀式の執行、印や符の管理といった業務担当スタッフ。文章(詔勅・宣旨など)の作成もやっていて、「少納言局」の下に文章の作成を担当する「外記局(げききょく)」があるのですが、内容がかぶっていたのか、後に同一機関のようになっていきます。
なんとなく、女御や中宮さまが「学才があって使いやすいデキる女房」を「少納言」と呼びたくなる気持ちも分かるような気がしますね(笑)
ちなみに、清少納言の父・清原元輔はすでに故人ですが、最終官位が「従五位上・肥後守」なので、もし「清少納言」ではなく通常通りの女房名がつけられていたとしたら、「肥後」と呼ばれていたのでは…と言われているそうです。
肥後…。
……。
………。
ここはやはり「清少納言」でお願いします(笑)
なお、従五位上は「少納言」になれる官位だったので、元輔が「本当は少納言になっていた(ちなみに、少納言は国司と兼任もできる)」あるいは「そのテイで定子が名付けた」ということも考えられるそうですよ。
◆宮にはじめてまゐりたるころ
というわけで、清少納言の初出仕が描かれていたのですが、『枕草子』によると季節は冬で、時間帯は夜だったはず…。
その思い出は「宮にはじめてまゐりたるころ」という段に書かれていて、このブログでも紹介しました。
清少納言の居場所(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12790414497.html
朝となり、ようやく初出仕を終えて、いざ帰ろうと外に出ようとした時。
「ゐざり帰るに や遅きと 上げちらしたるに 雪降りにけり 登華殿の御前は 立蔀近くてせばし 雪いとをかし」
外は真っ白な雪景色で、世界はこんなにも美しかったのかと、はっとした…
と描かれているので、やはり初出仕は冬の夜。
『光る君へ』の初出仕のシーンで引きになった時、屋根に菖蒲が下げられているのが映っていて、「菖蒲の輿」も見えることから、「端午の節会」…つまり旧暦5月頃を想定していることが分かります。
清少納言の初出仕が端午の節句の頃…ワタクシは寡聞にして聞いたことがないんですが、『枕草子』ではない、何かしらの史料などが参照されている…ということなんですかね??
(これが、今回の中で最も気になっている所…)
◆石山詣で
さわに誘われて、まひろは「石山詣で」の旅路へ。
意外なことに為時の許可をすんなりとゲットして、琵琶湖の南岸・瀬田を目指します。
ここでも何度か紹介していますが、まひろの自宅は現在の「盧山寺」のあたりにありました。
石山寺まで、女性の足でどれだけかかるんでしょうかね(Google Mapによると徒歩で4時間半。まぁ、打出浜あたりから船で瀬田川を下るルートだったのかな)
石山寺で「思いもよらぬ出会い」は、てっきり最近出番のない赤染衛門かと思ったら、道綱母ですか!
「わたしは日記を書くことで、おのれの哀しみを救いました。あの方との日々を日記に書き記し、公にすることで、妾の痛みを癒したのでございます」
という、後に紫式部が『源氏物語』を書くことになるルーツを受け取りました。
本当、大河ドラマって様々な人物から想いを受け取り、人生ノートに書き写していくドラマですよなぁ。
夜になって、道綱が まひろと間違えて さわを夜這いしそうになり、でもできなかった…というシーンが差し込まれ(道綱くんは母の苦悩を見ているから据え膳は食えぬのだな)
『蜻蛉日記』に精通する学才、恋の機微を熟知する経験、そして道綱に求められるモテ度。
まひろは何となく自分と同じような女性と思っていたのに、自分とは全く違っていた…と思い知らされた さわ…という描写が為されて、次回へ続く。
これが今後、どんな話に繋がっていくのか…?
といったあたりで、今回は以上。
一条天皇が大人に御成り遊ばして、定子さまとのツーショットがまばゆいですw
中関白家の夢のような栄華は、花のように短く…。しかし、映像は永遠に残る。
もっともっと、中関白家の1コマが欲しいですなー。
同時に「せっかくの平安大河、あんなシーンやこんなシーンが見たい!」というのが、ワタクシには山のようにたくさんあるんですが、どんどん削られて行ってます(涙)
『平清盛』の時もボヤきましたけど、スピンオフ作品とか、やってくれないものかなぁ…。
【関連】
大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html