『光る君へ』は『枕草子』で有名な、あのシーンが大河ドラマの時間帯で映像化。

 

SNSでは盛り上がっておりましたし、ワタクシも盛り上がりました(まじで)

 

あのシーンを「香炉峰の雪」と呼ぶ向きがありますが、章段は始まりの文言を取って題すると「雪のいと高う降りたるを」。

 

雪のいと高う降りたるを 例ならず御格子みこうしまゐりて 炭櫃すびつに火おこして 物語などしてあつまりさぶらふに 少納言よ 香炉峰の雪いかならむ と仰せらるれば 御格子上げさせて 御簾みすを高く上げたれば 笑はせたまふ 人々も さる事は知り 歌などにさへうたへど 思ひこそよらざりつれ なほこの宮の人にはさべきなめり と言ふ

 

ある冬の雪がとても積もった日。

いつのもように格子を下ろして、炭の火にあたりながらおしゃべりをしていると、定子が思いついたように、清少納言に「謎解き」を投げかけます。

 

少納言よ。香炉峰の雪は如何であろう(少納言よ 香炉峰の雪いかならむ)」

 

香炉峰の雪…といえば?でピンと来た清少納言は、やおら立ち上がると御簾をするすると巻き上げ、雪景色を中宮さまにご覧いただき。

 

女房達は「その歌は知っていたけど、それに倣って同じことをするなんて、思っても見なかったわ。宮人ならそうするべきよね」と口々に賞賛しましたとさ…という段。

 

 

女房達の知っていたという「その歌」とは、白楽天(白居易)の漢詩。

 

 

『香炉峰下新卜山居』白居易

香炉峰こうろほうの下に山居を新たにぼくす)

日高睡足猶慵起

小閣重衾不怕寒

遺愛寺鐘欹枕聴

香炉峰雪撥簾看

匡廬便是逃名地

司馬仍為送老官

心泰身寧是帰処

故郷何独在長安

日高くねむり足りてくるにものう(日が高くなり眠りも足りているのに、まだ起きたくない)

小閣しょうかくしとねを重ねて寒きをおそれず(小さな家に布団を重ねて寝ているので、寒さの心配はない)

遺愛寺いあいじの鐘は枕をそばだてて聴き(遺愛寺の鐘の音は枕を高くしてじっと聞き)

香炉峰こうろほうの雪はすだれかかげて看る(香炉峰に積もった雪は簾を高く上げて眺める)

匡廬きょうろ便すなはれ名をのがるるの地(ここ廬山はうるさい世間様から逃れるにはピッタリの場所)

司馬しばおいを送るの官(司馬という職務も老後を過ごすにはピッタリの官職)

やすく身やすきはするところ(心も身も安らげる場所こそが帰るべき所である)

故郷なんぞ独り長安に在るのみならんや(故郷は長安だけだと、どうして言い切ることができるだろうか)

 

「香炉峰雪撥簾看(香炉峰こうろほうの雪はすだれかかげて看る)」←この部分を清少納言は実践した…ということですね。

 

この漢詩については、以前に語っているのでリンクを回すとしてw

 

漢詩の授業を想うて(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12842841117.html

 

『枕草子』の有名な段に引用されたがゆえに、日本人なら結構、馴染みのある白楽天の漢詩。

 

実は、本場中国ではあんまり知られていない…と知ったのは、むかし勤めていた会社でのこと。

 

その会社、ワタクシが入社した翌年の夏に中国人研修生の受け入れを始めたのですが、その世話係を命じられたのが、入社2年目のワタクシ。「三国志が好きだから」という部長の意味不明なゴリ押しでした(苦笑)

 

まぁ、研修生はみんな年齢が近く、通訳さんがいたので会話には困らないし、仕事を教えること以外に、買い物や外出の付き添いをするとか、一緒にお昼を食べるとか、たまに様子見に研修寮を訪問するとか(そのうち「たまに」ではなくなってきたりしてw)、そんな程度のことだったので、大きな苦難はなかったのですが…。

 

で、ある日。「香炉峰の雪」の話題になってみたら、10人いた(通訳さん入れて11人)中国人が誰1人として「これを知らない」と分かって、衝撃を受けました。

 

「白楽天」自体はご存知だったので、単純にこの漢詩自体が中国ではマイナーだったんですね…。

 

考えてみれば、それはそうかもしれない。

 

日本だって『枕草子』で引用されて、それが教科書に載っていたから、ここまで有名だったわけで。

 

定子さまが思い出して、清少納言が記録しなかったら、たぶん日本でも誰も知らないですよね…(清少納言って偉大だな!)

 

 

で、「じゃあ、あちらで『白楽天』といえば、何がメジャーなの?」と聞いてみたら、色々と教えてもらえました。

 

たぶん10個くらい答えてくれたと思うのですが、全然知らない詩ばかりで、さらに昔のこと過ぎるので忘れてしまって、いまは3つほどしか覚えていません…それも「たぶんコレだったような」レベルで…(^^;

 

 

もし中国の人と何らかの事情で知り合いになって、白楽天の話になった時。

「香炉峰の雪」で語り掛けても、共通の話にはなりにくい。

 

(白楽天の話になるのか?…って?上記の通り、ワタクシはなりましたよ)

 

それでも全く問題ないのだろうけれど(笑)、どーせだったら、あちらの人が知っていそうな白楽天の漢詩を、予習として見ておくというのも、それなりの「教養」として好都合なのではなかろうか。

 

 

というわけで、今日は「中国人と話す時のための白楽天」というテーマで、白楽天の漢詩を3つほど(と言いつつ都合4つ)、ご紹介してみたいと思います。

 

 

なお、白楽天は姓が「白」、名は「居易」、字は「楽天」。

 

なので「白楽天」とも「白居易」とも呼ばれるのですが、ここでは同時代の他の人を「姓→名」で呼んでいく関係上、彼のことも「白居易」で統一しますね。

 

 

 

『池上 絶一』白居易

山僧對棊坐

局上竹陰清

映竹無人見

時聞下子声

山僧に対して坐す(山僧が碁盤の前に座っている)

局上きょくじょう竹陰ちくいん清し(盤上に竹の葉が落ちる様は清らかで)

竹にえいじて人の見る無く(竹に覆われて見る人は誰もいない)

時に聞くくだす声(時々聞こえて来るのは碁石を打つ音だけだ)

 

 

「起承転結」を成す4句構成の漢詩が「絶句」、1句5文字なので「五言絶句」ですね。

 

835年、63歳となった白居易が、自身の集大成『白氏文集』の編纂を始めた頃という、晩年の佳作となるそうです。

 

白居易の親友と言えば、元稹(げんしん。字は微之)

 

元稹は白居易よりも7つ年下でしたが、先立つこと831年に任地で急死してしまいました。

 

悲しみに暮れる白居易。元稹の遺族から「墓碑銘」を書いて欲しいと依頼され、喜んでそれに応じるのですが、謝礼については丁重にお断りしています。

 

「親友の墓碑銘を書くのに、どうして謝礼を受け取ることができようか」

 

しかし、遺族たちは「このような銘文、私どもは感服し、感謝の念に堪えません。どうしても受け取って欲しい」と聞き入れませんでした。

 

「ここで無下に断ってしまうのも、なんか違うか…」

 

そこで白居易は、受け取った謝礼金を喜捨することにし、「香山寺」に全額寄付して寺院の修復に役立ててもらうことにしました。

 

感謝感激した「香山寺」は以降、白居易と親しく交流するようになります。

 

白居易もまた風光明媚な「香山寺」を愛して、しばしば通うようになり、僧侶たちと関わるうちに仏教にも目覚めて、「香山居士」を号するようになりました。

 

白居易は子供たちに相次いで先立たれる不幸が続いていたので、このあたりの心境も仏教にシンパシーを感じる一端になったのかもしれないですね。

 

 

ちなみに「香山寺」の所在地は「洛陽」。世界遺産「龍門石窟」から、伊水(黄河の支流)を渡った対岸の山の上にあります。

 

「龍門石窟」は、北魏7代「孝文帝(拓跋宏。後に姓を改称し元宏)」が「平城」から「洛陽」に遷都して来たことをきっかけに造営されました。西暦500年前後なので、白居易の350年ほど前ですね。岩場を大きく削って作られたデカい石仏が至る所に鎮座しているのが特徴の「石窟寺院」です。

 

(年表の「北朝」の1つが「北魏」。皇帝が「元」さんだったので「元魏」とも言います。『三国志』の曹操たちの魏を「曹魏」というようなものですね)

 

石窟寺院というと、同じく世界遺産の「雲崗石窟」と混同してしまいそうになるのですが、こちらは北魏5代「文成帝(拓跋濬)」の頃なので、半世紀ほど前の西暦460年前後の造営。なので当然、「洛陽」に遷都してくる前の帝都「平城」(現在の山西省大同市)にあります。

 

 

文成帝の祖父である北魏3代「太武帝(拓跋燾)」は、444年、大規模な仏教弾圧を行いました。太武帝が道教の信徒であったことが主な要因とされます。

 

「雲崗石窟」は、祖父がやらかした廃仏からの「仏教再興のシンボル」として造営された…というわけですねー。

 

ちなみに、地図を見て「洛陽の前の平城って、こんな所に都があったん…?」となるかと思うのですが、北魏は北方異民族「鮮卑」が建てた国だからなんです。

 

漢民族ではない者が漢民族を統治することになった。だから漢民族の宗教「道教」を取り入れて、漢民族より漢民族らしくあろうとした。その行き過ぎた所にあったのが「仏教弾圧」だった…と繋げることもできますね。

 

なお、元稹は鮮卑族の子孫とされているんですよ(そういえば「北魏」の皇族も「元」姓ですね)

 

 

…………何の話だったっけ。

 

そうそう、白楽天の漢詩。

 

上記漢詩は、竹林に囲まれた隠れ家から、僧侶が打つ碁石の音だけが聞こえてくる…という、なんだか禅寺のおはなしのような詩。

 

これを作った頃、「香山寺」との交流で仏教信者になっていたようですから、心境の変化が表れているのかもしれないですね。

 

「あはれ」の理解も底流にあるような気がして、こういうところが平安貴族たちに熱愛される要因の1つになったんでしょうかね。

 

 

 

『池上 絶二』白居易

小娃撐小艇

偸採白蓮廻

不解蔵蹤跡

浮萍一道開

小娃しょうあ小艇にさおさ(少女が小舟に棹さして来て)

ひそかに白蓮を採りて廻る(こっそりと白蓮を採って帰っていった)

蹤跡そうせきかくすを解せず(幼さゆえに舟の通った跡を隠すことを知らなくて)

浮萍ふへい一道開く(浮き草の中に一筋の航跡が開いている)

 

 

先程の「竹林の中、碁石を打つ音だけが聞こえて来る」詩の続き。

 

『池上』は三部作でして、そのうちの2番目。

『池上』といえば、この「絶二」が代表格のようです。

 

タイトルの「池上」は「池のほとり」という意味。

「絶一」は「どこが池のほとり?」というかんじでしたが、こちらは「舟」や「白蓮」が詠み込まれて「池のほとり」なかんじがありますな。

 

先程の紹介した通り、白居易は仏教の信徒となりましたが、それよりも前から仏教の象徴的な花である白蓮を、自邸の池で栽培していたそうです。

 

自分の姓が「白」だから「白蓮」に親近感があったのでしょうけど、もう1つ、関係するかもしれない歴史背景があります。

 

かつて白居易が江南に左遷された時に詠んだ、例の「香炉峰の雪」の元ネタになった漢詩の第3句。

 

遺愛寺いあいじの鐘は枕をそばだてて聴き」

 

この「遺愛寺」は、現在の「東林寺」の塔頭の1つであるとされています。

 

 

「東林寺」は中国「浄土教」発祥の地。

 

慧遠法師(えおん。334~416年)が陶靖節たち18人と共に盧山東林寺で「浄土」を望む修行をしていて、白蓮の花が咲いたことから「白蓮社」という念仏結社を結成しました。

 

「虎渓三笑」の故事にもある厳しい修行で知られる慧遠法師に、「山水詩」の祖と伝わる謝雲運が心から敬服し、自邸の庭に池を掘って白蓮を植えた…といわれています。

 

白居易が自邸に白蓮を植えたのは、かつて親しんだ江南のご近所「東林寺」に連なる、これらの故事に乗っかって「あの東林寺の白蓮」として愛おしんだのではないか…というわけ。

 

そんな大事に育てた白蓮を盗んでいく少女は、極悪けしからんヤツですな。

 

しかし、この漢詩では憎悪や恨みといった感情は見えてきません。

それどころか、「舟の跡を消すことも分からない、幼い少女だったのだな」という「をかし」が表れているようなかんじさえあります。

 

こっそり盗んだ少女を、こちらもこっそり盗み見ているという、お互いイケナイことをバレないようにやっている隠密の楽しさ=わくわく感が、この情景から伝わってきているのかな…と思うのですが、もう1つ深読みすると。

 

中国語(江南語?)では「蓮(lián)」は「恋(ián)」と同じ発音で、「蓮を取りに行く」は「恋をつかみに行く」のメタファーが入り込んでいるのだそう。

 

ということは、「あの子、こそっと盗み取った白蓮を、好きな男の子に見せびらかすのかなぁ」という想像が、後に残った一筋の航跡の先に続いている…のかもしれませんね。

 

『池上』三部作の「絶一」は禅寺的で、「絶二」は浄土教的と見せかけて少女の恋路な漢詩。白居易の懐の広さを見せつけられますw


 

 

『憶江南』白居易

江南好

風景舊曾諳

日出江花紅勝火

春來江水綠如藍

能不憶江南

江南こうなん(江南は素晴らしい)

風景もとよりかつて諳んず(その風景は昔から私の記憶に焼きついている)

日出れひいづれ江花こうか紅きこと火に勝り(日が昇ると江上の花は火のように赤くに見え)

春来れば江水こうすい緑なること藍の如し(春が来れば江の水は藍のように緑色になる)

く江南をおもはざらんや(どうして江南を慕わずにいれようか)

 

 

白居易の親友と言えば元稹…ですが、他にも劉禹錫(りゅううしゃく)という人物がおりました。

 

劉禹錫は、白居易と同い年(772年生まれ)の詩人にして官人。字は夢得(ぼうとく)。夢を得ると書くの、なんだかロマンある(何)

 

『三国志』の劉備と同じく「中山靖王劉勝の末裔」を自称していたそうなんですが、どうやら本当は北方の異民族・匈奴の子孫だったようです(匈奴は、とある事情があって「劉」姓を名乗るケースがよく見られます)

 

元稹は、先程の「北魏」の部分でも語ったように、北方の異民族・鮮卑の子孫。遊牧民族の子孫が詩人として集まっている唐は、皇帝も異民族出身なだけあって、国際色豊かですな(シルクロードや西遊記もありましたしねー)

 

元稹の早過ぎる没後、長く深く交流したのが、842年まで生きた劉禹錫でした。

 

元稹が実直過ぎる性格で官途が右往左往した人だった…というのは、『光る君へ』で ききょう(清少納言)がその名を出して公任をチクリとやった…という場面でもご紹介した通り。

 

左相家の株・右相家の駒(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12840419497.html

 

劉禹錫もまた元稹と同じで、政治家に向かない性格(笑)

政権批判的な詩を詠んでは朝廷の逆鱗に触れて地方官に左遷され、また中央に戻り…を繰り返しておりました。

 

2人に共通する「異民族の血」が、似たような行動を取らせて似たような苦労をさせているのかねと思ってしまうほど…。

 

まぁ、漢民族のはずの白居易も、真っ直ぐ過ぎる政治姿勢が越権行為とみなされて左遷され、また戻されて…とやってますし、「政権諷刺ができる空気が唐にはあった」ということなんでしょうかね。

 

劉禹錫は、自分を庇ってくれた宰相が引退したのが運の尽きで、蘇州に左遷されて、汝州、和州と地方官を転々とすることになりました。

 

834年に江南に赴任。ちなみに、当時の白居易は「河南尹(洛陽のあるエリアの太守)」なので、江南は割りと近隣で、たびたび酒を酌み交わして交流していたようです。

 

白居易にとって「江南」は馴染みの深い土地。例の「香炉峰」に別荘を構えた、あの場所が江南。それ以外にも蘇州、杭州の刺史として赴任していたこともありました。

 

なお、『憶江南』とは「江南の思い出」みたいな意味。江南に赴任することになった劉禹錫に「江南はいいところだよねー」と唱したのが、『憶江南』となっています。きっと話が弾んだことでしょうねw

 

『憶江南』は御覧の通り、1句ごとの字数がバラバラ。

 

漢詩は形式により字数が決められているのでは…?と思ってしまうのですが、『憶江南』は「先に音曲があって、それに合わせて詩をつけた」ものだそうで、だから1句ごとの字数が統一されていない形式になっている…らしいです。

 

こうして「先にある音曲に漢詩がつけられる形式」を「詞」といい、「詞」の中でも文字数が少ないものを『小令』と呼ぶのだそう。

 

唐の時代は、西域から新しい音楽(胡楽)が流入して、音楽に多様性が生まれました。そこに「歌詞」が付けられるようになったことが、「詞」の始まりとされるみたい。

 

つまり最先端カルチャーであり、妓女が歌うような低俗なものとされていて、唐代で知識人が詠むのは珍しいのだそうな。

 

「詞」が流行し始めるのは「唐」より後代になる「宋」の始まりの頃(日本だと『光る君へ』のちょっと前のあたり)。それを100年も先取りしている白居易の『憶江南』は、彼の天才性と自由闊達さを彷彿とさせるかのようですな。

 

漢詩の中では、3句目の表現が気になりますね。

 

春来れば江水緑なること藍の如し(春が来れば江の水は藍のように緑色になる)」

 

日本だと「山=緑」「水=青」だけど、中国では「青山緑水」と言われ逆になっています。

 

『荀子』出典の慣用句「青は之を藍より取りて而かも藍より青し」(いわゆる「出藍の誉れ」)と組み合わせると、古代中国人の色彩感覚は、

 

青>藍>緑

 

というかんじ…なんでしょうか…?(よく分からんけど)

 

 

 

『賦得古原草送別』白居易

(「古原草」を賦し得て別れを送る)

離離原上草

一歳一枯榮

野火燒不盡

春風吹又生

遠芳侵古道

晴翠接荒城

又送王孫去

萋萋滿別情

離離りりたり原上げんじょうの草(野原に青々と生い茂る草は)

一歳に一たび枯榮こえい(毎年枯れてはまた生い茂る)

野火けどもきず(野火に焼かれても尽きることはなく)

春風吹きて又生ず(春風が吹く頃になると、また生えてくる)

遠芳えんほう古道をおか(遥か彼方まで続く草の香りは古道まで漂い)

晴翠せいすい荒城に接す(晴れ渡る空の下、草茂る城壁まで続いている)

王孫おうそんの去るを送れば(またしても貴公子が旅立つのを見送れば)

萋萋せいせいとして別情べつじょう滿(盛んに生い茂る中、別れの思いでいっぱいになってくる)

 

 

白居易が15歳前後の時、友人の送別会で「古原草」という題を与えられて作った「五言律詩」。

 

白居易は、この詩を携えて、長安まで「科挙」を受けに向かったそうです。

 

科挙試験を受けるには、有力者の推薦があると便利。

思えば、李白も最初の旅は、有力者との人脈を作るためのものでしたな。

 

長安についた白居易は、顧況という人物に面会を求めて名刺を差し出すのですが、「居易」という名を見て長安は物価が高いから、全然居易くはないけどねー(長安は百物貴し居ること大いに易からず)」とからかわれます。中々上手です(笑)

 

しかし、持ち込まれた『賦得古原草送別』を一読するや、態度を正します。

 

「大したものだ。これほどのものを作れるのなら、長安はきっと居易い場所になるだろう。さっきの言葉は戯れ言と思って忘れて下さい」

 

そんなエピソードを飾る名詩なのですが、白居易が「科挙」に合格したのは二十代の終わりの頃…この時はまだ合格できなかった、ということなんですかね。

 

野原の草は冬に枯れても、枯草として燃やされても、その根は尽きることなく、翌年になれば春風に誘われてまた甦って来る。草の香りが古道に満ちて、城壁まで包み込んでいる…という、冬を越し春に芽生え夏に盛る、草の旺盛な生命力を詠んでいます。

 

初見で「意味が分からない…」となるのは、最後の2句。

 

王孫おうそんの去るを送れば(またしても貴公子が旅立つのを見送れば)

萋萋せいせいとして別情べつじょう滿(盛んに生い茂る中、別れの思いでいっぱいになってくる)

 

これは『楚辞』に掲載されている漢詩が下敷きになっています。

 

「招隠士」『楚辞』より

王孫遊兮不歸

春草生兮萋萋

王孫遊んで帰らず(貴公子は旅立ったままついには帰らず)

春草生じて萋萋せいせいたり(ただ春草だけが盛んに生い茂っている)

 

「草が生い茂っているのを見ると、再び会える日がいつになるか分からず、惜別の想いがあふれてくる」という意味になっているわけですな。

 

この漢詩、本来は「力強く草が生い茂る様」を詠んだものとして元はあったのを、「送別」の歌にするために最後の2句を編み出して(入れ替えて?)意味を転換させた、白居易の力量を見て取れる漢詩だ…という説もあるみたいです。

 

ちなみに「王孫」というのは、紀元前300年頃(戦国時代)の人物・屈原(くつげん)のことを指します。

 

屈原は詩人にして悲劇の愛国者。戦国時代、楚の国の公族。

 

当時、楚は新興国「秦」に従うか、東方の大国「斉」と結んで「秦」に対抗するかで、意見が割れておりました。

 

屈原は「親斉派」の筆頭。「秦は信用なりません。かの国の宰相は、楚を恨んでいる張儀です。必ず楚を滅ぼすまで付け狙ってきます」と説くのですが、同僚の讒言によって遠ざけられてしまいます。

 

そこで『離騒』を賦して懐王の翻意を求めるのですが、ついに覆らず。

 

懐王は張儀の罠にはまり、土地割譲を交換条件に斉との同盟を破棄。それを見届けた「秦」の挑発を受けて決戦に挑むと大敗を喫し、最後は秦に幽閉されて獄死。

 

このまま楚が滅びていくのを見ることに耐えられず、屈原は汨羅江(べきらこう)に石を抱いて身を投げ、亡くなったと伝えられています。

 

 

この悲劇的な最期に、屈原を追慕哀惜する者は絶えず、多くの詩が作られるのですが、それをまとめたものが『楚辞』というわけ。

 

ちなみに、屈原が入水して亡くなった5月5日は「屈原のように立派な人物になってほしい」という願いを込めた男の子の節句の日となっていき、「端午の節句」となりました。

 

…これと、先週『光る君へ』に描かれた「初宮仕えが端午の節句の日」だったのって、何か関係あるんですかね?一応考察はしたんですけど、何も連想できなかったので該当ブログでは触れず。ちょうどいいので、ここで触れておきます(笑)

 

 

なお、屈原が望郷の念を抱き、その陥落とともに自らの命を絶った楚都は「郢(えい)」というところで、現在地の何処なのかは不明、なんなら何度も都を移した可能性も大という、もはや幻の都となっています。

 

「三国志」時代には同名の「郢」があって、もしかしたら楚の都と同じ地だったかもしれません。

 

やがて時は過ぎて「北魏」があった南北朝時代を終わらせた「隋」が支配すると、「鄂州(がくしゅう)」に名称を変更。現在では「鄂州市」となっています。

 

 

白居易の親友・元稹は赴任先で急死したと語りしましたが、最終官職は「鄂州刺史」。

 

元稹は、鄂州=屈原も所縁の地・郢で亡くなったんですね…と、お話を最初に戻したところで、本日はこれまでといたしますw

 

 

 

なお、改めて申し上げますが、ワタクシ漢詩には、まっっったく詳しくありません。

 

ここでの漢詩の感想は、ワタクシの無理矢理な歴史解釈も乗っけた独自のものなので、「そんな感想もあるのね」程度で是非、お願いしますね(汗)