大河ドラマ『光る君へ』は、第15話「おごれる者たち」で、永祚2年(990年)から正暦4年(993年)へ、一気に3年の歳月が過ぎ去りました。
この間に起きた歴史上の出来事で、関心事になることはいくつかありますが、今回はその中の1つ。
藤原為光(ためみつ)の薨御を取りあげてみたいと思います。
正暦3年(992年)6月16日、薨御。享年51。
亡くなる前年「太政大臣」に昇っており、最終官位は「従一位・太政大臣」。
「恒徳公」と謚されました。
藤原為光@阪田マサノブさん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より
為光役の阪田マサノブさん。
ワタクシは『光る君へ』で、ほぼ初めて知りましたが、ややコワ面ながら柔らかそうな表情で、為光ってこんな人だったのか…と印象が上書きされてしまいましたw
大河ドラマ出演歴は3回目で『龍馬伝』と『おんな城主直虎』にも出ておられたそうで。
えっ、『龍馬伝』?どこに??と探してみたら、井戸弘道の役で出ておられました。
井戸弘道は「黒船浦賀来航」時の浦賀奉行。嘉永6年6月9日(1853年)「インド艦隊司令長官」ペリーから、和親貿易を求めるフィルモア大統領の親書を受け取った人。
ということは、ペリーは直接その姿を目にしているわけですが、その印象を「きらきらした式服を着て威厳に満ち、終始一言も発せず端然と座る姿は、まるで銅像みたい」と、褒めてるんだかアレしてるんだか分からん表現で書き残しています(笑)
井戸氏は元は大和の国人衆だったものが、「大坂の陣」での功績から徳川家の旗本になっていったらしい。家紋が「梅鉢」ですが、菅原氏とは関係ないみたい。「藤原式家」の末裔を称していたそうです(おお、阪田サン、ここでも藤原氏をw)
いきなり話がそれた…。
為光は、第1話からずっと登場していましたけど、「つまり、為光って何者だったの?」って言われたら、なんて答えます?
ぱっと思い付くのは「四納言の1人・斉信の父」でしょうか。
しかし、ドラマ中で斉信と為光が親子水入らずで会話しているシーンは、たぶん1回もありませんでした…。
ヘタすると親子だと知らないまま、現在に至っている方もおられるのではなかろうか。
一方で、花山天皇をゾッコンにし、出家の引き金を引かせてしまった寵姫・忯子(よしこ)の父であることは、台詞の中でも出てきました。
なので、「忯子の父」が真っ先に思いついてしまう方が、多いかもしれませんね。
第7話「おかしきことこそ」で、順番を無視して意見した義懐に「意見は下位の者から順番に述べるものにございます」と注意したこと以外、あまり台詞がなく、誰かと絡むこともほぼなかったので、『光る君へ』の登場終了後でもマイナーなかんじが否めない人物で終わっているような…。
それで終わるの、なんかイヤだ…!
というワタクシのワガママで、かなり趣味の範囲になってしまいそうですが(汗)、今回は藤原為光で特集をやってみたいと思います。
え、どこに需要があるのかって…?やかましい!ここはワタクシのブログだ!好きにやらせてもらうぜ!(お尻ペンペン←まぁ、お下品!)
為光は上記の通り、最終官職が「太政大臣」。
ゆえに歴史書『大鏡』に列伝が立てられているのですが、このような文で締め括られています。
法住寺をぞ いといかめしうおきてさせ給へる 摂政関白せさせ給はぬ人の御しわざにては いと猛なりかし この大臣 いとやむごとなく御座しまししかど 御末ほそくぞ
為光と言えば、「法住寺」を建てた人物として(一部界隈では?)著名。
「法住寺」は一旦焼亡して歴史から姿を消してしまうのですが、『平清盛』の頃、どこから誰がどうやって見つけたのか、後白河上皇の御所「法住寺殿」として、いつの間にか登場します。
ざっくり言えば「三十三間堂」があるあたりですねー。
「法○寺」の歴史(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12811688979.html
『大鏡』の文章は「法住寺」について「摂政関白になってない人だけど、あんなにも立派なお寺をお建てになった(摂政関白せさせ給はぬ人の御しわざにては いと猛なりかし)」…と皮肉っているようにも取れます。
そして「とてもやんごとなき人でしたが(いとやむごとなく御座しまししかど)、子孫は繁栄しませんでした(御末ほそくぞ)」とまとめられております。
このあたりを歴史的に読み解いてみよう…というのが、今回のメインテーマとなります。
大河ドラマでは全く言及がなかったと記憶しているのですが、為光は兼家の異母弟にあたります。ちなみに年齢は13歳差。
…冒頭の「為光って誰?」には、ワタクシは「兼家の異母弟」と答える派なのですが、『光る君へ』を経ても、これでは通じにくい状態が変わらないことになりそうです。ちぇっ。
父は、九条流の祖となった藤原師輔。
母は、雅子内親王。醍醐天皇の第10皇女でした。
(ちなみに、兼家の母は藤原南家の娘)
為光は醍醐天皇の皇孫でもあったのですねー。
「とてもやんごとなき人だった」という『大鏡』の言は「太政大臣」まで昇ったことを指すのでしょうけど、こうした母方の家系のことも含めているのかもしれませんね。
母の雅子内親王は延喜10年(910年)の生まれで、更衣・源周子(嵯峨源氏)の所生。「安和の変」で失脚した源高明の4歳年上の同母姉にあたります。
異母弟・朱雀天皇の御世である承平元年(932年)、「伊勢斎宮」に卜定。
前任者は、斎宮在任期間の最長記録(34年)をもつ柔子内親王(やすこ)。彼女については以前にも語ったことがあるので、リンクを回しておこうかなとw
蝉丸のにおい(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12733609648.html
余談ですが、雅子と同日に「賀茂斎院」に卜定された異母妹の名前が「婉子内親王」で、後に実資の2番目の「北の方」になった婉子女王と名前が同じでややこしいんですよね…と、これは単なる愚痴です(何)
雅子の斎宮任命は、当時ある人物と相思相愛の関係だったのを、引き裂くように卜定されたと言われています。
その人物とは、藤原敦忠。
「菅原道真」を追い落とした人物にして、その怨霊にやられてしまったと言われる藤原時平の三男坊。『百人一首』43番歌の詠み人でもあります。
あひ見ての 後の心にくらぶれば
昔はものを思はざりけり
中納言敦忠/拾遺集 恋 710
雅子が斎宮になったのは醍醐天皇の崩御後(そもそも、前任者が退下したのも醍醐帝の崩御のため)ですが、醍醐天皇は「道真の怨霊」のために崩御したと考えられておりました。
ということは、「道真を追い落とした時平の子息と、これ以上皇族が付き合うだなんてとんでもない!」という誰かの(藤原忠平の?)意向で、引き裂かれたのかもしれませんね。
こうして胸の張り裂けそうな失恋となった敦忠が、それを嘆いて詠んだのが『百人一首』に採られたあの和歌だった…とされています。
四十年サイズの怨念服(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12788776757.html
承平6年(936年)、母である源周子が亡くなったため、雅子は退下。この時26歳となっておりました。
雅子には勤子内親王(いそこ)という6歳年上の同母姉がおり、師輔と結婚していたのですが、雅子が退下してきて2年後の天慶元年(938年)、子をもうけないまま33歳で亡くなってしまいます。
そのあたりの事情がどう影響したのかは不明なのですが、天慶2年(939年)頃、雅子は姉の跡を継いで(?)師輔と結婚。「前斎宮の内親王」が「臣下に降嫁」した「初にして唯一」の例となりました。
そんな夫婦から生まれたって、為光は結構なレアキャラだったんですねw
ちなみに、敦忠は天慶6年(943年)没なので、師輔と雅子が結婚した時は、まだ存命。どんな気持ちで、これを見送ったのだろうか(相思相愛だったということは、雅子もどんな気持ちだったのかねぇ)
こうして色々な因縁のもと両親が出会って結ばれると、師輔8男の高光(939年生まれ)、師輔5女の愛宮(941年生まれ)、師輔9男の為光(942年生まれ)、師輔10男の尋禅(943年生まれ。天台僧)と、三男一女をもうけています。
このうち、愛宮は源高明と結婚し、道長の2番目の妻となった源明子(ドラマでは明子女王)の母となった人物です。
ということは、為光は明子女王の叔父でもあったわけなんですねー(例によって『光る君へ』では、それが匂ってくるシーンはなし)
天徳4年(960年)、父の師輔が薨御したのを契機に、兄の高光が出家。為光は一家の長となりました。
母親が「天皇の娘」という高貴な血を引いていたせいか、為光は「藤原氏嫡流」を自負する「小野宮流藤原氏」との縁談が成立。
藤原実頼の嫡男・斉敏の娘(佐理の姉妹)と結婚することになり、長男の誠信(964年生まれ)、次男の斉信(967年生まれ)、そして忯子(969年生まれ)などをもうけています。
しかし、斉敏娘は早くに亡くなってしまったようで、継室には伊尹の娘を迎えました。
伊尹は兼家の同母兄。為光にとっては、18歳年上の異母兄です。娘婿に迎えていることからも分かるように、伊尹は為光をとても可愛がっていたと言われています。
3男の道信(972年生まれ)、4男の公信(977年生まれ)のほか、後に大事件を起こすきっかけとなる「三の君(寝殿の御方 )」「四の君」の姉妹などが、伊尹娘を母として生まれています。
安和2年(969年)、叔父(母の弟)であり義兄(姉・愛宮の夫)でもある高明が失脚する「安和の変」が勃発。
「安和の変」は、高明が婿である為平親王(冷泉帝の弟にして、円融帝の兄)を「天皇にしようと画策した!」と疑われた事件。
為光は為平親王の家司を務めていたので、モロに連座を喰らって「昇殿」の資格を剥奪されてしまいました。
「わ、我が兄たちながら恐ろしい…」。伊尹や兼家の策謀力を目の当たりにして、為光は青筋ぴくぴくモノだったのではなかろうか(笑)
しかし、伊尹や兼家のターゲットは高明だけだったようで、為光はまもなく許されて「左中弁」に上がり、円融天皇が即位すると「蔵人頭」に任ぜられて「頭弁」となります。天禄元年(970年)には「参議」に昇進して公卿に列しました。
天禄3年(972年)、可愛がってくれた長兄の伊尹が死去。「摂政」の座は次兄・兼通が手に入れ、「犬猿の仲」だった兼通と兼家の兄弟冷戦時代「兼通政権」が到来します。
さて、兼通と為光の兄弟仲は、どんな状態だったのだろうか?
「安和の変」の前後を境に、兼通は辛酸を嘗めた…というのは、以前に紹介しました。
コウメイの罠(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12836162032.html
高明が中宮・安子の「中宮大夫(中宮職の長官)」だった時、兼通は「中宮亮(次官)」で、上司と部下の関係。
この親密さが災いして、伊尹から「為平親王派」と見做されてしまったようで、「安和の変」後の「伊尹政権」では冷遇の憂き目に遭ってしまいます(これが、兼家との確執の発端になってしまいました)
つまり、兼通は伊尹や兼家の同母弟ながら、高明と非常に近しい関係にあったというわけ。
一方で為光は、高明の甥っ子にして、高明の娘婿である為平親王の家司。
高明と近しい関係同士ということがあったのか、為光は兼通にファミリーの一員として遇されることになります(兼家に対する牽制の意味もあったのでしょうけれども)
兼通の子供たちが、顕光、時光、朝光…と、為光と似たような名前なのは、高明繋がりで親密だったことも関係あるんですかね(ちなみに、顕光は為光のわずか2歳下です)
天禄4年(973年)、兼通の娘である媓子(円融天皇の中宮)の「中宮大夫」を兼任し、「中納言」にも昇進。
貞元2年(977年)になると「従二位 大納言」へ昇進を遂げ、「正三位 権大納言」だった兼家を昇進面で追い越しました。
その年、兼通が薨御。「関白」こそ小野宮流の頼忠に持っていかれましたが、重石の取れた兼家が雌伏の時から目覚めます。
『光る君へ』第1話は、こんな状態で迎えていたことになるわけですねー。
『光る君へ』前の歴史を振り返り、為光は伊尹と兼通に可愛がられていた…というのを、これまで見てきました。
では、兼家との仲は…?というと、「兼通政権」終了後の時点でどうだったのかは、よく分かりません。
ただ、兼家と為光の間合いづくりは、本人たちの意向とは別の場所で起きていました。
その中心人物は、藤原義懐(よしかね)。伊尹の跡継ぎとして一門を背負って立ち、皇太子・師貞親王(のちの花山天皇)の叔父として、花山朝を守る責任を負っていた人物です。
義懐は、居貞親王(のちの三条天皇)や懐仁親王(のちの一条天皇)を擁する兼家を、政界第一の要注意人物として警戒。
しかし、自分が青二才で官位も低かったこともあり、来たるべき「花山朝」を右大臣から守る予防策として、有力者との連携を図る必要性に迫られていました。
そこで白羽の矢が立ったのが、為光。
為光は伊尹の娘(義懐の妹)を継室に迎えたので、2人は「義兄弟」。手を結びやすい位置にいたのです。
義懐は、為光の長女(斉信の同母妹)を自身の妻に迎えて、二重の縁戚を築く政略に出ます。
こうして伊尹家のミウチという関係を強化した為光は、永観2年(984年)に師貞親王の「春宮権大夫」に就任。
間もなく即位したので、わずか10日の大夫職でしたが、この期間に花山天皇は忯子を見初めたのかな…と思います。
そんな花山天皇は、『光る君へ』では皇太子時代の女癖の悪さは描いていたのに、在位中のことについては手抜きと言ってもいい程、描かれませんでした。
まぁ、あれだけ奇人変人ぶりを描写しておけば十分な気もしますが(笑)、ひとつ例を挙げると、藤原朝光の娘が挙げられます。
朝光は、兼通の息子(円融帝皇后の媓子の同母弟)。娘の姚子(とうこ)を入内させ、当初はとても深い寵愛を受けていたのですが、1ヶ月ほどで飽きられてしまっています。
その落差が恥ずかしかったのか、姚子は人目を避けるように宮中を出て行ってしまうのですが、『栄花物語』では「いささか御出入をだに知らせたまはずなりぬ(帝は御出入さえ知ろうとしなかった)」と、見向きもしなかったと語られ、朝光はショックのあまり一時「引き籠り」になったと言われています(ひどい話だ…)
熱しやすく冷めやすい。それでいて冷めると非情なまでに無関心になる花山天皇。
そんな帝に娘を入内させる…。為光も相当心配だったのか、何度も躊躇したみたい。
しかし、義懐がしつこく使者を送ってきたようで(義懐も好き好んで…ではないんでしょうけど←そこがまた笑えてしょうがないワタクシw)、結局は観念して入内を了承することになりました。
すると、花山天皇の狂おしいまでの寵愛を受け、それまでの心配は杞憂に終わります。
その様は『栄花物語』によると、
「いとさまあしう(とても見ていられない)」
「かかることは今も昔もさらに聞えぬことなり(このような扱いは今も昔も聞いたことがない)」
「久しからぬものなり(とても長続きしないだろう)」
字面だけでも度を越していたことが分かりますな。『光る君へ』では「愛でられ過ぎて倒れる」という、とってもいい表現がされておりましたね(笑)
やがて、忯子は花山天皇の子を懐妊。
この時点で為光の不安はなくなり、将来に大きな希望を抱いたことだろうと思います。
しかし、忯子は妊娠中の体調悪化のところを、帝に請われるままに参内を繰り返させられたため、寛和元年7月18日(985年)17歳の若さで亡くなってしまいました。
忯子が生き延びて、生まれた子が皇子であったなら、為光こそが未来の「摂政・関白」だったかもしれないのに…。
その後、寵姫が身籠ったまま亡くなった「罪」に苛まれた花山天皇の退位・出家騒動「寛和の変」を経て、一条天皇が7歳にして即位。
為光の娘は年頃で、一条天皇の成長に合わせて入内させる政略は不可能。為光の政治的野心は終わってしまったかに見えました。
しかし、手を差し伸べて来たのは、天下を獲ったはずの異母兄・兼家。
兼家は「摂政」になった時には「右大臣」で、その上にいた「左大臣」源雅信とは政敵の関係(『光る君へ』では、そんな素振りはあまり感じられませんでしたが…)
そこで「左大臣」を牽制するために、ナンバー3である為光の懐柔に乗り出したのでした。
為光の3男・道信(伊尹娘の所生)が、兼家の養子に迎えられてミウチ関係を構築。
(ちなみに道信は、婉子女王の争奪戦で実資に敗れてしまった人。『百人一首』52番歌の詠み人でもあります)
さらに寛和2年(986年) 、兼家は「右大臣」を辞して無官の「摂政」となり、その後任に為光を引き上げたのでした。
(この時、右大臣の下の「内大臣」に道隆が任命されていて。本当だったら、道隆に「右大臣」を譲りたかっただろうに…と考えると、兼家が如何に為光を重視したかが分かるような気がしますね)
ところが、間もなく兼家の子息・道長が、雅信の娘・倫子と結婚する…という、思ってもいなかった事態が発生。
バチバチの緊張関係だったはずの兼家と雅信は、良好な縁戚関係となり、為光の存在は宙に浮いてしまいます。
永延2年(988年)、為光は「法住寺」を建立。
「妻と忯子の菩提を弔うためだった」…と言われていますが、微妙になり始めていた政治力学から逃れて念仏三昧を送りたい…という気持ちもあったのでしょうか。
兼家が薨御した翌年の正暦2年(991年)、道隆の勧めにより、為光は「太政大臣」に上がりました。
この時、「右大臣」の後釜に収まったのが、源重信。道長の舅・雅信の弟にして、道隆の子息・隆家の舅にもなっている人物でした。
為光が亡くなる前年のことなので、自分の死期を悟って「太政大臣」の位を道隆に要望した可能性はありつつ。
もしかしたら、新たにミウチとなった重信を「右大臣」にするため、道隆が謀ったことなのかもしれません。
正暦3年(992年)、藤原公任が「参議」に昇進したことで、「蔵人頭」の枠が1つ空きました。
後任の「蔵人頭」の選定が行われる中、斉信が「次は俺だろう」と息込んでいたところを、源俊賢が選ばれて、斉信は赤面して帰った…という出来事が起きています。
これ、「斉信が自惚れた結果」と解釈される向きがあるんですが、この正暦3年は為光が亡くなった年。
名目上の存在「太政大臣」に祭り上げられ、政治家として失望しながら亡くなった父に、安心して成仏してもらいたい…と願った斉信が、除目を焦った表れだった。
そんな可能性もあるのかもしれないと思うのですが、どうでしょうかねー。
(なお、斉信が「蔵人頭」になったのは、為光が亡くなってから2年後の正暦5年(994年)のこと。『枕草子』に登場する「頭中将」ですねー)
というわけで、需要が全く無さそうな気がしながらも(笑)、藤原為光について人物考を語ってみました。
誰もやらないんならワタクシが…というかんじでやってみましたが、本当に誰もやらない…?アメブロで検索した範囲では、全く見つからない…。
『光る君へ』は、為光の布教には失敗しましたかね(ナンテコッタ)
最後に『大鏡』で言う所の「御末ほそくぞ(子孫は繁栄しなかった)」について。
為光の子といえば斉信ですが、斉信の子孫は、あまり栄えなかったようで、曾孫くらいまでしか名が伝わっていません。
斉信の異母妹「三の君」「四の君」は、もうちょっと後で『光る君へ』にも関わって来るので、ここでは置いておきますw(もっとも、キャスティングされるかどうかは微妙…)
その後を追っていけるのは、為光と伊尹娘との間に生まれた4男・公信の子孫で、『平清盛』の時代にも顔を見せています。
公信は、10歳年上の異母兄・斉信の養子となったのですが、万寿3年(1026年)の疫病により、斉信よりも先に亡くなってしまいました。
しかし、後朱雀天皇の乳母子である藤原泰憲(やすのり。勧修寺流。宣孝の兄・惟孝の孫)の娘との間に生まれた、息子の保家の家系が残っています。
保家の玄孫にあたる親盛(保家-公基-伊信-親通-親盛)の時代、平家との関係を深めます。
親盛の父・親通は「下総守」となって、任地へ下向。在地領主の千葉氏を圧迫するなど存在感を知らしめしており、親盛もそれを継承しました。
親盛は、息子の親政に平忠盛の娘を迎え、さらに娘を忠盛の孫である重盛に嫁がせています。
重盛と親盛娘との間に生まれたのが、次男の資盛。
箏の名人にして後白河院の院近臣。嘉応2年(1170年)「殿下乗合事件」を起こし、寿永2年(1183年)「都落ち」に同行した、あの資盛です。
資盛は為光の子孫だったのですなー。そして、重盛の子ということは、紫式部の子孫でもあります(為光とまひろの子孫が、ここで一緒に…)
(なお、重盛の長男・維盛の母は、平時子(二位尼)の妹とされています)
しかし、「一ノ谷の戦い」で敗れた資盛は、西国へ逃れ、有盛(異母弟)・行盛(従兄弟)とともに「壇ノ浦」に身を投げてしまいます…。
盛者必衰の資格(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12725758773.html
そんな資盛の母(つまり親盛の娘)は、『平家物語』に登場する「少輔内侍」と呼ばれていた女性に比定されています。
「少輔内侍」は、「保元の乱」で敗走していた崇徳院が頼ろうとした3人の内の1人であり(他の2人は阿波局と左京大夫教長)、「平治の乱」で二条天皇の内裏脱出を裏で手引きした女性。為光の子孫、ちゃんと活躍しています(笑)
やがて、源頼朝が挙兵して東国に「反平家」の機運が高まると、「親平家の国司」だった親政は窮地に陥ります。
ずっと圧力をかけていた在地領主の千葉氏の逆襲を受けて、滅亡。
醍醐天皇のやんごとなき皇孫にして、「太政大臣」まで昇った為光。
その子孫は、巡り巡って「東国」で起きた「源平合戦」の争乱の中で、潰えてしまったのですなー。
【関連】
大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html