購書偶記

入手した書籍は出版説明等の解説を読んで満足してしまい、中身まではろくに読んでないです。

また、なにぶん専門家では無いので誤った説明が含まれるかもしれませんがご容赦を。

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『逸周書』謚法解

 本当に久しぶりにブログを更新したついでに、アクセス解析をちょっとみたら"逸周書"で検索してきた人がいるらしく、ちょっと気になったので『逸周書』をグーグルで検索してみた。検索結果をみると謚法解(諡法解)に関するものが多く目に付いた。中国史のみならず日本史の分野でも謚号に対する関心が結構高いようだ。更に謚法解の原文を見てみたいが見れないというようなことを言っている人もちょくちょく見かける。
 ところで、古代中国の漢籍に対する知識がある程度ある人には今更な話だが、『逸周書』の謚法解の篇はまるごと『史記』の注釈書である唐・張守節『史記正義』に引用されている。*1『史記』という書物は通常『史記正義』を含む3種類の注を一緒にしたテキスト(いわゆる三家注)で出版されて来たので、特殊なテキストでない限り『史記』(訳本ではなく漢文の原本)をみればとりあえず『逸周書』謚法解を見ることができる。*2『逸周書』の謚法解だけが見たいが『逸周書』そのものを見る機会がないという人は、『史記』(訳本ではなく原本)ならば『逸周書』よりは入手なり図書館で閲覧なりしやすいと思うので、テキストに問題ありとはいえ『史記』を探してみるのもいいかもしれない。


*1…ただし、字の異同のみならず各謚字を記述する順番など現行本『逸周書』とはかなりの異同があるので注意。また、検索結果では"『史記正義』謚法解"という表記を結構みかけた。知らない人は『逸周書』謚法解とは全く別の本として『史記正義』謚法解というものがあるのかと勘違いしそうだが、テキストに大きな異同があるものの『史記正義』に引用された『逸周書』謚法解のことである。
*2…テキストによって『史記』の巻頭に載せるものと、巻末に載せるものと2種類ある。


<付記>
上述したように現行本『逸周書』謚法解と『史記正義』引用の謚法解でかなり大きな異同があるが、『史記會注考證』によると『史記正義』引用の謚法解の後ろのほうにある


剛克爲僖


という句は、本来


剛克爲發、柔克爲懿、履正爲莊、有過爲僖


とあるべきなのが中間の12文字が脱落しているらしい。特に注意が必要。脱落した字数から考えると書写・刊刻の際に丸々一行飛ばしちゃったんだろうか。

段/干木? 段干/木?

以前、T_Sさんが


http://d.hatena.ne.jp/T_S/20091108/1257613394


で、『新唐書』に載る系図の怪しさの一例として、唐の皇室の李氏の祖先とされる段干木についてとりあげられていたが、それについてちょっと調べたことをメモって置く。


この段干木という人物について『通志』氏族略並びに『路史』注に引用する後漢・応劭の『風俗通』に


姓『段』名『干木』


とあるらしい。(張澍の輯本による、原典未確認)
『元和姓纂』(岑仲勉の四校記を使用)の段氏の項目の案語(多分孫星衍のもの)や、張澍の輯本の『風俗通姓氏篇』の段氏の項目の張澍の案語では、魏の段干という邑名に由来する姓なので段干木の姓は段ではなく段干で応劭が間違っているとする。
 更により古いところでは『史記』の老子韓非子列伝の老子の子の(李)宗について述べた部分の劉宋・裴駰の注釈に


風俗通氏姓注云、「姓『段』名『干木』」 或失之。


とあって、やはり『風俗通』には姓が段で名が干木といっていることを挙げて、『風俗通』が間違っているかもしれないと疑義を呈している。

 T_Sさんのエントリーを読んでちょっと調べてみた時点では、以上のような諸説から段干木は姓を段干とするのが正しいのかと思っていたが、最近段が正しいとする説を偶然見つけた。
 清朝の学者の臧庸の『拜經日記』の段干木の項目によると


・同じ『風俗通義』の十反篇に「干木息偃以藩魏」とあって段干木を「干木」と呼んでいる。
・『文選』「蜀都賦」の「干木之徳自解紛也」の部分に晋・劉逵(淵林)注に引用する『呂氏春秋』開春論期賢篇に、まず最初に「段干木者…」とフルネームを挙げた後に、段干木のことを(何度も)「干木」と呼んでいる。(ただし現行本の『呂氏春秋』はそうなっていない)
  →先秦古書でそうなっていて、漢魏以降の文人による割裂の辞とは比べられない*1
・『水經注』河水四に、「有段干木塚、干木晋之賢人也」とあって、やはり姓段、名干木
と扱われる。
・他に『顔氏家訓』や『劉子』注も引用していたが面倒なので省略
・応劭は漢代の人間だから、(それよりも古い)先秦古書に依拠しているはず


 *1よくわからないが、先秦では司馬遷を馬遷と略すようなことはないということか?


以上のような理由から段干木の姓は段で、段干ではない。魏には他に段干を姓とする段干子や段干朋のような人もいたが、魏に段氏と段干氏が並存していたところで何の問題もないということらしいです。

どちらが正しいかよくわからないが、両説あるということでメモしておく。


もう一点、『元和姓纂』の段氏の項目に、後漢・趙岐の『三輔決録』を引用して


段氏、李老君之自出、段干木之子隱如入關、去干爲段氏。


とある。隱如というよくわからない人物がでてきたり、文章自体も何か脱誤があるような気もしなくはない。

 ここで注目したいのは、応劭と同じ後漢末の学者である趙岐は段干木の姓を段干としていること。更に李老君は恐らく老子のことなので、段干木と老子が関係付けられている点も注目される。ここに(正否はともかくとして)段干木の姓が段であったとする説と合わさると、『新唐書』の宗室世系表に見える老子の子孫李宗=段干木の説の雛形ができてくるように思える。応劭や趙岐は当時の一流の学者であったのにこのような記述を残しているということは、少なくとも後漢末から三国時代には李氏の先祖を老子と段干木に繋げてもあまり違和感のない状況というのが既に出来上がっていたような感じがする。

一騎紅塵

そろそろ『周易注疏』の続きを読んでみようかと、十三經注疏を手にとって見たが前読んだ部分をすっかり忘れてしまっていて、いまいちやる気が出ない。


それはそうと、スーパーによった折に「妃子笑」という品種のライチがあったので、買ってみた。そのスーパーに貼ってあったはり紙の説明によると、


唐代に楊貴妃がそのおいしさににっこり微笑んだという伝説から名づけられた.


みたいなことが書かれていたが、確かこれは伝説というか、晩唐の詩人の杜牧の詩が由来だったはず、ということでちょっと調べてみた。


「過華清宮絶句三首」の詩のうちの第一首め


長安廻望繡成堆 長安より廻望すれば繡 堆と成り
山頂千門次第開 山頂千門 次第に開く
一騎紅塵妃子笑 一騎紅塵 妃子笑う
無人知是荔枝來 人の知る無し 是 荔枝の來るを


に「妃子笑」と出てくる。また荔枝(れいし)という言葉がライチのことだ。玄宗と過ごす離宮へとライチを運ぶ早馬の立てる土煙をみて楊貴妃が微笑んだのだ。


詳しい訳解が

詩詞世界 碇豊長の詩詞
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/r52.htm

にあるので是非参照されたい。


ただし1句目の「長安廻望繡成堆」の解釈は私の手元の注釈書では、華清宮のあった驪山(りざん)が繡嶺とも呼ばれていたこと(同じ杜牧の「華清宮三十韻」の詩も参照)から「華清宮から長安のほうを見渡した」のではなく長安から東方へと華清宮のある驪山を見渡すと解釈する。恐らくは前半二句は荔枝を運ぶ早馬の視点で描写され、転句で一転して楊貴妃の様子を描写するという構成じゃないかと思う。


さて、この詩に描写された楊貴妃の笑みは一国を滅亡寸前に追いやった悪女の笑みか、
はたまた政治のことなど何にもわからぬ無垢な女性の純真な笑みか。


え、ライチの味は?
確かに今まで食べたことがある品種不明のライチに比べると甘味も強くほどよい酸味もあって美味しかったですよ。

周易・乾・文言 第二節4

最近疲れている上に、非常に難解なことから易経を読むのを暫くお休みしていましたが、とりあえず続きができたので載せます。


文言伝第二節4番目の分段。阮元本では九三の爻辭に対する文言伝を3段に分けているが、宋13巻本周易注疏では丸々一段とする。このブログでは阮元本に従う。


[経]
九三曰、君子終日乾乾、夕惕若厲、无咎。何謂也。子曰、君子進德脩業、忠信所以進德也。脩辭立其誠、所以居業也。知至至之、可與幾也。知終終之、可與存義也。


「脩業」「脩辭」は宋13巻本周易注疏では「修行」「修辭」に作る。疏の中の「脩」字も全て「修」に作る。意味は変わらない。
「可與幾也」は、『七經孟子考文』の古本・足利本では「可與言幾也」となっているとのこと。


[注]
處一體之極、是至也。居一卦之盡、是終也。處事之至而不犯咎、知至者也、故可與成務矣。處終而能全其終、知終者也。夫進物之速者、義不若利、存物之終若(者)、利不及義。故靡不有初、鮮克有終。夫可與存義者、其唯知終者乎。


「能全其終」は『經典釋文』では「能令其終」になっているテキストがあったとのこと。
「存物之終若」は阮元本の校勘記によると根拠はわからないが「若」の字は「者」に作るのが正しいとの事。宋13巻本周易注疏では確かに「存物之終者」に作る。いま校勘記・宋13巻本に従って句読を施した。

「鮮克有終」は『經典釋文』では「尟克有終」に作ったうえ、本亦た「鮮」に作ると注記する。


[疏]経文
○此釋九三爻辭也
文言伝のこの部分は乾卦九三の爻辭を解釈したもの。例によって、最初の九三の爻辭を引用して疑問を仮設する「九三曰、君子終日乾乾、夕惕若厲、旡咎。何謂也。」に対する説明は省かれている。
○子曰君子進德~
「子曰、君子進德脩業」に対する解釈。德というのは德行、また下文では道徳と釈す。業は功業、進は進益、脩は脩營と解釈する。
九三の爻辭で終日乾乾として(勤しむ)所以は、(己の)道徳を磨いて功業を建てんとするからである。だから、終日乾乾として怠らないのである。徳が磨かれば次の段階(九四)に到達せんとするのを知って進もうとする。功業を打ち立てれば終わりを知りて道義を全うするのである。
よく理解できないところも多いが、疏では「進德」を文言伝下文の「知至」と、「脩業」を「知終」と関連付けているらしいです。
○忠信所以~
「忠信所以進德也」の解釈。さらに進德について解釈した部分。
忠を人に推し進め(?)、人に信をもって接すれば、人々は親しんで尊ぶようになり、その徳行は日々磨かれるのである。これが「進德」である。
○脩辭立其誠~
「脩辭立其誠、所以居業也」の解釈。辭は文教、誠は誠實を言う。「居」の字は疏の解説を見てもよくわからなかった。辞書をみると「おさむ」の意味があるらしいが、疏のこの後で「脩業」と言わずに「居業」とあることについて論じている部分を見ると、どうも「おさむ」の意味では解釈していないみたい。「居業」辞書を引くと『漢語大詞典』では「保有功業」とし、『大漢和』では「事業を守る」の意味に解釈すが、「居」の字をなぜそのように解釈できるのかよくわからなかった。
外には文教をおさめ、内にはその誠実を立て、内外が共に完成すると、居るべき功業が有る。だから、「居業」というのだ。
○上云進德~
この部分は「進德脩業」を更に解説した部分で前に「忠信所以進德也」といっているのに、ここでは「脩辭立其誠、所以『居業』也」と言って、「脩辭立其誠、所以『脩業』也」と言わないのはなぜか?ということを問題にする。疏では解答を2点用意する。第一は「『脩辭』立其誠」と言って、「脩」の字が重なるから、修辞上の問題として「脩業」という文を避けて「居業」という言葉を使ったのだとする。第二に、「功業」という言葉には「居」を使うべきだとするが、これがどういう意味だかよくわからなかった。上に「居」の字には「おさむ」という意味があることを指摘したが、ここでわざわざ「脩」より「居」のほうがいいと言っていることから考えると、疏で「居」を「おさむ」の意味に解釈していないんだろうな。
○知至至之~
「知至至之、可與幾也」の解釈。まず疏では、下卦の頂点である九三から上卦の下である九四に至らんとする、これが「至」である。既に上卦の下にあって凶咎を犯さない、これが「知至」である、と言う。
ちょっとここで問題なのは疏の原文に「上卦之下」という語が二回出てくるが、文脈からすると後者の「上卦之下」も九四のことを指しているようにみえるが、王弼注に対する疏で「知至者謂三近上卦」とあって、こちらではまだ九三の位にあって九四には進んでいないように見える。経文に対する疏と注文に対する疏で矛盾しているように感じるが、よくわからない。
更に疏では、(九四に)至らんとしていることを知っているということは、幾と理を知っているということになり、共に幾事を論ずることができる、と解説する。それによれば本文の「可與幾也」の「與」の字は「とも(共)にする」という意味になる。いきなり「幾」と一緒に「理」という言葉が出てくるが、これは次に「幾」という言葉を説明して、繫辭伝の「幾者動之微、吉之先見者也」に対する韓康伯の注を引用して、


幾者去无入有、有理而未形之時


幾というのは無を去って有に入り、理はあってもまだ具体的な形として現れない時のこと、と言う。また、『經典釋文』に、この文言伝の幾字に注して、「理初始微、名幾」と言っており、「理」と「幾」がセットで解説されている。この後に疏では「知至至之、可與幾也」解釈を総括して、
九三はもう(次の九四に進むべき)時節を知って(次に)進もうとし、また理を知って(次に)進もうとしているので、共に幾を営むことができる。
と解釈する。この節のはじめでは「共に幾事を論ずる」と言い、ここでは「共に幾を営む」と言っており多少解釈にずれがある。また「共に」というのは、この部分は「子曰~」で始まっていて、孔子の言葉だと解釈されているので、孔子が(九三に居る君子と)共に幾事を論ずる(営む)ということになるはず。
○知終終之~
「知終終之、可與存義也」の解釈。九三は一體(下卦)の頂点にあって其のおわり(終竟)を全うするものである。これが「知終」である。既にこの終わり(終竟)を知ることができれば、終わり(終盡)の時にあたって、(共に?)其の義を保つ(保存)ことができる。義というのは「宜」である。(義を保つというのは)其の位を保ち(保全)、喪失することが無く、事において宜を得ることである。九三は既に其の自ら(の位を)全うすることを知っているので、義を保つことができる。
以上が疏の解釈だが、まず前の「知至至之、可與幾也」の「與」の字が「共に」という意味であることは疏で明言されているが、この「可與存義也」の「與」の字が「共に」という意味であるかどうかは疏では明言されていない。「孔子が共に義を保つことができる」と解釈するのも変なように感じる。また疏では「存義」を具体的には位を保つことと解釈するのも強引な気がする。
○然九三唯是~
「知至至之、可與幾也」と「知終終之、可與存義也」についての総括。
九三は単なる一つの爻であるが(?)、次に進ませようするのが幾を知ることで、退かせようとするのが義を保つことになり、進むと退くとで、其の意味は異なっている。九三は進退の時にあることから、若し進むべくんば進み、退くべくんば退き、二つの意味が並行しているのだ。


この後に王弼注に対する疏が続くのだが長いので次回にまわします。


12/14追記

ここ最近疲れて帰ってすぐに寝てしまう日も多く、更新どころか漢文すらロクに読んでおりませんでした。今日ひさびさに見直しましてちょっと誤字を修正。


また上に述べた「脩業」との「居業」違いについての疑問ですが、『周易折中』をちょっと読んでみました、いろいろな説が引用される中、『朱子語類』なんかにも関連する言及があるようですが、兪琰の説明がよりわかりやかったです。
兪琰によると、「脩(修)業」とうのは、まだ完成していないものを完成させようとすることで、「居業」というのは既に完成したものに居てそれを守ることだとのこと。疏でも恐らく同じようなニュアンスで解釈してよさそう。

9月の購書録

8月は忙しかったりしてあまり本屋に行けなかったので、その反動か9月は大量に買ってしまった。通販で注文したほか、この間、本屋に行った際『易學集成』は自分で持ち帰ったが、そのほか持ちきれない分は後日の宅配を頼んでおいたものが、結構早く届いた。


通販分


校補本 太平廣記(2冊 宋・李昉等撰 中文出版社 1972年 影印本)
經典釋文序録疏證(唐・陸徳明撰 呉承仕疏證 台聯國風出版社 中文出版社 1933年原刊 1974年影印)


『校補本 太平廣記』は出版説明によると清康熙7年(1668)孫潛手校談本を底本に他本で脱落を増補し錯誤を改めたとある。説明どおりなら明・談愷の刻本に孫潛という人物が校記を手写したものかと思ったが、パラパラとページをめくってみても特にそのような形跡は無く、断句等の一切無い普通の影印本にしか見えない。とりあえず巻265には、元の談愷本に加えて、明・許自昌刻本のものが付加されているので、これが「校補本」の「補」になるのだろうか?
『經典釋文序録疏證』は『經典釋文』の序録の部分に考証注釈を施したもの。出版説明によると、著者の呉承仕は1885年~1939年の人物で清末から民国にかけての人。この本は民国22年(1933年)の原刊本を影印したもの。昔の木版本風で(自分の知識では本当に木版で印刷したのかどうかはわからない)本文には断句が施されているが、注文には施されていない。中華書局あたりから、普通の標点本が出ていたはず。


宅配分


北宋版通典(全9冊 唐・杜佑著 長澤規矩也 尾崎康校 韓昇訳 上海人民出版社 2008年 影印本)
日本足利學校藏宋刊明州本六臣注文選(梁・蕭統撰 唐・呂延濟等注 人民文學出版社 2008年 影印)
宋會要輯稿考校(百年河大國學舊著新刊)(王雲海著 河南大學出版社 2008年 横組繁体)
周易述 附:易漢學 易例(全2冊 清・惠棟撰 鄭萬耕校 中華書局 2007年 縦組繁体)
周易古義 老子古義(楊樹達文集)(楊樹達著 上海古籍出版社 2006年 縦組繁体)
易經來註圖解(明・來知德註 鄭燦訂正 巴蜀出版社 1988年 影印)
釋名疏證補(後漢・劉熙撰 清・畢沅疏證 清・王先謙補 祝敏徹等點校 中華書局 2008年 縦組繁体)
北齊地理志(二十四史研究資料叢刊)(全2冊 施和金撰 中華書局 2008年 縦組繁体)
蘇軾文集(中国古典文學基本叢書)(全6冊 蘇軾撰 孔凡禮點校 中華書局 1986年 縦組繁体)
蘇軾詩集(中国古典文學基本叢書)(全8冊 蘇軾撰 清・王文誥輯註 孔凡禮點校 中華書局 1982年初版 1987年第2次印刷 縦組繁体)


『北宋版通典』は汲古書院から出ていたものを中国で影印したもの。前々から中国で安く影印されないかと願っていたもので、本屋で見て購入を即決。
『日本足利學校藏宋刊明州本六臣注文選』も、やはり汲古書院から出ていたものを中国で影印したもの。ただ『北宋版通典』と違って、1ページに原本(原本は6冊)の4ページ分を上下二段に縮小印刷している。本文は細かいながら非常に明瞭に印刷されているが、本文に附された訓点の判読はちょっと困難な部分がある。底本となる宋刊明州本の文選は、五臣注が先にきて李善注が後に来るタイプの六臣注文選。ちなみに四部叢刊に収録される建州本の六臣注文選は李善注が先に来る。明州本は現存する文選の完本のなかで最古に属し、その中でこの足利学校蔵本は、補版の無い善本だとのことです。
『宋會要輯稿考校』は、以前に『宋會要輯稿』を購入したのでその参考にでもなればと思って購入。もともと、1986年に上海古籍出版社から出ていたものらしく、今回河南大学ゆかりの研究者の著作を復刊する「百年河大國學舊著新刊」シリーズとして新たに出版されたものらしい。『宋會要輯稿』の校勘を行った「上編 《宋會要輯稿》校補」と『宋會要輯稿』の底本や校勘に関する論文を収めた「下編 《宋會要輯稿》考論」と『宋會要輯稿』の目次の「附編 《宋會要輯稿》篇目索引」の内容に分かれ、上編では1989年に発表された「《宋會要輯稿》校補(續)」が新たに付加されているようである。
『周易述 附:易漢學 易例』。『周易述』は中華書局の『清人十三經』所収の国学基本叢書の影印本で既にもっているが、句読点が一切無いうえに誤字もあって非常に読みにくいので、標点本を購入してみた。『易漢學』『易例』の2つの惠棟の著作を附録しているかわりに、江藩・李林松の補作がついていないのが難点かな。
『周易古義 老子古義』は、易経や老子の文句が古い漢籍にどのように引用されているかという点から、易経・老子の古い時代の解釈を解明しようとしたもの。
『易經來註圖解』は影印本ぽいが、もとにしたテキストを明言しない。出版説明によると高雪君による明・萬暦29年郭青螺初刻本の覆刻本を基礎にその他の版本を参照して訂正補綴したとあるので、高雪君刻本系のテキストを影印して、その際に原版に手を加えて誤字等の修正を行ったのであろうか?断句あり。
『釋名疏證補』、『釋名』については詳細な校勘を行った『釋名匯校』(任繼昉纂 齊魯出版社 2006年 横組繁体)は持っているが、詳細な注釈は持っていなかったので、有名な『釋名疏證補』を見つけて購入してみた。
『北齊地理志』は、地理志を欠く正史のなかで、北斉の地理志を補作したもの。
『蘇軾文集』『蘇軾詩集』。蘇軾の文集は世界書局の影印本で持っているが、本屋が在庫整理の際に過剰在庫で余っているということでただで貰っちゃった。


ただで貰った分があるとはいえ買いすぎた


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