関東の老師が遷化されてからもう10年が経ちました。
ご存命中に3度ほどお話をうかがったことがあり、代えがたい貴重な時間をいただいたと感謝しております。
そのうち、2013年1月の会話の中から印象的だった部分を抜粋します。
Q.
昨日、参禅者のかたとお話ししてた時に、「関東の老師もちょっと前までは厳しかったんだよ」とおっしゃってて。で、お会いしてみると全然そんなご様子がないもんですから。
A.
うんうんうん、ないわねえ。
やっぱりね。なんちゅうかねえ、そういうことをみんな感じてたみたいですよ。
Q.
そうですか。
A.
今はねえ、もう問題外です。
Q.
ああ、そういうことももう要らないやという。
A.
どうしてそうなったかっていうのも分からないですよね。
Q.
ある時からもう?
A.
うん、だんだんだんだんそうなったっていう。
Q.
そうですか。老師でもやはりそうやって、おのずと変わっていかれる。
A.
うん、変わるほうから言やあ変わるということでしょうね。
Q.
ありがとうございます。
前回、本当に老師のご様子に触れて……ここにうかがってご様子に触れたおかげで、「なんだ、(悟りとか迷いとか)要らないじゃないか」ということがもう伝わってしまって。(笑)
A.
ああ、そうでしたか。(笑)
Q.
本当に平凡なご様子だということに自分も気付かされました。
A.
ああ、そうでしたか。
Q.
前回、戻ってから和歌山の老師にそのことを報告しまして。
「いや、関東の老師はなあ、何人かいる老師の中でも頭抜けて境涯が深いんだよ」とおっしゃっておられて。
A.
ああ、そうでしたか。(笑)
私だけは、要するにそういう、あんまり勉強をしなかったんですよ。
Q.
そうですか。
A.
みんな頭良いんですよ。優秀。総代になるっちゅうぐらい。私は劣等生で(笑)。
だから道場入った時なんて困ったですよ。読めないし。字は読めない、新聞も読めなかったですから。(笑)
Q.
そうですか。(笑)
A.
はい(笑)。そういう中で、逆に、純粋だっちゅうことなんですね。
Q.
逆に、もうこれだけ(自身)で本当に?
A.
そうなんですよ。あんまり勉強出来ると、そっちのほうでなんとかっちゅうことになるんだけど、そういうことがなかったし。そういうことが幸いしてるかもしれませんね。
Q.
世の中だと、一般的にはそれをコンプレックスに感じたりしますけど、全然そういうことは関わりがないんですね。(笑)
A.
ええ。いやあ面白いもんだなあと思って。(笑)
(中略)
A.
かつて私は揺すったり叩いてみたりとか、いろんなことをやったもんですよ。
Q.
そうですか。
A.
やっぱり、いろんなことをやりましたね。で、何の功もないっちゅうだけです。
Q.
そうなんですか。
A.
ええ。だって要求がないとこですもん。
Q.
あ、そうか。そうですね。
A.
こっちから押し込むことばっかりやってたんですね。「そんなことしてちゃだめだ、こうしろ」とか。
Q.
「なんでこれが分からんか!」みたいな?
A.
ええ、そうです。それで何の用もなさんかった。
それで全部やめて、やっと人が聞く耳を持ち出したんですよ。
Q.
それからですか。
A.
うん。十年ぐらいかかったんですよ、だから。
Q.
そうですか。
A.
そうですよ。
Q.
じゃあ、ちょうどあの、義衍老師も(参禅者を)叩きまくっておられたって聞きましたけど、ちょうどそういうような感じですか。
A.
うん、その時は勢いはいいしね。自信もあるというか。
そういうことがあったんですけど、そんなのは何の役にも立ちませんでした。(笑)
Q.
じゃあ、実際にお弟子さんがはっきりされるのは、その後から?
A.
そうですそうです。ですからみんなおだやかになってますよね、段々。
(録音不明瞭)した人はたくさんいたでしょ。
(帰り際)
A.
今ね、肺ガンこれぐらい(指先で5mm程度を示す)。(笑)
レントゲンでこのぐらい写ってた。
3月の法要にはたぶん行けるかな。
Q.
ではその時またぜひ。
その法要での内容がこちらになります。
関東の老師というかたは、本当に悟りのかけらも捨て去られ、偉大なお坊さまという風情もまとわず、ごくごく平凡なおじいちゃんというたたずまいでした。(これは本当に素晴らしいことだと最大限の尊敬を込めた表現です。)
和歌山の老師にまたこのことをお話ししたところ、「そういえば掛川の老師も『僕は関東の老師の境涯にはとてもかなわない』と言ってたんだよ。本当に彼は抜けきった境涯になったよね」とおっしゃられていました。
ご葬儀にも参列させていただきましたが、お棺の中を拝見した時、ああ、亡くなっても生前とまったく変わらぬように提唱を続けておられると感嘆したものです。おそらく今でもお寺に行けばやはり同様に提唱をお続けになっておられることでしょうか。
このような老師にご存命中にお会いできたことで、修行というものを取り違えずにすむことができたと大変ありがたく思っております。