西原誉志のブログ「タカシのシカタ」
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肝臓さんと腹痛さん




まいど!!!育休最終日となってしまいましたハラニシです!!!







さて、いよいよ現役生活の振り返りもラストの2年間となりました。








斬新ですが、先に言っておきます!残り2年も終始ネクストでした!




6年間で悔しくなかった年などありません。毎年毎年勝負の年と言い続け思い続け、トップチームでプレーすることをイメージしながら、シーズンオフも、シーズンが始まってネクストだろうと、夏のウインドウが閉まるまでチャレンジし続けました。夏のウインドウが閉まったとしても、次の年のトップでの活躍を常にイメージしてサッカーをしてきました。

練習場ではトップで闘っている選手と日々顔を合わせます。その選手たちと色んな話をしながらも、練習前になると、「頑張ろう」と声をかけ、違う色の芝生のピッチへと足を運ばなければなりません。




練習が終われば、同じ風呂に浸かりながらサッカー談義に花を咲かせます。しかし思い浮かべる情景、天然芝のピッチでの情景の鮮明さには間違いなく違いはあります。自分は想像しかできないからです。話せば話すほど、自分の心臓をキュッと握りしめて苦しめることになります。









それでもサッカーが出来ること、サッカーだけで生活を送れることは本当に幸せなことです。そして何より、僕自身が1番幸せだったことは、僕自身の喜怒哀楽に関係なく、6年間「僕のことを必要としてくれるクラブ」に居続けることが出来たことだと思います。



Jリーグで6年間力を発揮することができませんでした。大卒の自分は、他のクラブであれば1、2年で契約満了になっていたはずです。しかしこのクラブは、僕に出来る役割、僕に出来る仕事を毎年与えてくれました。それだけでなく、6年の間ずっと、僕がJリーグで活躍する姿を信じてくれていました。木村社長、池上前GMの目と言葉と心意気でずっとそれを感じていました。



そしてそれは、僕のこと、ネクストのことを応援してくれていたファン、サポーターも同じです。ずっとずっとJのピッチで活躍することを信じて待っていてくれてたんだと思います。まぁ、「ネクストにいてくれないと困る!」ってゆう気持ちも若干、ほんの少しだけ感じていましたが(笑)





僕はおりこうさんなので、人生において1人の人間がこんなにも人や組織に求められることが、どれだけありがたいことなのかは重々承知しています。ですので、改めて、選手生活の中で自分に少しでも関わっていただいたみなさんには感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございます。
そして、そんなみなさんの想いを絶って引退を決意したことは、今後の自分の人生に、そのすべての責任を背負わせたということです。覚悟しています。選手として残したモノの何倍でもクラブに注いでいくつもりです。






話がだいぶ脱線しました。いや脱線してないのか。とにかく、僕を拾ってくれたクラブが、僕がサッカー選手としても、特に人間としても成長できたきっかけとなった、尊敬できる人たちの集まるクラブだったこと、そして、そのクラブにプロの育成組織があり、僕自身が持つ力を自分なりに発揮できる場所があったという奇跡に、並々ならぬ感謝です。










2013、2014シーズンは、ネクストの新たな歴史が作られたシーズンでもあります。

2013シーズンから、これまでの眞中体制から牧内さんにバトンが渡されました。

僕が語るのは何ともおこがましい話ですが、これまで眞中さんが作り上げてきたチームに、牧さんの緻密な戦術が合致し、そこにこれまでネクストで闘ってきた仲間の想いとサポーターの想いで支えられたチームになったのではないかと思います。

中国リーグでは、これまで出来なかった上位との直接対決を粘りで勝つことができ、初優勝。(プロチームであることを考えれば少し遅過ぎましたが)


迎えた地域決勝は、前年に流した涙の悔しさを忘れられない多くのメンバーが残っていたため、72時間×2の時間の中でとにかく昇格するための戦い方を冷静に話し合って心を一つに保ち続けました。

「自分たちのサッカー」なんてものはとうてい無かったかもしれません。そんな言葉すら生ぬるく感じてしまうような奇妙な場所でした。今思い出しても2度と経験したくないと思いますし、思い出すだけで体の中のものが出てきてしまいそうです。


そんな恐ろしい大会を、自分たちは実に手堅く戦えていたのではないかと思います。6戦中、無失点のゲームが4試合。複数失点の試合はありませんでした。

何度も言いますが、眞中さんのチーム作りと牧さんのチーム作りが見事にシンクロして、そこにたくさんの人の想いが重なったんです。







最終戦。0対0で迎えた後半ロスタイム。

後半途中出場の竹内翼のパスに、同じく後半途中出場、飯田涼がキーパーの出どころを冷静に見ての見事なループシュート。





前の年の地決で見た悲劇の無声映画が、歓喜の無声映画となってかえってきた瞬間でした。


得点後にサポーターのみなさんと喜び合えた瞬間は、僕のプロ生活での1番の歓喜でした。(牧さんにはあの後ロッカールームで叱られましたが。笑)






この勝利で、地決を2位で終え、翌週の理事会でネクスト史上初となるJFL昇格が決まりました。








正直なところ、翌年の僕のプロ生活最終年は、うまくいかないことだらけでした。自分自身、初めてのJFLの舞台で出来たことも少なかったですし、チームとしてもなかなか結果が出ず、初勝利も時間がかかり、ホームでの初勝利で言えば後期になってからでした。
キャプテンとしての仕事も1番中途半端で、不完全燃焼で終わってしまったと思います。






ですが、引退を決意した理由はそれとは関係ありません。不完全燃焼だったとしても次のステージはトップで活躍することを考えてましたし、前にも書きましたが身体も心もバリバリサッカー出来る自信はありました。ありがたいことにチームからもオファーはいただきました。



しかし、冷静に、究極に、自己分析をして、これからの自分と岡山のトップチームとの成長曲線も考え、自分と自分の家族の人生において、その少ない可能性への勝負がベストな選択なのかどうかというところで、自分のプロとしてのわがままが残り、プロではいられなくなったので、引退を決めました。


「自分のプロとしてのわがまま」と言いましたが、西原誉志という選手におけるプロの定義とは、「岡山のトップチームでプレーし続けること」だけだったんです。




引退の決断というものは、プロサッカー選手において、ほぼ確実に訪れるものです。



それが早いか遅いか、成功したかしてないか、満足したかしてないか。

僕の引退の決断は早いですし、成功してないですし、満足もしていません。ただ確実に充実はしていたんだと思います。




そして、前にも言いましたが、この6年間で得た1番の財産は、スキルでも成績でもなく、「人」です。




尊敬する人たちが本当にたくさんいました。



応援してくれたファン、サポーター、スポンサーのみなさん。地域のたくさんの人たち。

クラブのフロント・現場のスタッフ。


競い合い、苦楽をともにした選手のみんな。


支えてくれた家族。




そしてクラブの中で言えば、木村社長、池上GMが僕に与えてくださった影響というものは計り知れないものがありました。





そして最後に、6年間常に気持ちを通わせることのできた、同い年の同期3人。奴らからは本当にたくさんのものをもらいました。

田所からは常に絶大なる刺激と、愛と毒のある叱咤激励を。

新中からは圧倒的な居心地の良さと、ピッチ内外における、頼り甲斐のあるたくましさを。

椎名からは、深くて大きな誰よりも強い愛情と、常にまっすぐで的確な言葉を。










みんながいなければ、今の自分はありませんでした。








6年間、どんなときも、西原誉志というプロ選手を、西原誉志という人間を支えていただき、




本当にありがとうございました!!!










明日から、僕の第2の人生が始まります。



まずはアカデミーのスタッフとして、子どもの可能性を広く大きく育てていけるように努めてまいります。そして、選手時代よりもたくさんの大きなものをクラブに残していくつもりです。今後ともよろしくお願い致します!







まとまりのない、大変長い振り返りとなってしまいました。

最後になりましたが、振り返りの始めに言っていた、ちょっといい話。




引退を報告してから、母からこんな連絡が来ました。



『入団会見で、「岡山といえば西原と言ってもらえるように」と話していたけど、6年後の今、たくさんのサポーターが、「キャプテンといえば西原」と言ってくれてるよ』と。







それがネクストだろうと、僕を支えてくれたみんなの力が集まって「キャプテン西原」が出来上がりました。大事な大事な僕の宝物です。大切に胸にしまって、今後の生きる力にしていきます。みなさんの力にも少しでもなっていますように。







それでは、明日から本当に頑張ってまいります!!!ここまで読んでいただき本当にありがとうございました!また出来る時に更新できればと思います!






ではでは、選手の自分に。そして選手の自分を応援してくれたみんなに、









アディオス!!!




てっちゃんゴンちゃん




あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願いします!


今年の初夢は、部屋いっぱいの、ふきのとうと遊ぶ夢でした!ハラニシです!!!






さて昨日は、僕のことを慕ってくれる数少ない後輩の1人である、角島康介の結婚式に参加してきました!素晴らしい式でした!そして、彼が本当にたくましく見えました!改めておめでとう!これからもお幸せに。







そんな今日は、彼と過ごした2年間でもある、2011~12シーズンを振り返ってみたいと思います。






シンガポールから帰国し、再び岡山でプレーする機会をもらった自分。しかし、自分の想像とリアルとに、かなりのギャップがありました。




簡単に言うと勘違いしていたんです。


1年目のネクストから2年目にトップに上がり、1試合しか出れなかった自分が、シンガポールで経験を積み、それを試す場があたかも与えられているかのようなうぬぼれ。今思うと笑いが出ます。







3年目、開幕前の全体での沖縄キャンプを終え、自分に待ち受けていたものは、再びネクスト登録という現実でした。



2年目を除いて毎年そうでしたが、トップとネクストの振り分けを伝えられた瞬間に、心臓めがけて飛び込んでくるたくさんの感情は、今後の人生では味わうことが無いんだろうと思います。脳ではなく、心臓なんです。

正直、そこから1日2日のトレーニングだけは、空っぽな体でサッカーをしてしまっていました。
しかし、その逃げ出したくなるような境遇のおかげで、人生の師と言える方との出会いがありました。師匠であり岡山の父である、眞中幹夫さんとの出会いです。


2010シーズンからネクストの監督をされていた眞中さん。その厳しさは噂通りのものでした。甘ったれていた自分達をチーム始動から容赦なく走らせました。高校時代を彷彿とさせるほど、グラウンドをグルグルと走り回りました。

練習外の時間でも、個人がトップで成功するための方法を考える時間や、チームが一つになるための方法を考える時間を、プロでありながら、監督発信で本当にたくさん作っていただきました。その当時は、「またかよ…」と思ってしまうほどに(笑)

しかし、愛情の重さ、深さで、すぐに心は通じ合うもので。すぐに体が勝手に彼の思いについて行くようになりました。


中国リーグ開幕前に、ネクストのキャプテンを引き受けました。眞中監督とともに、そして既に気持ちの通じ合っていた、心の拠り所だった新中、椎名とともに、チームをまとめて結果を出していこうと決意しました。

が、トップでJリーグに出場することを考えていた一人ひとりがネクスト登録の現実を突きつけられ、カテゴリを落として闘うことを受け入れ、なおかつチームを勝たせようとする気持ちを結集することは、並大抵の難易度ではありませんでした。
勝ちたいと思ってない選手がいるわけではない。チームの仲が悪いわけでもない。それでも、まだまだチームとしても一人ひとりも未熟で、優勝するべきチームではなかったんだと思います。

2011シーズンの中国リーグは3位で終えました。






そして、過程を抜きにして結果だけでいうと、翌年の2012シーズンのスタートもネクストで、プロとしての勝負にまたもやその時点で負けました。けれど、中国リーグ優勝を果たせなかった自分に、個人昇格の資格無し。運命とミッションだと思って受け入れました。加えて、引き続き指揮を執る眞中さんについて行くことで、自分自身、サッカー選手としても人間としても成長できる自信はありました。



前年も共に闘った仲間が多くいたことで、チーム力の貯蓄もあったように思います。気づけばみんな、「眞中さんを漢に」というスローガンのもと、選手はひとつにまとまっていました。



しかし、リーグは2位でフィニッシュ。優勝したデッツォーラと3位のレノファには最後まで勝ちきれないまま終わりました。



自分の勝手な見解では、地域リーグの中で圧倒的な力を見せることができなかった理由の一つに「劣等感」があったように思います。トップに昇格出来ないという一人ひとりに突きつけられている事実が自然と負い目になっていたのではないかと。



しかし、前の年とは違い、JFL昇格のチャンスは、全社の全国大会の出場を決めていたことでわずかに残っていました。



迎えた10月の全国社会人サッカー選手権大会、通称全社。
負けたら終わりのトーナメント、上位数チームに入れば地決が決まる。が、負ければそこでシーズンも終わり。次の年はどこでサッカーをしてるかも、そもそもサッカーをしているかさえも分からない運命が、5日間、5回の一発勝負で決まる。

これを闘うにあたってのネクストの武器は、プロ集団でありながら、「チーム力」と、「眞中さんを漢に」の一心だったと思います。加えてそのチーム力も、一戦一戦闘うごとに上がっていきました。点が決まった時の、ベンチも含めたみんなの集まり具合が、初戦と最後で全然違うんです(笑)




結果は、最終日の3位決定戦を勝ち抜き、3位で地域決勝大会出場を決めました。終了のホイッスルが鳴った瞬間、眞中さんめがけて全力疾走しました。あのときの喜びは表現の仕様がありません。




しかし、地域リーグからJFLへの最も重要な扉がまだ残っています。それが地域リーグ決勝大会。


各地域リーグの優勝チームと全社上位チームの中で、JFL自動昇格2チームと、入れ替え戦に進む1チームが決まります。



予選ラウンドの3試合は、全社同様、フォアザチーム、フォアザマナカの一心で戦い抜き、1位で決勝ラウンド進出を決めました。


迎えた決勝ラウンド。4チーム中、最下位にさえならなければ、自動昇格か入れ替え戦に進めたんです。しかし、その状況をポジティブに考えれば考えるほど、地決の魔の手に引きずり落とされていくんです。終わるまでそのことに誰も気づきませんでした。


1戦目。予選ラウンドでPK戦までもつれ込んで勝利した、SC相模原。
決勝ラウンドを予選と同じ気持ちで闘ってしまったのか、手探りだったのか。はたまた相模原を、リスペクトしていなかったのか。気がつけば失点し、1度は追いついたものの、後半ラストワンプレーで失点し、敗戦。




2戦目。相手は全社の準決勝でPK戦の末破れた福島ユナイテッド。

そのとき、わずかでも、3試合目を意識してしまっていたのかもしれません。ここで負けても次勝てば…。最悪3位になれば入れ替え戦…。

絶対的強固だとおもっていたチームの結束による手綱が、ホロホロとその90分でゆっくりとほどけていくようでした。あれよあれよと失点し、0対3での敗戦。


試合終了後から最終戦開始までの24時間、必死にチームで立て直しを考えました。90分で勝てば3位で入れ替え戦進出。相手のノルブリッツ北海道も2敗している。自分たちのサッカーをすれば勝てる。慌てなければ点は入る。




最終戦。後半途中、康介のヘディングシュートで先制。よし。入れ替え戦だ。このチームで昇格できるチャンスが来る…。





そこに訪れたのは、すぐさまの失点。「背筋が凍りつく」という言葉は、自分の人生でこのときが1番当てはまります。






最後の最後まで攻め続けました。相手も引き分けなら入れ替え戦が決まるため、必死に守っていました。



パワープレーに出たとき、自分は最前線に行きました。そこからは無声映画のようだった数分間のシーンがはっきりと脳裏に焼きついています。



最後のコーナーキックのチャンスを逃した瞬間、再び自分の耳に音が戻ってきました。それは、試合終了のホイッスルでした。




失われた言葉と希望の代わりに、ただただ涙が溢れ出て、止まりませんでした。






そして、自分の人生の財産でもあり、翌年の栄光の引き金でもあった、文字通りの「消化PK」





順位も決まっている。しかし、勝ち点を決めるために行われた、レギュレーション通りのPK戦。



みんな泣きながら蹴ってました。前がはっきりと見えてる選手のほうが少なかったんじゃないかと思います。


それでも、松原の最後の最後の踏ん張りのおかげで、事実上、意味の無いPK勝利。(しかし、この勝ち点1が、後のJFL昇格の意味になったんだと今は実感しています)







試合後、挨拶に行ったときのサポーター1人ひとりの表情と声。


ロッカールームでもらった眞中さんからのメッセージ。


これらも翌年の昇格の鍵でした。




眞中さんからは、みんな本当にありがとう、そして申し訳ない、と。来年以降のみんな一人ひとりに今日のこの経験が絶対に活きるから、と。



ありがとう。申し訳ない。


とんでもない。感謝してもしきれないのはこっちのほうなわけで。最後の最後であなたを漢に出来なかった申し訳なさで一杯なのはこっちのほうなわけで。





2年間で与えてくれた数々のこと。それは、おそらくJリーグでは経験出来ない特別なもの。それを自分の力ではなく、1人の人によって与えてもらったということ。


絶対に、忘れはしないでしょう。












こうして、眞中さんと、みんなと闘ったネクストでの2シーズンが終わりました。


















最後の2年間はまた後日。


ちなみに、今シーズンの僕の活動が、いよいよ今月20日から始まります!それまでに振り返りはしておかないと、ですね!せがれが寝てからがチャンスです!(笑)





それでは!



アディオス!!!

ご報告





まいど!いつも私のくだらないブログを気にかけていただき、本当にありがとうございます!








引退の発表から半月が経ち、これから先のことを心配してくれた方々にはたくさんご迷惑をおかけしましたが、






この度、ファジアーノ岡山に残り、チャレンジサッカースクールのチーフコーチを務めさせていただくことが決まりました!





まずは、選手としてだけでなく、引退後も自分に声をかけてくれたクラブには、当てはまる言葉が見つからないくらいに感謝の気持ちで一杯です。




そして、岡山に来てからずっと応援してくれ、支え続けてくれた全ての人達。みなさんの存在がなければ、私の答えはおそらく違うものになっていたのではないかと思います。





引退を決意してから、1度考えをフラットに戻して、やるべきことを見つける予定でした。そもそも大学を出て、岡山に来てすぐのころは、もし現役を引退したら、そこからは教員を目指すということしか考えていませんでした。





しかし、今現在の自分が、何をどう考えてみても、岡山を、いや、ファジアーノ岡山というクラブを抜きにしては考えられなくなっていました。




選手を終えた今、自分のやりたいこと、やるべきことは、これまでの6年間と同じく、100年続くDNAのための血となり肉となること。このクラブの内側から、このクラブの行く末を見続けること。これに尽きます。






当然、地元への思いもありますし、地元の人達への思いもあります。
が、今となってはもう岡山も地元のようなものです。1番必要としてくれ、1番自分自身がやるべきこと、やりたいことが今回の決断です!






このクラブを、100年先も飛躍し続けるクラブにするため、そしてこのクラブ、この街を日本一にするため、全身全霊で職務を全うしていきたいと思います!




チャレンジスクールは、このクラブのU-15、U-18を目指す小学6年生を対象としたスクールです。



夢と希望を持ってやってくる子どもたちに、さらにたくさんのものを上積みして送り出し、みんなをたくましい人間、そしてこのクラブのトップチームで活躍できるようなプレーヤーに育てていけるように、自分自身も絶えず成長しながら力を発揮していきたいと思います!!!





立場は変わりますが、今後ともよろしく致します!







ってことで、あいだにご挨拶の更新を挟んでしまいましたが、


ちゃんと選手生活プレイバックの続きも更新しますので(笑)









新中、だから怒るなって言ったろって!!!









アディオス!!!






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