2008年の12月から、その翌月にかけての自分のブログ記事を読んでいた。そのころ僕は今よりも旺盛に、ちょっと前流行した旅行記風に言えばRead, Think, Learnしてたんだなと思った。

大学に入ってからの僕の読書量と勉強量は、年々少なくなっているとしか思えない。忙しいことは忙しいけれど、それらに割く時間がないわけでは決してない。ただ、やる気はない。大学に入った頃、僕はやる気に満ちていた。そうして世の多くの大学生の如く遊び呆けるようには絶対になるまいと思っていた。今の僕の生活は、入学当時の僕には軽蔑されて然るべきだろう。年々、楽しく暮らせればそれでいいじゃんという考えが大きくなっていくのだが、このやる気の無さではそのうち一握りの楽しみを持つことすら許されぬようになるかも知れない。

というわけでもっと頑張ろうよ、という記事でした。

今年は久しぶりに受験生ですしね!


ついさきほど、書きたい内容があったわけではなくむしろ文章が書いてみたくなって、久しぶりに記事をあげた。

ところで、まったく投稿がなくても毎日40程度のアクセス数があることが不思議であったのだが、これはRSSリーダーによるアクセスがカウントされているのではないかと気づいた。一定数のアクセスが毎日あるのは奇異だし、使用OSもアクセスの99%が不明となっている。多分、この考えは正しいのだと思う。


こないだ、久しぶりに人に怒られた。もっとも僕は、それが聞こえないふりをして逃げたのだが。

うちのキャンパスは日中、北部と西部からの自転車の入構は禁止され、キャンパス内で自転車に乗るためには南部か東部から入るしかない。これは地理的な問題で、北西部にその名の由来となっている待兼山というちょっとした丘を抱える我がキャンパスでは、北と西の通路はどうしても坂になってしまい、自転車の通行を許可すると歩行者の安全が確保できないためと思われる。キャンパスの北に住んでいる僕は、少し前までは南から入っていたが、最近は北側の階段を自転車を持って降りている。


この階段には、たまに警備員が立っていたりするが、自転車を持って降りても何も言われないので、恐らくは問題ない行為なのだろう。そして、北側での主たる出入口はこの階段ではなく、やはりちょっとした坂を伴うもので、そこではライダー達は警備員に制止され、徒歩で入構することを余儀なくされる。しかし、僕にとってこの入口は最も近く便利なので、警備員のいない早い時間や休日等には、この関門を自転車で通過する。つい先日も、お盆も過ぎて夏休み真っ只中、人もまばらなキャンパスに、ひいひい言いながら自転車にまたがって向かった。件の門に到着すると、あろうことか警備員がいる。しかしいつものように2人ではなく、1人のようだ。しかも少し遠くにいる。こっそり行けば気づかれまい。


甘かった。すぐに警備員は気づいたようだ。「おい」という低く大きな声が聞こえてきた。その声たるや、怒号と呼ぶのにこれほど相応しいものはしばらく聞いていなかったなと思うほど。声の主はその後も「おい」などと叫んでいたが、「そこの自転車」とか「止まれ」とかは言っていなかったように思う。そう言われたとしても僕は止まらなかっただろうし、そもそも元から強行突破するつもりだった。しかし予想の遥か上を行く大きさの怒りに遭遇し、刹那、僕の頭は混乱と興奮で満たされた。この警備員はどういうモティヴェイションで仕事をしているのだろうか。キャンパスの交通安全を身を持って死守するとでも言うのか。僕は恐ろしかった。


かつて学生の発行する雑誌に、学内の警備員をどう思うかというようなアンケートの結果を見たことがある。結果は容易に予想されることだが、「うざい」、「空気」等、煙たがったり、否定的な意見が大勢を占めていた。これを雑誌に載せて、何が面白いんだろうか、そう感じる人が多かったであろうことを望む。ところで僕が警備員に対して思うところは、ある点において彼らが哀れであり、それに関して責任を感じるということ。それは、彼がかなり疑心暗鬼に見えることである。自転車に乗って彼らに対峙すると、彼らは未然にこちらが道を逸れた行為に走るのを防止しようという動きを取る。たとえこちらがそんな素振りを微塵も見せなくても、である。彼らを支配する教義は性悪説なのである。自転車に乗った小僧どもは何をしでかすか分からないと考えているのである。そうしてそういう考えを支えるのが冒頭の僕のような不届き者の行為なのである。そこに責任を感じるということです。