アダルトチルドレン
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港の 空に

海の向ふに
小さい船が
赤い帆かけて
走つてる

赤い帆かけた
小さい船に
いつか別れた子供が
乗つてる

船と子供を
海鵯は
磯にとまつて
夢にみた


 河原の河童

夜更けに 子供が
歩いてる

頭に お皿が
載つてゐた

河原の 河童の
子供だよ

河原で 夜更けに
火が燃える

雨夜の晩だに
火が燃える

河童の 子供が
燃すんだよ


 鳩さんはだし

少女『鳩さん はだしで
どこへゆく

鳩『遠い田舎へ
お使ひに

少女『鳩さん 急いで
いつておいで

鳩『はだしで 急いで
いつて来ましよ

少女『鳩さん あばよ
鳩『じよつちやん さよな

少女『鳩さん 急いで
いつておいで


 海女が紅

港の 空に
海女がべに
刷いた

港の 空に
赤い帯
ほした

信濃の国も
夕焼け
焼けるぞ

信濃の子供
帯まで
焼けるぞ

相手の顔

菊池君は人と話をする時、相手の顔を見ることが最も少い。議論や問答の間に於てさえ、菊池君の眼は相手の顔に注がれずに、況んや相手の眼には猶更注がれずに、何処かわきの方に、多くは斜め下の方に、ぼんやり向けられてることが多い。菊池君が傲慢だとか横柄だとか思われることがあるのは、こういう所から来る誤解も手伝ってると思う。然し考えてみると、相手の顔や眼をじっと見ながら口を利く方が、よっぽど傲慢で横柄であるかも知れない。但し、菊池君の眼はわきに向けられてることが多いけれど、それはただぼんやりわきに向いてるだけで、極り悪がって足下を見てるのとは違って、実は一方では相手の顔付や様子を見てるのかも知れない。そういう二重の働きをしてるとすれば、菊池君の眼もまた偉なる哉である。

磯にとまつて

田甫の狐は
  瘠馬やせうまに乗つて
  三度笠かぶつて
  五兵衛さんいえ
  裏の道通つた

  五兵衛さんが見たら
  笠で顔隠した
  「おさよか」と、聞くと
  「そだよ」と云つて
  笠で顔隠した

  「どこへ行く」と、聞くと
  「越後の国さ、茶摘みに行くよ
  五兵衛さん行かう」と
  尻尾出して
  見せた

また、ある時はお医者さんに化けてあるきました。

  田甫の狐は
  薬箱さげて、自足袋はいて
  お医者さんにばけた

  犬がかけて来たら
  薬箱投げて 河原の籔さ
  逃げこんぢやつた

  犬が行つてしまふと
  河原の籔に 首だけ出して
  あつち こつち見てた


 青野の森

あるとし、わたしの生れた村の田甫たんぼの狐が隣村の青野の森へお嫁にいつた話があります。

  田甫の狐は島田に結つて
  青野の森さ
  お嫁になつた

  青野の森の
  聟さん狐
  とんがりお口

  青野の森の
  嫁さん狐
  とんがりお口


海ひよどり

 磯の千鳥

磯が涸れたと
啼く千鳥
沙の数ほど
打つ波は

 昨日きのふ一日
 今日二日
 磯が涸れたと
 云つて啼く

磯が涸れたと
啼く千鳥
どんど どんどと
打つ波は

 親の千鳥も
 子千鳥も
 磯が涸れたと
 云つて啼く


 赤い靴

赤い靴 はいてた
女の子
異人さんに つれられて
行つちやつた

横浜の 埠頭はとばから
船に乗つて
異人さんに つれられて
行つちやつた

今では 青い目に
なつちやつて
異人さんのお国に
ゐるんだらう

赤い靴 見るたび
考へる
異人さんに逢ふたび
考へる


 螢のゐない螢籠

螢のゐない 螢籠
螢は
飛んで 逃げました

今朝目がさめて 見たときに
螢は
飛んで 逃げました

青い ダリヤの葉の上を
急いで
飛んで 逃げました

高い お庭の木の上を
急いで
飛んで 逃げました

螢のゐない 螢籠
さびしい
籠に なりました


 ひばり

雲雀ひばりは歌を
うたつてる

畑の歌を
うたつてる

朝から晩まで
うたつてる

菜種が咲いたと
うたつてる

げんげが咲いたと
うたつてる

ピーチー ピーチー
うたつてる


 月の夜

機織はたおり虫は
月の夜に
すすきにとまつて
機を織る

 カンカラ コン
 カンカラ コン

まだ夜は明けない
明けないと
芒にとまつて
機を織る

 カンカラ コン
 カンカラ コン


 くたびれこま

かんぶり ふりふり
かんぶり ふりふり

くたびれました
くたびれました

赤いこまが
くたびれました

かんぶり ふりふり
かんぶり ふりふり

くたびれました
くたびれました

青いこまが
くたびれました


 海ひよどり

磯にとまつて
ひよどり
海の向ふの
夢をみた

高座には話家

十一になった。 お父様が東京へ連れて出て下すった。お母様は跡に残ってお出(いで)なすった。いつも手伝に来る婆あさんが越して来て、一しょにいるのである。少し立てば、跡から行くということであった。多分家屋敷が売れるまで残ってお出なすったのであろう。 旧藩の殿様のお邸が向島(むこうじま)にある。お父様はそこのお長屋のあいているのにはいって、婆あさんを一人雇って、御飯を焚(た)かせて暮らしてお出になる。 お父様は毎日出て、晩になってお帰になる。僕の行く学校をも捜して下さるということであった。お父様がお出掛になると、二十(はたち)ばかりの上(かみ)さんが勝手口へ来て、前掛を膨らませて帰って行く。これは婆あさんが米を盗んで、娘に持たせて遣るのであった。後にお母様がお出になって、この事が知れて、婆あさんは逐(お)い出された。僕は余程ぼんやりした小僧であった。 一しょに遊んでくれる子供もない。家職のものの息子で、年が二つばかり下なのがいたが、初て逢った日に、お邸の池の鯉(こい)を釣ろうと云ったので、嫌(いや)になって一しょに遊ばない事にした。家扶(かふ)の娘の十二三になるのを頭(かしら)にして、娘が二三人いたが、僕を見ると遠い処から指ざしなんぞをして、※(ささや)きあって笑ったり何かする。これも嫌な女どもだと思った。 御殿のお次に行って見る。家従というものが二三人控えている。大抵烟草(たばこ)を飲んで雑談をしている。おれがいても、別に邪魔にもしない。そこで色々な事を聞いた。 最も屡(しばし)ば話の中に出て来るのは吉原という地名と奥山という地名とである。吉原は彼等の常に夢みている天国である。そしてその天国の荘厳が、幾分かお邸の力で保たれているということである。家令はお邸の金を高い利で吉原のものに貸す。その縁故で彼等が行くと、特に優待せられるそうだ。そこで手(て)ん手(で)に吉原へ行った話をする。聞いていても半分は分らない。又半分位分るようであるが、それがちっとも面白くない。中にはこんな事をいう男がある。「こんだあ、あんたを連れて行って上げうかあ。綺麗な女郎(じょうろ)が可哀がってくれるぜえ」 そういう時にはみんなが笑う。 奥山の話は榛野(はんの)という男の事に連帯して出るのが常になっている。家従どもは大抵菊石(あばた)であったり、獅子鼻(ししばな)であったり、反歯(そっぱ)であったり、満足な顔はしていない。それと違って榛野というのは、色の白い、背の高い男で、髪を長くして、油を附けて、項(うなじ)まで分けていた。この男は何という役であったか知らぬが、先ず家従どもの上席位の待遇を受けて、文書の立案というような事をしていた。家従どもはこんな事を言う。「榛野さあのように大事にして貰われれば、こっちとらも奥山へ行くけえど、銭(ぜに)う払うて楊弓(ようきゅう)を引いても、ろくに話もしてくれんけえ、ほんつまらんいのう」 榛野はこの仲間の Adonis であった。そして僕は程なくこの男のために Aphrodite たり、また Persephone たる女子(おなご)どもを見ることを得たのである。 お庭の蝉の声の段々やかましゅうなる頃であった。お父様の留守にぼんやりしていると、※麻(くりそ)という家従が外から声を掛けた。「しずさあ。居りんさるかあ。今からお使に行くけえ、一しょに来んされえ。浅草の観音様に連れて行って上げう」 観音様へはお父様が一度連れて行って下すったことがある。僕は喜んで下駄を引っ掛けて出た。 吾妻橋を渡って、並木へ出て買物をした。それから引き返して、中店をぶらぶら歩いた。亀の形をしたおもちゃの糸で吊したのを、沢山持って、「器械の亀の子、選(よ)り取った選り取った」などと云っている男がある。亀の首や尾や四足がぶるぶると動いている。※麻は絵草紙屋の前に立ち留まった。おれは西南戦争の錦絵を見ていると、※麻は店前(みせさき)に出してある、帯封のしてある本を取り上げて、店番の年増にこう云うのである。「お上さん。これを騙(だま)されて買って行く奴がまだありますか。はははは」「それでもちょいちょい売れますよ。一向つまらない事が書いてあるのでございますが。おほほほ」「どうでしょう。本当のを売ってくれませんかね」「御笑談(ごじょうだん)を仰ゃいます。なかなか当節は警察がやかましゅうございまして」 帯封の本には、表紙に女の顔が書いてあって、その上に「笑い本」と大字で書いてある。これはその頃絵草紙屋にあっただまし物である。中には一口噺(ひとくちばなし)か何かを書いて、わざと秘密らしく帯封をして、かの可笑しな画を欲しがるものに売るのである。 僕は子供ではあったが、問答の意味をおおよそ解した。しかしその問答の意味よりは、※麻の自在に東京詞を使うのが、僕の注意を引いた。そして※麻は何故これ程東京詞が使えるのに、お屋敷では国詞を使うだろうかということを考えて見た。国もの同志で国詞を使うのは、固(もと)より当然である。しかし※麻が二枚の舌を使うのは、その為めばかりではないらしい。彼は上役の前で淳樸(じゅんぼく)を装うために国詞を使うのではあるまいか。僕はその頃からもうこんな事を考えた。僕はぼんやりしているかと思うと、又余り無邪気でない処のある子であった。 観音堂に登る。僕の物を知りたがる欲は、僕の目を、只真黒な格子の奥の、蝋燭(ろうそく)の光の覚束(おぼつか)ない辺に注がせる。蹲(しゃが)んで、体を鰕(えび)のように曲げて、何かぐずぐず云って祈っている爺さん婆あさん達の背後(うしろ)を、堂の東側へ折れて、おりおりかちゃかちゃという賽銭(さいせん)の音を聞き棄てて堂を降りる。 この辺には乞食が沢山いた。その間に、五色の沙(すな)で書画をかいて見せる男がある。少し広い処に、大勢の見物が輪を作って取り巻いているのは、居合ぬきである。※麻と一しょに暫く立って見ていた。刀が段々に掛けてある。下の段になるだけ長いのである。色々な事を饒舌(しゃべ)っているが、なかなか抜かない。そのうち※麻が、つと退(の)くから、何か分からずに附いて退いた。振り返って見れば、銭を集める男が、近処へ来ていたのであった。 楊弓店のある、狭い巷(こうじ)に出た。どの店にもお白いを附けた女のいるのを、僕は珍らしく思って見た。お父様はここへは連れて来なかったのである。僕はこの女達の顔に就いて、不思議な観察をした。彼等の顔は当前(あたりまえ)の人間の顔ではないのである。今まで見た、普通の女とは違って、皆一種の stereotype な顔をしている。僕の今の詞(ことば)を以て言えば、この女達の顔は凝結した表情を示しているのである。僕はその顔を見てこう思った。何故(なぜ)皆揃(そろ)ってあんな顔をしているのであろう。子供に好い子をお為(し)というと、変な顔をする。この女達は、皆その子供のように、変な顔をしている。眉はなるたけ高く、甚だしきは髪の生際(はえぎわ)まで吊(つ)るし上げてある。目をなるたけ大きく※(みは)っている。物を言っても笑っても、鼻から上を動かさないようにしている。どうして言い合せたように、こんな顔をしているだろうと思った。僕には分からなかったが、これは売物の顔であった。これは prostitution の相貌であった。 女はやかましい声で客を呼ぶ「ちいと、旦那(だんな)」というのが尤(もっとも)多い。「ちょいと」とはっきり聞えるのもあるが、多くは「ちいと」と聞える。「紺足袋の旦那」なんぞと云う奴もある。※麻は紺足袋を穿いていた。「あら、※麻さん」 一際鋭い呼声がした。※麻はその店にはいって腰を掛けた。僕は呆(あき)れて立って見ていると、※麻が手真似で掛けさせた。円顔の女である。物を言うと、薄い唇の間から、鉄漿(かね)を剥(は)がした歯が見える。長い烟管(きせる)に烟草を吸い附けて、吸口を袖で拭いて、例の鼻から上を動かさずに、※麻に出す。「何故拭くのだ」「だって失礼ですから」「榛野でなくっては、拭かないのは飲まして貰えないのだね」「あら、榛野さんにだっていつでも拭いて上げまさあ」「そうかね。拭いて上げるかね」 こんな風な会話である。詞が二様の意義を有している。※麻は僕がその第二の意義に対して、何等の想像をも画(えが)き得るものとは認めていない。女も僕をば空気の如くに取り扱っている。しかし僕には少しの不平も起らない。僕はこの女は嫌であった。それだから物なんぞを言って貰いたくはなかった。 ※麻が楊弓を引いて見ないかと云ったが、僕は嫌だと云った。 ※麻は間もなく楊弓店を出た。それから猿若町(さるわかちょう)を通って、橋場の渡(わたし)を渡って、向島のお邸に帰った。 同じ頃の事であった。家従達の仲間に、銀林と云う針医がいて、折々彼等の詰所に来て話していた。これはお上のお療治に来るので、お国ものではない。江戸児(えどっこ)である。家従は大抵三十代の男であるのに、この男は四十を越していた。僕は家従等に比べると、この男が余程賢いと思っていた。 或る日銀林は銀座の方へ往くから、連れて行って遣ろうと云った。その日には用を済ませてから、銀林が京橋の側の寄席(よせ)に這入(はい)った。 昼席(ひるせき)であるから、余り客が多くはない。上品に見えるのは娘を連れた町家のお上(かみ)さんなどで、その外多くは職人のような男であった。 高座には話家が出て饒舌っている。徳三郎という息子が象棋(しょうぎ)をさしに出ていた。夜が更けて帰って、閉出(しめだし)を食った。近所の娘が一人やはり同じように閉出を食っている。娘は息子に話し掛ける。息子がおじの内へ往って留めて貰うより外はないと云うと、娘が一しょに連れて行ってくれろと頼む。息子は聴かずにずんずん行くが、娘は附いて来る。おじは通物(とおりもの)である。通物とは道義心の lax なる人物ということと見える。息子が情人を連れて来たものと速断する。息子が弁解するのを、恥かしいので言を左右に托(たく)しているのだと思う。息子に恋慕している娘は、物怪(もっけ)の幸と思っている。そこで二人はおじに二階へ追い上げられる。夜具は一人前しか無い。解いた帯を、縦に敷布団の真中に置いて、跡から書くので譬喩(ひゆ)が anachronism になるが、樺太(からふと)を両分したようにして、二人は寝る。さて一寐入して目が醒(さ)めて云々(しかじか)というのである。僕の耳には、まだ東京の詞は慣れていないのに、話家はぺらぺらしゃべる。僕は後に西洋人の講義を聞き始めた時と同じように、一しょう懸命に注意して聴いていると、銀林は僕の顔を見て笑っている。「どうです。分かりますかい」「うむ。大抵分かる」「大抵分かりゃ沢山だ」 今までしゃべっていた話家が、起(た)って腰を屈(かが)めて、高座の横から降りてしまうと、入り替って第二の話家が出て来る。「替りあいまして替り栄(ばえ)も致しません」と謙遜する。「殿方のお道楽はお女郎買でございます」と破題を置く。それから職人がうぶな男を連れて吉原へ行くという話をする。これは吉原入門ともいうべき講義である。僕は、なる程東京という処は何の知識を攫得(かくとく)するにも便利な土地だ、と感歎して聴いている。僕はこの時「おかんこを頂戴する」という奇妙な詞を覚えた。しかしこの詞には、僕はその後寄席以外では、どこでも遭遇しないから、これは僕の記憶に無用な負担を賦課した詞の一つである。

河原の沙のなかから

  河原の沙のなかから 河原の沙のなかから夕映の花のなかへ むつくりとした円いものがうかびあがる。それは貝でもない、また魚でもない、胴からはなれて生きるわたしの首の幻だ。わたしの首はたいへん年をとつてぶらぶらとらちもない独りあるきがしたいのだらう。やさしくそれを看(み)とりしてやるものもない。わたしの首は たうとう風に追はれて、月見草のくさむらへまぎれこんだ。   仮面の上の草 そこをどいてゆけ。あかい肉色の仮面のうへに生えた雑草はびよびよとしてあちらのはうへなびいてゐる。毒鳥の嘴(くちばし)にほじられ、髪をながくのばした怪異の托僧は こつねんとして姿をあらはした。ぐるぐると身をうねらせる忍辱は黒いながい舌をだして身ぶるひをする。季節よ、人間よ、おまへたちは横にたふれろ、あやしい火はばうばうともえて、わたしの進路にたちふさがる。そこをどいてゆけ、わたしは神のしろい手をもとめるのだ。   香炉の秋 むらがる鳥よ、むらがる木(こ)の葉よ、ふかく、こんとんと冥護(めいご)の谷底へおちる。あたまをあげよ、さやさやとかける秋は いましも伸びてきて、おとろへた人人のために音(ね)をうつやうな香炉をたく。ああ 凋滅(てうめつ)のまへにさきだつこゑは無窮の美をおびて境界をこえ、白い木馬にまたがつてこともなくゆきすぎる。   創造の草笛 あなたはしづかにわたしのまはりをとりまいてゐる。わたしが くらい底のない闇につきおとされて、くるしさにもがくとき、あなたのひかりがきらきらとかがやく。わたしの手をひきだしてくれるものは、あなたの心のながれよりほかにはない。朝露のやうにすずしい言葉をうむものは、あなたの身ぶりよりほかにはない。あなたは、いつもいつもあたらしい創造の草笛である。水のおもてをかける草笛よ、また とほくのはうへにげてゆく草笛よ、しづかにかなしくうたつてくれ。   球形の鬼 あつまるものをよせあつめ、ぐわうぐわうと鳴るひとつの箱のなかに、やうやく眼をあきかけた此世の鬼はうすいあま皮(かは)に包まれたままでわづかに息(いき)をふいてゐる。香具をもたらしてゆく虚妄の妖艶、さんさんと鳴る銀と白蝋の燈架のうへのいのちは、ひとしく手をたたいて消えんことをのぞんでゐる。みよ、みよ、世界をおしかくす赤(あか)いふくらんだ大足(おほあし)は夕焼のごとく影をあらはさうとする。ああ、力(ちから)と闇(やみ)とに満ちた球形(きうけい)の鬼(おに)よ、その鳴りひびく胎期の長くあれ、長くあれ。   ふくろふの笛 とびちがふ とびちがふ暗闇(くらやみ)のぬけ羽(ば)の手、その手は丘をひきよせてみだれる。そしてまた 死の輪飾りを薔薇のつぼみのやうなお前のやはらかい肩へおくるだらう。おききなさい、今も今とて ふくろふの笛は足ずりをしてあをいけむりのなかにうなだれるお前のからだをとほくへ とほくへと追ひのける。   くちなし色の車 つらなつてくる車のあとに また車がある。あをい背旗(せばた)をたてならべ、どこへゆくのやら若い人たちがくるではないか、しやりしやりと鳴るあらつちのうへをうれひにのべられた小砂利(こじやり)のうへを笑顔しながら羽ぶるひをする人たちがゆく。さうして、くちなし色の車のかずが河豚(ふぐ)のやうな闇のなかにのまれた。   春のかなしみ かなしみよ、なんともいへない 深いふかい春のかなしみよ、やせほそつた幹(みき)に春はたうとうふうはりした生きもののかなしみをつけた。のたりのたりした海原のはてしないとほくの方へゆくやうにああ このとめどもない悔恨のかなしみよ、温室のなかに長いもすそをひく草のやうにかなしみはよわよわしい頼(たよ)り気をなびかしてゐる。空想の階段にうかぶ鳩の足どりにかなしみはだんだんに虚無の宮殿にちかよつてゆく。   輝く城のなかへ みなとを出る船は黄色い帆をあげて去つた。嘴(くちばし)は木の葉の群をささやいて海の鳥はけむりを焚いてゐる。磯辺の草は亡霊の影をそだてて、わきかへるうしほのなかへわたしは身をなげる。わたしの身にからまる魚のうろこをぬいで、泥土に輝く城のなかへ。   銀の足鐶   ――死人の家をよみて―― 囚徒らの足にはまばゆい銀のくさりがついてゐる。そのくさりの鐶(くわん)は しづかにけむる如く呼吸をよび 嘆息をうながし、力をはらむ鳥の翅(つばさ)のやうにささやきを起して、これら 憂愁にとざされた囚徒らのうへに光をなげる。くらく いんうつに見える囚徒らの日常のくさむらをうごかすものは、その、感触のなつかしく 強靱なる銀の足鐶(あしわ)である。死滅のほそい途(みち)に心を向ける これらバラツクのなかの人人はおそろしい空想家である。彼等は精彩ある巣をつくり、雛(ひな)をつくり、海をわたつてとびゆく候鳥である。   ひろがる肉体 わたしのこゑはほら貝のやうにとほくひろがる。わたしはじぶんの腹をおさへてどしどしとあるくと、日光は緋のきれのやうにとびちり、空気はあをい胎壁(たいへき)の息のやうに泡をわきたたせる。山や河や丘や野や、すべてひとつのけものとなつてわたしにつきしたがふ。わたしの足は土となつてひろがりわたしのからだは香(にほひ)となつてひろがる。いろいろの法規は屑肉(くづにく)のやうにわたしのゑさとなる。かくして、わたしはだんまりのほら貝のうちにかくれる。つんぼの月、めくらの月、わたしはまだ滅しつくさなかつた。   躁忙 ひややかな火のほとりをとぶ虫のやうにくるくるといらだち、をののき、おびえつつ、さわがしい私よ野をかける仔牛のおどろき、あかくもえあがる雲の真下に慟哭をつつんでかける毛なみのうつくしい仔牛のむれ。鉤(はり)を産む風は輝く宝石のごとく私をおさへてうごかさない。底のない、幽谷の闇の曙(あけぼの)にめざめて偉大なる茫漠の胞衣(えな)をむかへる。つよい海風のやうに烈しい身づくろひした接吻をのぞんでも、すべて手だてなきものは欺騙者の香餌である。わたしの躁忙は海の底にさわがしい太鼓をならしてゐる。   老人 わたしのそばへきて腰をかけた、ほそい杖にたよつてそうつと腰をかけた。老人はわたしの眼をみてゐた。たつたひとつの光がわたしの背にふるへてゐた。奇蹟のおそはれのやうにわらひはじめると、その口がばかにおほきい。おだやかな日和(ひより)はながれ、わたしの身がけむりになつてしまふかとおもふと、老人は白いひげをはやした蟹のやうにみえた。   白い髯をはやした蟹 おまへはね、しろいひげをはやした蟹だよ、なりが大きくつて、のさのさとよこばひをする。幻影をしまつておくうねりまがつた迷宮のきざはしのまへに、何年といふことなくねころんでゐる。さまざまな行列や旗じるしがお前のまへをとほつていつたけれど、そんなものには眼もくれないで、おまへは自分ひとりの夢をむさぼりくつてゐる。ふかい哄笑がおまへの全身をひたして、それがだんだんしづんでゆき、地軸のひとつの端(はし)にふれたとき、むらさきの光をはなつ太陽が世界いちめんにひろがつた。けれどもおまへはおなじやうにふくろふの羽ばたく昼にかくれて、なまけくさつた手で風琴をひいてゐる。   みどりの狂人 そらをおしながせ、みどりの狂人よ。とどろきわたる嫉(ばうしつ)のいけすのなかにはねまはる羽(はね)のある魚は、さかさまにつつたちあがつて、歯をむきだしていがむ。いけすはばさばさとゆれる、魚は眼をたたいてとびださうとする。風と雨との自由をもつ、ながいからだのみどりの狂人よ、おまへのからだが、むやみとほそくながくのびるのは、どうしたせゐなのだ。いや……魚がはねるのがきこえる。おまへは、ありたけのちからをだして空をおしながしてしまへ。   よれからむ帆 ひとつは黄色い帆、ひとつは赤い帆、もうひとつはあをい帆だ。その三つの帆はならんで、よれあひながら沖あひさしてすすむ。それはとほく海のうへをゆくやうであるが、じつはだんだん空のなかへまきあがつてゆくのだ。うみ鳥のけたたましいさけびがそのあひだをとぶ。これらの帆ぬのは、人間の皮をはいでこしらへたものだから、どうしても、内側へまきこんできて、おひての風を布(ぬの)いつぱいにはらまないのだ。よれからむ生皮(いきがは)の帆布は翕然(きふぜん)としてひとつの怪像となる。   死の行列 こころよく すきとほる死の透明なよそほひをしたものものがさらりさらり なんのさはるおともなく、地をひきずるおともなく、けむりのうへを匍(は)ふ青いぬれ色のたましひのやうにしめつた唇をのがれのがれゆく。   名も知らない女へ 名も知らない女よ、おまへの眼にはやさしい媚がとがつてゐる、そして その瞳は小魚のやうにはねてゐる、おまへのやはらかな頬はふつくりとして色とにほひの住処(すみか)、おまへのからだはすんなりとして手はいきもののやうにうごめく。名もしらない女よ、おまへのわけた髪の毛はうすぐらく、なやましく、ゆふべの鐘のねのやうにわたしの心にまつはる。「ねえおつかさん、あたし足がかつたるくつてしやうがないわ」わたしはまだそのこゑをおぼえてゐる。うつくしい うつくしい名もしらない女よ   黄色い馬 そこからはかげがさし、ゆふひは帯をといてねころぶ。かるい羽のやうな耳は風にふるへて、黄色い毛並(けなみ)の馬は馬銜(はみ)をかんで繋(つな)がれてゐる。そして、パンヤのやうにふはふはと舞ひたつ懶惰(らんだ)はその馬の繋木(つなぎ)となつてうづくまり、しき藁(わら)のうへによこになれば、しみでる汗は祈祷の糧(かて)となる。

陶器の鴉

  陶器の鴉

陶器製のあをいからす
なめらかな母韻をつつんでおそひくるあをがらす、
うまれたままの暖かさでお前はよろよろする。
くちばしの大きい、眼のおほきい、わるだくみのありさうな青鴉あをがらす
この日和のしづかさを食べろ。


  しなびた船

海がある、
お前の手のひらの海がある。
いちごの実の汁を吸ひながら、
わたしはよろける。
わたしはお前の手のなかへ捲きこまれる。
逼塞ひつそくした息はおなかの上へ墓標はかじるしをたてようとする。
灰色の謀叛よ、お前の魂を火皿ほざらしんにささげて、
清浄に、安らかに伝道のために死なうではないか。


  黄金の闇

南がふいて
鳩の胸が光りにふるへ、
わたしの頭は醸された酒のやうに黴の花をはねのける。
赤い護謨ごむのやうにおびえる唇が
ちからなげに、けれど親しげに内輪な歩みぶりをほのめかす。
わたしは今、反省と悔悟の闇に
あまくこぼれおちる情趣を抱きしめる。
白い羽根蒲団の上に、
産み月の黄金わうごんの闇は
悩みをふくんでゐる。

ふと、気がつくと、私は首尾よくその人の中に飛び込めて、川に融け合つたやうです。川はもう見えません。私自身が川になつたのでせうか。何だか私にはたくましい力がみなぎり、野のどこへでも好き放題に流れて行けさうです。明るくて強い匂ひがき上げるやうな野です。もう私の考へには嫁入り苦労も老先おいさきもないのです。
 いま男の誰でもが私に触つたら、ぢりゝと焼け失せて灰になりませう。そのことを誰でも男たちに知らせたいです。だのにその人は、もとのまま、しづかに楽器を奏でてゐます。ただ今度の私は、大仏の中に入つた見物人のやうに、その人を内側から眺めるだけです。楽器の音が初めて高く聞えます。それは水の瀬々らぎのやうな楽しい音です。私はそこからまた再びもとの自分に戻るのには、また一苦労です。海山の寂しさを越えねばなりません。

その人の中にはたしかに自分も融け込まねばならぬ川が流れてゐる。それをだん/\迫つて感じ出すのです。けれどもその人は模造の革でこしらへて、その表面にヱナメルを塗り、指ではじくとぱか/\と味気ない音のする皮膚で以て急によろはれ出した気がするのです。私の魂はどこか入口はないかとその人の身体のまはりを探し歩くやうです。苦しく切ない稲妻いなずまがもぬけの私の身体の中を駆け廻り、ところ/″\皮膚を徹して無理な放電をするから痛い粟粒あわつぶが立ちます。戸惑とまどつた私の魂はとき/″\その人の唇とかひたいとかに向つても打ち当つて行くやうです。アーク燈に弾ね返される夜のせみのやうに私の魂は滑り落ちてはにじむやうな声で鳴くやうです。
 私は苦しみに堪へ兼ねて必死と両手を組み合せ、わけの判らない哀願の言葉を口の中でつぶやきます。けれどもその人は相変らず身体をしやんと立て、細い眼の間から穏かな瞳を私の胸に投げたまゝほとんど音の聞えぬ楽器を奏でてゐます。私の魂は最後に、その人の胸元に向つてきばを立てます。み破ります。

莫迦々々

 その人にまた逢ふときには、何だか予感といふやうなものがございます。ふと、たゞこれだけの月日、たゞこれだけの自分ではといふやうな不満が覚えられて莫迦々々ばかばかしい気持になりかけます。けれども思へばその気持もまた莫迦らしく、かうして互ひ違ひに胸に浮ぶことを打ち消すさまは、ちやうど闇の夜空のネオンでせうか。見るうちに「赤の小粒」と出たり、見るうちに「仁丹」と出たり、せはしないことです。するうち屹度きっとその人にふ機会が出て来るのでございます。

社会矛盾

 愛とか幸福とか、いつも人間がこの社会矛盾の間で生きながら渇望している感覚によって、私たちがわれとわが身をだましてゆくことを、はっきり拒絶したいと思います。愛が聖らかであるなら、それは純潔な怒りと憎悪と適切な行動に支えられたときだけです。そして、現代の常識として忘れてならぬ一つのことは、愛にも階級性があるという、無愛想な真実です。