あの地に行こうと思うまで。


実感するのが怖かったのかもしれない。

何があそこで起きていたのかを。

何かに乗っかることに頑なだった自分を。

何も出来ない自分を。


でも、この一年間色々あって

何かしたいと思う。そう思うようになった。

何が出来るかわからないけど

わからないから、わかりにいく。

身体で心で感じてみようと。



行き先も、行き方も、何をするかも

なんにも、なんにも

決まっていないのだけれど。

結果、何もわからないかもしれないけれど。

いくことだけは決めました。



来週、いってまいります。



ギター担当
すっかりと更新頻度が落ちていますが、生きています。

また結婚式の映像を頼まれているため、本日は新郎新婦と打ち合わせ。

最近、謎のプロジェクトが多いのですが、ただ参加しているだけの部分もあるのでちょっと書けない

のですが、いつか書けたらかきます。




さて、映像を作る時、毎回僕は悩みます。

お願いしていただけることは嬉しいのですが、結構なプレッシャーを感じたりします。

終わるまでは言いませんが、作っているときはもう大変です。

近くにいるとわかりますが、その感じはあまりお見せできない感じです。



打ち合わせの段階で、基本情報を聞き込み、ピンと来る要素が見つかるまで聞きます。

それからはピンと来た要素を膨らませるように考えます。

考えて考えて、一旦、置いてきます。考える時間は、想像以上に長いです。

思いつくまで、ほとんどそのことばかりを考えています。

そして、今度は技術的なことや、機材などについて検討しながら、今回も大赤字だなあと思案します。

その後、テレビや映画やいろんな映像をみます。

自分で考えたイメージを遠くにやりたいのと、ヒントがあればと思い。

その後、またアイディアを練ります。ピンと来た要素からなんか一筋すっと流れるイメージが出てくるまで。



果たして喜んでくれるだろうか、要望に応えられるのか。

自分が作り続けられるテンションを保つことができるのか。

そんなことをこねくり回し続けるわけです。

ほとんどの場合は、作らないと間に合わなくなるまで考えております。

むしろ作っている時でも考えたりしている時の方が多いです。



数十本つくって来ましたが、毎回変わりません。

きっといつになっても変わらないんだと思います。

毎回、終わるともう今回で最後だと思いますが、また知らずに引き受けています。

そんな時間がまた訪れてきたわけです。


誰かが喜んでくれることで、悩めるってことは実は幸せなことなんだって思ったりもしますが。



どうも、こんばんは。

すっかり一ヶ月くらい間が開いてしまいました。

肉担当です。




最近、自分のサラリーマン稼業の業務の一つに「採用」というものが加わりました。

30名規模の採用で、実際には僕だけで50名くらいの面接を行いました。

何と言うか、今更ですが、採用って難しいですね。



募集の告知に対して集まっていただいた方々とほんの少しの時間話すだけ。

実際には履歴書や職務経歴書も見ますし、筆記試験も行いますが、

結局のところ、採用の可否は面接担当者の判断に委ねられる部分が大きい。



応募してくれた方々の人柄やキャリア、志望動機はそれぞれですが、

「志望している」というモチベーションそのものは同じで、あとは程度問題でしかない。

ちょっとした時間の会話の中で、合否が決まる。



当たり前といえば当たり前ですが、やはり不採用とする決断はそれなりに重い。

もちろん、様々な理由から全員を採用するわけにはいかないのはどこの会社も一緒です。

ですが、人の人生に関わる決定を行うっていうのは、やはりそれなりの重さを持っています。



僕はこれまでの人生をあまり真っ当とは言えない形で歩んできているので、

同年代の方々よりも社会人としての経験やスキルに乏しいと思っています。

なので、こんなことに悩むのも今更かもしれませんが、

僕にとってはちょっと色々と思うキッカケになりました。



そんな中、すでに一緒に働いていたメンバーの退職や休職もありました。

理由はそれぞれですし、大体の場合、それは致し方ない理由です。



で、色々と考えたわけです。

今いるメンバーを守る、とか、誰を採用するって話は結局のところ、

「誰と、どんな人と働きたいか。誰とだったら一緒に課題に当たれそうか、当たりたいか」

という、とても当たり前の判断基準に行き着くわけです。



採用の場合、それはほぼ直感に近いものでもあるわけです。

その直感を裏付けるだけの採用理由/不採用理由ももちろんありますが、

「あ、この人だったら教えてあげたくなるな。今入るメンバーとも一緒にやっていけそうだな。」

という感覚・フィーリングの世界でした。



今まで僕は色々な職場でお世話になりました。

採用された理由がわからないこともありますが、

少なくとも自分の何かしらに対して、「一緒にやれそう」と思っていただいたわけでしょうから、

それはありがたい話なんだ、と今更ながら気付きます。


そして、今の僕の職場で退職になったり休職となった人たちのことを思うと、

自分がかつて辞めてきた幾つかの職場の人々に対して申し訳なくも思います。



まあ、人生の問題ですから、そのことだけに縛られるわけにもいきませんが、

一緒に働けなくなった人たちへの喪失感の思いはあります。

三木道三ではないので「一生一緒にいてくれや」とは言いませんが、

気持ちとしてはそれに近いものがあるかもしれません。


しめっぽい感じで今回は終わります。




ひとつ、形にします。

ちょっと最近歩みがゆっくりとなっていましたが
ここで確かな一歩が刻めるのかなぁと思っております。

僕らがやろうとしていることは

『あなたがあなたになる』場を作ることですが

そこに必要なものは

・実感できるリアルな場
・予感があるコンテンツ
・共感し合うヒト

なのですが、
それらを社会の中で実現し動かし回すために
もうひとつ、ある枠が必要なわけです。

それを、形にします。

その枠は、最終的には、無くなるというか
枠を飛び越えていって欲しいんですけどね。


なんだか、抽象的な話になってしまいましたが
最近は具体的なことが多かったので、ま、それも良いかなと。

なんだかんだ言っても、明後日やることは具体的な行動なので。


あ、そうそう。
ぴたらファームに行くことになりそうです。
漸く縁が結びついたようで。

http://pitarafarm.com/

あれほど機会があっても都合が合わなかったのに
今回はさくっと決まりそうでちょっと怖いですね。

今が行くタイミング、ということなんだと思います。
仕事柄なのか、国内をぐるぐると巡る機会が増えてきている。



旅をしている訳でもないので、じっくりゆっくりと興味の趣くままということはない。

表層的な移動を繰り返していると言えばそうなる。


それでも、目や耳に飛び込んでくる会話や景色、時には話かけ、話しかけらたり

していると少しづつではあるけれど、その都市の、その街の感触が伝わってくる

時もあったりするから面白い。



何より、そこに居て、そこに住まう人たちの日常に、わずかばかりではあるが、

接点を持つことができるのが嬉しい。



どうしても忘れ得ない光景は、美しい10月の島根。

神有月だったからなのか、よくわからないけれど、神々しい光が水面にきらめく様

は、なんてことないんだけれど見とれてしまった。

今年は出雲大社に行くことを決めた、そんな瞬間だった。



松江の駅前で、柱と柱の間にすっぽりと隠れてギターを弾き、歌う女の子。

道を挟んで、バス停に立ってずっと聞いていた。

きっと僕に歌っていてくれたと勘違いをするぐらい誰もいなかった。


駅前には、天体望遠鏡をセットして、道行く人と天体トークをするおじさん。

何が見えるんですか?と聞くと何とかという星団で、珍しいとのこと。

僕には薄靄にしか見えなかったけれど、とっても嬉しそうな、自分の好きなもの

に興味を示してくれたんだと思ったみたいだったこと。


徳島のラーメン屋で、意味不明に意気投合したサラリーマンたち。

全然見知らずだったけれど、最後はお店が一体化した奇跡。


バス停で時刻表とにらめっこしていると、地元のおじいさんが親切に

乗るバスを教えてくれたために、循環バスを真逆に乗せられ、10分を60分ぐらい

かけて周回させられたこと。


高松のどうやってこの店切り盛りしているの?というカフェ。

お客は僕一人。一年振りぐらいに行ったけど、まだ店員の女の子は、店長が好き

みたいだった。その2人のやりとりをずっと聞きながらご飯を食べるのが面白かったこと。


高知で久しぶりの友達と自慢の息子との遭遇。

なぜか旦那の友達という神戸や名古屋から来た人たちの飲み会に参加し、

返杯という痛烈なお酒の礼儀作法に痛飲。


徳島行きバスの中で、ずっと何かを語りかけてくれたおじいさん。

訛りと入れ歯のせいで、一言も何を言っているかわからなかったけど。


バスの中からは狭隘な山間に、丁寧に家や農地、プラントなどが建てられていて、

日本の技術ってやっぱりすごいと思ったこと。


香川の素敵なカフェ。夫婦と謎の看板娘がやっている。

おじいさんが2人来ていてカウンター越しにずっと地元トーク。

看板娘の看板っぷりが醍醐味だったこと。


岡山では、高校生に教えてもらった岡山ならではのお店が、

東京にもあるお店で残念だったこと。得意気だった彼ら、彼女らをとっても愛おしく感じたこと。


瀬戸大橋を久しぶりに渡った時に感じた嬉しさ。

正確に言うと、渡る直前のカーブのところ。


福岡の居酒屋のカウンターのおじさん。

延々と話をして、最後は自分から飲み始め、ものすごいギャルを口説いたこと。

店員の長崎の女の子を紹介してもらい、お互いものすごく気まずくなったいたにも関わらず。


仙台の喫茶店で、隣のおばちゃんが僕のコーヒーをこぼしてしまい、

なぜかお店中から注目されるぐらい大声で謝られたこと。

清算をしようした時、もう既にお支払い済みですと、奢られていたことに気付いた。

確かに、おばちゃん、お店を出る時にレジのところで僕に親指立ててたわ。

渋いわ、あのおばちゃん。


広島のお好み焼き屋で、鉄板のカウンターに座っていたおばちゃんが、

お店の知り合いらしいおばちゃんに、壮絶な人生を語り、相談していたこと。

思わず聞き入ってしまったわ。


北海道の喫茶店で、ケイン・カミュと目が合い、指でシーっとされ、

僕の方が恥ずかしくなったこと。

地方に行くと芸能人を結構な確立で見かけることを知ったこと。



そこには、やっぱりたくさんの人がいて、些細なドラマが幾重にも重なっているんだと思う。

それぞれ皆、一生懸命に自分の業を生きているんだと思う。


そんな一瞬を、丁寧に一つづつ掬い取るように旅が出来たら、

人生そう捨てたもんじゃないって思える。


閉ざされたところにいると気づかない、大切なことを長い長い移動の中が

少しづつ教えてくれるように思える。