これまでのブログで中国の漢字廃止論ベトナムの漢字廃止論朝鮮半島の漢字廃止論について書きましたが、本日と次回のブログでは、視点を転じて「日本の国字のローマ字化運動」の歴史について触れてみたいと思います。

 

これ迄の僕は、日本に最初に入ったローマ字は、1859年(江戸・安政6年)に来日した米国長老派教会宣教師の James Curtis Hepburn が考案したヘボン式ローマ字だと思っていました。

 

ヘボン式ローマ字の考案者:J.C.ヘボン宣教師

 

ところが調べてみると、徳川家康が幕府を開いた1603年(江戸 慶長8年)、長崎のカトリック教会のイエズス会神父と日本人信徒の共同作業によって、日本語をポルトガル式ローマ字で表記した「日葡辞書Vocabulário da Língua do Japão)(下写真)が既に編纂されていた事を知って吃驚!

 

日葡辞書 Vocabulário da Língua do Japão

 

「日葡辞書」には、室町から安土桃山時代に使われていた語句、発音、意味、風習語、生活語、方言、女性語、幼児語、仏教語、卑語、動物名、植物名を含む3万2293語の日本語をポルトガル語式ローマ字で表記されていたのです。

 

ポルトガル語式ローマ字の表記一例

カ=ca、キ=qui、ク=qu、ケ=que、コ=co

サ=sa、 シ=xi、ス=su、セ=xe ソ=so      

 

日本文字を読めないイエズス会神父が日本人に説法する原稿作成のために使用していたのでしょうが、1612年(江戸 慶長17年)のキリスト教禁止令によって焼却されてしまいました。

 

現在残存が確認されているポルトガル語式ローマ字表記の「日葡辞書」は、英国オックスフォード大学ボドリアン図書館の一冊とフランス国立図書館の一冊だけのようです。

 

University of Oxfordボドリアン図書館

 

ポルトガル式ローマ字は、キリスト教禁止令によって処分されてしまいましたが、江戸中期から明治にかけての蘭学者や漢学者の中には、漢字教育の難しさから漢字と仮名を廃止してローマ字専用化を主張する学者が登場するのですが・・・ローマ字の具体的表記法としては、オランダ語式、ドイツ語式、フランス語式と様々だったようですね。(このブログではドイツ語式とフランス語式は割愛します)

 

オランダ語式ローマ字の表記例

椎茸=shiitake、母さん=kâsan、大きい=ôkii

サ=sa、シ=si、ス=su、セ=se、ソ=so

 

漢学者の南部義籌が漢字と仮名を廃止してローマ字化する「修国語論」を主張し、1872年(明治5年)に文部卿の大木喬任にローマ字化の採用を建白するも容れられていません。

 

修国語論」を書いた南部義籌(下写真)のローマ字表記方法は、蘭学者で蘭方医の大庭雪齊の「訳和蘭文語」に強く触発されていたことから、オランダ語式ローマ字だったのではないでしょうか。

 

ローマ字論者・南部義演

 

南部義籌の建白から3年後の1872年(明治5年)、津和野藩(現島根県津和野町)出身の蘭学者・西洋哲学者・啓蒙思想家でありローマ字論者でもあった西周(にしあまね)も、明六雑誌1号で発表した「日本の文字をローマ字に改称するの議」を明治政府の文部卿・木戸孝允に建白していますが、やはり実現には至っていません。

 

西周(下写真)が主張したローマ字表記法も、彼がオランダ留学経験のある蘭学者なので、おそらくオランダ語式ローマ字だろうと思うのですが・・・どうやらオランダ語式ローマ字表記が一般社会で広まることはなかったようです。

 

西周 啓蒙思想家・蘭学者・ローマ字論者

 

1884年(明治17年)、東京帝国大学で初の日本人教授となった社会学者の外山正一(下写真)が東洋学芸雑誌33号に「漢字を廃し英語を盛に興すは今日の急務なり」を発表。 翌年にヘボン式ローマ字表記論を唱えて「羅馬字会(ローマジカイ)を結成します。

 

ヘボン式ローマ字の表記一例

サ=sa、 シ=shi、ス=su、セ=se、ソ=so

母さん=kâsan、大きい=ôkii

 

羅馬字会を結成した 外山正一教授

 

外山正一教授の主宰する「羅馬字会(ローマジカイ)は、月刊機関誌「Rōmaji Zassiを刊行、2年後には7,000人以上の会員数を抱える団体に成長するのですが、その会の幹事が東京帝國大学の植物学教授 矢田部良吉(下写真)であることを知って吃驚しました。

 

羅馬字会の幹事 矢田部良吉教授

 

矢田部良吉教授は、NHK連続テレビ小説「らんまん」(下写真)の主人公で後年に日本植物界の父となる牧野富太郎を東京帝大の植物学教室から追放する役柄で登場していたのですが・・・彼が漢字と仮名を廃止してヘボン式ローマ字を採用するローマ字論者だったとは、全く気付きませんでした

 

NHK朝ドラの矢田部教授 WEBより拝借

 

外山教授が結成した羅馬字会(ローマジカイ)の有力会員であり、東京帝国大学の著名な地球物理学者・田中舘 愛橘(下写真)は、外山教授の唱えるヘボン式ローマ字表記が英米語の発音に偏っているとして、日本語の五十音図に基づく日本式ローマ字への路線変更を強く提案します。

 

日本式ローマ字論者 田中舘愛橘教授

 

ヘボン式ローマ字(タ行)

ta・chi・tsu、te・to

日本語式ロマ字(タ行)

ta、ti、tu、te、to
 

しかながら、日本語式ローマ字表記への変更提案は、ヘボン式ローマ字羅馬字会によって拒否されたことから、田中館教授はやむなく羅馬字会を脱会、1886年(明治19年)に「羅馬字新誌社」を結成して日本語式ローマ字表記の普及活動を開始します。

 

1905年(明治38年)、分裂したローマ字専用運動の大同団結のために、ヘボン式と日本式の選択を会員個々の自由意志に委ねた「ローマ字ひろめ会」(RHK)が結成されるのですが、またもやヘボン式派と日本式派の抗争が起こって潰えます。

 

1914年(大正3年)、田中館教授と愛弟子の田丸卓郎物理学教授(下写真)は、日本式ローマ字化運動の実行団体として「東京ローマ字会を結成。(1921年 大正10年に日本ローマ字会に改名)

 

左:田丸卓郎教授 右:田中館教授

 

田中館教授田丸教授は、日本式ローマ字で表記された機関誌ROMAZISEKAI」を創刊、「ローマ字少年」、「ローマ字文の研究」、「ローマ字国字論」を相次いで出版、日本式ローマ字の普及活動を牽引します。

 

特に田丸琢郎教授の著した「ローマ字国字論」(下写真)は、日本式ローマ字専用論のバイブルとして高く評価されます。

 

ローマ字国字論」(田丸琢郎著)

 

日本の理化学界の頭脳と称された三太郎(本田光太郎、鈴木梅太郎、長岡半太郎)の一人である長岡半太郎(下写真)は、次世代を担う優秀な頭脳と期待していた田丸琢郎ローマ字化運動にばかり向うことを嘆き悲しんでいたという逸話が残っています。

 

物理学教授 長岡半太郎

 

大正時代に入ると、物理学の田中館学教授と愛弟子の田丸教授による日本式ローマ字化運動が俄に花開いて活況を呈します。

 

1913年(大正2年):中央気象台の地名表記にローマ字表記が採用されたのを皮切りに、1917年(大正6年):陸軍陸地測量部の地名にローマ字表記採用、1922年(大正11):海軍水路部の海図にもローマ字表記が導入されます。

 

そして1924年(大正13年)の第15回衆議院総選挙においても日本式ローマ字表記による投票が認められる事になるのですが・・・それ以降の展開は、次回ブログで触れたいと思います。