日本のローマ字表記の歴史は、江戸幕府開府期のポルトガル語式ローマ字から始まり、その後はオランダ語式、ドイツ語式、フランス語式、英語式ローマ字(ヘボン式)、日本語式ローマ字、そして政府が関与した訓令式ローマ字が次々と登場しました。

 

しかし明治期-大正期-昭和期を通じて主導権を争ったのは、子音を英語風に、母音をイタリア語風に表記する「ヘボン式ローマ字」と日本語の五十音図の規則性を重視する「日本語式ローマ字」、そして政府主導による「訓令式ローマ字」(日本語式ローマ字の一部を改訂)でした。

 

ヘボン式、日本語式、訓令式の綴りの違いの実例は次のようになります。

タ行例

ヘボン式: ta  chi  tsu  te  to

日 本  式: ta  ti     tu   te  to

訓 令  式: 日本式と同じ

 

ダ行例

ヘボン式:da  ji  zu  de   do
日 本  式:da  di  du  de  do
訓 令  式:da  zi   zu  ze  zo
     

 

ジャ行例

ヘボン式:ja    ju   jo 

日 本  式:zya zyu zyo 

訓 令  式:dya dyu  dyo

 

ヘボン式ローマ字」は、日本語を学ぶ外国人、外国人の英語教師、外国人旅行者、そして日本人学生から支持されたようですが、「日本語式ローマ字」を好む日本語学者や日本語教師からは、日本語の音韻学理論にそぐわないヘボン式ローマ字は酷評されました。

 

1883年(明治16年)、日本政府内務省の外局だった気象台で初めて作成された天気図の測候地点名の表記は、英語式の発音に準じた「ヘボン式ローマ字」でした。

 

ところが発行元の東京気象台を示す「東京・日本」の表記は、へボン式ローマ字表記の「Tokyo」ではなく、ドイツ語の「Tokio Japan」(トキオ ヤーパン)と綴られていました。(下写真)

 

 

ドイツ語表記の理由を示す記録は無いのですが、日本初の天気図の作成者がプロイセン王国プロシア出身(現ドイツ ノルトライン)の元航海士のエルヴィン・クニッピング氏だったことを知って、なんとなく納得してしまいました。(下写真)

 

Mr.Erwin Rudolph Theobald Knipping

 

ところが、1913年(大正2年)の天気図を見ると、ヘボン式ローマ字から脱会したグループが主張する日本語式ローマ字(日本語の音韻体系を重視した表記法)に変更されていました。

 

更に1937年(昭和12年)の天気図では、近衛内閣の告示第三号の「訓令式ローマ字」(日本語式ローマ字の一部を改訂)に変更されていました。

 

1937年(昭和12年)近衛内閣

 

内閣告示の訓令式ローマ字のうたい文句は、「ヘボン式ローマ字と日本式ローマ字の折衷式」だったのですが、実態は日本語式ローマ字に極めて近似していたことから、ヘボン式ローマ字派から拒絶されてしまいました。

 

1917年(大正6年)、日本陸軍参謀本部の外局で日本国内外の測量と管理を担っていた陸軍陸地測量部(現国土地理院の前身)は、地図上のローマ字表記として「日本語式ローマ字」を採用。日本海軍水路部も海図の表記文字として、1922年に「日本語式ローマ字」を採用しています。

 

参謀本部陸地測量部跡

 

因みに現在の国土地理院(旧陸軍陸地測量部)のローマ字表記は、1954年(昭和29年)の吉田茂内閣告示第1号のヘボン式ローマ字に近似した綴りを採用しているようですね。

 

1924年(大正13年)の第15回帝國議会(衆議院)議員総選挙では、内務省が自書式投票の文字としてヘボン式ローマ字の有効性を認めたとの資料を読んで吃驚しました。但しその後の公職選挙でローマ字投票が広まったという資料は見つかりませんでした。

 

1924年(大正13年)当時の假議事堂全景

 

現在の公職選挙では漢字と仮名による自書式投票が行われていますが、公職選挙の自書式投票に際して文字の種類を指定する規定は存在しないらしいので、ローマ字による投票が出来るかもしれませんね。

 

1926年(大正15年・昭和元年)、ヘボン式ローマ字を採用していた鉄道省の駅名を、日本語式ローマ字に変更すべきとする建議書が若槻礼次郎内閣の鉄道大臣(井上匡四郎)に提出されています。

 

しかし鉄道省は、ヘボン式ローマ字を評価する外国人客の意見を容れてヘボン式を継続使用することを通達しています。(地方によっては日本語式を採用した駅もあり)

 

戦後になってヘボン式ローマ字が爆発的に復権した決定的要因は、1945年9月2日(昭和20年)から日本国を占領統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令第2号第2部17でした。

 

その指令書には、日本国内の道路標識や駅名等の名称を「修正ヘボン式ローマ字」で表示するようにと明記されていました。

 

ヘボン式による駅名表示

 

GHQにとって、日本語の音韻体系に固執した日本語式ローマ字訓令式ローマ字の表記は、かなり読み難かったのだろうと思います。

 

一方ヘボン式ローマ字は、明治初期の初期ヘボン式ローマ字(和英語林集成第1版~3版)に固執することなく、時代に即して改訂ヘボン式➡修正ヘボン式へと改訂努力を重ねていたのが効を奏したのかもしれませんね。

 

洩れ聞くところによると現在の日本政府は、ローマ字表記の不統一によってローマ字教育が混乱していることから、訓令式ローマ字を定めた過去の内閣告示の改訂に向けて、2024年以降に本格的議論を開始することを表明しているようですね。

 

次回ブログでは、戦後の日本を占領統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が計画した「漢字と仮名を廃止してローマ字に一本化」するという愚の骨頂策について書いてみたいと思います。