「ありのまま」でいいんじゃない
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無常とは

朝5時にアラームで起きて顔を洗い、水を飲み、瞑想を始めた。

1時間のタイマーをセットして座を組んだ。

 

少しするとアラームが鳴る。

何で、どうして?と。

 

中断して目を開けるしかない。

「ま、しょうがないな」とアラームを消す。

 

座を組みなおす。

また、少しするとアラームが鳴る。

よく見ると、停止を押していなかった。

再び、座を組み直す。

 

座を組むようには心は組み直せなかった。

 

「折角早く起きているのに、何やってんだ!」と自分への憤りを感じたままだった。

目をつむり呼吸に集中しても直ぐには平静な心にはなれなかった。

 

時の移ろいとともに、もやもや感は綺麗に消えていた。

終えると、ただただ自分の心を観察していたことに気づいた。

無常とは、こういうことなんだなと。

スポーツの神様

スポーツをするのが大好きだったんですが。

 

二十歳を過ぎてから30までに右足首、右目、左足甲と数年間隔で今でも完全には回復しないほどの怪我をした。その都度、運動に必要な機能が奪われたことでまともにスポーツができなくなっていった。スポーツを真剣に楽しめたのは23歳ぐらいまでかな。

 

この事実が人生そのもので、僕にとっては「どん底」っていうやつかな。

やりたいことができない、当たり前にやれたことができなくなる、辛かったな。

 

「スポーツはするな、そのエネルギーは子供に」と言われた感じでした。

今考えると怪我の巧妙じゃないけど、お陰様でよい道を歩いてこれた。

きっとスポーツの神様に導かれたんですね。

 

どうしたいかって。

これゃ続けられない。

 

体と心のどちらかが朽ちて俺じゃなくなるなって感じた。だから、当たり障りのない嘘をついて辞めた。辞めた後ろめたさが混じった敗北感に襲われる。

 

どうにかしたい、でも何をやっても先が見えない暗闇。小便が赤色になるほど毎日、毎日、毎日、考えたんだよな。 俺ってどうしたいのかって。

 

そこがやっぱり始まりかな。

親の有り難さ

親の有り難さを「育ててくれたから」だけで片付けられない。

 

老いていく生き樣に目を背けっていた自分が切なかった。

老体に鞭打つように決して子に頼ろうとせずに生きている。親が思ったように生き、その最期を見届けるだけ。

 

育ててくれただけでなく、どう終わりを迎えるかまで学ばせて貰っている。

自分と向き合うには

自分のことを客観視しようとせずに他人のことを理解しようとしてもそれは無理。

 

自分を俯瞰するのでさえ一苦労、触れられたくない事実から逃れようとする裏の自分が必ずいる。

 

「自分と向き合うことから」と言われても、表と裏の押し問答があって常に苦しむ。耐えて事実を受け入れる綻びを探すしかない。

芽吹いた命から

 

朝、パソコンに向かい窓の外を眺めると子育て真っ最中の燕が飛びかっている。人が80年生きたとすると、その人が何らかの接点を持つ人の数は3万人程度と言われているが、そのうちの一人、娘の子と出会う。

 

娘が身近で産んだ子どもとなると感慨深いものが生まれるのはどうしてなんだろう。歳を重ねたことも一因としてあるが、それだけではない気はする。芽吹いた命には心を透き通るように真っさらにしてくれる不思議な力がある。

 

生まれてきたときの娘と孫の今とを重ね合わせられるほど、記憶を辿ることはできないが、娘の生まれるその日の朝陽だけは今でも鮮明に覚えている。娘のそのときと同じような感性を持ち合わせていることだけはわかる。芽吹いた命は過去の感慨を蘇らせてくれる。

 

「会うは別れの始め」という諺がある。仏教のお経にある「会者定離」(えしゃじょうり)という言葉から生まれ、人生の無常を表した人生言葉だそうだ。「出会ってもう別れかよ」と突っ込まれそうだが、人生で起こり続ける日常的な現象。綺麗な花が咲いてもいずれ花びらは散る。形あるものも朽ち果て地に帰る。今ある心地よさも消え去っていく。

 

出会いを最も深く認識させられることに「生き」「死に」がある。出会いがあれば、必ず別れがあると言葉で解ってはいても、その現実を受け入れ、きっちり受け止められるかと言えば、そんな容易いことではない。人は無常に対して一旦は無力に陥る。誰もが心に深く刻まれるような出会いや別れに一喜一憂する。

 

「いってきます」「いってらっしゃい」と日々交わされる別れの言葉には「行って戻ってきます」「行って戻ってらっしゃい」という意味が込められているそうだ。「あなたの心に戻ってきます」「私の心に戻ってらっしゃい」と心を付け加えればどうなるだろう。「私の心」と「あなたの心」がかたく結ばれていくような気がするのは私だけだろうか。

 

芽吹いた命からいただきものがありました。

 

彼だけが咎められる問題ではない

世の中を映しだす鏡のようなニュースが溢れ出ている。其処ら中で組織の存在価値が問われている。人が生きるために組織があることが大前提ではないのか。組織繁栄のためにだけに人を消耗品的に扱うことを許してはいけない。追い詰められた個々人の疑いたくなる行為の連鎖に心が痛む。

 

過ちを犯した二十歳の若者が自らをさらした。ことの重大さを認識しているからこそ、自覚したからこそ、彼は我が身を奮い立たせて公の場に出ていけたのだろう。悪質な行為に及ぶ前に「審判の笛は聞こえていましたか」という質問に彼は「聞こえていました」と答えた。笛が鳴ったことでいったんプレーは終わっていたはずなのに。

 

絶対やってはならないことを追い詰められてやってしまう。悪とわかっていながら、やらなければならない苦しみが包み隠された。本意とは異なる行動をくださなければならない彼の無力感が健全な思考をも遮断してしまったのだろうか。純粋さや誠実さが苛まれていったに違いない。

 

それでも光明は一つある。誰も背負えない一つの大きな過去を彼は背負った。今の世の中を見渡しても背負おうとしない輩は多い。重たいものを二十歳の若者は背負った。人は自分の非を素直に認めることを拒む生き物だ。社会を見れば一目瞭然だろう。彼は誰も歩いたことのない道を歩き始めた。いばらの道だが、下だけを見続けて歩く必要のない道を選んだ。

 

それでは人を導く立場にあるものは何をどう伝え導くのか。良心の呵責に苛まれる最悪の行為は誰しもがしてしまう可能性がある。だからこそ、いずれの環境に身を置こうとも、最善の判断を自らが下す慣習を身につけさせるべきだろう。導く立場のものは自らにも問い続け、考えていくしかない。その人の「為人」に結びつくように。常に最後はその人の自らの判断がその人の人生を決めているわけだから。

 

彼だけが咎められる問題ではない。

 

夢をかなえる

努力を惜しまないものだけに夢への扉が現れます。

 

扉を開けるには一歩を踏み出す勇気が必要です。

 

 

夢はかなうものではなく、かなえるものです。

 

 

自分の中にあるほんとうの思いを言葉にしていますか。

 

長い時間をかけて言葉を心に刻み込ませていますか。

 

心に刻み込まれた言葉からは挑む力が生まれます。

 

 

自分だけの大切な言葉を持っていますか。

 

心の底から吐き出した言葉にはエネルギーがあります。

 

人は大切な言葉を持っているから挑めるのです。

 

 

挑まないと夢は叶えられません。

 

 

挑めば、いい意味での孤独を感じます。

 

挑みには、夢をかなえるための孤独が必ずあります。

 

孤独には、自分を見つめる時間があります。

 

 

孤独からは気づけるものもあります。

 

それは普段はなかなか気づけない人からの支えです。

 

 

孤独からは育まれるものがあります。

 

それは夢をかなえるためには欠かせない忍耐力です。

 

そして忍耐力は人からの支えに気づけたとき初めて育まれるものです。

 

 

挑むことで孤独を味わい、自分を知れます。

 

真剣に挑むから人の支えに気づけます。

 

人の支えに気づけるから忍耐力が育まれます。

 

 

すべてがお互いに結びついている夢をかなえる土台です。

 

夢をかなえるために頑丈な土台を作りましょう。

 

 

土台を作るまでは努力が報われないこともあるでしょう。

 

失敗や挫折もあるでしょう。

 

受け入れられないこともあるでしょう。

 

夢は人が成長するためのものです。

 

 

夢とどう向き合うか。

 

自分とどう向き合うか。

 

すべてを夢をかなえるための肥やしにしてください。

 

自分に問いかけてみましょう。

 

自分の意志で歩んできていますか。

 

自分の意志で多くのことを経験していますか。

 

自分の強い意志で行動を起こしていますか。

 

 

自分の力を出し惜しみせず、勇気を持って一歩を踏み出してください。

 

You can do it!

瞑想法の修行

マインドフルネス「気づきの瞑想」という本を読む込むうちに朝20分の瞑想を始めていた。1ヶ月が過ぎても続いていた。その頃、本格的な瞑想センターがあることを知り、ヴィパッサナー瞑想(vipassana)の実践経験をしたくなり躊躇なく10日間コースに申し込んだ。

 

 

約4ヶ月朝瞑想を続けてから、覚悟を決めて10日間の瞑想法の修行に参加した。なぜ、覚悟しなければならないかと言えば、戒律を守り最後までやりきるという誓約書にサインをすること2度。センター敷地内では外部と完全遮断され、宿舎内に持ち込めるのは衣服と洗面道具と目ざまし時計だけ。10日間参加者と言葉を交わすここができず聖なる沈黙を保つ。参加者と目を合わすことも、コミュニケーションをとることもできない。

 

ひたすらすり鉢状の自然の中で自分自身だけと向き合い続ける。

 

朝4時に起きて夜9時半就寝。質素な食事を朝と昼2回いただき、夕方には果物と飲み物がでる。日に3回ある1時間のグループ瞑想は瞑想ホールで全員参加が義務付けられていて途中で放棄することは許されない。その前後の約2時間の瞑想はホールでも部屋でもどちらでも瞑想するのは構わない。

 

私は瞑想ホールでほとんどの時間を過ごした。瞑想中に虫の鳴き声が耳元で聞こえた感覚に驚いたこともあった。辛くとも冷たい空気が頬を触れる感覚に「新鮮さと心地よさ」を感じたこともあった。

 

毎日、朝起きてすぐシャワーを浴びた。朝食を終えてから手洗いで衣服を洗って干した。休憩は晴れの日も雨の日も外で空と木々を眺めていた。毎日がシンプルだった。

 

 

一日に約9時間近く瞑想法の実践をする。

 

背筋を伸ばし体を動かさず目を閉じていることが瞑想の基本。忠実に行えば行うほど膝の痛みや肩の痛み、首の痛み、多くの痛みに襲われた。それでも目を開けず、足を組み替えず、ひたすら鼻呼吸で鼻孔に流れる空気の感覚を意識し続ける。心を定めることはほんとうに難しい。

 

瞑想中に残り時間を告げられることもない。終わりがくるまで、ひたすら体の感覚を観察して瞑想する。目から火がふいたような感覚、辛子を塗られたような汗感覚を味わった。痛みや痒みがあっても動かないと決めていた。

 

瞑想が終わり、きちんと立ち上がれないこともあった。硬いベッドに横になり、目を閉じると見たこともないような怪物や風景が現れたり、痛痒い感覚が現れしばし眠れないこともあった。

 

3日を過ぎると体の痛みもなくなり、体の感覚を観察するうちに痛みが消えたり、現れたりすることに気づき始める。痛むところがあっち、こっちと動き始める。痒みがあってもしばらくするとなくなることも起き始める。気持ちがいいところも出てくる。体の感覚が少しづつ敏感になっていくのと同時に全く感覚がないところもあった。

 

いつのまにか、瞑想を終えしばらくすると痛みは消えていた。

 

自分の心体の中で「快・不快」を観察し経験することで平静な心のあり方を学んでいく瞑想法。今を受け入れて無常を体験するうちに心が落ち着き、心は少しづつ浄化していく。積もりに積もった潜在意識にある心の汚濁を痛みとともに一枚一枚剥ぎ落としていくと不思議なことに心が清々しくなっていくのがわかる。

 

瞑想中は「渇望・嫌悪・執着」しない平静な心でいることを求められる。「早くこの痛みから逃れたい」とか「なんでこんな痛みが出てくるんだよ」とか「早く帰りたい」とか「もっと美味しいものを食べたい」と思い続けていたら瞑想を続けることはできないだろう。

 

自分という心身を利用して思考や感情からの反応や反発、要らない価値観に動じない心を養うための始まり。瞑想すればするほど自分を受け入れざるを得なくなっていく。過去に対して、涙もでる、怒りもでる、後悔もでる、喜びもでる。すべてを引っ括めて受け入れる。

 

「無常、永遠に変わらないことは何もない」と自らに課した厳しい体験で気づくとき、心は安まることに気づいた。そして、忍耐と努力を学んだ。

 

「快・不快」はいつかは消える、そして、また、いつかは現れる。時は流れ移りゆく、そのとき、そのとき、「快・不快」どちらであっても冷静に受け止める心境にたどり着くにはどうやら長い道のりになりそうだ。

 

朝4時に起きて1時間の瞑想は今も続けている。

 

丸太の腰掛が一つあればいい

ひとりお盆のさなか県道10号線を南下する。仙台空港のアンダーパスをくぐり抜け、福島県相馬市から茨城県日立市までの約150km、高速道路は使わずに一般道を走る。

 

3度目となる被災地域巡り。

 

津波の被害で海岸に近い道路は何箇所も寸断されていた。何度も国道への迂回ルートを走っては海辺近くの県道を走り続けようとした。

 

県道から狭い浜辺に入り込む。たぶん被災前はもっと大きな浜辺だったはず。防壁コンクリートは真新しいかった。家族らしき人たちが波打ち際で戯れる姿に「もしかしたら、この近くに住んでいた人かな」と心が少し和んだが憂も味わった。一般の方がわざわざこの浜辺へ来ることはないだろう。

 

県道を外れて車を進めると、少し小高いところに人の集まりが見えた。その塊の脇にはぽつんと小さな墓地がある。幸いにその一角だけが津波の被害を避けられたのだろうか。ご先祖への感謝と供養は怠ってはいなかった。

 

駅とその周辺は綺麗に整備はされてはいてもまだ何も機能していなかった。県道を探しながら迷い込むと戸建住宅が高台に地域ごと移されたようなところに出っくわす。そこだけ見ればどこにでもある区画整理された静かな住宅街だったが、住まれている方々のおもいを計り知ることはできない。

 

慰霊碑は残りながらも、時代も変われば、世代も変わる。

 

 

国道6号線、行き来する車は少ない。帰還困難区域を激しい雨のなか止まることなく一息に走りぬけた。一箇所だけあった電光表示板の放射線量は2.485マイクロシーベルトを示していた。バリケード封鎖された脇道には警備員が常駐している。凛と佇む警察官が車の通行を監視している姿に奇妙な恐ろしさを感じた。

 

いったいいつまで続くのだろうか。誰がどうやり続けるのだろうか。この国に真正面から突きつけられた大きな課題だと思うのは私だけだろうか。

 

この国で暮らしていくのなら未来永劫、向き合い続けなければならない。決して背を向けることはできない。できることなら現場を直視した方がいい。

 

1日数本しか来ないバスを待つのに立派な停留所はいらない。雨をしのげて丸太の腰掛けが一つとあればいい。

 

「ほんとうの豊かさとは?」なんだろうか。ものの豊さが安らぎや幸福を与えてくれるという時代はとうに終わったと思っていた。戒めるかのように大きな原発事故は起きた。過剰な欲の追求に対して反旗をひるがえした出来事ではなかったのではないだろうか。

 

ものの豊かさは度を越した便利さを生み、やがてその便利さは人を衰えさせ怠慢にし、心を麻痺させ鈍らせていく。不便だからこそ、整っていないからこそ、程よいからこそ、人々によって培われ生まれるものがあり、継承すべき大切なものができあがるはず。

 

天災と人災は後を絶たないが、いつどこで当事者になるかはわからない。「未来のために今何を優先させるべきなのか」と問われている。

 

一人ひとりが余分な欲を削ぎ落とすことから。

 

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