みざりんわーるど

みざりんわーるど

二兎を追わぬもの一兎も得ず

Amebaでブログを始めよう!

 

最近、疲れたなあと常に思考のBGMのように心底感じている自分に気づいた。

肉体的なもの以上に精神が本当に疲弊していることに気づいた。

呆然と歩いていて「このままでは生きていけない」と明確に認識した。

今までそれを自分の中では甘えだ怠けだと突っぱねて気を張ってきたけれど、

もうこの行動の延長線上に救いなんてないことをいい加減に認めなければ、

自分が壊れてしまうと本能で察知してしまった。

そもそも甘えって何?怠けって何?っていう事にも気づく。

人間ってみんな違って当たり前で人と比べても何も意味がないのに、

もっともっとと無い物を求め続けたって幸せなんかになれないのに。

そもそも幸せになるなんて認識がおかしいんだよね。

いまが幸せだと認識する事が最もの安楽なんだって思う。

例えいい事なくても悩みがあってもそれが今の自分だと受け入れることで、

やっと心が解放されて違う風が入ってくるのではないかなと思う。

どん底にいる時はそこで動きを止めて思考を停止させてしまうのが酷く恐ろしいが、

もがけばもがくほど溺れていくように苦しむことになる。

無論、それで幸運をつかむ事もあるしあったけれど、今は本当に疲れた。

とっくにガス欠してるのにアクセルばかりを踏んでいたような気分だ。

 

今になって思う事だが、人間って何かをするっていうハードルよりも、

何かを辞めるっていうハードルの方がずっとストレスがかかるし、

勇気がいることなのではないか?と思ったりする。

辞めることはやり始めるそとより遥か彼方に難しい。

そして、それと同様に嫌な事をやり続けることよりも、

好きなことだけをしていくということの方がよっぽど覚悟がいるってこと。

一見、何かを始めることの方が大変だし嫌な事を続ける方が忍耐いる事に思うし、

ぶっちゃけ世の中の風潮としてそれがまるで美しい事のように思われがちだけど、

結局その真意ってその方が世の中にとってお得だからなだけな気がするんだよね。

そりゃ辞められるよりやり始められた方が世の中は成長するし、

嫌な事をやり続けてくれる人が増えた方が世の中は円滑に進むわけで、

それを常識だとか美徳として捉えられれば誰も悪者にならなくて済むけれど、

たった一度きりの短い人生なのだから悪者になったって自分の人生が一番大切。

今、私に必要なのは何かをすることじゃなくて、辞めることなんだと思った。

 

世の中、みんなが出来て当たり前なんてことはない。

誰かが出来ても自分が出来ないなんてことこそが当たり前なんだと認識しないと。

気分が塞ぐ時、塞いでいいんだって認めないと。

歩き続けることよりも立ち止まる努力を覚えないと。

 

「このままでは生きていく自信がない」って心に正直にならないと、

本当に自分を立て直すための自分が疲れ果ててしまう。

 

まあ、それにしたって人より全然がんばってない生活には変わりないけれど、

それでいいじゃない。これくらい出来て当たり前なんて思考は無駄。

そもそも甘えたって怠けたって何が悪いの?

自分を守れる人は自分しかいないのに。

 

もう無駄な抵抗を辞めます。

前のブログを閉じた時にも書いたけど、

本当に私はいろんなことに抵抗して生きてきて疲れ果てたよ。

そんな事は前のブログを閉じた時から分かっていたはずなのに、

ついつい人生の癖でそれからも思いっきりいろんな事に抗ってきたなあ。

立ち止まるってただ単に何もしないって事じゃないんだよね。

ありのままを受け入れて心をそこに落ち着かせることなんだよね。

例え一人で部屋にこもっていたとしても、

そこに心の安静がなければ何も休んでないのとは同じなんだな。

考えることを辞める。言葉にすれば簡単だけど実際とても難しい。

今必要なものだけ、そしてその中から更に好きなことだけを選びとって、

自分のペースでダメでもともとで生きていく勇気、

それが今の自分には一番必要なこと。

 

抗って気張って生きてきたことで得た多数の成功体験が今は仇。

といっても、それを否定してるわけじゃないし、

今の自分を救っているのは紛れもなくその頃の自分の頑張りによるもの。

あの時の頑張りがなかったら今の幸福は何一つないから。

ただ、いずれどんな手法だって自分が変化する以上、絶対のものではなくなる。

当時それで成功が出来たのは当時それが出来たからに他ならないわけで、

出来なくなった今その手法をヤケになって繰り返したところで通用はしない。

何故なら“事態は変わった”のだから。

人間って変化にとても無意識のうちのストレスを感じる生き物だと思う。

だから、変化を受け入れる事に勇気がいるし抵抗がある。

だけど、変わらないものなんて絶対にないわけで、

まず事態が変わったという認識を受け入れること。

 

それでいいじゃない。

 

本当に今更だけど、もう20代で出来ていたことが30代では一切通用しなくなった。

20代の頃の自分の中の軸って受け入れないこと抗うこと気張ること。

それだけが幸せを掴む手段だったんだよね。

でも、もうそれは終わりだ。 

今は受け入れること、倣らうこと、気を楽にすること。

それ抜きに自我の存続は不可能くらいの覚悟で今までの手法を捨てること。

今、私に必要なのは何かをすることではなく、何かを辞めること。

思考や生活にプラスをしていくことではなく、マイナスしていくこと。

 

やめること。

簡単なようで難しい。

しかし、本当に人生って好きなことだけをするぶんには短すぎる。

だからこそ、好きなことだけをしていく覚悟をもって、

これからあらゆることをやめていく。

 

思い返せば、これまで31年の人生、

開けなくていいはずの扉を自ら片っ端から開けてきたような人生だった。

けれど、全て開けざるを得ない扉だったとも思う。

開ける必要はなかったけれど開けざるを得なかった。

何故なら、間違いなくその扉の前にたどり着いてしまったから。

だから、開けなくてはならなかった。

それが“運命”っていうんだなあと今なら思う。

今だから思う。

 

さっき、20代は抗って気張ることが幸せを掴む手法って書いたけれど、

本当にその通りで20代以前の頃を取り返すように生きてきたって思う。

劣等感の塊で弱い自分も醜い自分も貧しさも何もかも嫌で全否定して、

本来ただただ弱くて醜くて貧しい自分に吸引されないただ一つの手段が、

そんな自分に抗って気張って生きていくことしかなかったんだな。

でも、それで本当に触れたかった幸福に今触れられているんだね。

あの時の全否定があったから今があるんだなって思う。

 

だから、もう抗わなくていいんだよ、気張らなくていいんだよ、ということ。

 

今の幸せに倣って気を楽にしよう。

もし例えいつかネガティヴな変化が来る時があったとしても、

それはそれでいいじゃない。

もちろんポジティブな変化を信じているし夢見ているけれど、

それだけが全てじゃないのだから。

私って大切な気に入ってる服を汚したくないあまりにあまり着られず、

着ないうちに自分が歳をとって似合わなくなりきれなくなる事が多々あったけれど、

今の状況はほんとそれ。

今まで自分の得たい幸せを得るために必死で抗って気張ってきたのに、

いざそれを手にしてもその幸せに身を任せず抗い続けているようなもので、

そんなことしているうちに人生あっという間に過ぎてしまう。

それなら、今謳歌しなければ。

 

今まで頑張ったから今がある。

それを受け入れて、これからの人生は自分の好きなことだけをしていく。

 

ということで長くなりましたが、

気張り続けてきた末の最後っ屁のようなこのブログも辞めます。

前のブログを辞めてからも散々ここで理屈を捏ねて喚いてきて約一年、

ある意味最後の力を振り絞った一年だったなと思う。

まあ、今となっては誰も読んでないけどね。

 

この一年の間、もっともたる変化が起こったのも、

あの時の私の気の迷いがあったからだと思うと人生って本当に一寸先は、だね。

 

これからは、今とこれからのことだけをありのままの自分で受け入れて、

日々落ち着いて暮らして生きたい。

もっと、でもなく、ずっと、でもなく、今を受け入れること。

 

それが今の私の一番したいこと。

 

なので、それではさようなら。

 

最後になりますが、ブログ移転のお知らせです。

 

http://blog.livedoor.jp/megamino2017/

 

アメブロ使いにくいンゴねえ。

これからはただの日々の他愛もない日記がてら、

のんびりスローライフなブログを自分のために書いていこうと思います。

それでは、またどこかで^_^

きっと大丈夫♡神のご加護がございます♡

続きの続きの続きです。

書いていて少しずつ気持ちが安定してきた。

本当にブログという場で自分の魂は救われているんだなと心から思う。

誰に読まれていなくとも、誰かに伝えるように記す事で頭と心が整理されるのは、

誰も読む事のないノートの殴り書きでは得られない効果だ。

 

それでね、ずっとずっとの“ずっと”がない事を知っている今は、

きっと次の終わりが怖すぎて私はその前の予防線として、

容易くネガティブになって幸せを手放す心の準備をしているのかもしれない。

勿論、手放したくないし手放す気もないけれど、

“もし”がもしも起こってしまった時にある程度の柔軟な心を準備していないと、

その衝撃に耐えられる自信がもう一切ない。

泣いて死ぬのは嫌だし、何より泣いて死ぬより悲惨な混乱が私を待っている。

だったら今、という気持ちが拭っても拭ってもどこかで湧いている気がする。

自分の心は丈夫だとずっと思って生きてきた。

それが薄々コップならヒビが入った状態なのかなと疑ってここ数年生きてきた。

そう思っているうちになんだかそこかしこが欠けていくような喪失感を覚えた。

でも、気づいてみたら、もしかしたら私の心はもうとっくにヒビが入ってるどころか、

バリバリに割れていたのかもしれないって最近思うようになってきた。

私はもうそこにはないコップをあるかのように大切に抱いていただけなのかも。

もうとっくに心という程の形を残したものなんてなくなっていたのかな。

中身がなくなったものを必死で守って生きてきた気がする。

 

だから、もう何だか限界を思ったんだよね。

元気だけど、限界なんだとも思うというか。

 

本当に生きていく事って命を削るような作業の繰り返しなんだな。

たいして真面目にやってこなかった人間がそれなりになろうとするには、

あまりに巨大なツケを払うようなものでいつか必ずその軋轢が心身を支配する。

 

話を元に戻して、本当に軌道修正はそう簡単じゃないと思えるほどに多大な故障を、

今、心と体でよく感じる。心が痛い時、体が思いっきり痛いもん。

ぶっちゃけ、本当に何か調べれば病気が出る不安が生まれるほど限界を感じる。

しかし、これが特に特別じゃなく誰にも訪れる加齢と老化の一歩なのだと思う。

今まで若かったからこそ無理が通ってただけなんだな。

体と心を酷使したって明日に向かって新陳代謝できたんだな。

心と体の不摂生は本当に時を経て必ず来る。

よく今の生活習慣は十年後に出るっていうでしょ?

あれって精神の面だって変わらないよ。

十年前にした精神の無理の軋轢はやがて十年後の精神に必ず来る。

今ならそう思えるよ。

そして、健康的な生活は健全な精神ありきの話だとも思うから、

精神の無理をきたせばきたすほど知らぬのうちに体を蝕んでいくと思う。

精神って見えないからこそ体の傷や痛みと違って軽視しがちだけど、

本当に健康な体を保つには自分の心に敏感に生きることがどれだけ大切か。

体が怪我した時に手当てをするように、心が痛い時にその痛みを放置しないこと。

傷んだその時に適切な対処をすれば、傷を最小に留められるのに。

しかし、人間って見えないものをないがしろにしがちだから。

見えるものだけで人は評価をするし、見えるものだけに価値を置く。

でも、見えてるものの方が世の中少ないくらい見えてない世界の無限さ。

 

本当に今までとんでもない負荷を自分の心にかけてきたんだと思った。

 

でも、彼に出会えて良かった。

これがあったから、全てがこのためにあったと思えるくらい、

今まであったことに意味を作れたんだって思った。

 

もし生理が止まってなかったから、

もっと早くに本当の意味で家族を作れて彼と一緒になれたかもだけど、

そうならずぴたりと体が機能を止めたのは今一度考える機会を与えられたのかもね。

後になって今わかったことを分かるより、今わかった方が後に活かせるよ。

あれから薬を飲んで無事生理を起こした。

彼とは普通に妊娠を望んでそれなりのことをしているから、

うまく行けば自然妊娠のチャンスもあるけどそう簡単にいかない気がする。

それでも、もし今妊娠したら私は本気で喜べるし、

彼はきっと本気で喜んでくれるって信じている。

だけど、そううまくいかない気がするということは、

もっと他の形で乗り越えなきゃいけない試練なのだって思う。

人生ってどんなことにも必ず意味があるんだって今ならはっきりと思えるから。

 

さっきも言ったけど、私も彼もお互いの気持ちを分かっていても、

漏らすようにしか気持ちを零せないのは、

壊れることもあるのを実感として知っているからだと思う。

時間というのは不可逆的で一度駒を進めたら後退してやり直すことは不可能。

だから、幸せな今を少しでも長く味わいたい気持ちで名残惜しい。

けれど、いつまでもこういられないことも知っている。

同じところに同じ形でずっと居続けることも難しい。

どんなことにも必ず変化は付き物で、

状況が変わるのを待つのか、自らが状況を変えるのかの二つしかない。

 

だったら。

 

今は、その“だったら”の部分で楽しんだり迷ったりしている。

 

人生って楽しいな。

でも、楽しむにはあまりに短いな。

 

生きることってどんな形であれ、命をガンガン削っていくことだと思う。

無論、何もせずただ受け身で静かにいつかくる何かしらのいすつかを待つ人も、

品行方正にモデルケースのような人生を丁寧に積み重ねて、

人生を豊かに渡っていけるとても正しい人たちもいることは確かだけどね。

でも、結局命を削るように生きるほうが短絡的であり楽しくてやめられない。

これを世の中は“不摂生”というんだなあ〜^o^笑

落ちがそこかよ!って感じだけど、

昔、私に良くしてくれた十年近くの付き合いの客と話したことがあるわ。

話題が健康になったら若さは終わりってw

 

人生、結局いつかは終わるんだね。

だから、きっと意味があるんだね。

 

削ってしまったものはもう元には戻らないし、

今までのツケは絶対免れることはないし、人生からも自分からも逃げられないけど、

これからは少しでも間違わずに真面目に生きたい。

 

でも、一体私は何を間違ってきたのかな。

なんか色々思い浮かんで止まらないけど、

根本的な間違いってそのどれも違う気がする。

もっともっと重要な間違いを小さい頃に犯し、それを忘れてる気がするの。

何か大切なことを忘れているような引っ掛かりがどこかにある。

 

彼と一緒になりたいな♡^o^♡

 

これ以上生きていけるのか自信ないくらいガタがきているけれど、

まだ私にツキが残るのならまだ見ぬ幸せを望みたいです。

 人生はかなり有限。

体と心が無理がきいて自由にいられる時期はさらに有限。

その有限を少しでも伸ばすのは、やっぱりどれだけ普通にいられるかだと思う。

人間、普通を間違わずに続けることが一番難しいです。

 

明日も明後日も変わらない日々でありますように。

 

 

下の記事の続きだよ。

この記事で書き終われれば良いんだけど、どうだろう。

 

それでね、少し話がズレるけれど、

先週あたりにもネガティブな混乱記事が連発したけれど、

実は二週間、彼に会えなかったんだ。

どちらの週の土曜の夜も彼に予定があって、

日曜は午後から夜まで私がバイトだから会えないし、

勿論平日も気軽に会える距離と時間を私も彼も持ち合わせていない。

ちなみに、会えないといっても理由ははっきりしていた。

彼は良くも悪くも嘘をつかない人、つけない人。

だから、明確に私に言える予定がある時ははっきりと何々があると言ってくれる。

というのも、前にディズニー行ってた女に会ってる時は理由を言わなかったから。

「会えない」というたけだった。思い返せば、本当に彼は嘘をついていない。

その女性の話はもう結構前の話だけれど、ここに書いてなかった話として、

ちょっとしたきっかけでディズニーの後にも会っていたことが判明してたんだ。

その時が「会えない」とだけ言われた週末で秋頃のこと。

遡れば分かるけれど、私が去年秋頃にブログで超喚いた時がそれ。

だから、あの時の私の勘は正しかったんだなあ。

だって、理由を言わずに会えないと彼が言ったのはそれが初めてだったし、

ディズニーの話も聞いていたから。

でも、私には「会えない」と言われて「何があるの?」と聞く術がない。

だって、人は私の所有物じゃないし何から何まで聞いて管理する人間になりたくない。

聞く事も普通のコミュニケーションと言われればそれまでだけど、

その「何があるの?」が純粋な質問ではなく「もしかして」の不安を孕む以上、

それはどうあがいても管理の一部になってしまうと思うから。

かっこつけるつもりはないが私は私のポリシーとして、

人には自由に自分の頭で考え判断した自分の人生を生きてほしい。

誰かを管理し拘束する事で自分の快楽にするのはとても愚かな事。

誰の人生もたった一度きりしかないのだから、

その限られた人生を自分のために生きてほしい。

だって、私がそう生きたいから。

私の人生は私のためのものだから誰かの納得のための道具にされたくないし、

誰かの人生を自分を楽しませる道具にしたくない。

だからこそ、私は相手の判断で私を選んでもらえるように精一杯の努力をする。

私が欲しいと相手から願ってもらえるような人間になれるように生きていきたい。

だから、みんな自分の人生を生きてほしい。

ただ、それだけだ。

 

話がとてもずれたが、結局それからの話として、

ここにも当時書いたように彼は彼女がいるとその子に打ち明けた事を私に伝えた。

そしたらその子はスッと引いたらしい。きっと普通のいい子だったんだろうと思う。

きっと私なんかよりずっと普通のまともな真摯な女性だったんだって思う。

だって彼がその子に私の存在を打ち明けた時に、

「良心の呵責を感じたんですね」と言われたらしい。敬語なのは彼の後輩だから。

彼はとても正直な人だから言っていた。

良心の呵責というなら⚪︎⚪︎子によりその子の方に感じていたって。

その意味は申し訳ないけど分かるよ。

いずれ離れなきゃならない方にそう思うのは当然の事。

戻る方には戻るのだからそう思えないのも分かる。

だって、私もかつて同じような事をした時にそうだったもの。

ほんの些細な遊びのつもりだからこそ戻る方に罪悪感なんて覚えなかった。

むしろ遊びの方に罪悪感を覚えた。

それが逆になったのは“それ”が逆になってからだった。

全く甚だ勝手な話だが、彼の気持ちが私ゆえに分かるのがまたちょっとね。

 

その話を聞いた時、自分がその子だったらどうだろうって想像した。

そして彼に「私だったら彼女がいる程度の話だったらまだイケる!って思って、

セフレ程度でもつなげておいてそこから好きになってもらうように回しこむし、

最悪そこで楽しみをもらいつつ他で相手を探す」って答えたら、

「俺だって本当に好きな子だったらそうしてると思うよ」と笑ってた。

 

そんな彼だけど、今は本当に私を愛してくれてるんだろうなと思う。

会えなかった二週間は苦しかったけれど、

会えた先週はまるで今までの生活が嘘だったように心が幸せで満たされて、

見えてる世界が華やぐほどキラキラして夢のようだった。

そして、彼もそうだと信じられるくらい、

彼の瞳や仕草、言動は会うのを増すごとに私を近く、

それ以上に“中の人”として考えてくれているのが本当に分かるんだ。

どんなに謙虚に見積もっても錯覚と思えない確信を持ってた実感があるんだ。

その一つ一つがあまりに数多く、そして些細でここに書けないほどに。

 

好きだとまっすぐ言えないのは、気持ちが大きいから。

もし、そう口から出して伝えた後に相手の気持ちがなくなった時、

自分が深く傷つくから恐くて言えない。

もし、愛していると伝えた後に自分の気持ちが変わってしまった時、

相手が深く傷つくことを知っているから恐くて言えない。

だから、彼に好きだとどうしても伝えられない。

それは、もしかしてもしかしなくても彼もきっと似ていて、

彼は面と向かってそういう事はそうそうない(それでもあった)けれど、

とても客観的に見て本当に強い気持ちを感じる。

そう信じられるのは、初めの頃よりずっとずっと何もかもが違うからだ。

彼の言動は、すでに私を“一緒に生きていく家族”と同列で語っている。

仕草や表情や行為の一つすら、初めとは全然違うものを感じられる。

 

ただ、それが世の中において“永遠”でも“安泰”でもないことも、

もうよく分かっている。

 

 

深夜だなあ。

まあ、これを書き終わる頃は朝になってるかもだけど^_^

 

唐突だけど、ここ数年で確実に寿命が縮んだだろうなと最近実感する。

私、今まで自分をストレスに強い人間だって本気で思ってた。

落ち込むけど立ち直るし何より立ち上がろうと出来るし大丈夫だって疑わなかった。

でも、きっとそれって本当にただただ単純に若かっただけなんだと思う。

二十代半ば程度からその当時の年齢より過去を“若い”なんて格好つけて言ってたけど、

とんでもなかったな。二十代なんて若さの塊でしかないよ。

若さが全てをカバーし補ってくれる年代。

勿論、今だって自分より年上の人からしたら何言ってんのだろうし、

これからの人生で今が一番若いのは間違いないけれど、

今まで若かったからどうにかなってきたことが、

若さを失ってきたことによりどうにもならなくなってきてるんだろうなと思う。

まあ、すべてにおいて自業自得なのだが、実感としての正直な感想を吐露する。

 

まず、本当にストレスに弱くなったと思う。

ストレスって見えないし形にもできないしただのわがままや愚痴にも聞こえて、

私は何かを“ストレス”と表現することに疑問を感じていて避けていたけれど、

実際ストレスなんだと認識せざるを得ない状況というか。

体が本気で素人目に見ても悲鳴をあげてるとしか言えない変調というか。

勿論、今現在は健康なのかもだけど、何もかもの心身のバランスが崩れてるって思う。

だから、生活を整えて生きていきたいけど、

そう生きることがどれだけ難しいか。心身を朗らかに保ち生きる事がどれだけ大変か。

でも、そんな事言っていちゃいけないからちゃんとに今からでも生きないと。

 

前から言ってるけど、生理がなくなったこともそう。

初めは本当に些細なことだと思って気にも留めなかったけれど、

だんだんとだんだんとその変化は心と体と人生に影を落としていく。

眠れないこと、胃が痛み続けること、何かあるたび肩で息するような動悸、

異常なほどの冷え、精神の落ち込み。

生きていくのが辛いなと思う。

死ぬのだって怖いけれど、これから何十年と生きてくことも怖すぎて、

今はそのどちらとでシーソーゲームのように揺れている。

どうせ生きるなら楽しくハッピーに生きたいけど、どうせ死ぬなら今死にたい。

まだ壊れてない自分と幸せがある今死にたい。

何もなくなって壊れてから死ぬのはあまりに悲しくて寂しすぎるから。

 

なんて、こんなこと言ってちゃダメだね。

私は元気だし、世の中の人はもっともっと努力と苦労をしているのだから、

甘えちゃいけない頑張らなきゃいけない。

でも、本当にそう自分を攻めてる傍で少し抵抗力のある自分が、

「私が一体何に甘えているの?」と頭にハテナを浮かべている。

必死で自分が生きていけるように幸せになれるように決して受け身にならず、

必死で必死でしがみついて生きてきたし生きている。

これ以上、どうしたら良かったのか。

失ってしまった大きなものがあるなら、それを補う大きな幸せが欲しい、

そう願ったことがどれだけの罪だったのだろうか。

別に自分のアイデンティティーにするつもりは毛頭ないけれど、

私が生きてきた経路と二十前後で身に起こった事を踏まえて、

そこでここまで歪んでしまう事はそんなに悪だったのか。

誰かに慰めてもらいたい訳じゃない。そんな時期はとうに過ぎた。

ただ聞きたい。あなただったらどうだった?って。

誰もその時に自分を慰めも守りもしなかった。

当時一番近くにいたはずの男さえ、「お前が言わないからだ」と私を責めた。

ここまで言っといてあれだけど、

私は悲劇のヒロイン気取りたい訳でも被害者面したい訳でもなかったんだよ。

それがどれだけ惨めで滑稽でズルくて救いのないことだって恨んだから、

私は常に自分を幸せにするためだけに利己的に動いたし加害者側になる事を選んだ。

だから、結局負けただけなんだと思う。

利己的に動くという事は全ての失敗も自己責任と割り切る事と一連托生だし、

加害者側に回るという事は痛い目に遭うことも許容することと同じだ。

それで良かった。

誰かのためと信じて期待を裏切られるよりも、

良い事やったと思って悪い事が起こるよりも、ずっとずっとマシだと思った。

 

だから、現在の自分の限界は結局のところ私の今までの積み重ねが、

ここまでしかなかったこと。

これ以上を生き抜く能力を培えなかった敗因だ。

 

それにしても、本当に生きていることは命を削っていくことなんだなとも思う。

上手に丁寧に上質に間違わずに生きていくことはどれだけ難しいか。

極論、生まれたその瞬間からの些細な些細な積み重ね以上に大切なことはない。

どれだけ普通で一般的で明るく正しく暖かい場所で育つか、

それが身体中の細胞に練りこまれたその人の質になるのだと思う。

 

しかし、今更そんな原点の出生のせいに自分の不遇をなすりつけるつもりなんて、

丸っきりないんだ。残念だったとは思うけどしゃあないで決着していること。

じゃあ、何かと言えば、別の角度から見る出生だ。

生理が来ないとは言っているが、今までの人生で今が一番妊娠を望んでいる。

それは、彼を愛しているから。彼が欲しいから。彼が好きでたまらないから。

 

でも、私はもう一度この世に生まれてきたいかな?

私という母親がほしいかな?

もし身ごもって産めたとしてその後20年をまともに母親として過ごすことが、

本当に出来るのかな?たった一人の今でさえこんなに命からがらるのに。

 

分からない。

自信がない。

 

今の私にあるのは、彼が好きということだけなんだ。

今の私に見えるこの世の希望は彼がいるということだけなんだ。

 

もし、万が一、それが何かの拍子に断ち切れた時、

もう私は本当に何もない。

 

 

今日はいまから出かけなきゃならないんだけど、その前に〜^o^

 

最近目を瞠るCMは、アースミュージックエコロジーとかいう服屋のCM。

あのCM、ずっと前から宮崎あおいが出てて、

客の年齢層広げるためか広瀬すずと鈴木京香で補強されたけど、とんでもないな。

彼女たちの本物の美貌を打ち消すレベルの服の悪さというかなんというか。

あのCM、ちゃんと見て欲しい。

彼女たちがどれだけのひどいかっこうしているかを。

特に広瀬すず。あれだけの可愛さをあれだけダサくさせる服って逆に凄い。

ぶっちゃけ、あんなCM何か効果あるのかなー?

まあ、もともと使ってた宮崎あおいは悪くないと思うけどね。

どっちかというと宮崎あおいが心の琴線に触れるタイプって、

盛ってどうこうってよりもナチュラルほんわかみたいなの目指してそうだし。

しかし、それを差し引いてもCMの格好がひどいけど。

一言で言って寝巻きみたいな服。

広瀬すずの格好は田舎の中学生ががんばったような服。

鈴木京香の格好は主婦が20年も前からしてたような格好。

なんかCMに映すレベルであの服しか揃えられないって逆にすごい。

まあ、そういう気軽さ売りにしたメーカーなのかもわからんけど、

そういう客層相手に大層なCMって必要ないんじゃないかなあ。

黙ってても行きそうだし。しまむらがCM打たずに好景気なようにさ。

むしろ、逆にスタイリッシュなちょっとかっこいい風のCMにすれば、

行かない層も行きそうだし行ってる層の落とす金も上乗せ出来そうなのに。

まあ、勝手な感想なんだけど。

 

それにしても、CMでフォーカスされてる女が男に振られたり、

軒並み失敗しててやけ起こしているような展開なのがどーもねー。

 

そもそも本物の美人に安っぽい服なんて似合わない。

っていうか、どんなに安くてもシンプルならいいんだよ。

そういう意味でユニクロみたいなCMとかはいいと思うんだけど、

なにそのフリル?みたいな服がいただけない気がするんだよね。

 

もっとがんばってCM作って欲しい。

 

 

 

 

今日は頭が混乱していたのかもね。

言いたいことが読み返したらあまりに雑多で恥ずかしい。

それにしたって最近前にも増して誤字脱字だらけの片言ブログだしw

でも、もう本当に無人ブログだからこれ読んでくれてるあなたはレアだよw

ここには二人きり。

なんて本当は誰もいないつもりで口から出してるの。

誰がいたっていなくたってもうどうでもいいんだ。

何かを言える時に言っておきたい。

こんなこと言って延々言える時で明日も明後日も言ってるかもしれないけれど。

だから、最近書いてることの読みやすさとかなんて前以上に何も考えてなくて。

 

何だか前よりもういいかなって思ってる自分が最近いるんだ。

というか、だんだんと出来なくなってくることが増えてしまっている感覚。

前は料理が大好きで自宅にいたら料理をするのがストレス発散だったりしたけど、

何だかもう自分のためにごはんなんか作れないというか、

作り方を忘れたような感覚。

昔、おばあちゃんがボケ出した時に母が初めて覚えた違和感は、

ごはんが上手く炊けなくなったんだって。

初めの何回かはただのミスかと思ったけど、それがだんだんと続いてきて、

そのうち台所の火の付けっ放しが決定打になって台所に立たすのを禁止にさせたって。

おばあちゃん、あの時どんな感覚だったのかな。

もう想像することしか出来ないけど、寂しかったんだろうな。

自分の意識の出来ない所で自分の意思とは裏腹に、

少しずつ少しずつ何かが壊れていくような、

ある意味怖いのではなく寂しいに近い感覚だったのかなと思う。

 

人はいずれいつかダメになるものだけど、

ダメになっていくのを耐える方がずっとずっと切ない行為だと思う。

ダメになること自体よりも、自分から自分が離れていく感覚というか。

たまに自分も思い込みだけどそう思うことがある。

前は頑張れたことが頑張れない。

前は耐えられたことが耐えられない。

そして、前は苦しかったことが今は苦しくない。

苦しくないといえば聞こえはいいけど、苦しい時より心が死んでしまったような、

何だか寂しい感覚だ。

 

人の幸せを私でも願う時がある。

でも、ふと気づく事もある。人の幸せと自分の幸せはイコールじゃない。

人生で初めて思った時は家族と本当の意味で心から決別した時。

ふと頭が軽くなって視界が開けるように気づく瞬間があったんだ。

「この人たちの幸せに自分は必要ない」って。

本当に悲観でもなんでもなく、何もかもが単純明快に腑に落ちたような感覚。

そして、自分の悪い事したツケだけど、

自分がどうしてもしたかったことで全てが凶になって出てしまった時、

ふと思った。「この人たちの望んでることは私の気持ちが必要ない」

まあ、やってることが悪ど過ぎて当然の成り行きにしても、

いっそ出来ることなら私を徹底的な悪として憎んでつけ離し見放してほしかった。

なぜ維持を選んだのか。なぜ保守を選んだのか。

でも、自惚れだけどみんな私を守ろうとしてくれたんだね。

そう誰もが思ってたことが私はただとても寂しかった。

 

だから、誰かが幸せであるために自分が悲しい結果でも、

それが阻止できなかった時点で自分の実力不足として身を引こう。

そう思って生きていこうと思って生きてきた。

それは物分かりを良くするのではなく、徹底的に出来る限りの事をすることで。

これだけしてダメならそこまでと思えることをしてきた。

 

でも、もうその先で自分の気持ちの穴を満たしてもらえた。

もう本当に私にこれ以上望む欲望の目盛りがなくて笑っちゃう。

私の限界はここ。

今ならはっきりそう思う。

 

だから何ってわけじゃないけれど、

もう心がホッとして何も浮かばない。

重い荷物を下ろしたような安堵。

 

金をばらまいて無茶な遊びをすることでも、

わくわくした気持ちをばらまいてめくるめくときめきを謳歌することでも、

そのどれでも補えないただただ広がる安堵感が立ち続ける気力を削いでいく。

疲れた。もう重力に身を任せて体の重さをこの息苦しさに預けたい。

 

家族のことは良かった。

いろきろ大変だろうけど、いつまでも元気にそれなりに頑張って欲しい。

もう二度と振り向かないから、私の事は気にせず頑張って欲しい。

報われない思いも至らない不甲斐なさもたくさんたくさんあったけど、

本当にあんまり後悔してない。

あんまりというのは、私は後悔って本当の所よく分からないから。

どういうのが後悔っていうのか分からないから、後悔してるかも分からない。

だって、やれる限りのことを出来る限りのしてきたし、

今考えれば何もかも仕方のなかったことだよ。

 

人生で起こることは全部必然。

 

だから、迷惑かけちゃた人もごめんなさい。

もう名指しでいうには限りがないほど沢山の人に迷惑かけてきて、

もう本当にただただすみませんってだけだけど、

感謝なんて言葉で済ませたら申し訳ないくらい、

本当に私の不甲斐なさでつまらない思いをさせたな。

本当にごめんね。

 

まあ、今更反省したってそれはただの自慰でしかないですから、

もう何も言わないし、

多分明日は明日で別なこと言ってるんだろうね。

 

彼のことも好きだった。

 

また明日から頑張ろう。

私は本当に情けない不甲斐ない人間だから虚しくもなるけれど、

一体どうしたらいいか分からない時に、

もっと早く誰かにどうしたらいいか聞けば良かった。

 

それがただ唯一の後悔かなあ。

 

というか、きっとこれが後悔なんだな。

舌の根も乾かぬうちの前言撤回だけどw

 

本当になんでもっと早く自分はどうしたらいいのか聞けなかったんだろう。

あの時聞いてたら、聞くことができてたら、

こんな長い長い気の遠くなるような家出はせずに済んだのに。

 

帰りたい。

今までいろいろ美味しいものを食べてきたけれど、

お母さんが作ってくれたハンバーグを家族で笑って食べてることが、

今でも忘れれない補いきれない幸せだった記憶です。

どんなにもがいて代替しても辿り着けなかった幸せでした。

 

また明日頑張ろう。

気持ちを切り替えてまた野心を燃やして次の願いに必死に手を伸ばして。

 

永遠に続く果てしのない欲を神さまください^o^

それ以外何もいりませんって願う気持ちだよ。

必死に掴む手に力が切れた時に何もかもが終わっちゃうんじゃないかって怖くて。

 

明日からまた頑張ろう。気持ち切り替えて頑張るんだ。

ああ、分からない。

 

なんかあまりに雑多に書きすぎて言葉か足りないけれど、

伝わらなくてもいいから思いを言いたい。

 

似てるといったのは、私も昔から、そして彼の前でもそうなの。

今夜夜通しこれがしたいと思う日には隣にいる人そっちのけで、

事故の欲望の限りを尽くしたい日もあるだけなの。

 

大体そんな感じ^o^

 

 

じゃあ、これで終わるわね♡

意味の分からない記事を連投連投だけど、

暇に任せてついでにまだまだ連投。

最近思うけど、言いたい事は言いたい時にしか言えない。

明日言える保証なんてどこにもないし、明日にはまた違う思いが生まれてる。

今は今しかないなら今したい事を今にかけてするべきだよね。

何もやり直す事は出来ないから。

 

前にここに書いた彼の言葉で「今の環境を変えずに先に入籍をしようか」の言葉。

私はこの言葉を聞いた瞬間に彼の意図が全て分かった。

だってその時も書いたし答えた事だけど、私も彼の意図と同じ意図でそう思ってた。

 

人様の離婚事由を勝手にここに書くのは憚られるから書かなかったけれど、

彼の離婚事由と私の離婚事由は似ていると思う。

といっても、全然事象としては別物だと思うけど、根底は一緒だと思うんだ。

“自分のしたい事を自分の欲求のままに貫いた”ってだけ。

そう書くとかっこよく聞こえちゃうようにも思うけど、

実情として超自分勝手ということよ。

 

私はね、どんなに死ぬほどその人を愛していても、

四六時中一緒にいたいなんて思わない。

たまには好きな人も何もかもすっぽかして自分の思うままに自分を解放したい、

そんな日が、というか、そんな日々が多々ある。

まあ、世の中そんな人だって多大にいるだろうけど、

きっとそうじゃない人もいて、たまたま私たちはそっち側で一致していただけの話。

彼だってそんな人間なのだと彼を見ていて思う。

自分のしたいことの傍に自分の好きなものがあればいいんだと思う。

好きなもの癒されるもの愛しいもののひとつの中に恋があるしそんな人がいる。

それ以上でもなければそれ以下でもない。

どんなに愛していてもすっぽかしたくなる夜がある。ただそれだけ。

でも、それが愛してないだとか大切じゃないで語るのに違和感がある別物の話。

だから、一緒にいたいから一緒にい続けようの選択が正解とは思えないし、

そもそも正解なんて目指してさえいない。

 

彼の離婚事由の彼曰くの決定打は、

ある日平日にたまたま休みができた時に彼は寝ずに一日中ゲームをしていたらしい。

当時ハマってたプレステのゲームらしかった。

もうそれこそ嫁すっぽかして自分の欲望の赴くままに堕落の限りを尽くした、

本気のしたい事をだったんだろうなと当時の彼を思い浮かべる。

もっとも、大抵の場合離婚のきっかけなんてひとつであるわけない。

蓄積された些細な事が限界に達した時の偶然の出来事がきっかけとなって崩れるだけ。

もしその限界地点が食事時なら相手の食べ方になるだけで、

絶対的なこれはなきんだよ。

それは人を好きになるのも一緒で何か一つを見て全身全霊で惚れるはありえない。

蓄積した好感が満点に達した時に人は恋に落ちる。

もしそれが映画鑑賞時でその映画の感想が一緒だったことが、

価値観が一緒という決定打として火がつくように。

それに、彼は良くも悪くも嘘をつかないから多分本当に彼から見た離婚の決定打は、

その些細な事件ひとつだったのだと思う。少なくとも彼から見て。

で、離婚した。

 

その根底にあるのは、相手をすっぽかして自分中心に生きたい日。

ただそれだけ。

物事をすごくシンプルに言ってただそれだけ。

まあ、人が聞いたら全然違うよと言われそうな私の勝手な解釈だけど、

根拠として一例出すとすれば私たちの共感事項としてセックス。

「セックスは恋愛の延長ではなく握手の延長」

これは私の言葉だけど、彼も笑いながら俺もそう思うと言っていた。

「セックスを愛情表現とかいう人いるけど俺は違う」って。私もそう。

また時を別にした一例を出せば、

「⚪︎⚪︎子はまだ他の人としたいと思う?」と聞かれたこと。

これを付き合っている彼女に聞ける男聞く男は珍しいと思う。

そして、彼はそんな人。

私は答えたわ。「今まで恋愛感情なくても楽しいセックス沢山あったけど、

こんなに好きだ好きだと思いながらするセックスをしたら、

恋愛感情のないセックスなんて退屈でしたいとも思わない」

彼、「ありがとう」って私の手を握って言った。

私たちはそんな関係なんだ。

 

だから?と言われればそれまでだけど、

本当にそういうところで同類であるがゆえに全然の別物なんだ。

 

彼と私は似ている。

 

というか、何が言いたかったのか忘れちゃったわ。

 

今日は何だか気の迷いでもういいかなと何もかもに対して安堵する思いがあったが、

また明日から気持ちを入れ替えて切り替えて野心を燃やして生きるんだ。

 

彼が強くてかっこいい男なように、

私ももっともっと強欲に強く生きられる人間になりたい。

その末であるべき形にたどり着けたらその運命に任せたい。

 

頑張ろう。

この世はお金でも恋愛でも何でもなくて気合だわ。

諦めたら負け。そして、満足しちゃっても終わり。

 

頑張ろう。

彼は酔った時の柔らかい表情で私を見てはしゃぐように言った。

 

「この世には可愛い子はいっぱいいる。

可愛くない子はそれ以上にいっぱいいる。

でも、⚪︎⚪︎子みたいな子はいなかった」

 

私はずっと自分が好きな人にそう自分を認めて欲しくて生きてきたんだと思う。

多分、小さな頃に親に認められず否定されてきた人間にとって、

生きてる目的ってそれだけだったんだと今なら思う。

お金でもなんでもなくて、ただそれだけの言葉がずっと欲しかったんだと思う。

子供にとって自分を肯定する言葉は親が言わないと何の意味をなさないように、

私は自分以上に自分だと憧れて思えるような人にそう言われたくて、

ただそれだけで生きてきたようなものだったんだと思う。

 

ずっとずっと自分を否定してきたのは、陶酔できるような自分になりたかったから。

それを目指して頑張ってきて、やっとそなれて生きてきた証明が、

自分と一番近い人を好きになることだったんだな。

 

難しいようでとてもくだらない空っぽの駄々だけど。

 

それで、その言葉を聞くことができたのなら、ここが目指していたところ。

これ以上の欲なんてもう本当になかったんだ。

 

ともすれば、私の限界はここだったんだ。

これ以上何かを望む目盛りは私にはもうない。

 

 

下の記事の続きだけど、

そのさして悲しくもない達成感すらある苦しさでここで終わりにしたい気持ちが、

どこからどうしてくるのか分からなかった。

いろんな根源を探ってもどれもなんだか違うような気がして不思議だったんだけど、

一番しっくりくる答えが考えた末に見つかった。

 

それは、すごーくバカみたいなくだらない、

人に聞かせるのも恥ずかしいようなことなんだけど、

私は絶対彼になれないことに気づいたことがただただ虚しくて、

それでいて達成感なんだろうなと思った。

 

私の本体なんてほとほと虚勢と虚飾で実態なんて何にもない。

でも、それでいいと思ってた。

弱くてそれを疑問に思わずに受け入れて考えずに生きるより、

自分大否定してこうなりたいこうありたいで見栄を張って生きていきたい。

何故ならそう生きなければ望むものに近づくことさえできない。

逆に言えば望めば望むほど近づいていくことは出来る。

 

そう思って生きてきたし、それを理念に生きてきた。

でも、所詮それには限界がある。

誰かのことより自分のことの方が大好きだった。

自分を弱いとかブスだとか受け入れられないのは、

それは逆にナルシストだから受け入れられなかったんだと思う。

本当に見栄が全て。泣きたいけど泣いたら終わるから泣けない見栄。

まあ、それはそれで楽しかったし良かったんだけど、

彼のことを自分のこと以上に好きだと今思う。

私に似ているしそれ以上に優れていて憧れている。

うっとりしてしまうくらい好きだよ。当然に恋人として、恋愛として。

 

でも、それ以上に意味が分からないけれど、私は彼みたいになりたい。

彼になって人生を渡りたい。

それは隣に並んだ恋人でも違う感覚。

彼を所有するのではなく、彼自身に私はなりたい。

意味が分からないけれど、本当にそれが一番心境として近い。

つまりは、彼に憧れていて彼に負けていて彼に嫉妬しているんだと思う。

私の人生は彼の人生より面白くない。

そして、もうひとつ言えばもし私が彼だったら。

 

申し訳ないけど、さめざめした気持ちで私なんかを選ばないだろう。

もっともっと上を目指してわくわくしたい。

もっともっと可愛い女を狙い落として孕ませたい。

言ってる意味がちょーくだらないけどねw

でも、すっごい好きゆえにつまらなくなってほしくない願い。

それが苦しくてたまらなくて首吊っても構わない達成感だったんだと思った。

 

だって、客観的に見たら私を連れた彼はダサいと思ってしまうもの。

もし私が全くの赤の他人ならもっといい女狙えるのにと思うもの。

くだらない男を連れた私より遥かに可愛い女に嫉妬してしまうのと同じ意味で。

だって、私がもしもっと普通に当たり前に可愛かったら、

きっとその本人以上に器用に楽しくイージーに人生渡るのにって思うと、

心底歯がゆくて苦しく思うんだもん。

 

何を言ってるか分からないけれど、

結局自分の心なんて自分が一番分からない。

 

っていうか、私は何もわかってないし、

もはや何も分かりたくない。何も感じたくない。

もう本当に何も考えたくない。考えるのをやめたい。

頑張るのをやめたい。虚勢をはるのを手放したい。

でも、そうしたらどうやって生きていけばいいのか本当に分からないの。

ただただ悔しくて虚勢だけを燃料に生きてきた人間にとって、

それを外した時の生き方を知らない。