ハートの奥底まで探してみると、私達はゼロであるという事実と直面する


ことになります。わたし達の内側は空っぽです。総理大臣であれ、


下級労働者であれ、すべての人は空っぽだと感じます。


人はこの空っぽ感に直面することが出来ません。ですから、


自分や周りの世界についてのたくさんのイメージや創造を膨らまします。


人間関係、職場、社会において、私達は一般的に何かになろうとしてい


ます。身近な人たちに対して、自分はよい人、謙虚な人、知的な人、


完全な人というイメージを投影します。


しかし、人生とは不思議なものです。


何かが不真実のうえに築かれるたびに、それはあなたに一撃を与え、


あなたを真実に押しやろうとします。


人生は常に、あなたに「あなたはゼロである」ということを示そうと


しています。あなた自身の内側や外側に作ったイメージが壊れてしまう


という脅威に直面したとき、恐怖があなたの中に生じます。


ですからアンマ・バガヴァンはこのように言います。


マインドは恐怖です。恐怖は決して行動の中にはありません。


それは期待の中にあります。マインドは増幅器のようなものです。



意識の目覚め(アウェイクニング)は、マインドからの解放です。


意識の目覚めは恐怖からの解放です。


自分自身の真実を見る事は、あなた自身のまだ受け入れていない


側面に光を当てることです。見てしまえば、


それらはもうあなたにトラブルを与えることはありません。


それはまた、行動における迅速さと明白さを与える人格を強化します。


いったん完全になると、人間関係において人は相手の不足について


焦点を合わせることは出来なくなり、


その代わり自分自身に気付いているようになります。


それにより人間関係は厳しいものではなくなります。


その人の道における達成の妨げになるものは解消します。


外側の世界は内側の世界の反映です。


それゆえに、自分自身の受け入れていない側面や抑圧された側面


を受容したとき、ネガティブなエネルギーは解放されます。


問題は消失しパターンは消え去ります。


外側の状況は都合のよいものになります。


真実を見る事は、自己認識へ通じます。「自己認識」とは、


そもそも、自分が内側と外側で行っているゲームに気付くということです。


自分自身を知ることは、相手を知る助けにもなります。


内なる誠実性は、それが十分に強ければ、


ハートの開花と神実現へと通じます。


人の霊的な成長の指針は、哲学的知識の深遠さではなく、


自分自身に対してどれだけ心地よく感じているか、


そして世界に対してどれだけくつろいでいるかということなのです。


これが、正直さから生まれ出る知性の結果なのです。







内なる誠実性(integrity)は、自分にそれが「欠けている」ことを見る


ことから始まります。あなたは真実から逃げるために自分が作り出し

た様々な逃避システムに気づきます。あなたの部屋に蛇が侵入してき


ても、もし蛇がそこから逃げ出すいくつかの穴をふさいでしまえば蛇


を捕まえることができます。


「これからは」という言葉で思考が始まる時、それは最初の逃避手段


である「先延ばし」です。自分の冷酷さと向き合う代わりに、「これか


らは親切な人になろう」と決心するのです。あなたは自分が真実を


カーペットの下に隠したのを認識し、未来への投影と共に、親切な


人になるという旅を始めるのです。しかし、それは自分に対する嘘です。


「なぜなら」という言葉で思考が始まるとき、それは「理由付け」という


2番目の逃避手段です。「私は非協力的にならざるを得なかった。


なぜなら・・」、「私は彼を罵倒した、なぜなら・・」、「私は自分の所有物で


ないのにそれを取った。なぜなら・・」等、たくさんの理由がありますが、


それらは貪欲、誘惑、恐れ、愛の欠如などからの逃避手段を提供しま


す。このようにして嘘で巧みに飾り立て、自分自身に対してそれを何回


も繰り返していくと、いつしかその嘘が本当であると自分自身も思い込む


ようになります。


思考が何らかの「レッテルを貼る」時、それは3番目の逃避手段です。


私は「攻撃的だ」、私は「短気だ」、私は時々「意地悪で悪い人になる」


等のレッテルを貼るのは、単に内側の思考プロセスまたは行為を描いて


いるにすぎません。あなたはそのように言いますが、しかし実際には


それを見ていないのです。「レッテルを貼ること」と「見ること」は違


います。レッテルを貼ることはあきらめであり、見ることは受け入れる


ことです。レッテルを貼ることは思考の荷物であり、見ることは静寂です


。レッテルを貼るとき、思考は永続します。見ている時、思考は体験へと


道を譲るのです。

人生は戦い、学びの体験です。これをあなたがどう作るかです。


しかしあなたは、これをゲームとして見ることもできます。


人生とは常に違う種類のボールが、あなたに向かって投げられ、


それを一生懸命倒すことを期待されてるボーリングのようなものです。


それは嫉妬のボール、愛のボール、喜びのボール、痛みのボール、


財務利益のボール、勝利のボール、別離のボール、拒絶のボール、


その他もろもろです。最も難しいボールが投げられたとしても、


それを楽しみながら体験することもできます。


これは人が止めることを選べない、とても不思議なゲームです。


あなたがプレーしなければならない時は、上手に行ってください。


もしあなたがボールの人生に自信が無かったり、不注意だったりすると、


傷ついたり、ゲームに負けたりする可能性があります。


ボールから逃げる、避ける、または下手にボールを扱うと、


結果的には苦しみとなってしまいます。


そのゲームから逃げることは出来ません。


要するに逃げようと努力すれば苦痛となるのです。


あなたがよく苦しみと呼んでいるものは、苦しみから逃れることにすぎません。


苦しみの元となる出来事それ自体は大きな問題ではありません。


人はそれが実際に来た時に、どう扱ったらよいかを知らないがために、


息苦しくなってしまうのです。苦しみが怖いために逃げようとします。


あなたがそのボールを避けられないものとして受け止め、


その一つのボールがあなたに投げられたとして立ち向かえば、


それは終わります。そこにさらなる苦しみはありません。


あなたが苦しみと呼ぶものは、苦しみに抵抗しているということです。


人生はあなたが自分で作るものです。それが戦場となるのか、


学びの場なのか、または遊び場になるかもしれません。

質問:


バガヴァン、何故、子供達は両親の行動のために、

  

苦しまなくてはならないのですか?そのような状況で子供達は、

  

何をすべきでしょうか?



バガヴァン: 

  

それでは、あなた方は親もまた、かつてはただ子供であったことを、
  

覚えておく必要があります。彼らも、彼らの両親によってトラウマが

  

あります。ですので、これは世代から世代へと続いてます。


それは曾祖父に起こったかもしれない、彼から祖父へ、


それから父親、それからあなたへと。 そのような振る舞い、


そのような態度、そういったことが移り続いています。


もしあなたが最終的に誰も責任がないことを深く探るなら、


理由はあなたが何であれ、あなたがお腹の中にいた間に起きたこと、


そういった原因があるのです。基本的に、それは、受胎前、


受胎の間のあなた方の両親の思いから始まっています。そして、


私たちが4つのバスケットと呼んでいる、子宮の中で起きたことと、


あなたが子宮の中にいた時の母親の思い、父親の思い、


それからあなたを出産中に、出産に対してのあなたの反応がどうだったか、


それから出産後に起きたこと、彼ら(両親など)がコメントしたこと全てが、


私たちが遡って見ることができる、あなたの潜在意識に登録されています。


それ故、これらはあなたをコントロールしているのです。


ですから、あなたに自由はなく、あなたの父親に自由はなく、


誰も自由を持っていません。自由意志は全くありません。


しかし私たちは自由意志の幻想を抱き、それ故それを楽しんでいます。


あなた方は自分は自由だと思い、それを楽しんでいるのです。


しかし真実は、あなた方は自由ではありません。


あなた方はそれについて何もできません。

  

それが人生にある全てです。もしそれを理解するなら、


あなた方は自由を幾らか得るでしょう、


そして幾らか変えることが可能です。私たちは脚本を変えられます。


もちろんそれはプロセスで行われる必要があります。


そうでなれば、あなたはこのプログラムにコントロールされます。


しかし、そのように、あなたがコントロールされているのに気づけば、


そこに選択はありません。というのは、


あなたは自分がコントロールされているのを知るからです。


選択のないところに、サレンダー(明け放す、委ねる)しなさい。


明け放すところに、あなたは何を得ますか?


あなたは自由を得ます。もしあなたが自由意志がないことを、


真に悟るなら、そこには完全な自由があります。


それはパラドックス(矛盾)、正反対です。

もしあなたが自分は自由意志があると思っているのなら、


あなたは「そうだ、これをしなきゃ、あれをしなきゃ」と思って迷います。


あなたがスーパーマーケットに行くとして、そこに、沢山の石鹸を見つけ、


あなたはどの石鹸を買おうか迷います。テレビを見ていても、


そういったことが常にあって、あなたをこの手、あの手、


あの方法でと引っ張り続けます。したがって、


あなたにとって全く自由はないのです。


しかし、あなたがたった一つの石鹸を見て、それが一つしかなかったら、


何か問題はありますか? そう、この様にこれが人々の問題です。


これを忘れないように。


  

”選択があるところに、自由はない”   ”選択がないところに、自由がある”


  

そして、選択がないことは、あなたに自由意志はないという気づきを


もたらします。ただ流れています、人生は。あなたは自分が生まれる場所を


選択しませんでした。


あなたは自分がイメージしたような仕事を選んではいなかった。


プログラムがあなたを、全てその様にさせたのです。


もしあなたが、自分は自由な人であると、この事を悟るなら、


あなたは解放され、あなたはムクシャです。