色塾BLOG-

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日々のビジネス・社会に対する思いや、起業に向けた考え、読書に対する感想など様々な話題を、海外で働くマーケターとしての第3者の視点から展開。

Amebaでブログを始めよう!
1年ぶりのブログ。「己は何者で、何を成し遂げんとするのか。」ということへの整理とその表現をし続けていくことは重要と思い、またチャレンジしてみることにしました。

大袈裟な表現が一部の方には不快に感じるかもしれませんが、ご容赦ください。

2015年の1月。僕が決めたこと。
それは、「正心誠意」行うこと。

正しい心で人に対して誠実に真っ直ぐに向き合い、単なる勝負に拘るのみでなく、横綱相撲を真っ直ぐ取る。変化球を投げるのではなく、ド・ストレートで勝負をすること。

事業で言えば、当然、戦略的であることなどは当然としながらも、
競合や短期的な損得などに心を惑わされず、思うことに誠実にあり続けること。

全てが完璧にできたわけではありませんが、1年間、このことを意識から外すことなく、真っ直ぐ勝負してきた感はあります。

人生の多くの時間を自分勝手な考えと変化球で凌いできた僕にとって、この「正心誠意」はとてつもなく大きな課題でしたが、この点に限れば、やっと自分を人生の主人公として置き、何を言われても、俺は誠実にやっている。と言い切れる。真っ直ぐあり、真っ直ぐあり続けることができた初めての1年だったかもしれません。

この4月にエイチという会社を作りました。
「「エイチ」って何でエイチなの?」ってよく聞かれます。

説明しても、うまく理解していただけるかわからないので、いつも「人類の叡智(英知)」などと答えていますが、「大いなるもの(Something Great)=エイチ」だという説明を初めてここで明らかにします。

エイチは、我が子を含めた次の世代が、この世に生まれ、人生の多くの苦難があるかもしれない中で、その使命を全うする場所と環境を、少しでも良い形で残すための事業であり、教育の場であります。

簡潔にいうなれば、「循環型社会」をつくるための基盤であります。

循環型社会とは、ただエコのように思われることがほとんどなのですが、本質的には、
・「モノ(見える価値)」が大事な世界から「ココロ(見えない価値)」が大事な社会への変遷です
・「自分」が大事な世界から、「公」へと統合される社会への変遷です。

これを達成するために、一人の人間ができることや時間が限られている中で、僕はどこに自分の人生を投資するのかを考えました。

やはり、「教育」であると思い教員免許の取得も試みましたが、それだけで世の中全体を良くすることは無理と考え、時間の使い方を変え、「事業家」として、「モノ・空間・エネルギー・時間・ヒト」が循環をする社会にするための事業をつくることに決めたわけです。

「ココロイロ」もしかりです。
「イロ(色)」と「ココロ」を統合させる事業が「ココロイロ」です。

般若心経に、「色即是空、空即是色」という言葉がありますが、
「シキ(色)」は手に取れる物質世界であり、「空(クウ)」は見えないココロなどの世界だと捉えています。

これを統合する事業が「ココロイロ」です。30歳になった歳の2013年。
折り返し地点で、「三十にして立つ」という言葉に沿うようにして、「ココロイロ」の事業を立ち上げました。

戦後の祖父・祖母は、たぶん戦争真っ只中の中から、我が国を植民地にされてはならん!と必死に頑張ってきたに違いありません。

父母の世代も、戦後の貧しい時期に生まれ、より豊かな国にしようと必死に頑張って高度成長を実現したに違いありません。

それぞれの時代に、それぞれの立場における大義があり、それを全うしていく訳ですが、全ては中庸に戻ります。

そういう循環の中で「進化」を作っていくことが人類の役割だと考えています。
次の未来はどうなっていき、どこに向かっていくべきなのか。

真剣に考えた末に、至った答えが、「ココロイロ」であり「エイチ」でした。

資本力も、なにもないなかで、2つの事業を同時に運営することはタフです。

全てが順風満帆な訳は全くありません。日々、必死の覚悟でやっています。
振り返る時間など一瞬もなく、前を見ても課題の山だらけです。

でも、僕が登っている山は、とてつもなく大きいものだから、課題が大きいのは当然だと思っています。
ビジネスをただやっている訳ではありません。金儲けをするための事業をしているつもりも全くありません。

僕は、20代後半に、2つの大きな決断をしましたが、これは僕にとって、最良の意思決定でした。

1つめは、
P&Gを辞めた26歳の時点で、「生活レベルをあげない」ことでした。
金銭などに自分の人生を左右されず、慎ましくも妬むことのない幸せな日々があるのはこのおかげです。

2つめは、
27歳で「志を支えてくれ、華美な生活を好むことのない」妻と一緒になれたことでした。

だから、何かの不自由さに縛られることも多くなく、ただ家族との時間が取れないことには悩みながらも、事業に集中できていることができています。

2つの事業体で事業を運営をするという意思決定も大きな決断でした。

財務に明るいわけでないので、最良の決断だったかはまだ後になってみないとわかりませんが、キャッシュを持続的に生む「ココロイロ」があり、そのキャッシュで「エイチ」という踏み込む必要のあるプラットフォーム事業を行うことで、他人資本をいまのところ受けずに「利益を生むこと」だけに心を完全に縛られることなく「価値を創る」ことに心を割きながら、本当に多くの仲間に支えられながら事業を運営できているのは幸いなことです。

これらのすべての準備と意思決定を積み重ねてきて、今があり、
「事業を通じて社会を変革して良い世界を作りたい」と思って、日々、命を使っています。

自分で責任を取ることのなかったサラリーマン時代よりは、何百倍もの負荷をかけ、
覚悟をもって日々やっているつもりですし、そのプレッシャーと負荷はかなりしんどいです。

別にこんなやらなくていいのに、と思い、隣の芝が青く見えるときだってあります。
そんな自分の弱さに呆れ返ることもありますが、「もう休憩しようか?」という問いをすでに封印し続けてはや3年が経とうとしています。

時間もないし、熟考したりしている暇もない。
一瞬で意思決定をしていきながら、全て試行錯誤、トライアル&エラーの中で物事を前に進めていく。

「なんでこんなことやってんだろ?」と逃げたくなることもありますが、
そのように導かれているからやるしかない。と思ってやっています。

ゼロからイチの価値を生み出していく。
そのことの難しさを日々痛感しています。

必死でやっていますが、3年も経ったのに、まだまだ0.1%も思いを実現できてない。そろそろちゃんとあらゆるレバレッジをかける決断をしないといけないのかもしれません。

ただ、方法論だけにとらわれず真っ直ぐやりたい。

課題感としては、「愚直に価値を追求し、愚直に行動する。」こと。

これが、僕ができていないことなのかもしれないと痛烈に反省をしています。

仕組みを考えたりすることは比較的上手な方ですが、愚直にユーザーの気持ちを汲み取り向き合う。

ひとりひとりの気持ちと向き合う。価値あるものを愚直に追求する。

価値は、日々の実直な行動の積み重ねと、まっすぐな思い。
虚構や表面の取り繕いは意味がない。価値を生まない。

商売の原点は、リピートと口コミ。
要は、ちゃんとお客さんに対して誠実に優しくいられるかということ。

本当にそうなんだと、実感することが多かったです。

サービスは、まず、なにもかもユーザーの理解。
自分のことばかり考えて、ユーザーはそっちのけじゃ価値は全然積み上がらない。

仕組みで勝てるビジネスだって、実はいくらでもある。
利益を生める方法なんて、いくらでもあるかもしれない。

でも、そんな仕組みとかビジネスモデルとか、中身あるのか?
そんなものは、頭でできた空想であって、いくら作っても、お金を産むかもしれないけど、
価値になってないことにも気づいた。

価値は、まっすぐに、まっすぐに、コツコツ相手に向き合って、積み上げたもの。
強みは、持続と継続をしたものに宿る。

自分が、その手のことが得意なほうではないことは知っていましたが、頭を強く打たれるような気づきに
出会ったので、そんなことはいってられません。2016年はもういよいよ改善しなければなりません。

すべての判断基準は、
・相手の気持ちを理解できているか。
・相手の目線から物事を見て、考えられているか。
・正しい誠実な判断をしているか。人として正しいか。
・ロジカルに、構造的に、仕組み的に、いいか。

あらためて、事業の最も大きなドライバーは、「人格の研鑽」なのだと思う。
・ビジョンを明確に語り、どれだけ多くの人に支えてもらえるか、助けてもらえるか。
・相手に寄り添い、理解をし、必要なものを愚直に届けられるか。
・どんな誘惑にも目を向けず、正しく誠実な判断と意思決定をし続けられるか。
・すべてをヘッドレベルで終わらせず、一ミリでも前進するように行動につなげられるか。

これがすべて。

それを一分一秒休まずに積み上げていくこと。
それだけ。

本当にこの1年。

様々なことを経験させていただき、本当に心底尊敬する大人の方と時間を共にしたり、少年のような気持ちで純粋に憧れるような人に出会ったり、真剣に前を向く同世代の仲間に出会った。

僕が関わる限りにおいて、それは、事業であっても、人であっても、ユーザーであっても、
すべて、幸せにしたいし、魂に火を灯していてほしいと思っている。

改めて、「信頼」と「愛」をもっと深く持ち、人格の磨かれた1年後の自分に出会えるよう、
日々研鑽しながら、真っ直ぐ歩んでいこうと思います。


人間の根本は、信頼と愛。
人生の目的は、人格の研鑽。


さて、来年はどんなチャレンジをしようか!
愚直にいこう!楽しみだ。

【2015年に向けて】



ブログを書くという習慣ももうなくなり、日々の自分について書き残すことなんてあんまり意味がないっていうか、そんなことよりも今を必死で生きることに精一杯すぎて、省みる余裕なんかないっていうのが正直なところかもしれない。

だから、何を書けばいいのか全然わからないけど、でも節目の記録だけは自分の姿を残しておいた方がいいという思いと、書くことによる自分との対話を通じた自分探しと自己表現を年に1,2度くらいしてみるのもいいじゃないかと思って、今目をつぶってみると止めどなく溢れてくるココロの叫びを書き残すことにする。

2014年も終了。

一年という時間が経ったわけだけど、時間ってなんなんだろうって。それを考えるのが今年のいろんなテーマの1つだったかもしれない。アインシュタインの相対性理論とか難しくて意味不明な本とか一生懸命、まるで英語の分厚い本を学生の時に辞書を調べながら読んだようにうんうん唸りながら学んで、時空間の形成から、宇宙創成から、神話を学んでみたり、物理なんかに興味がいったり、DNAについても本を読み漁り、なんかすごく範囲を広げた年だったなと思う。

それで分かったことはなに?って聞かれても、正直俺のちっぽけな脳みそではわからないし、うまく説明できない。

ただ、たぶん「生かされていること自体、ゲームだな」っていう感覚は深くなった。時間とか空間とかこの目の前にあるモノでさえ、すごくバーチャルっていうか掴みどころのない存在で、なんかリアリティを持てなくなってきている。

時間感覚が極端に短くなっている中で、おじいちゃんになって死を迎えることなんて、本当にすぐ先のことだし、別に明日大地震や大豪雨が来て死んじゃうことだって、富士山が噴火して灰に埋もれることだって、体に良くない食事の蓄積や放射能で癌になってしまったり、戦争が起こってミサイルで東京が壊滅する可能性だってあるだろうし、エボラ熱みたいな伝染病感染っていうのも十分にある。

死ぬことは怖くないっていうか、死ぬことは目前というか、死ぬことと生きることは表裏一体というか、なんといったとしてもうまく表現できている自信はないけど、そんなことを怖がるくらいなら、今の自分の魂を磨くことだけに集中をしたい。

そんな魂を磨くなんていっても、自分はホントできないことばかりだし、別に取り柄がある訳でもないんだけど、「世界をよく変えていきたい!」という情熱だけは持っているのが好きなところだと思う。

だから、一刻も早く本当にプライドとか守りとか一切全て消したいという焦燥感には駆られている。

そして、ただただ行動を爆発させたい。本当に世界をより良い場所に変えていくために、自分自身が早く早く変わらなくちゃいけないという危機感だけは日々募り、悔しいがまだ1%も発火できていない感覚がある。

これが僕の今の一番の課題なんだろうって思う。ホント、かっこつけっていうか。ださいと思う。
だから、本当にもっともっと速く、時間を超えるスピードで物事を進ませたいのに、遅い。

まあ、そんなことは百も承知の上で、カッコツケな部分を持つことで、だからこそなんとか自律できてる部分もあって、それはそれでいいなんて割切る気は毛頭ないけど、まあ早いところ潜在能力を100000%といわず∞に発揮し、驚異的なスピード感で動きたい。

本当に速く動かなければ「俺は結局口だけで世界を変えられない人物だった」という事実が確定してしまうから、それだけは避けたい。俺が動かなかったことで達成不可能になることだけは全力で阻止したい。

そのうえで、あとは流れに任せるしかない。

あと、「世界を変えたい」という思いを実現する形として教育こそが大事だと思い、若かりし頃から夢見ていた「教師」という道を現実化していくという積年の思いをかなえるために、今年は教職免許を取得するために通信大学に通い始めた。仕事もある中でレポートを書く時間を捻出するのは厳しいものがあったが、まあなんとかやっている。

教育というものがどういった理念で作られ、国語、算数、理科、社会といったものがどういう目的と考えに基づいて研究され、自分に授けられたか、あるいは人間のココロや感情の成長過程や親子関係のありかたなど、様々な観点で学びを得られる機会であったことに非常に感謝をしている。

同時に、義務教育としての国家教育の重要性はひしひしと感じるうえで、自分とのフィットネスを考えると、義務教育教員としての人生が自分の生きる道・時間の投資先ではないかもしれないという感覚も芽生えてきた。教育は、農作業と同じで、相手の環境を整え、子供の成長を共に歩みながら待ち、長い時間をかけて育むものであることは、自身の子供と接していても感じる。自分の周りにご縁で出会うだろう生徒たちに愛情を注ぎ続ける情熱と本当にスピードを持って事業を伴った形で世の中を変えていくんだ!という思いを実現可能性と自分とのフィットネスという天秤にかけて比較すると、僕自身は非常にせっかちな性格であるし、性質的に教員の道を突き進むのは一番ではないかもしれないと思った部分もある。

しかし、同時に考えたことは、世界を変えうる人物を多く輩出した吉田松陰先生をはじめとする人物が多く兵法を学んでいたことに関しては、非常に的を得ているということだ。まさに今年ご縁があったソフトバンクアカデミアのメイン講義のベースが孫子の兵法であることは理に適っている。これだけスピード速く物事が変化する中で、その変化を捉え、戦略を考え、ダイナミックに世の中の方向性や流れを変える術としての戦略教育は日本という国に於いて最重要な教育科目なのではないかとも思い始めている。戦略教育の中で、重視されるべき本質のひとつは「人と違うこと」だ。

サの時代からワの時代に移り変わっていく中で、「調和」こそが行きつく先だと思う一方で、「違い」こそが進化を生むという事実には抗えない。今という超短期的な時間スパンで奨励されるべきは「人と違うこと」が大事にされる教育と文化形成であり、それを推し進めながらも、同時に「調和」が大事であるという二元論では示せないけれども目的を見据えた進化の方向性およびそれに向かう教育を目指したい。

変人が変人のままで胸張って生きていける日本ができたら素晴らしいと思う。
少なくとも変人やヒトの変人的な部分が破壊される文化では今後の未来は暗いと思う。

話が少しそれたけれど、やはり世の中を変えるという「実践」とそういった人間を育てるといったうえでの「戦略教育」といったものは自分が求めていくべき方向性なのではないかと思う。

あとは、意思決定というか、腹決め力について。
やっぱり経営を自分でやってみて、一番の学びはココ。結局のところ、腹決めができていないものというのはほぼうまくいかないといっても過言ではないのではないだろうか。端的で現実的な言い方をすれば、腹決めは、自分の時間とお金を投資すること。加えて、志を定めること。そして、やり抜く覚悟を決めること。本当に「言うは易く行うは難し」の最たるものだと思う。

「意思決定」とはオプションの選択ではない。どちらかというと表現として近いのは、腹を括って退路を断っていくことに非常に近い。「やり続ける意志を持てるだけの志」と「腹を括って退路を断って実践できる覚悟」。っていっても、僕の場合はそんなにココロが強くないから、真っ直ぐ突き進めなくなることも多々ある。それでもやり切る覚悟を少なくともスタート地点に於いて持ってるよね?という腹決めができていないことによる失敗は人生において何度もしてきたし、逆に言えば本当に腹決めしたことは「思考は現実化する」ということで最終的には結果として現実化してきた。

僕が志を実現する方法としてやはりもっとも根本的なものは「腹決め力」であると思うし、本当にこの精神を鍛えていかねばならんと思うわけだ。

最終的には、やっぱり「世の中を変え、世の中を変え続ける人材を創る」という僕自身の志としての言葉だけは僕が生きたことの真実として残したい。リアリティがあるとしたら、そういう世の中を変えたいという欲にのみ存在しているかもしれない。

あと、ふと思うのは、自分は周りをどれだけ幸せにしているだろうか?ということ。
別に周りを幸せに積極的にしたいんだという高尚な思いがある訳ではないんだけれども、少なくとも自分の周りの人は幸せであってほしいと思う。

幸せっていうのはなんだろうとか思うけど、やっぱり「自由」が大事なのかなという思いに至る年だった。

本当に自分も含めみんないろんなものに束縛されて、それって時空間的および精神的に境界があるってことなんだと思うんだけど、そういう境界はすべてぶっ壊していきたい。それが幸せの原点だと思う。

そして、自由はタダで手に入るのではなく、やはり「腹決め」と「行動」と「戦略」が伴って得られるものであることを心に留めておきたい。

最近は本当に正直に意見をいう様になった。
周りのプライドとかあまり気にせず、グサグサと思ったことを思ったままいう。

結局、何かに困っていたり、人に思いが伝わっていなかったり、プランが結果につながっていない場合、それは自分も含めだけど、「自分の人生を主人公で生きていない」っていうことに起因するんじゃないかなって思う。それはすなわち「腹決め」と「行動」ができていない人生を歩んでいるということ。そこさえあれば基本的にはなんとかなるもんだなあという風に思い始めた。

「戦略」の誤りは、鍛えていったり、人の話をよく聞いて正していけばいいけれど、「腹決め」と「行動」ができていない場合は、それを引き出すようにまっすぐに人に誠実にあたっていくしかない。

無責任かもしれないし、すべての人間の人生は背負えないけど、「どうせ生かされているだけなんだから、お前の人生はお前らしく生きてくれよ。」って思う。誠実に伝えればそこから何らかの反応が生まれる。変化がうまれる。変化はチャンスだと思う。

なにをオブラートに包み隠す必要があろうか。
正直に誠実に生きていればそれでいい。
それが自由であり、幸せだ。

だから、自分らしい生き方、それは時間にも空間にも周りにも縛られない生き方。
これを実現していける世の中というのは、自己の幸福追求のために富を蓄えることに飽きた次世代の課題だと思う。

あと、唐突だけど、今は僕はココロイロという会社をやっているけど、理念はこれに決めた。
“No fliction, No border, Just circulate it.”

なんかうまくキマってないんだけど、でも僕がやりたいことはそういうことなんだと。

世の中さ、いろんなものが形になって、輪郭・境界をもって停滞しすぎなんだよ。
それは非常に重要なことなんだけど、行き過ぎると不要な摩擦が起こる。

所有とか、プライドとか、そういうものって滞っているから宿っちゃうんであって、そういうのが宿っちゃうとそこから抜けられないばかりか、なんか競争とかしちゃって自分を苦しめるだけなんだよね。本当に競争してきて痛いほどそのアホらしさを味わった。そして、それは自分らの生き方としてアホなだけじゃなくて、我々の産みの親である地球であったり宇宙環境であったり、そういうものさえ破壊しようとしている。

滞った生き方は、あなたを幸せにしてくれません。と言いたい。
蓄積という戦略は、振り子が行き過ぎていて自滅の道を歩んでいるよ、確実に。

だから、振り子の振動を逆戻しして、原点に戻りたい。
根本は、全て循環なんだよ。きっと。

それが達成されていれば、摩擦もないし、境界もないし、争いなんてもちろんないし、自分と他人でさえ不明瞭になると思う。死ぬことと生きることの境目でさえなくなるし、別に僕らは宇宙のたったほんの一部であって、人間の細胞の中にもミトコンドリアとかいう別生物がうじゃうじゃいきているように、すべては相似形のマトリョーシカみたいな構造の中で、ただ存在しているだけ。そして、そういう環境を循環の中でより良いものに進化させていくことが僕たちがやらなければいけないことであり、使命なんじゃないかなと思う。

その中でも、現時点どう生きるかという切実な現実にはまさに死ぬ気で一所懸命な努力しながら対処していかないといけないし、辛いことなんて死ぬほどある。それもたぶんみんな平等にある。だから、それらはもう試練なんだkら、気合いで跳ね飛ばせばいい。そして、それからだ。理想論だけ語るようなヤツではいたくないんだけど、とにかくあらゆる先にあるのはすべてが循環する社会なのだと。

水のようにしなやかで強く
火のように激しくエネルギーを放出させ、
風のように速く静かに、
土のようにすべてを包み込み、産み、育み、ケアする

そんな存在でありたい。

ということで、友人と約束をした、30代までに循環型社会をつくる、40代までにあらゆるボーダーをなくすという超感覚的で不明確かもしれないけど、確実に成し遂げたいと思う目標のために、来年も日々猛スピードで駆け抜けたいと思う。

とにかく速く!速く!

そのために、あらゆるプライドとか自分の中に滞る原因となるものを徹底的に排除して、そのエネルギーをすべてのひとつひとつの行動と循環というアウトプットに変えていく。

諸行無常。

2015年の課題をここに明らかにし、来年の今頃にはもっともっと進化した自分に出会えるよう命懸けで毎日を生きることとします。

以上。

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2014年は総括するならば、世の中の「理」を学び始めた年でした。

様々な先生と書籍に訊ね、朱子学、禅、宗教の根本原理、言葉の原理、宇宙原理、心理学、教育学等、様々な自然法則としての原理原則を学び始めた年でした。

「体は私である。心は公である。
 私(体)を犠牲にして公(心)の為に死ぬ者を君子とする。
 公(心)を犠牲にして私(体)の為に死ぬ者を小人とする。」

これは松陰先生の七生説にでてくる言葉でありますが、その考えの元を辿ると朱子学理気二元論(理(原理)に沿って気(物質の元となるもの)を現象化させるという考え方)に基づいているようです。この説が正しいかどうかは知りえないことではありますが、理に適っているとは思います。一言でいうなれば物事の原理を知り「格物到知への旅路」に一歩踏みだそうとした年であったと思います。

理(ことわり)を知り、原理原則に沿った情念と行動を起こし、現象を起こす。

このことの重要性を深く心に刻む時間でありました。

そして、「大学」の八条目によれば、「格物、到知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」となっていくわけですが、理を知れば知るほどに自分自身の「誠意、正心、修身」の至らなさに気づく時間でもありました。

来年は、「格物到知」をより一層極めつつ、「正心誠意・修身斉家」にも一歩踏み出せる年にしたいと思います。

「正心誠意」…私利・私欲を離れて、正直に熱心に事にあたる心。心を正しく保つには、自分をいつわらず誠実に対処すべきであるということ。

「修身斉家」…自分の行いを修め正して、家庭をととのえ治めること。

一生懸命は生きてきたとはいえますが、正心誠意生きてきたかといわれれば、「そうだ」と言い切る自信はありません。

結果に拘り、自分を大きく誤魔化したり、いいくるめたり、いいくるめられたり、時には戦略・策略の中でズルのようなこともあっただろうし、常に誠実であり続けられたかといえばそうではないと思います。

それは自分の「氣の弱さ」と人間としての「成熟の甘さ」のためでもありました。

常に正心誠意であることは、私にとっては非常に勇気がいることであるかもしれませんが、それでも平旦の氣を養いつつ、愚直に己にチャレンジしていきたいと思います。

2015年は嘘偽りのない正心誠意の生き方へと進化する年にし、
常に奢らず遜らず謙虚でありたいと思います。

ココロイロも飛躍の年になります。

己をより一層正し、多くの同志とお客様を幸せにできる一年にしたいと思います。

皆様方にとっても、実り多き年になることを祈念し、支えてくださる仲間に感謝しつつ、2015年を踏み出すことにします。
もうネチネチと語り尽くしたから、みえてきたから、あとはやる。
つべこべいわない。やる。やりきる。やりきりましょう。

「世の中、変えます。」

そのためには、目に見えないくらいのスピードで進化しなくちゃいけない。
それは、僕だけでは絶対にできない自信がある。

同じ場所を目指す仲間となら、もっと楽しいし、もっと遠くまで行ける。

これまでが、

金を借りてレバレッジを掛ける虚構でできた限界を知らない無限型金融資本主義なのであれば、これからは、リアルなモノを借りて生活にレバレッジを掛ける、有限資源循環型修正資本主義だ。

何か感じたらお声掛けください。
みんなの力を貸して欲しいです。

https://www.facebook.com/masafushimi


【ビジョン】

『「自分のためからみんなのためへ」のシフト』

○超短期(1年)
・事業基盤を固め、次の事業へどんどん投資・拡大

○短期(3年以内)
・全てのコマースに圧倒的に「レンタル」という習慣を創る

○中期(5年以内)
・全てのコマースに圧倒的に「シェア」という習慣を創る
・「教育領域」において上記ビジョンに基づいた教育の実践・変革する


○長期(10年以内)
・ 循環型社会をつくるための会社を、みんなの力で10社つくっている
・ 世の中に「あのサービスがあったから世の中変わったよね」と言われるインパクトを残している



以上、

今年もよろしくお願い申し上げます。

2014年 元旦

【日本から世界にパラダイムシフトを起こす戦略】



0. 前段



 自分で仲間と起業した会社を辞めてから、少々の暇を頂くことになった。成人してから、偏差値教育の延長線上でビジネスというエリアで一心不乱に生きてきた自分の人生を振り返ると、その地点、地点では栄華だと思って歯を食いしばりながら一生懸命突き進んでいたことも、振り返ってみればなんともちっぽけで、むしろ情けないなぁという一言しか残らなかった。今まで残して来た軌跡を周囲に話せば「すごいね」というなんとも淡白な答えが返ってくるだけだ。そんな言葉は自分をみじめに思わせるだけでしかなかった。だって、自分ではわかっていた。そんなことは下らないことだって。でも、僕の小さな心の器はそうさせない。我慢が効かなくなって、自分を誇示したくなる瞬間がくる。そして、ダサいなぁと後悔する。こんなことをどれだけ繰り返してきただろうか。

 そんなモヤモヤをわかっているかのように、自分に真剣にぶつかってくださる先輩方からは「お前がすごいことなんてどうでもいい。そんなのわかりきってるんだから、もう自分を誇示するな。もっと大きな男になれ。そんなところで留まるなよ。」と叱咤激励を頂く。悔しさと情けなさが溢れて、どうしようもなく惨めな時間を、僕はあと何回過ごさなくてはいけないのか。こんな分かりきったバカな過ちを、あと何回繰り返せば次の脱皮へと向かうのか。味わったことのある虚の快感は、僕をなかなか離してくれない。

 結論から伝えるならば、僕の今までの人生30年間はコンプレックスの克服と虚栄の積み重ねだった。我が道を突き進む姉貴と、いつでも生徒会長・全国模試トップの兄貴。最も身近にあったこの背中を追いかけて走ってきたのだと思う。「俺も自由でいたい!俺も主役でいたい!俺も一番でいたい!」そうやっていつだって思っていた。やんちゃしてみたり、死ぬほど頑張ってみたり、いろいろやった。認めて欲しかった。努力はめちゃめちゃするし、負けず嫌いだから、大体のことはできる。でも、僕は部活では副キャプテンだったし、副代表というポジションに留まることがほとんどの人生だった。成績だってトップ層ではあるものの、一番になれたことってたぶんない。僕の人生はいつも脇役だった。大学生になってからは、主役だったり一番だったこともあるかもしれないが、それはそれで「え?自分が?」と自分を受け入れてあげられない。二番症候群とでもいえばいいだろうか。二番が好き、安全地帯が好き。外から文句を言っているのが好き。アウトサイダーであることが楽。自分が選択してきた生き方はそんな「負けない」生き方だった。自分から勝負をして主役を張るんじゃなくて、一番になってみんなに認められたい。俺が一番をやりたいんじゃなくて、みんなに認められて一番になりたい。そんな、末っ子体質の甘ちゃんだった。ビビってながら、勝負もしない。努力だけはして、周りから認められるのを待っている。そして、自分が主役でないことに、一人だけの世界で閉じ困って猛烈にムカついて批判している。いつでもいつまでも僕は自分から逃げた。そんな自分を受け入れることができないから、世の中をナナメから見るしかなかった。
 
 今、ようやく気づいたことは、「生きるのに逃げちゃいけない」ってこと。人生って逃げてても、面白くもなんともないってこと。負けたっていいんだよ。失敗したっていいんだよ。主役を張れよ。人生の主人公になれよ。絶対にできるんだから。ちゃんと生きろよ。自分の足で立てよ。お前は何のためにここに生まれてきたんだよ…!

 これからの30年間はもう逃げないことに決めた。どんだけ惨めで苦しくて辛くたって、俺が主役を張る。俺が変える。俺が全ての中心になる。って決めた。有り得ないくらいのエネルギーをぶっぱなして、突っ走ると決めた。世界一の経営者に俺はなる。世界を変える。むちゃくちゃ気持ちいい世界を創る。それで、死ぬときは、「あ~、もう一回こんな人生送りたいぜ!俺は幸せだったぜ!」って世界中に聞こえる声で叫んでやる!



1.歴史について



 この数ヶ月、勉強した。いろんな人生の先輩に大事な話を聞き、多くの仲間と夜を徹して話した。そのほとんどの時間は歴史の勉強に費やした。

一言でいうならば、この1300年間は「競争の時代、差の時代、大陸文化の時代、搾取の時代」だ。ヒトが生きていくために最も大事な資源である「水」が存在する場所に文明は栄え、食物は育ち、人は生きた。人口が増えると、広大なユーラシア大陸を移動して、狩猟を重ねた。そこに、豊かな自分たちとは違う文明を見つけたならば、その場所を征服した。アレクサンドリア大王が地を征服し、ローマが地を征服し、モンゴルはヨーロッパまで攻め入った。大陸で繋がってしまっているがために、いつも攻め入れられる恐怖感を抱えた大陸文明は、自らを守る術として「戦う」文化を作っていった。都市は城壁で囲まれ、常に戦闘態勢であり、「乱」が常識の生き方を形作った。国境は毎年変わり、攻め入って征服しては、土着民を奴隷化して使った。しかし、これだけ広大な平野の中では、言葉さえ通じないのが当たり前だから、約束をし、それを紙に残した(=契約)。法律が人の行動を縛る文化が形成されることになった。また、言葉が通じないからボディランゲージが発達したし、言葉のニュアンスなんて気にかけている間もなかった。意志を明示し、気を出し、空間を制覇したものが勝った。異文化とコミュニケーションをするためには、感覚知に頼ることはできないから、形式知としての「ロゴス(logos)」によって説得する術が発達した。その内に、お金が権威を持つ時代がくる。それはイタリア・フィレンツェから生まれた。お金を持ったものが画家を雇い、協会に独占されていた「絵画」という自由を手に入れた。食事もお金さえあれば裕福に食べられるようになった。お金が贅沢を生み、お金が宗教を超えるルネサンスが生まれた。資本主義という道具を持った西欧の人間たちは、東にある香辛料や陶器を求めて貿易を開始した。貿易をするだけで、航海をするだけでその差益でお金が産まれた。そんな時代に産まれたコロンブスは「黄金の国」を探して、アメリカ大陸に行き着いた。不フロンティアを求めて、西へ西へと向かった。

ここまでの世界の流れには、日本は出てこない。東の外れにあり、荒海である日本海の先にある日本は、世界から見れば離れ島だった。そんな日本では、皇紀約2700年と連綿と続く世界一歴史のある国を作った。そこに住む者は、外界とは閉ざされ、田を耕す稲作を中心に生きた。そこには春夏秋冬があり、自然の循環があり、一生懸命耕して待っていれば成果が得られる暮らしがあった。自分から無理に競争し、獲得しなくても、または外から犯されようとする力に対抗しなくても、日本人は生きていけた。しかし、日本には天災(=地震)があった。だから、自分にはコントロールできないものがあり、畏怖を持った。自分には支配できない自然という八百万の神がいる。謙虚さが美徳であり、長い歴史の中で継続をしていくことでモノゴトを精錬する力がその土地には備わった。日本人のモノづくりの強さの源泉はそこにある。もったいない精神も日本の歴史が形成したものだ。日本人は限られた資源を訳あって生きてきた。開拓しようとしても開拓する先がない。だから、現存資源でどう生きるかということを考える術を身につけている。
さて、大航海時代を経て、17C入ると植民地時代がやってきた。戦闘を基盤とした狩猟民族はアジアを植民地化していき、ついに大陸の果てにあった中国は1840年アヘン戦争で犯された。海を超えた西の果てにはアメリカ合衆国ができていた。その先にあるのは、もう日本しかなかった…ペリーは日本を訪れた。今まで見たこともない武士・ちゃんちゃんこを着ながらも本を読む日本人という異人種に出会った訳だ。日本人はどうかといえば、大砲に恐れた。どうにか自分たちを守らねばならん。日本の志士たちは、日本を西欧からの脅威から守るために命を尽くそうとした。そんな日本を分断するため、明治維新においては、薩長に英国がつき、幕府軍にフランスがつき、2分しようという目論見さえあった。しかし、無事に無血開城を終えて、平和の内に明治維新を起こした日本は、その後も奇跡的に日露戦争に勝ち、アジア諸国から植民地時代の救世主だと思われた。そして、日中戦争を制覇した。西欧諸国は日本を本格的に恐れ、この国は徹底的に潰さねばならない。そう思ったに違いない。。。

第1次世界大戦を経た、日本はパリ講和条約において、世界に先駆けて初めて人種差別の廃止を提案した。これが大東亜構想の始まりだ。アジアを植民地から開放することを目的として日本は立ち上がった。そして、第2次世界大戦、共産諸国や世界の国々との情報線に負けた日本は、GHQの占領下に下る。

これだけの誇り高き日本の歴史は、全ての教科書から抹消され、侵略国として位置づけられ、日本の道徳の根本を成していた教育勅語・道徳としての修身教育は禁止され、教育を司る人材は公職追放という名で日教組に犯され、憲法は継ぎ接ぎだらけに作られ、武力を捨て、内実なき国家になった訳だ。

それから68年の間に、アメリカが派遣を握り、バーチャルな世界を形成した。まずは、1971年にニクソンがドルと金との交換を廃止し、お金は有限から無限なものへ変化した。証券のスキームは進み、レバレッジが効くようになり、サブプライムの原因ともなったように証券・紙幣というものは実物経済とは無制限に離れていった。更に、インターネットによるバーチャルな世界の出現は、虚業に次ぐ虚業を産み、実を失っていく時代に入った。コミュニケーションは浅薄になり、家族は崩れ、戦後の自虐的な歴史感を背景とした教育を受けた親世代が子供を産み、バブルに酔いしれた、内実のある自信のない親世代が産んだ子供たちはいまや自分のことしか考えないモンスターペアレンツ化している。一方で、人口は爆発し、金・エネルギー・食料といった人間の生命にとって根源的に重要な資源の奪い合いは、政治権力を奪うツールと化し、その一方的な被害を受けている地球環境は悪化し、自然災害が頻発している。このまま競争の原理のままで、金・資源の無限拡大・膨張と自然からの搾取を続ければ、その結末が人類の滅亡であることは明々白々だ。僕たちはそういう時代に生きている。

しかし、日本人は、物質的な豊かさに平和ボケをかまして、戦闘態勢にいる世界の国に対しては、腰を低く下げ守ってくださいとヘコヘコし、自らで立とうとしていない。努力も足りないから、イノベーションも起きなければ、基幹産業は韓国や中国のガッツク企業に立場を奪われている。「ものづくりの日本」などと過去の栄光に縋った居酒屋のオッサンの会話がまだ耳に入ってくるのは、平和ボケも甚だしい。政府もアホだから、クールジャパンだ、コンテンツだなどと、腑抜けな話しかしない。そんなもんで、国民の命が守れるか。このまま中国の人口が増えるのは自明であるから、国力の相対的な低下は加速度的に進行する。武力を持たないままでは、脅されて殺されて終わるまでだ。これだけの、大危機をしかし感じない人ばかりの日本は茹で蛙でしかない。

生きることは、金を稼いで裕福に暮らして、「あ~よかった」って終わることじゃない。キャリアを積んで偉くなって、「すごいだろ」ってドヤ顔することとは全く違う。俺がそうやって生きてきたように、脇役に自分を貶めながら、安全地帯から怒りを顕にすることでもない。真剣に今、今を生き抜いて、人生の主人公で居続けることだ。そして、知を尽くして、世の中の、生かしてもらっている全てのモノコトに貢献することだ。そうやって循環をより潤滑にすることだ。釈迦の教えはシンプルにこの3つだ。①諸行無常・・・全ては変化する、②諸法無我…自分というものは全て関係性の結果であって、自分というものは無い、③一切皆苦…三毒(貪・瞋・痴)を絶つ。そういう人生を送らなければならない。

2.日本の現在の状況



 日本は、現状どういうことになっているかといえば、「競争の資源の奪い合い」のフレームワークから見れば、もう弱小国でしかない。エネルギー自給率は、原子力を除くとわずか4%。食料自給率は、カロリーベースで40%。つまり、貿易できなくなるならば、2人に1人は死ぬということだ。人口は6000万人しか保養できないということだ。あなたは、2分の1の確率で死ぬということだ。4人家族なら、家族が2人死ぬということだ。アメリカと中国が、屈託して日本をいじめたらそうなるということだ。中国はフィリピンの領土を奪い、植民地時代のフレームワークで生き、尖閣諸島を犯してきている。戦争はすぐそこにあるし、僕たちは平和なんかじゃなく、生きるか死ぬかの世界で生きている。それに比べて、現実的にはNEATが増え続けている。親の脛をかじった生きていないゾンビが増殖して、数少ない食料を食べている。そんなことが許されると思っているのか。

 そして、バブルの絶頂期を生き、完全に骨抜きにされたベビーブームの団塊世代が、力なく大量に老人になろうとしている。2030年には、65歳以上の人間が3人に1人になる。俺たちはどうやって生きていくのか、真剣に考えなくちゃいけないと言ってる場合でなく、もはや考えたことを全て行動に移して全てを変えなければ、生きていけないという現実をしっかりと腹に叩き込まなければいけない。

3. 今後の世界の流れ



 既に前出のこともあるが、世界は同じ方向性に向かっている。そして、日本が数々の問題を一番真っ先に受け止める国だ。高齢化・少子化・自然災害・食糧不足・エネルギー問題…日本というのは問題の宝庫だ。そして、遅れて世界の国々は必ず同じ状況に陥ることになる。この解決をする主人公は誰か?日本人だ。唯一、西洋の乱の中で、2700年間も継続して和の精神を保ち、自然への畏怖を持ち、問題を自責として受け取めて解決策を導ける文化を持つ国。有限な資源の中で新しい生き方を見つけることができる国。それは今や日本しかない。

4. 日本から世界にパラダイムシフトを起こす戦略



 「日本が世界を救う。」というのは間違いもないストーリーだ。原発を始め、数々の諸問題にぶつかり続けて疲弊するかも知れない。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、全ての諸問題に解決策を真っ先に提示する宿命が我々にはある。方法論は、未だ明確には見えぬものの、「高齢化・少子化・自然災害・食糧不足・エネルギー問題」の全てを日本が循環型社会を形成して作り上げたときには、もはや世界は戦う意味を失う。有限なままで生きられる世界で資源の奪い合いをする必要は一切なくなる。それが次の平和の時代だと私は思う。

5. 私が今後30年間で実施すること



 私は、今までに話したような運命を背負った日本人として生まれたからには、その責務があり、その責務を果たす必要がある。その為にここに生を受け、生かされている。だから、俺が主人公となり、世界を変える。立派で、人類が誇れる世界を創る。
具体的には、世界一の経営者となり、1000の学校・会社・団体を創り、1000の学長、社長、団体の長と10000を超える日本と世界を支える人物を輩出する。世界中の人をつなぎ、多種多様な組織が作られ、「高齢化・少子化・自然災害・食糧不足・エネルギー問題」、そして、根本としての「人間教育」を実践する地場を形成する。僕ひとりでは何もできないけれど、僕には仲間をつなぐ力がある。方向性を示す力がある。みんなの頭を借りれば、解決策を出す力がある。人に影響を与える力がある。だから世界を変える使命を持っている。

これが、僕の宣言であり、僕は命を懸けて人生の主人公としてこれを実践する。

世界が平和になり、自然と一体化し、地球・宇宙が恒久的に存続しますように。
久しぶりのブログに向かっています。この数ヶ月も相も変わらず怒濤の日々でした。
整理の記録として、真剣勝負で向き合ってみます。

この数ヶ月、本当に数々の人と出会い、ココロを通わせてお話をさせて頂き、そして百冊を超える本と出会いました。
足下がふらついているという自己認識の中で、少しでも「自分」の地場を固め、「自分」を捉えようとする模索の日々でした。

・ビジネスという世界で猪突猛進するように上昇志向で形成してきたスキルや知識
・中学生からずっと志してきた「人間教育」という分野
・永遠に興味を惹き続ける「リーダーシップ」という言葉

これらは全てクロスしているはずなのに、全体感を以て捉えられていないもどかしさ。
何か世俗的なものに引っ張られて本質を見失っているような寂しさ。

人生はたった30000日。このブログを書く1時間の間に、私の寿命は1時間縮んでいるという事実。

それなのに、「生」は永遠に続くと考え、なんとなくゲーム感覚で競争して生きてきたことへの後悔。
それでも、向かうべき方向性がなんなのかわからない悔しさ、もどかしさ。

周りの視線を気にして生きてきた自分に気づき、自分に向き合うことを教えてくれた先生との出会い。

これらの迷い・惑いと、それを優しく悟らせるように教えてくれた数々の失敗。

「そろそろ決着をつけなさい」と呼ぶ内側の声。

その内側の声から自然と導かれていったエリアは「勉学」であり、特に「歴史」でした。
日本という国がどうあり、なぜ自分が今存在し、今の日本という国の現状がココにあり、ではこれからどうすればよいのか。

考えを巡らせているうちにご縁は歴史へと自然に向かいました。

大學や論語にある数々の教え、人生を尽くして書かれた歴史の書物、人と生き様を残した吉田松陰・西郷隆盛、戦時中の英雄・先輩方たち、そのコトバ。
多くの方の命懸けの努力により生かされているという事実。

そして、同じ方向性へ真剣に生きながら向かう同志。学び合う仲間。
これらの多くの出会いが自然と生まれ、どんどん繋がっていきました。

強かな植民地時代から連綿と続く、弱肉強食の現実世界
その中でも理想を掲げてよりよい世の中を目指して生きて下さった先輩方
戦後GHQのWarGiltInformationProgramから来る日本の教育の廃退と洗脳
根本にある日本という国の歴史の偉大さ

「全ての一人一人の行動の積み重ねの中で自分は存在する」ことを染み入るように感じました。

芯にあるコンセプトは
「ヒトは生きているのではなく、生かされていること」
「ヒトは何か役に立つ為に生まれていること」

同時に、世の中の流れに関して、僕はこのように捉えるようになりました。
・「競争の時代」から「共生の時代」へのシフト
・「単一価値観の時代」から「多様性」へのシフト
・「自己」から「利他」へのシフト

そして、こんな自分という頼りどころを失ったような生きにくい時代にこそ、
「自分なりの価値観」と「他人の価値観を受け入れる柔軟性」を圧倒的に双方を創り出す必要があること。

そんな時代の流れの中で、
日本の教育は、この時代を生き抜く力という意味において、骨抜きにされていることを感じるようになりました。

限定されているかもしれない僕の理解範囲ではありますが、日本のナガレは簡略するとこのように僕の頭では整理されるようになりました。

・世界一古い歴史を持ち、侵略を受けず文化を引き継いできた国としての日本
・神道・神話という宗教
・島国として発展した中で培われた倫理・道徳・忠誠心

・外敵による弱肉強食という現実への対面とその対応としての近代戦争
・大東亜という理想主義と、現実的なスパイなどによる情報戦略における敗北の経験(=損得主義への敗北)

・敗戦による日本文化・価値観の・宗教の一方的な破壊と西欧主義の流入
・「価値観(=信仰)」を持つことへの恐怖の植え付けと、その逃場としての盲目的な経済一辺倒主義、それに伴う偏差値教育と競争の社会
=根本的なアイデンティティ・自己根拠のないことによる自信喪失と、急速な経済発展による形骸的な自信の獲得による自己バランスの破壊

そしていま、
経済一辺倒主義の限界を迎えた今、どうすればいいのかわからない彷徨いフェーズに至ったというのが僕の認識です。

こんな乱世の中で、改めて「教育」の必要性を感じることになりました。
21世紀を地球と一体化しながら生き抜く人間に必要な力にはこんな力が必要なのではないかと思うようになりました。

・ 「こうあるべきだ」という個々の思想・価値観および「徹底的な自己理解」
・ それらが生み出す「目的意識」と「目的」をベースにした圧倒的な行動力・目的達成力
・ 「徹底的な自己理解」からくる「多様性への柔軟性」と異から新たな価値を生み出す「創造力」
・ 多様性を受け入れるベースとしての「周りへの愛情・感謝・関心・思いやり」、自分は生かされているということ・歴史連続性への理解

まだ纏まりきっていませんが、こんなことなのではないかと。
日本人には圧倒的に足りていない部分があることも認識しなければいけないし、これらを圧倒的に育んでいく必要があります。

そんなことに想いを至らせると同時に、僕自身はというと、
2013年3月で創業した会社を辞職し、たった数ヶ月の間に多くの紆余曲折を経て、今現在は一旦2つのことに集中をすることになりました。

1点は、「レンタルプラットフォーム事業」
2013年7月18日に自分で会社を設立することになり、レンタル事業を始めました。

ベビー用品をはじめとした数々のモノに関して、「買う必要がそれほどないが、場所をとってしまう、処理に困る。」
そういったものをウェブ上でレンタルをする、それらを全てプラットフォーム化していく事業です。

ここでテーマになってくるのは「競争から共生の時代へ」ということ。

後述の教育にも関わりますが、労働から知識の時代に入った戦後、資本主義が跋扈する中で富の競争、知の競争の中で、時代は流れていきました。
それらのマインドを振り返ることなく20世紀は過ぎ、21世紀を迎え、ドラえもんで描いていたような新未来は達成に近づいているものの、自然を
支配し、他社を圧殺するような経済の競争は、地球を破壊し、自らの運命を破壊しようとしています。

モノを所有する時代はもう終わりに近づいています。共有するものは共有し、相手を思いやって共有しながら消費する。
大量生産・大量消費などというのは、今の現状から見ればもう時代遅れなわけです。

モノの共有の領域から、ココロをあったかくしていきたいわけです。

もう1点は、「教育」
自分への刷り込みのせいかもしれませんが、僕は「教育」で一事を成すのだとなぜか信じています。
「いろいろと見える」方にも何人もご縁でお逢いしましたが、私は皆に同じことを言われます。それは、あなたは時代を創るために・弱いものを助けるために生を受けた。そして、実際に新たな時代を切り開くんだとです 。ただ、そのためには、ジェットコースターのような人生で多く失敗や苦労はヒトよりも多くする。ものすごく辛い人生だ。だからこそ、そこから学び成長しなさいと。

僕は見えませんからわかりませんが、そういうことであれば信じてみます。
その方が人生面白いし!

振り返ってみれば、教育に心惹かれ、志をもっていたにも関わらず、主に偏差値で大学を選ぶことになり、
それでも教育に心惹かれていたにも関わらず、「すごいね」といわれる就職先を選ぶことになり。

「すごいね」と言われたいが為に事業を興して、とにかく「すごい」と言われたいがために、
見ないふりをしてきた自分のココロの声に、真剣に耳を傾ける時期がきました。

教育関連のNPOや政治に携わる皆様にサポートを頂きながら教育というドメインに接するたびに、
そこから感じる愉しさと物足りなさ。

中学生に向けて先日、「生き方」という授業を僭越ながらさせて頂きましたが、生徒から、
「しっかり人生を考えて、ヒトの役に立つ為に生きたいと思った。」
「自分の子供には感謝をして、大切に育てていきたい。」
「残された人生を本気で生きたいと思った。」
「苦しいことがあっても、それは自分の為であると思って乗り越えたい。」

と、目頭が熱くなるような感想を頂き、感激し、やはり難しいけれども、自分が感じること、いいと思うことは
伝えていかなければならないと思いました。

そして、今現在は、幼稚園・小学校の教員免許の取得に向けて動き始めることにしました。
大学に願書を提出し、入学許可が数ヶ月以内に降ります。

これらの今の動きは、数年後には全然別のことをやっているかもしれませんが、自然にクロスされていきます。
そして更に進化していくでしょう。

とにかく動き回ることから、自然と運命が僕を導いてくれる。
それだけ運が強いと信じ込んでいるわけなので、運命に裏切られても自分を信じ続けていくのみです。

10年後どうなりたいか?という問いは、僕にはやっぱり似合わない。

そういう考えで自分をマインドコントロールするのはたやすいかもしれないし、実際、思考は現実化すると思う。
でも、それでも、今までを振り返れば、今を動き回り、今を悩み抜くことでしか、本質的な物事は解決していかなかったと思います。

だから、僕はこのスタイルを貫きたい。

泥臭くても、不器用でも、失敗だらけでも、ジェットコースターのように浮き沈みがあってしんどくても、
真直ぐに今を真剣に、1秒、1分、1時間、1日を生きる。

それらを積み重ねて、結果として30000日間を積み重ねる。
そして、死ぬ。

これが僕の人生。ピリオド。
GAMEOVERではない、人生の終焉に向けて。

1日1秒を本気で生きる。
僕にはそれしかできませんから、そうやって生きます。
今は、人生の中でもベスト10に入るくらいは苦しい時期に当たると思います。

僕の30年間は、自分でいうのも小っ恥ずかしいですが、たぶん平凡ではありませんでした。すごく凸凹で、もう天国かと思うほど楽でイケイケな時期もいくつもあったし、死にたいと思うほど辛い時期もいくつもあった。実態がどうかというのはどうでもよく、自分はそうやって凸凹に生きてきたんだと思っているということであり、そう感じているということです。

今更ですが、僕は3月で自分たちで作った会社であるエモーチオを離れました。諸処、感じることがあっての退職でしたが、それはそれで自分の腹決めとして決めたことです。

僕は、「今」の自分の思いを大事に生きていきました。
その「今の思い」への正直さと真っ直ぐさだけで、突っ走った20代の10年間。

若気のパワーが爆発していて、「俺が俺が」を爆発させた前半5年間と、自分を軸に生きることをできる限り辞め、人への信頼と相手の気持ちを軸に生きると決めた後半の5年間。

どちらも、周りの方に、最大限助けて頂いた10年間でした。

本当に周りの方に恵まれた10年間の中で、感じ方を揺さぶられ、考え方を揺さぶられ、とにかく迷いに迷い、揺れに揺れた10年間だったと思います。俺だ俺だと考え、人の気持ちを解せなかったかもしれない前半5年間でさえ、僕は非常に多くの愛情に支えられました。そういう意味では、最高に幸運な人間だと思います。ありがとうございます。

どっちも自分なりに、狭い視野で極端に集中をすることで、できる限り両極端に最大限振り切ったと思います。

少なくとも、あれだけの「俺が俺が」精神にはもうこれからの人生戻ることはないでしょう。この振れ幅は、人生におけるだいたいの自分の器の大きさなのかも知れないと思います。

そんな中でも、自分は我が儘に生きてきたし、反省することは山ほどありますが、自分の感情には素直であったと思います。

ここまでの人生で、良いことも悪いことも、小さな成功も小さな失敗も繰り返し、達成できた最大限の成功は、「見栄や鎧を捨てて、等身大の自分に出逢い、向き合う」ということだと思います。

小さいころは、知っていたはずの信頼や母親の温かさ、父親の愛情。それが競争とともに、知らず知らずのうちに嫉妬や虚栄に変わります。お金・地位・名誉。忌み嫌う対象だったものが、社会にでることによって初めて近づいてくる20代。その酸いも甘いも噛み分けた上で、「自分は、信頼と愛情と心の温かさで生きる」と割り切ることが30歳を迎える今の時点までにできたという点にだけにおいては、自分を褒めてやってもいいかと思います。

あと、実用的にこれだけはしない方がいいと得た知恵は、「生活レベルを上げないこと」。
これに尽きると思います。シンガポールから帰った瞬間にタワーマンションに住みたい思いはありましたが、辞めました。それは直感的に無駄だと思ったから。人間、不要なものは切り捨て、節約するべきです。それはいくらお金をもっていてもそうあるべきです。一度あげようとした生活レベルはなかなか下がりませんし、上がりたいという欲望は無限の螺旋階段ですし、その力は行けば行くほど強くなります。どこかで上昇気流を止めるだけの膨大な気力を持たなければ止まりません。実質的に生活レベルをあげて得られる物は、実は見栄のみであり、ほぼ無意味なだけでなく、とても大きな害だと多くの金を得た猛者を見てわかりました。結局は、人間は中身であり、登り詰めた人間にも本当にくだらない幼稚な大人もいれば、登らない人間にこそ本当に素敵に輝いている人が多いことを理解しました。自分の兄弟・親戚にも素晴らしい人間がいることは、幸せだと思います。結局は「人」であり、おいそれと付いていってはいけない人間が必ずいます。その見極めだけは間違えてはいけません。この点も、30歳を迎える今の時点までに「人を見る軸」という意味で失敗の中から腹決めできたことについては、自分を褒めてやってもいいと思います。

そして、人生を生きて行くにおいて、一旦の前半の人生で非常に良い選択だったと思うのは、実は就職だったかもしれません。P&Gというマーケティングで名の知れた企業に入り、中身はたとえ伴わなくとも、その名だけであと数年間は少なくとも生きていけるだけのセーフティを得られたことは、自分の人生をかなり楽にしてくれていますし、自分が好き勝手にやり、いろいろと気づかされるだけのチャレンジをさせて頂ける環境整備をしてくれたという意味においては、本当に有り難く感じています。

最後に、僕が20代で得たものは、仲間です。いろいろあるかも知れませんが、僕の財産は仲間以外にあり得ません。いつでも助けてくれ、いつでも身を張って助けたいと思う。そういう仲間が、僕には沢山います。これが、何よりも僕が生きてきた証であり、仲間が1人欠けていれば今の自分は欠けているかも知れない。1人1人が大好きだし、大事です。

僕が凸凹といいながらも、この30年間で得た知恵は、まとめてみると実はこんなことなのかも知れません。一生懸命生きたつもりではありますが、実はこれだけのことかも知れません。

でも、この腹に突き刺さった4点を刻み込んで、30代をもう一度エンジンかけ直して走ります。

酸いも甘いもいろいろ真っ正面から受けて我武者羅に生きたつもりでしたが、実は、転職も多かった10年間。本当は、忍耐力の弱さのために逃げてきた10年間かもしれません。そう思うと悔しいですが、その課程で少なくとも得た教訓を活かして生きるしか僕にはできない。だって、それが俺の人生だからです。

人生は1度きり。

このことを深く腹から理解し、自分なりの人生を謳歌したいと思います。

一旦、僕が思う目標は、自分の生活は最低レベルに押さえながら、お金を貯め、仲間の協力を得て、最高の教育機関を作る。このことが僕の使命だと思います。赤ちゃんから大人まで、感受性の強い人間に、倫理・道徳・世の理を伝える。立派な人間を作り、立派な世の中を作る。活きる人間をつくる。

倫理観もへったくれもない生き方をしてきた俺。

30歳になったばかりの坊やにはまだわかっていることも少ないと思いますし、まだまだまだまだ修行が必要なことは自明ですが、僕の使命はやはりここにあるように思えて仕方がありません。

なので、このことを突き詰め、自らにおいては日々学びに励み、人生を一所懸命に生きるのみであります。

引き続き我武者羅に。
でも、もう少し広い視野を持って。

60歳を1つの人生の循環とするならば、人生の半分を折り返す今日この日を、
俺は一生懸命にいきていくんだという宣言で括りたいと思います。
僕にとって、「お金との距離の取り方=間合い」というのは人生の中で大きなテーマ。
それは、自分の善悪と関わりがあって、人との間合いとも関わりがある。

$色塾BLOG-

自分が29年間生きてきて、親がコツコツ貯めてくれたお金で「申し訳ないな~」と少しは思いながらも受験・進学をして、自分で稼げるようになったらバイトをやりながらコツコツお金を貯めて、実家で暮らしながらそのお金を全て趣味だったレコードとファッションに費やした時代があって、いろいろ自由にいきてみたものの死を目前にしたことが何度も重なることがあって、サラリーマンをやって、一人で暮らして、全ての所有物が失火とともに灰になって物が全くない時期があって、シンガポールでアホほど贅沢な暮らしをして虚しく感じた時期もあって、給料を半分に下げてベンチャーをやって、自分たちに賭けて何億も投資してくれる人たちに出会ってありがたさや暖かさを感じて、ビジョンはあるものの大金儲けもしようと思ってやったけどそんなうまくいかなくて。

そんな紆余曲折をしているうちに見えてきたことがある。

僕にとって今のところ最も賢いと思う「お金とのつきあいかた」はこんな風なことなんじゃないかと思う。



① 生活していくお金・大切な人や家族を最低限支えるお金
・・・ここがなくなったら、不安だらけで頭がお金に支配され始める。そうすると、ドケチになったり、自分に投資することがなくなったり、精神的に卑屈になって人を受け入れにくくなったり、盗みを働いたり。このラインは人によって違うと思うが、やはり最低限暮らしていき、安心をするためのお金。僕にとっては、月に30万円くらい。これは絶対に必要で、何が何でも死守するべきお金。

② 自己主張のために使うお金
・・・①以上のお金は持っていても、自分のために使っても意味のないお金。いい住宅に住む、別荘を買う、食事のときにむやみやたらに奢って人気集めをする、もてたいからかっこつける、いい車に乗る、いい女と遊ぶ。このお金をそうやって「自分のため」に使っていると、碌なことがないし、碌な人が集まらなくなる。僕はそういうお金の使い方を軽蔑するし、したくない。しても、僕みたいな人間は結局虚しくなるのがオチだ。

③ むやみやたらに節約・貯金するお金
・・・②はしなくても、今度はむやみやたらに貯金をすることもある。これは「お金に対する考え方」がなく、何か無知の恐怖に苛まれていることになる。自分で投資をしてリスクを取ろうともせず、環境からくるなにものかもわからないリスクに準備をする。これは自分自身の成長を止める。そして、なんか意味もなく全てにおいて節約・ケチをする。そうすれば、ケチな人間は嫌だと思う人もでてくる。人間関係も狭くなる。最終的に死ぬ間際にお金が手元に残る。遺産争いが起こる。だから、結局は意味がなくなるだけじゃなくて、悪影響が大きいと思う。

僕は今までこう思っていたし、だから①しか要らないと本気で思っていた。
あとは、②が嫌なので、弱③に自然になる。こんなお金とのつきあい方をしていたと思う。

それがいいと思っていたし、だからお金なんて最低限あればいい。多くは要らない。
多くをもって、金ばかり追いかけることは意味がないだけでなく、害になると思っていた。

そんな風に思いつつ、でも、誘惑っていうのはやっぱりあって、自分で株を持って、ベンチャーをして、人から投資をしてもらった金なんだけど、これがうまくいったら「●億」はいくな。なんて妄想して、正直ニヤツいちゃうこともあったわけだ。捕らぬ狸の皮算用は一番にやにやできるマスターベーションだよ。

成功したら、金儲けてなんか人生変わるかも。なんて、自分には手にもしたことないし、想像もしたことがない億っていう単位の額のお金が自分たちに現実に動いた瞬間に、ちょっとお金に目が眩みそうなこともあった。

でも、そんなこと考えていても、そこから発想しても、
自分は本気になれないし、そんな考えを隣の誰かさんに話そうものなら軽蔑されることもあった。

そういうお金とのつきあいかたをしていたら、「お金」は離れていって、キャッシュが回らなくなる不安から、「何か金儲けをしてキャッシュを如何につなぐか」ばかりを考えざるを得なくなって、「自分の自由が離れていく」のを感じることもあった。

自由がないっていうのは、僕が本当に嫌なことNo.1であって、
俺はちっちゃいときに「俺は奴隷じゃないんだ!」って思いっきりみんながいる前で叫んだことがあって、それだけは記憶に鮮明に残ってて。だから俺は自由でいたい。

話は少し飛んじゃったけど、そんな経験から、お金はむやみやたらに追いかけても仕方がないし、いいマンションに住みたいと少しも思わなくなったし、おいしいご飯は吉野家の牛丼だし!そしたら「飲み屋で使う1万円は30牛丼か~♪」なんて、全ての食費を牛丼単位で冗談で数えたりもした。

そんな僕は、①を確保しながら、②と③の間をうろうろしていたのだと思う。

だから、消去法としての①+α。
「αってなんだよ!」って感じだけど、それはやっぱり②になったり、③になったりする。

そんなお金とのつきあい方をすればいい。②になりすぎず、③になりすぎず。
バランスを取って、「お金さんとはいい距離感をとる!」
それがいいと思うようになっていった。

だから、
「お金は(そんなに)要らないです。」
「僕はお金のために動きたくはありません。」
といういわゆるノマド的な感じ。

でも、最近のこと、僕はその考え方だけではないと思うようになった。

それは、「人助けのために使う、物事を起こすためのお金。」


人助けこそ最大のエゴかもしれないが、これは途方が暮れるほどお金がいるかもしれない。物事を起こすためのお金もいるかもしれない。

言い方を変えるならば、
「究極の自己実現をするためのお金」だし、「心からの大きな夢を叶えるためのお金」。

こんな言い方は悲しいけれど、
世の中は今まで歴史的に善意で動いてきたのか、それとも、「金と権力と戦力」で動いてきたのか。
という究極の質問をすれば、それは大局的にみれば、自分が如何に忌み嫌おうとも、正義ぶってみても、もう圧倒的に「金と権力と戦力で動いているぜ!」というのがたぶん正しくて、だから政治や国家、そして、その体制に巻き込まれている人の歴史や生活を決定しているものは、それは「金」であって、「権力」であって、「原子爆弾」だと思う。その枠組みで生きている人間個々をミクロでみてみても、結局は金の力に巻き込まれているっていうのが真実だと思う。

だから、僕は、貪欲に金儲けをしたいと思った。
それを、男気良く、「いいな~」って心が泣けるくらいのロマンに賭けたいぜって!

それまでに、Entrepreneurとしてのスキルを磨く。
そのスキルを使って、バコバコと人を巻き込む。
事業(=僕にとっては、事業はお金を効率よく人のために使う方法)をバコバコ作る。
そんで、幸せな笑顔をたくさんみて、俺も笑顔になる!

そんな風なのがいい。

戦争に使うお金だって、自己民族を守るためといってしまえば、「人のため」なのかもしれないけど、そんなレベルの話じゃなくって、それを、誰かと争うためじゃなくって、誰かに勝つためじゃなくって、「本当に人が幸せに生きる生き方」を追求して、それを実現するために使いたいって俺は心から思ったんだ。それを実現するために、エゴで貪欲な人間も「金」という道具でグイグイ巻き込んで、強か(したたか)に正しいと思うことを実現するんだ。そのために、お金というのはたぶん「非常に重要だ!」という現実的な見方をするほうがいいのだと思った。

だから、「お金なんて汚いぜ!」っていうのは簡単で、その逆は、「俺はキレイだぜ」っていってるのがせいぜいの自己満足で、それじゃ何も成せないだろっていわれたら、それは結構、現実的には「的を得まくっている」んだと思う。

そんな悔しい的を得た指摘をされるぐらいなら、
「俺がどこまで金儲けできるか全力で挑戦してやろうじゃないか」って思う。

いろいろ経験した今なら、
どれだけ貪欲に追求しても、今までの失敗は少なくとも繰り返さないし、お金を軸に生きる人間にはならない(=金の奴隷にはならない)自信がある。

だから、真っ正面から、お金ってやつに向き合ってやろうじゃねえかと。

①のお金だけはさっさと気合いを入れて貯めて、死なない準備をして、勇気を蓄えて、その間にめちゃめちゃすごいスキルを付けるんだ。あとは「人助けのために使うお金。」に全部惜しまず使う!

それがすっきりしてていいと思うんだ。

それが、僕が今思う「賢いお金とのつきあいかた。」
そうしたら、お金って言う神様は、自然と俺に微笑んでくれるはずだ。

最後に、こんな中国のことわざがあるそうです。
・お金で「家」は買えるけれど、「家庭」は買えない。
・お金で「時計」は買えるけれど、「時間」は買えない。
・お金で「ベッド」は買えるけれど、「睡眠(快眠)」は買えない。
・お金で「本」は買えるけれど、「知識(知恵)」は買えない。
・お金で「名医」は買えるけれど、「健康」は買えない。
・お金で「地位」は買えるけれど、「尊敬」は買えない。
・お金で「血」は買えるけれど、「命」は買えない。
・お金で「セックス」は買えるけれど、「愛」は買えない。

久しぶりにブログ記事をアップしてみます。
年始の記事で、ほぼ全ての本を捨てたことを書きました。

なんでそんなことをしたのか。
「本を捨てる」という行為の中で自分が感じたことを記録のために残しておくことにします。

本を捨てたときの感情は、「嬉しい」


本を捨てたときに、僕が持った感情は「嬉しい」でした。
不要なものが肩から降りた感じ。

その直後、尊敬する村上和雄先生のこんな言葉に出会いました。
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断捨離(だんしゃり)は実は、モノを通した思考の片づけなんです。そしてそれをするためには、モノの片づけ以前の価値観の問い直しが必要なんです。
取っておこうという気持ちがあるのは、そのモノに価値を感じているからですよね。
ではその価値について、本当にきちんと思考しているだろうか。どういう価値を感じてそれを取っておこうとしているのか。
そうして検証を進めていくと、例えば本の処分ができないのは、自分の教養が高いのを見せつけようと無自覚に思っていたからだと気づくかもしれない。
そうしたら、そんな形で自分の凄さを社会に証明する必要はあるのかってまた自分に問いかけるんです。

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本の処分ができないのは、自分の教養が高いのを見せつけようと無自覚に思っていたからだと気づくかもしれない。
というのはまさにその通りで、捨てるという行為を通して、自分がいかに自己顕示していたかを知りました。

そして、捨てることによって、自分が何か周りに対してしていたファイティングポーズを解いたような安心感と、「やっと俺捨てる覚悟ができたな」という嬉しさがありました。

物を捨てることを通じて自分の価値観を問い直す。
そんなことが嬉しかったという、そんなお話です。

知識を≪頭≫で理解するのはもういったんやめたい


もうひとつの本を捨てた大きな理由は、「知識を≪頭≫で理解するのはもういったんやめたい」

そう思っていたんだと思います。
本があるジャンルに関する知恵をくれたにしろ、人生における先人の知識だったにしろ、
そういうものを「知る」ことは、ある飽和点を超えれば、特に意味を成さないことを感じ始めていました。

ブログで何度か、「左脳どっかいけ!」みたいなことも書いたことがあったと思います。
僕自身、中途半端にそのような知識を手に入れることは、むしろマイナスだと感じ始めていました。

こんなことを先日のブログで書きました。
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リーダーシップやいろんな知識・スキルなど含めて、何かを身に着けようとするよりは、
やりたいことをとにかく行動に移して、壁にぶつかって、それを超えるために仲間に助けを求めることが大事だと僕は思いました。

何かを身に着けようとするよりは、
放して捨てることが大事だと僕は思いました。

人を批評するよりは、
自分を徹底的に批判して、それで泣きそうで悔しい自分をバネに前に進む方が大事だと僕は思いました。
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知識を無駄に手に入れることは、ただ≪頭≫で理解しているだけなのに、あたかも自分がそれを知って、「実際にできている」ような錯誤に陥ることがあります。
それが、僕のような若造にとってみれば、上から目線の温床ですし、知らず知らず「批評をする」という行為につながってきます。

なんだ、あの人はこんなことも知らないのか?
なんだ、あの人はこんなこともできてないのか?
なんだ、日本にはリーダーがいないじゃないか?
なんだ、日本はやばいぞ。海外に逃げよう!

とか、いろいろ言われていますが、正直そのどれもが「自分自身が生き生きと生きる」という究極の問題に対してはなにも関係のない事項です。
それらは、「他人(環境)がどうあるか」の問いでしかなく、「自分自身の改善への問い」となっていません。

≪頭≫で理解していることをベースに人を批評するのはある種、卑怯で恥ずかしいことだと僕は思います。

民主党がどうだ!とか、それは頭で理解してそういっているのだろうけど、本当に心底感じていることなのか?
本当に心底、日本の将来に対して強い思いがあるのであれば、何か僕は、僕自身はそのために心から何ができたのか?

この問いが重要だと僕は思います。

ここまで書いてすぐ、また糸井重里さんのこんな言葉に出会いました。
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あのね、ま、言いづらい話なんですけど、世の中には「頭のいい人になりたい人」というのがすごくたくさんいてね、多くの場合、
その人たちが迷惑をかけるんですよ。なぜかというと、頭のいい人になりたい人たちは、すごく頭のいいことを考えて、みんながそれに従えば世の中がよくなると思ってるんです。
で、法律や、決まりや、マニュアルをたくさんつくる。それに従えば幸せがやってくると思って。
「1、こうするといいぞ」とか、書くんです。でも、みんなは、頭のいい人の思惑を外れて、
「えっと、4番はなんでしたっけ?」とか、「俺、じつは読んでないんですよ」とか、「まぁ、いいじゃないですか」とか言うわけです。
そうすると、頭のいい人になりたい人たちは、「どうして大衆ってバカなんだろう」ってもう、涙を流しながら思うんです。
「だから戦争が起こるんだ」とか言うんです。でもね、彼らが言うようなことが、世の中を変えたことは一度もないんですよ。
まあ、変える手伝いくらいにはなるにしても、本当になにかを変えるようなものっていうのは、「こっちのほうが美味しかったぞ」とか、「つかってみたら便利で、もう戻れないや」とか、
そういう「事実が先に突っ走ったこと」ばかりで、決まりやルールは、あとからできるんです。

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引用元:http://www.1101.com/miyamoto/2008-02-05.html

僕が初めて就職したときに、尊敬する上司に言われた言葉があります。
「自分のことは頭で考えなさい。人のことは心で考えなさい。」

その思いが現れたのが、この言葉でした。
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自分のことは自分の想いに従えばいいけれども、相手がいることに関して感情で物事を処理していくことは、
相手を信じることを諦めていることと同意であり、思いやりをもって相手の心に寄り添うことが大事だと僕は思いました。

みんなを幸せにしようとするよりは、
ひとり、ひとり、ひとり、ひとりを大事にするほうが大事だと僕は思いました。
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相手の心に寄り添いたい。相手の気持ちを腹から理解して、ひとりひとりの想いを大事にしたい。
そう思うような変化が去年はありました。

知識のインプットは、今は一旦できる限り封鎖します。
そして、徹底的な自己批判、相手の気持ちに寄り添う感性を磨くこと、それらを通じて、自分が感じたことに圧倒的な行動を起こしたい。

そんな思いを込めた、「本を捨てる」でした。



最後に、坂上真民さんが残した「本もの」という言葉を残しておきます。

本もの
本を百万巻読んでも
本ものにはなれない
本は頭を肥やすが

足は少しも肥やしはしない
足からきた悟りが

本ものである

坂村真民
あけましておめでとうございます。
去年が「あっ」という間に過ぎ去りました。
今年も「あっ」という間に過ぎ去ると思います。

今年の終わりには、「また一段変化した自分」に出会える!
今年の終わりには、「今の自分を振り返って、若いなぁ!と笑える」!
それが成長だと僕は思います。



ちなみに、去年のテーマは「自捨新生」「他喜」でした。
思いつくままに、去年の学びを記録しておきます。

他人のために行動しようと思って、自分を抑えて頑張ることより、
おてんと様に見られてはいけないようなことだけは気を付けて避けながら、全てのエネルギーを何かを起こすための行動に掛ける方が大事だと僕は思いました。

人に認められることを求めるよりは、
自分の魂が呼ぶ方向へ素直に進むことが大事だと僕は思いました。

自分の鎧をかぶって大きく見せるよりは、
等身大の自分を悔しいと思いつつも、しっかり見つめ(け)ることが大事だと僕は思いました。

リーダーシップやいろんな知識・スキルなど含めて、何かを身に着けようとするよりは、
やりたいことをとにかく行動に移して、壁にぶつかって、それを超えるために仲間に助けを求めることが大事だと僕は思いました。

リーダーシップやいろんな知識・スキルなど含めて、何かを身に着けようとするよりは、
とにかくいつでも笑顔で、すっとんきょなくらい明るくポジティブにいることに力を注ぐ方が大事だと僕は思いました。

何かを身に着けようとするよりは、
放して捨てることが大事だと僕は思いました。

人を批評するよりは、
自分を徹底的に批判して、それで泣きそうで悔しい自分をバネに前に進む方が大事だと僕は思いました。

将来のことをいろいろ考え,迷いながら、方向を吟味して定めて生きていくよりは、
どうせ結果なんてわからないんだから、ある種無理矢理に腹決めをして、今の自分の想いにまっすぐに生きる方が大事だと僕は思いました。

難しいことよりは、簡単なことが大事だと僕は思いました。

たとえ、何らかの周囲の批判があったとしても、それはあまり重要ではなく、
自分にとって大事な人に信じてもらえているか、自分自身が信じているかどうかが大事だと僕は思いました。

あれこれ迷っている時間はあってもいいけれど、もしそれを何かしら正当化しようとしている自分が一瞬でもあるのであれば、
その時間は、すぐに腹を決めて、すぐに行動に移して、すぐに試してみる方が大事だと僕は思いました。

みんなを幸せにしようとするよりは、
ひとり、ひとり、ひとり、ひとりを大事にするほうが大事だと僕は思いました。

自分のことは自分の想いに従えばいいけれども、相手がいることに関して感情で物事を処理していくことは、
相手を信じることを諦めていることと同意であり、思いやりをもって相手の心に寄り添うことが大事だと僕は思いました。

人生で起こる成功も失敗も、起こるべくして起こっていると僕は思いました。

自分だけが悩んでいるわけではなく、すぐ隣にいる人も、すごく遠くにいる人も、みんなそれぞれ悩みを抱えて生きている。
だからこそ、自分の悩みに悩んでいるよりは、周りの悩みに寄り添える方が大事だと僕は思いました。

なにもかもに対して、「ああしたい、こうしたい」と思うのではなく、
むしろ大体のことに関しては、「まあいいか」と受けいれ、本当に大事なことだけに心を燃やすことが大事だと僕は思いました。

自分の想いを伝えて、みんなに共感してもらうのではなく、
みんながやりたいことを実現していく中で、「こうしたらいいんじゃないかなぁ?」と思ったそのスパイスが大事だと僕は思いました。。

変でも真面目でもなんでもいいのだけれど、何事も暗いことはあまりよくなくて、
とにかくバカでポジティブで明るいことが大事だと僕は思いました。

自分の人生をこうしたいと構えるのも可愛いけれど、
自分の人生なんて別にどうにでもなるよ。と構えない生き方も素敵だと僕は思いました。

流れを作ろうとするよりは、
流れはそこにあるのだから、ほとんどの場合、そこにのることが大事だと僕は思いました。

「私は私だ!」といっているのもいいけど、
「私は別に誰でもないからスキニシテ」と半ばドM的に僕は思うようになりました。

いろいろロジカルに考えて自分の正しさに頼っていきるよりは、
なんかわからんけど、アホなほどに狂っている瞬間が輝いていると、僕は思いました。

目の前のものに対して、「これはどうか?」と分析・批評するよりも、
「なにこれ~~!???」と笑顔で好奇心むき出しなほうが可愛いと僕は思いました。

僕は自分が意思を持って生きているというよりは、
生かされているのだと僕は思いました。

僕が思っていることは、
《ただ、僕が思っていること》だと僕は思いました。

僕は、運が死ぬほど強いので、
なにをやってもうまくいくと僕は思いました。

僕は、いろいろやりたいことがありましたが、なにかやりたいことはと尋ねられるならば、『偉人』になりたいと僕は思いました。

偉人になりたいというよりは、偉い人に。偉い人というよりは、偉いことをたくさんしたいと僕は思いました。

人に役立つ偉いことをたくさんして、人に感動してもらえるようなストーリーを、たとえばみんなに伝わる形で遺してもらえるくらい、ワクワク面白くってそれいいよねっ!と感じられることを沢山したいと僕は思いました。

大事にとっていた本をほとんど捨てました。
それらは、僕には不要だと僕は思いました。

それらの知識は僕の道しるべとしては役に立ったかもしれないけれど、
僕の行動を喚起するのには邪魔になるかもしれないから。

今年のテーマは
「シンプル」「明るく狂う」で決めました。

「本当に大事なものだけ」にシンプルに目を向けて、
心からの「熱狂」を込めて「明るく」!

肩が痛すぎて腕があがらない年末のつぶやきでした。
自己反省も含めて、大事なことなので書き留めておきたい衝動からブログに向かってみています。

僕自身、
人を信じることに対する許容力がもともとは強いとはいえない。と思う。

どちらかといえば、自分が頑張って、自分が周りを引っ張って、周りがついてきて、
逆に言えば、「頑張らないヤツはダメだ。」という思考回路を持った生き方を高校時代からしてきていたんですね。

ある種、他人に対して「なんでやらないんだ」という怒りがあったり、「やる気がないなら、もういいよ」と諦めたり。

よく部活にいる、熱血系の人いるじゃないですか。
僕の場合はサッカーでしたが、試合に際しては大声で怒鳴り、負けては泣き・・・
「ちゃんとやれよ!」とはいうのが口癖の人。

もとはと言えば、僕はそんな人間です。


でもね。

やっぱりそのやり方では、大きなことは成し遂げられないんです。
そのことが、ここ数年でジワジワと身に沁みて感じるようになりました。

早く行きたいなら一人で行け、
遠くに行きたいなら仲間といけ。


この言葉は、たまに僕に大事な注意を与えてくれます。

たとえ、
仲間が少しさぼっているように見えたって、それがもし少し本当にさぼっているのかもしれないとしても、それを批判しても何も意味がない。

たとえ、
仲間が真剣に物事に取り組んででいないように見えたとしても、それが本当かどうかは全く知りようもないし、それを批判しても何も意味がない。そして、それが真実であったとしても言及することに意味はない。


批判することから得られるものは、その場の自分の優越感だけ。
逆に、批判する気持ちは、相手・仲間を信頼する気持ちを遠ざけるだけ。

それも自分からだけじゃなくて、お互いにね。


人を批判する時って重大な盲点がいくつかあるんだな~と思います。

相手を批判する気持ちを持つっていうことは、
①自分のメガネをかけ違えている可能性が高いのにそのことに気付いていない
…そのメガネとは、相手が間違っていて自分が正しいといういかにも自己中心的なメガネ。相手の状況を完全に偏見で見ることにつながり、そうなのに自分の感情的な衝動を優先することになります。その視点でものを捉えている癖が抜けない限り、物事はまともにみえないかもしれません。

②行動を伴わず、問題を解決しないのに、問題を解決した気になる。
…批判するという時点で、相手への信頼を諦め、相手も信頼を諦めるきっかけを作ることになるけれど、批判をしている時点でそれは即ち「解決への行動」を諦めていることと非常に近いです。むしろ、解決を遠ざけていることになってしまうかもしれません。

③結果として協力を得られない
…自分の気持ちは解決しますが、結果として協力は得られなくなり、遠くにいくことはできにくくなってくるかもしれません。

つまり
批判というレンズでものを見ているときは、
「正当な視点」「問題解決への行動」「信頼の構築」

全てにおいて「諦めている」だけ。
というのが本来の姿なのかもしれません。



その重要なことに気付かないでいると、相手の気持ちを考える余裕もないまま、
自己優越の妄想に浸り・溺れながら、信頼は知らず知らずの内に遠ざかっていくし、
結局のところ大事は成し遂げられません。

僕自身の沢山のイタ~イイタ~イ経験を通じて、
やっと心に沁み渡るように、そう思えるようになってきました。

じゃあどうすればいいかっていうのは分かりませんが、少なくとも
・自分に非がないかどうかをみる
・解決への行動をする
それしかないのだと思います。

その一連の心の動きは、感情的になっている時点では、
「遠回りをする」ことに見えますし、その場の「自分の気持ち・感情を我慢する」ことでもあり、いいことなしのように見えるかもしれません。

「ある種の怒り」で進んだ方がよっぽど近道だろうし、合理的に思えるかもしれません。

でもやはり、
「ある種の怒り」をもった瞬間に、「自分が前向きな努力をしていない。」
ということであることを見失っているという厳然たる事実=盲点を意識しなければ
大事な一歩は始まらないかもしれません。

それならば、その盲点を心に留めていたいし、そこから「解決への努力を放棄しない」ことを忘れたくありません。

私は、それを仲間に指摘されてから、徐々にですが気付きました。

最近、もちろん完全にというわけではないですが、怒りの気持ちを持つことは、10分の1くらいになりました。

でも、前向きな努力が本当にできているのか?と問われれば、
まだ人を心の中で「批」したりしてしまっているのだろうし、
それは本当に本当にもったいないことだな~としみじみと思いました。

だから、これは自分への反省分です。
心に留めておきたい気持ちをつれづれなるままに書きとめてみました。