長らく放置されていた当ブログも、久々に更新です。

大量のスパムコメント&トラックバックも駆逐しました。

今日は、神に関する思考実験です。


特定の宗教を意識しない意味で、例えば論理学の思考実験にしばしば現れるような「神」は、我々人間を超越したものとして描かれる。

私たちの世界とは別の次元に存在しており、この世界を作り出すなど、人知を超えた能力を持っている、などである。


このように、私たちのメタ次元に存在するものとしての「神」は我々には理解できないという規定により逆に扱いやすいものとなっている。たとえば、電気や雲に関する知識が無くとも雷が轟く理由を語ることができるし、生物の起源や、道徳の遵守といったものに理由をつけることができる。


神を用いて何か考えようとする時、こういう神のありようは便利である(思考実験においてあらゆる確率を見透かせるような存在がいたとして、この状況における判断は~などである)。しかし、神について何かを考えようとする時には、こういう神は自由すぎる。要は、メタ次元の存在としての神についてはいかようにも語りえないために、いかように語っても良いということにしかならないのである。


そこで、このメタ次元の存在を我々の次元に叩き落してみることにしよう。すなわち、この地球に我々が生まれたように、神もまた私たちと同じ宇宙に生まれたのだ、と言う具合だ。

或いは、こうも言える。私これから、神になりたいのですがどうしたらよいでしょうか、と。


そんな私は、現代の科学ではまだ不満かもしれないが、分子生物学者になるのが良いだろう。

人間より優秀な生き物を創ろう。

人間より頭がよく身体能力に優れ繁殖が早く、より広範な環境において生き延びることができる。この新生物がめでたく人間を駆逐できれば、私は神だ。この新生物の生みの親に間違いない。

はじめに創った数個体が私に創造者としての尊敬を示せば十分である。この仕組みにおいては、神が被創造物に対して優位である必要が無い。


我々人間が優秀なのであり、優秀であるが故に神を得たという考え方も可能なのではないだろうか。


ところで、被創造物たる新生物が、彼らに劣る生みの親を淘汰するということもあるのではないだろうか。

あの怪物を産み出した、フランケンシュタイン博士は神のなりそこないであったかもしれない。

ギリシア神話の一節に、パンドラの箱に関する物語がある。
細かいストーリーは省略するが、今回取り上げたいのは次の部分である。


パンドラは、ゼウスから決して開けてはならないといわれていた壺を開けてしまう。
すると、壺の中に入っていたあらゆる「悪」が人間界に飛び出してしまった。だが、パンドラが慌てて壺を封じたために「希望」だけが逃げていくことはなかった。
(日本語では、パンドラの「箱」という表現をよく見かけるが、ギリシア語の壺(pithos)であったようです。)


今更ながら突っ込みたいのですが、これっておかしくないですか?


「悪」が壺から出て人間界に充満したのならば、「希望」も壺から開放されてこそ人間界に満ちるのではないだろうか。壺から出るという現象が「悪」については人間界に広がると解釈され、「希望」に関しては逃げると表現されている。壺から出るということの意味は斉一でなくてはならないのではないだろうか。


私は、この斉一性を保った良い解釈をひとつ知っている。上遠野浩平という作家がブギーポップシリーズの「パンドラ」という作品の中で登場人物に語らせた内容である。
私のようにつまらないことにこだわらなくとも、パンドラの寓話の解釈のひとつとして紹介に値するものと思う。
その内容は概ね以下のようなものである。


パンドラが箱を開けてしまうと、中からありとあらゆる「悪」が出てきて、人間界に飛び散ってしまった。この時より人間は「恨み」「嫉妬」「貧困」・・・今日ある様々な「悪」に苦しめられることとなる。
だが、慌てて箱を閉じたパンドラによって、箱の一番奥に眠っていた「最大の悪」が人間界に飛び散ることだけは避けることができた。
その「最大の悪」とは何か。それは「未来」だという。
これにより、人間は明日何が起こって、その後どうなるといった未来を知らずに済んだのである。
どんなに苦しい状況に置かれようとも、きっと明日はいいことがあるのではないかと、根拠もなしに信じていられるのはこのためだ。
「明日は何か良いことがある」この感覚こそ「希望」である、と。


希望とは、いつでも持ち得るが、しかし実に頼りないものだと思う。この表現はそうした希望の希薄さをよく捉えているのではないだろうか。


私がこの本を読んだのはもう10年近く前になるが、この表現はひときわ心に残っている。パンドラの話が出たときは必ず思い出すし、何より「希望」の確かなイメージとして私の中に住み着いている。


おまけ。
知ったかぶりの量子力学で壺から出ることの斉一性を考えてみよう。


思うに、壺の中に入っていた「悪」や「希望」は何かの素粒子みたいなものではないかと思う。
そこで、その素粒子の波動関数は善と悪の2つ状態をとる自由度を持っていると仮定する。
ちょうど、フェルミ粒子の波動関数がその交換に関して反対称であるように、「壺から出る」という現象に関して、善と悪の交換により反対称化するのではないだろうか。
かくして、「壺から出る」という現象は「悪」については地上に存在することを意味し、「善」については地上から消えてしまうことを意味する。


(うわ、適当。世界中の物理学者に申し訳ない。)
(まあ、いいじゃん。)
with music "ロストマン" by Bump of Chicken


この世界がなくても成立するのが「数学」

この世界が存在しないと成立しないのが「科学」


*先日TVで見た宇宙物理学者のコメント

 太陽系形成に関する現在の学説では、惑星が形成されたとしても太陽に向かって落ちていってしまい、今のような安定した周回軌道を持つ太陽系は形成されないらしい。

 「学説が間違っているのか、この世界が幻かのどちらかですね。」

だってさ。

四畳半を広げたくて、プラネタリウムを作った人がいました。


今日、そんな彼と同じことをしました。


照明を買いました。
行きつけの雑貨屋さんで。


まるいの。
中に小さい地球儀が入っていて、スイッチを入れるとゆっくり回転する。
地球儀の大陸の部分が陰になって、外側の球体のカバーに映るのです。
光の中に地球が浮かんで、
ゆくっりぐるーんと回転するのです。


私の部屋が特別の宇宙に変わる。
そんなプラネタリウム。


(「プラネタリウム」Bump of Chicken)

「おもいでエマノン」

梶尾真治先生の小説のタイトルです。
(エマノンは"No Name"の逆さ綴りです。)


短編連作形式のこの小説は、各章のタイトルが必ず
ひらがな四文字の和語 + カタカナ語
となっています。


お気付きかもしれませんが、このブログのタイトルは
四音の漢字 + カタカナ語(カタカナで書いた英語)
という形で付けることが多いです。
それはこの小説を意識してのことなんです。


さて、何の話をしたいかというと…


私は時々歌詞を引用しますが、文字って歌詞しか伝えられないじゃないですか。
メロディーとか、歌い手の微妙な加減とかそういうが欠落してしまう。
これがとても残念なのです。


そんなことを考えると、和歌ってすごいなと思ったんです。
五・七・五(・七・七)
は、ほとんどの日本人が知っていて、そのリズムが保存されています。
だから、文字としての詩が同時にメロディーを持ってるのではないか、と。


ところが、これは謂わば時間の重みとでも言いますか、そういうものが必要なのです。
新しい形式を私がつくりました!といっても、誰もそのメロディーを知らないのです。


ここでエマノンの話に戻るのですが、
(そしてもしかしたら私の思い込みかもしれないのですが…)

四音の日本語 + カタカナ英語
というのは、とっても不思議な響きをもっています。


四音の日本語部分は
低・高・高・低(日本語の高低アクセントで)
さらに、後半のカタカナ語部分は第一音にアクセントが入る(強弱アクセントで)


英単語は第一音にほぼ必ずアクセントが入ります。
さらに、日本語は高低アクセントであるのに対し、英語は強弱アクセントです。


日本語の読みに続いて、英語アクセントを自然につくるというのは。
この四音和語 + カタカナ語の形式はそんな不思議な形式なのではなかろうか、と。


これって、実は詩歌が行ってきたメロディーの保存に通じるものがあるのではないか、と思うのです。
だからこの形式のタイトルが好きなのです。
四音目と五音目の間でちょっと舌がつっかかる感じが心地よいのです。


最後に、エマノンシリーズの中で、私が最も好きなタイトルを引いておきます。
「しおかぜエヴォリューション」

1 + 1 = 2 を証明せよ。


2年前、記号論理学の講義で一度だけ聞いたことがあります。
ずーっと憶えていましたが、最近まできちんと解釈できなかったんです。
ただ、ようやく最近こんな意味だったのかなというところまで分かってきたので自分なりの解釈で書いてみようと思いました。


1 + 1 = 2のような単純な命題ほど、証明という言葉の意味が難しくなってしまうものです。
問題は、証明が何に依拠して良いかということ。
まあ、この辺もいろいろあるみたいです。(何の命題にも依拠しない体系というのも主張されてたりするみたいですよ。良く知らないけど。)
今回はあまり気にしないでなるべくコンパクトに証明するという方針で・・・。


まずは問題を整理しよう。


問題はあくまで 1 + 1 と 2 が = であることを証明するものです。


当たり前ですが、これは重要なことです。
何かというと、1,2,+,=は先に定義されていないと問題が成立しないということです。
(つまり、例えば 2 を 1 + 1 で定義するというような体系は認められません。)

というわけで、
前提1.「自然数列」は存在する。(1, 2, 3, 4, 5, ....)


もうひとつ、数学よりも根源的な感じがする前提を用います。
前提2.「次」という概念が存在する。


それでは証明のはじまり~。


前提2より、
ある x について、その次のものを呼び出す関数S(x)を定義し、これを後続者関数と呼ぶ。
(※後続者関数 : 例えば、S(a) = b, S(b) = c, エ = S(ウ) = S(S(イ)) = S(S(S(ア)))みたいな感じです。)


一方、P(x) = x + 1 という関数を考える。


ここで、自然数列の要素 n について、
関数Sを作用させることと、関数Pを作用させることは同義なので、
P(n) = S(n)
n = 1 を代入して、
1 + 1 = 2
であることが証明された。


こんな駄文に最後まで付き合っていただいて申し訳ありません。


えっと、もうちょっと直感的に書いてみますね。


「あ」の次は「い」みたいに、数学的な意味を排除して「1」の次は「2」なのですよ。
一方、未だ計算されてない 1 + 1 というのがある。
で、たまたま自然数に関しては次の数を呼び出すということと、自然数の足し算における +1 するということが対応している。
故に、ある数 1 に +1 することと 1 の次を呼び出すという行為が等価である。
というわけで、1 + 1 = 2 が証明された。


う~ん・・・微妙。
一応、自分では分かっているつもり。

“私”の一番端には壁があって、それがぐるりを囲んでいる。
“壁”は自分の目線よりも高くて外を見ることはできないし、登って外へ出るにはあまりに高いが、といって無限に高いわけではない。
私の手は“ボール”を握っていて、そのボールを投げて“相手”とコミュニケーションをとることができる。


自分ひとりのとき。私は壁に向かってボールを投げる。(何せ、外に投げてもボールが返ってこないんじゃ、仕方ないからだ。)
ボールは壁に当たって、跳ね返ってくる。自分の投げる強さと、角度次第で、さながら力学の答案のように、予想通りに戻ってくる。


他人が向こう側にいるとき。壁の向こうにボールを投げると、相手が投げ返してくれることがある。或いは、投げ返してくれる人がいる。
他人に向かって投げたボールは、相手の都合で返ってくるから、強く投げてもふわっと返されるかも知れないし、呼応して強く投げ返してくれるかも知れない。
自分の手の位置にしっかり返ってくるときもあるし、明後日の方向に飛んでいったボールを自分で拾いに行かなくてはならないときもある。


ただ、外側に出て行ったボールが帰ってくるのは面白い。


他人に投げたボールは、自分を囲う壁の外側に出て戻ってくる。自分の内側に(ちょっとだけ)外側を持ち込んでくれる。
そうして、私の内側は広がっていく。
自分の壁のすぐ近くに、汚いものや美しいものがあったことを知る。そしてそれが最初から自分自身であったことを知り、そうした美しいものは自分の外側で誰かが面倒を見てくれていたものだと知る。
少し遠くなった壁に投げるボールは、ちょっとだけ違う軌道で跳ね返ってくるようになる。

すぐに慣れてしまうけれど。


こうして私は成長していく。

もう少し続きがあるんだ。


前回は、まるで静物画のような一場面を、絶対に起こらなくてはならない事件と呼んだ。

だが、もう少し拡張してみることができる。


床にりんごが転がっている。

 ↓

床にisleの落としたりんごが転がっている。


状況が、自由意志を属性として内包している。

また、ちょっと自由意志は拘束される。

今、床にりんごが転がっています。


・・・しました。
その後、・・・しました。
その後、あなたは手にりんごを1つ持っていました。
その後、あなたがりんごから手を離すと、りんごは落下を始めました。
その後、りんごが床に落ちました。
今、床にりんごが転がっています。


今、床にりんごが転がっています。
その前に、りんごが床に落ちました。
その前に、あなたがりんごから手を離すと、りんごは落下を始めました。
その前に、あなたは手にりんごを1つ持っていました。
その前に、・・・しました。
・・・しました。


今、床にりんごが転がっています。
そのりんごは、あなたの手から落ちたものです。

あなたが落とした故に、りんごが転がっているのでしょうか?

それとも、
ここにりんごが転がっているべくして、あなたはりんごを落としたのでしょうか?


この世界には、絶対に起こらなくてはならない事件Xがあるとします。
この事件以前は、自由意志さえも、事件Xを起こすべく限定されています。
この事件以後は、自由意志は真に開放されます。


事件Xのはるか以前なら、文字通り自由意志があるかのように振舞えるかもしれません。
(事件Xにむけた軌道修正の余地があるからです。)
しかし、事件Xの直前には、ほとんど自由でなくなるでしょう。
そして事件Xの後は、どんどん自由の度合いが拡大していくでしょう。



今、私はこの文章を書き終えました。
私がこの文章を書かない自由もあったはずでしたが、確かに書き終えました。
私は、この文章を書くことを自分で選択したのでしょうか。
それとも、この文章が書かれるべく、私はキーボードに向かわねばならなかったしょうか。
この文章が書かれなかった世界は果たして可能だったのでしょうか。