Thinking every day, every night

Thinking every day, every night

夢想家"上智まさはる"が人生のさまざまについてうわごとのように語る

今年もあっという間に終わってしまいました。

 

この1年間でアップロードが年賀状を合わせて2件という情けない状況でお恥ずかしい限りです。

最後に駆け込みで1件アップしましたが。

 

今年の個人的な一大トピックとしては、我が家(家屋)が崩壊寸前だったため、なけなしの金をはたいてお家を建て直したことがあります。

これが予想はしていたものの、思いの外たいへんで、ブログを書く余裕を全く失ってしまったばかりか、「おつり」をもらって心身ともどっぷり疲れ果ててしまいました。

 

とはいえ、おかげさまでこの冬、無事に新居に引っ越すことができ、何年かぶりに、ぬくぬくとした年末年始を迎えることができそうです。

 

というわけで、来年は今度こそもう少しいろいろなことにチャレンジできそうに思います。

(本当かな〜笑)

恒例のクール毎のTVドラマ評も最近はなかなか上梓できていませんので、1年分まとめて総評としてまとめてみました。

ただ、もはや年越しまで時間がないので、ほとんど結果だけを書き止めることになりそうな点、ご容赦ください。

まあ個人的なメモ書きと思っていただければ間違いないと思います。

 

◾️総評

 

◆「1.x 番手」若手女優たちのブレイク!

今年のテレビドラマの総括としては、「2番手」と目される若手女優たちが光り輝いた/見事に脱皮した1年といえるのではないでしょうか?

 

「2番手と目される若手女優たち」とは、具体的には、以下のような方々です。

 

飯豊まりえ 『何曜日に生まれたの』

堀田真由  『たとえあなたを忘れても』

松本穂香  『ミワさんになりすます』

高橋ひかる 『ハレーションラブ』

 

プラスアルファで以下も?

桜田ひより 『あたりのキッチン!』

森川葵   『褒めるひとと褒められるひと』

生見愛瑠  『セクシー田中さん』

      『日曜の夜ぐらいは...』

 

いずれも主役を何度も張っていて、十分売れている役者さんなのですが、どちらかというと、主人公の親友とか恋敵とか脇役的な印象があり、誰もが両手をあげて「ブレイクした」と言えるには何故か今ひとつ達しているとは言い切れない感じです。

 

熱烈なファンの方々にすれば「いやいや2番手じゃなくてとっくに1番手だよ」と苦言を呈されるかもしれません。

であれば「1.x 番手」とでもしておきましょう。

 

そんな若手女優たちが、これまでにないほど光り輝き、魅力を振り撒いていました。そして今回の成功が彼女たちに自信を与え、より一層の輝きとなって、次の作品に活かされるのではないでしょうか。

 

◆社会に適応できない人々が居場所を見つけていく物語たち

いわゆる「普通の人々」の集団から疎外され、生きづらく感じている人々が、周りの理解ある人々にも支えられて居場所を見つけていく物語が多くみられた1年でした。


◎『いちばん好きな花』

◎『セクシー田中さん』

◎『日曜の夜ぐらいは...』

◎『初恋、ざらり』

◎『たとえあなたを忘れても』

◎『君に届け』

 

◾️ドラマ大賞

◎『何曜日に生まれたの』

飯豊まりえさんが光り輝いていました。

いわゆる「こもりびと」が周りの愛情にも支えられて自らを解放していく過程を複層的に丁寧に描きましたが、それより何より飯豊まりえさんの魅力を最大限に引き出すことができた点が成功の鍵だったと感じます。

 

◾️ドラマ準大賞 / 企画賞

◎『ブラッシュアップライフ』

手垢が染み付いた「繰り返し生まれ変わり」ものを、見事な企画力/構成力で斬新な作品に仕上げた手腕にあっぱれ!

「今度はこう来たか」と感嘆することしきり。

 

◾️上智まさはる特別奨励賞

◎『たとえあなたを忘れても』

◎『ミワさんになりすます』

◎『セクシー田中さん』

◎『褒めるひとと褒められるひと』

 

◾️意欲作だが好みが分かれるで賞

◎『いちばん好きな花』

◎『波よ聞いてくれ』


◾️優勝作品賞

◎『コタツがない家』

◎『あたりのキッチン!』

◎『日曜の夜ぐらいは...』

◎『初恋、ざらり』

◎『彼女たちの犯罪』

 

◾️その他の佳作
◎『しょうもない僕らの恋愛論』

◎『この素晴らしき世界』

◎『リバーサルオーケストラ』

◎『くすぶり女とすん止め女』

◎『最高の教師』

◎『VIVANT』

◎『ばらかもん』

◎『君に届け』

 

◾️ツッコミどころで話題を提供したで賞

◎『真夏のシンデレラ』

◎『ONE DAY〜聖夜のから騒ぎ〜』
 

※注目の男優、女優も描きたかったのですが、時間切れで、また次の機会に譲ります。

 

以上です。

せっかく韓流ドラマにはまったのなら、一石二鳥で歴史も勉強しちゃおう! ということで、韓国歴史物ドラマと韓国・日本の歴史年代の対応表を作成しました。

※更新して ver.15.0 としました(2023年9月1日)
・以下の作品を追加。

  『赤い袖先』

 

<拡大して見るか、ファイル・ダウンロードしてご覧ください>


※なお、破線で区切って列挙した作品は同時期に属します。
スペースの制約上、厳密な前後関係までは表せていません。

以上です。
 

2022年最後の日になり、あらためて振り返ってみると、この1年間にたった1件しか投稿できていなかったことに愕然!

こんな事態に至った原因を考えるに、やはり本業(IT稼業)が多忙を極め、毎日夜遅くまで残業を余儀なくされ、土日にも仕事をひきづってしまう一年だったことが挙げられます。

 

とはいえ、仕事だけにかかりきりになっていては、それこそ鬱とかノイローゼとか胃潰瘍なんかになってしまうので、仕事が終わって寝るまでの少ない時間を自宅カラオケの時間にあてて、何とかバランスをとる毎日でした。

 

自宅カラオケと言っているのは、具体的には「カラオケ@DAM」というスマホアプリのサービスを年間契約して、布団にくるまって防音室がわりにしてひたすら歌いまくることです。

 

そうやって日々を繰り返すうちに気がついたら今日に至っていた次第で、自分の思いを記事に具現化する熱量は残っていませんでした。

 

この状況が変わる要因は今のところないのですが、恐ろしいのは、新たなものを吸収する余裕がなく、今あるものを消費していくだけの先細り人生になってしまうこと。

 

この状況を変えて、新しいものを吸収できれば、それがイコール新しいブログ記事にもなるわけで、何とかして状況を打開するすべを見つけたいと考えている今日この頃です。

 

この1年間、なかなか更新がままならないこのブログをずっと忘れないでいただいた皆様には感謝しかありませんが、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

「過去記事を甦らせよ!」シリーズ第12弾!
当記事は、2011年12月10日(土)投稿の記事の再掲載です。

今日は長いよ! 難しいよ! 覚悟して読み通してみてね♡

バナッハ=タルスキーのパラドックスをご存知でしょうか?
これはれっきとした数学上の定理なのですが、ここから導き出される解釈があまりにも信じがたいものであるがために、「パラドックス」と呼ばれています。

■1.パラドックスの内容

数学の定理としての「バナッハ=タルスキーの定理」は当然のことながら、一般人には全く理解不能の純粋な数学的証明から成っていますから、ここでは触れないことにして、世間でパラドックスとして知られている内容をご紹介します。

※証明をどうしても見たい方はこちらにあります。証明はユークリッド幾何学に群論と集合論(特に選択公理)の知識を適用して行います。

バナッハ=タルスキーのパラドックスによると、

「ビー玉を有限個に分割し、それを集めて、元のビー玉と同じ体積のビー玉を2個つくることができる」

これだけでも十分にパラドキシカルですが、さらに以下のようにも言いかえることができます。

「ビー玉を有限個に分割し、それを集めて、回転と平行移動操作のみで再構成し、太陽と同じ体積のビー玉をつくることができる!」

もちろん、再構成してつくったビー玉は、中身がすかすかとかでは決してありません。元のビー玉と全く同じように中身がぎっしり詰まっています。


■2.さまざまな解釈

この定理に対してはさまざまな立場からさまざまな解釈がなされています。
ここでは以下の3つの主張に分けて見ていきます。

 ・2-1.「受け入れろ」派の主張
 ・2-2.「数学=道具」論者の主張
 ・2.3.「証明の不備」論者の主張

◆2-1.「受け入れろ」派の主張

このパラドックスについて、「いかに荒唐無稽に見えようが、これは数学的に証明された事実なので、ちょうど不確定性原理がそうであるように、我々はこの奇妙な帰結を受け入れなければならない」と論じる論者が少なからずいます。

つまり、1の金から10でも1000でも無限の金を生み出すことができるというわけです。
なかなかセンセーショナルで、人の目を引くには効果的ですよね。

ただし、この定理の証明は、どのように分割し、それをどのようにすれば再構成できるかの示唆を全く与えてくれないので、これまでの錬金術師のように、人生を無駄に浪費し徒労に終わる公算が限りなく大です(笑)


◆2.2.穏当な「数学=道具」論者の主張

多くの穏当な数学者や論者は、
「証明の過程そのものに間違いはない。しかし、数学的に正しいことと、それがそっくりそのまま現実世界に適用できることと話が別である。そしてこの定理について言えば、現実世界で分割と再構成を実際に首尾よく行うことはできない」
という立場をとっていると言っていいでしょう。

数学とは現実世界の真理を証明するものではなく、実世界をある特定の目的のもとに単純化し抽象化した世界に対して適用される「道具」であって、別の目的のためには別の抽象化された世界を創り出して数学を適用する、そんな道具である、というのが現代の数学に対する一般的な認識といえます。

ある抽象化された世界において証明された真理でも、別の抽象化された世界に適用しようとすると、当然のごとく、適用外だったり誤差が生じたりするわけです。

よく知られた例でいうと、「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」があります。

ユークリッド幾何学の世界では、ある直線aに対して、直線a上にない点pを通り直線aに平行な(どこまで延ばしても交わらない)直線を1本引くことができます。私たちの慣れ親しんだ幾何学ですね。

これに対して、平行線を引くことができない世界や2本以上引くことができる世界を仮定して数学を適用することもできます。これが「非ユークリッド幾何学」です。

どちらが正しいとか、どちらが現実世界を正確に反映しているということは言えません。
言えるのは、たとえば、われわれの日常生活のレベルで利用するなら「ユークリッド幾何学」が使いやすいし、また別の目的のためには「非ユークリッド幾何学」の方が適している場合もあるかもしれません。

そしてこの「バナッハ=タルスキーの定理」も、<<ある特殊な抽象化された世界において>>「ビー玉から太陽を再構成できる」と述べていますが、実は、分割される各断片は、測定可能な明確な境界や通常の意味での体積を持ち得ません。(数学的に表現すれば「ルベーグ可測でない」といいます)
つまり測定が可能な物理的分割は不可能なのです。

この立場の論者は、「バナッハ=タルスキーの定理」は数学的には正しいが、その数学的言明を現実世界にそのままアナロジーとしてあてはめて、無から有を生じるように主張するところに間違いがあり、パラドックスが生じる所以と考えているといえます。


◆2.3.「証明の不備」論者の主張

上記の考え方をもっと進めて、「数学的証明そのものが適切でない、もしくは前提が間違っている」と主張する人々もいます。
実を言うと私もこの立場にあります。

この立場の中にも若干の温度差があって、より穏当な立場の人は証明の中で使われる「選択公理」を疑問視します。

もっと過激な人々は、「選択公理」に限らず、数学に「無限集合論」、いいかえれば「実無限」の概念を導入することに反対します。

このあたりになると「数学基礎論」の相当難しい議論になってくるので、わかりやすく説明することも難しくなってくるのですが、さわりだけでも述べてみたいと思います。


◆2.3.1.「選択公理」否定論者の主張

まず「選択公理」使用の問題。

このパラドックスは、その名の通り、 ステファン・バナフ(バナッハ)とアルフレト・タルスキーが1924年に発表した定理ですが、この定理を証明しようとした動機が、実は「選択公理」という数学上の概念を用いることの問題点を指摘することにありました。

つまり、「選択公理」を使うと、こんな変な(現実世界とは相容れない)結論に至ってしまうよ、だから「選択公理」を無批判に使うのはやめよう、ということです。

しかし現代数学で「選択公理」はなくてはならないものとみなされています。

実際、多くの重要な定理がこの「選択公理」を用いて証明されており、もし「選択公理」がなかったら、そういう多くの重要な定理が、証明不能で、真理か偽か分からない根無し草の言明になり果ててしまうので、現代数学の主流派はこの公理を決して手放そうとはしません。

ここでやはり「選択公理」についてごくごく簡単にでも説明する必要がありそうです。

◆◆「選択公理」とは

「選択公理」を説明する前に、まず「公理」という用語を簡単に説明しておきましょう。

「公理」とは、もはやそれを他のどんな命題(数学的な言明)からも証明することができないような、大前提の命題を意味します。

この「公理」を出発点にいくつもの「定理」が証明され、さらにその証明された複数の「定理」や「公理」を組み合わせることにより、別の「定理」が証明されます。

数学とは厳密科学の最たるものというのが一般人の感覚ですが、実際には証明不可能な公理を前提として証明が成り立っているという事実をいつも念頭に置いておくことが肝要です。

さて、「選択公理」とは、空でない集合を元(要素)とする集合Aがあるとき、それぞれの元の集合からひとつずつ元を選択して新しい集合Bを作ることができる」というものです。

まず理解を容易にするため、有限集合の例をとって見てみましょう。

以下のような集合X、Y、Z、Aを考えます。

集合X={1,2,3}、集合Y={4}、集合Z={5,6}
集合A={集合X, 集合Y, 集合Z}

この集合Aのように、集合はその元(要素)として集合を持つことができます。

すると、集合Aの元である集合X、集合Y、集合Zのそれぞれからひとつずつ代表となる元1、4、5を選んで、新たに集合B={1,4,5}を作ることができます。

これが「選択公理」です。

こう書くと、この「選択公理」はあまりにも当たり前すぎて、「公理」と仰々しく呼ぶのもおこがましく思うかもしれません。
まあ、だからこその証明不能の「公理」なわけですが、「選択公理」が自明なのは集合A、X、Y、Zが有限個の元をもついわゆる有限集合だからです。

ところが、集合を無限の元を許す「無限集合」に拡大して考えたとき、「選択公理」は必ずしも自明なことではなくなります。

集合X = {1,2,3,…}、集合Y = {4,…}、集合Z = {5,6,…}、…
集合A = {集合X, 集合Y, 集合Z, …}

ここから例えば集合B = {1,4,5,…} という集合を作れるのは、やはり自明に見えるかもしれません。
しかし、「…」の部分が問題なのです。

集合Aの無限個の元、X、Y、Z、…のそれぞれから「順番にひとつずつ代表となる元を選び出す」操作を有限回の操作で完了することはできず、無限個の元について、このような操作を行えるかどうかは必ずしも自明とはいえません。

もうひとつ例を挙げると、たとえば、集合Aを「すべての実数の部分集合を元とする集合」とします。

ここで自然数は、0,1,2,3,…と順番に数え上げることができますが、実数は順番に数え上げることができない性質を持っています。
数学的に表現すれば、自然数は可算無限集合ですが、実数は非可算無限集合です。

このような実数の部分集合は当然無限に存在し、それらすべての部分集合から何らかの基準で元をひとつずつ選び出すことができるかどうかはやはり自明とはいえません。

自然言語でいえば「以下同群」で済ませられますが、数学的な証明において「無限に続く」話は「落とし穴」が多く、しばしば誤った結論に導いて「パラドックス」を生じてしまうことが知られており、きわめて慎重に取り扱う必要があります。

「選択公理」について少し説明が長くなってしまいましたが、この公理を認めなければ証明できない重要な定理が多数あるため、無限集合論を基礎にする現代数学ではこの公理は、なくてはならないものになっています。
そして「バナッハ=タルスキーの定理」の証明にもこの「選択公理」が使われています。

数学者の中には、「選択公理」を安易に使用することで「バナッハ=タルスキーの定理」に現実世界との乖離、パラドックスが生じていると考えている人々が多くいます。

当然のことながら、そのような人々は「バナッハ=タルスキーの定理」に限らず、数学に安易に「選択公理」を使用することに警鐘を鳴らします。


◆2.3.2.「実無限」反対論者の主張

同じように「バナッハ=タルスキーの定理」は「数学的証明そのものが適切でない、もしくは前提が間違っている」と主張する人々の中には、もっと過激に、数学に「無限」を安易に持ち込むことを慎重にすべきと論じる人々がいます。

選択公理もつまるところ無限集合論における概念のひとつであり、数学の世界に無限集合論を導入したがために、このようなつじつま合わせが必要になったというわけです。

この「無限」というものの取り扱いの問題は、人類が立ち向かってきた古くて新しいテーマです。

その全容をこのブログで解説することはとてもできない話ですが、非常に重要なテーマなのでごく簡単に触れておきます。
今後、個々の問題やパラドックスについて、このブログで取り上げるつもりです。

◆◆「可能無限」と「実無限」

無限について、古くは、あの古代ギリシャの哲学者アリストテレスが、「無限」を「可能無限」と「実無限」に分けて論じ、厳密科学に「実無限」を持ち込むべきでないと主張しました。

ここで「可能無限」(英語でPotential Infinityですから直訳としては「潜在的無限」が正しいでしょうか)とは、「限りなくXXXXできる」という言葉で表せるような、ある(有限の)操作なり行為を際限なく繰り返すことができるという意味での「無限」、つまり過程(プロセス)としての無限であり、自然数1とか2などと同じような意味で存在するものではありません。

それに対して「実無限」(Actual Infinity)とは、1とか2などと同じように、存在物、対象物として取り扱われる「無限」です。
ちょっと分かりにくいですよね。

例を挙げましょう。

長さが1の線分を考えます。
この線分のちょうど真ん中で線分を半分に切ることができますね。
できた線分のちょうど真ん中でさらに半分に切ることができます。
そしてこの操作は無限に続けることができます。

しかし長さ1の線分が無限個の中点から構成されるとは考えません。あくまで真ん中で切るという有限のステップをいくらでも続けていくことが可能というだけです。

どんな自然数nに対しても、現在がn回目の切断だとするとn+1回目の切断が可能であるというだけです。いわば、有限の世界にとどまっているわけです。
だから「可能的にのみ考えられる無限」なのです。

これが「可能無限」の考え方です。

これに対して、長さ1の線分が無限個の点から構成されると考えるのが「実無限」の考え方です。

無限回切断した果ての状態(長さ無限小の線分?長さゼロの線分?)を実在するものとして取り扱う考え方といってもいいかもしれません。

もうひとつ例を挙げましょう。

π(円周率)というものがあります。3.141592…っていうやつですね。

これはいわゆる「無理数」に属し、上で書いた「…」は無限に続き、どこかで尽きることがありません。

小数点以下無限に続き完結しないのに、ひとつの数として認識できるのでしょうか?

「できる。πは無限個の小数部を持つ数字である」
と考えるのが「実無限」の考え方です。

一方、究極の(極端な)「可能無限」論者は、πを数として認めません。

◆◆実無限を避けた数学の歴史

実無限を数学や論理の世界に導入すると、いろいろとパラドキシカルなことが発生することが知られています。

たとえば、先ほどの長さ1の線分は無限個の点から構成されています。
この線分をちょうど真ん中で切断した長さ0.5の線分にはどれだけの点が含まれているでしょう?

そう、半分にしたにもかかわらず、長さ1の線分と同じ「無限」個です。

もうひとつ例を挙げると、次のような関数を考えます。
 f(x) = { xが偶数の時は1、xが奇数のときは-1 }

さて、xが有限値である限り、xがどんなに大きくなろうとも f(x)は1か-1のどちらかに決まります。
ではxが無限大のときf(x)は1?それとも-1? それとも…?

そんなこんなで、歴史的にみると、数学は巧みに「実無限」を避けて通って来た学問といえるかもしれません。

たとえば、19世紀にワイエルシュトラスらによって確立された解析学では、「無限小」や「無限大」の概念に頼らず、「可能無限」的に有限の立場にとどまった「収束」の概念で慎重に定義されています。
以下のような極限の概念を高校数学で習うと思います。



これを「xが無限大のとき、y=0である」とか「…、yは0に収束する」とか「…、yは無限小である」などと覚えているとしたら、それは厳密な意味では正しくありません。

また「xが無限大のとき」を「xが限りなく大きいとき」と言い換えても同じことです。

いずれの文も実無限の概念で語っていますが、「無限大」は数字ではないし「限りなく大きくなったx」などというものも無意味だからです。

では解析学ではどう言うかというと、



のことを、「任意の正の数 ε に対し、ある適当な正の数 δ が存在して、0 < |x - a| < δ を満たす全ての実数 xに対し、 |f(x) - b| < ε が成り立つ」と定義して、実無限の概念を回避し、巧みに有限の世界にとどまることに成功しています。

この辺り、非常に難しい議論になるので、もっと詳しいことを知りたい人は「イプシロン・デルタ論法」で検索してみてください。

◆◆カントール無限集合論の登場

しかし、19世紀後半から20世紀前半に数学者カントールやデデキントが登場し、そこに風穴を開けました。

すなわち、数学に「無限集合論」(現在は一般に「集合論」というと、この無限集合論を意味します)を導入しました。「実無限」を数学の世界に呼び戻したわけです。

ここでカントールの集合論について詳細に立ち入るつもりはありませんが、この集合論の導入により、数学はそれまでに比べて格段に豊かな果実を得るようになります。
そしていまや集合論(実無限の概念)は、現代数学になくてはならないものとなっています。

◆◆集合論をめぐる大論争

とはいえ、カントールが集合論を発表した当初、その賛否をめぐって世界的な議論が巻き起こりました。
しかもその急先鋒は、その時代の権威的な位置にいた大御所クロネッカー。

クロネッカーは、数学的な性質には必ずそれが成り立つかどうかを判定する計算方法、つまりアルゴリズムが必要であるとしました。この性質を数学基礎論的には「構成的である(constructive)」と言います。

クロネッカーの思想は極端で、整数から有限の演算を施して得られる数以外は、存在しないものとまでみなすほどでした。彼の有名な言葉に以下のようなものがあります。

「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」

このクロネッカーの思想は、ポアンカレやブラウアーに引き継がれ、数学的「直観主義」として発展しました。この思想は現在でも健在の理論です。

直観主義で有名なのは、「排中律」の否定です。

「排中律」とは、「Aである」ことが否定されたら「Aでない」ことが帰結されるという考え方のことです。つまり「あれかこれか」の2者択一で中間がないことです。
証明におけるいわゆる「背理法」は「排中律」を前提にした証明方法といえます。

たとえば、「ab=0 ならば a=0 または b=0 である」というのが排中律を認める一般的な考え方ですが、排中律を認めない直観主義の立場では必ずしも「a=0またはb=0」とは言えません。証明不可能な場合の可能性が残されているというわけです。

ブラウアーは排中律否定の具体的な説明として「円周率の無限小数の中に0が100個続く部分があるかどうかは分からない」という例を引き合いに出しています。

◆◆再び「実無限」反対論者の主張へ

ここまで長々と、アリストテレスから現代に至る、実無限を認める派と認めない派の対立の歴史を書いてきました。

何度も言うように、現代では、数学上の実利を重んじる実無限肯定派(=無限集合論肯定派)が主流です。

多くの数学基礎論者は、必要な部分に、地雷を踏まないように適用する限り、積極的に実無限を導入すべきと考えていると考えてよいでしょう。

そういう現在の状況にあって、この「バナッハ=タルスキーの定理」のことを、数学の世界に「実無限」というものを不適切に持ち込んだことによる論理の破綻とみる人々が少なからずいるということが書きたかったのです。


■3.最後に

ここまで見てきたように、この「バナッハ=タルスキーの定理」というパラドックスひとつから、現在の数学という学問のかかえる歴史と課題が垣間見えてきます。

数学という学問は、決して世界の真理を厳密に表現する揺るぎのない学問などではないことを少しでも感じ取っていただけると、この記事を書いた甲斐があるというものです。

なお、以下のような「無限」をめぐるトピックスは、また別の機会にこのブログ上で是非とも論じたいと思っています。

・カントールの「対角線論法」の是非
・ゼノンのパラドックスの意義
・ゲーデルの不完全性定理の言い得ることと言い得ないこと
・などなど

P.S.
最後まで読み通してくださった忍耐強い皆さん、どうもありがとう。
地雷を踏まないように書き進めて、何と3ヶ月もかかってしまいました。
おかげさまで何とか年内にアップでき、一息つくことができました。
「過去記事を甦らせよ!」シリーズ第11弾!
当記事は、2012年03月08日(木)投稿の記事の再掲載です。


報道されてから少し時間をおいてしまいましたが、今年(2012年) 1月に入って「量子力学における『不確定性原理』が破れた」というセンセーショナルな報道が飛び込んできました。

しかもその立役者が日本人研究者ということもあり、昨年末の「超高速ニュートリノ発見」のニュースに続く歴史的な成果として、各方面から大々的に取り上げられました。

この報道に関する私見を述べたいと思います。すでにいろいろなところで語られているので「いまさら」感はありますが。

■まずは量子について

不確定性原理を語る前に、「量子」なるものについて、歴史をなぞる形でざっとおさらいしておきましょう。

まず19世紀初頭にヤングにより、光が波の性質を持つことが突き止められます。(光=「光波」ですね)

その後19世紀後半になって、マクスウェルにより、電気や磁気がともに波の性質を持つのみならず、それらが光も含めて、同じひとつのもの(=電磁波)であることが明らかにされます。

そして1900年、光(電磁波)のエネルギーがその振動幅に比例して変化するが、その変化が我々が知っている「波」のように連続的ではなく、ある最小値の整数倍で飛び飛びに変化することがプランクにより示されます。


    ここで、Eはエネルギー、hはプランク定数、vは振動数

この飛び飛びのまとまった量の単位をプランクは「量子」と呼びました。光のエネルギーに関していえば上式の hv が量子になります。これがプランクの「光のエネルギーの量子仮説」です。

ただこのときはまだプランクは量子が光(電磁波)そのものの本質を表すという考えには及びませんでした。つまり光の正体が「量子」なのではなく、何か分からない理由によって光のエネルギーが「量子」の単位で変化するということであり、現代物理学でいう「量子」とは意味が異なります。

その後1905年にアインシュタインが、光(電磁波)が波の性質とともに粒子の性質をも併せ持つこと、すなわち「光量子仮説」を提唱し、その後1923年に実証されます。(光=「光波」=「光子」=「光量子」ですね)

ここで初めて現代的な意味での「量子」が公の目に触れることになったといえるかもしれません。

さらに1924年、ド・ブロイが、アインシュタインとちょうど逆の発想で、すべての物質(粒子)が波の性質を持つ(正確には波の性質が付随する)という「物質波」の概念を提唱し、ほどなく実証されます。

このような背景のもと、1925年にはハイゼンベルクが、物質の、粒子性と波動性をもつ「量子」としてのふるまいを「行列力学」として定式化することに成功します。
そして量子の運動は「ハイゼンベルクの運動方程式」によって表現できるようになりました。

さらに翌年には、シュレーディンガーが、ハイゼンベルクとは全く別の観点、すなわち量子の波動性の観点から、「波動力学」を提唱し、量子の波動を「シュレーディンガー方程式」で表現することに成功します。

そして、ほどなく、ハイゼンベルクの行列力学とシュレーディンガーの波動力学とが、数学的に等価であることが明らかにされます。

ここに「量子力学」が完成し、物質は単なる「粒子」でもなく単なる「波動」でもなく「量子」になりました!


■ハイゼンベルクの不確定性原理とは

ニュートン力学(古典力学)の世界では、物質のある時点での位置と運動量はひとつに定まり、未来の位置と運動量も計算可能です。これは通常私たちが慣れ親しんでいる物質と運動の世界観ですよね。

これに対して、量子力学の世界では、驚くべきことに、物質の状態は、複数の可能な状態の重ね合わせによって表現され、観測された瞬間に、ある確率で、そのうちのひとつの状態に収斂します。

つまり物質の位置や運動量は確率分布としてのみ表現され、観測の際に確率分布の中からひとつの位置や運動量が選ばれ、顕現化するというわけです。

1927年、ハイゼンベルクは、このような粒子性と波動性を同時にあわせ持つ「量子」というものが有する不可避的な性質として、物質の位置と運動量の両方をともに正確に測定することはできないという「不確定性原理」を発表しました。

つまり、物質の位置を正確に測定しようとすればするほど、運動量が不明確になっていき、逆に運動量を正確に測定しようとすると、位置が不明確になっていくというわけです。

これはニュートン力学(古典力学)において物質(粒子)は位置と運動量とを同時に望むだけいくらでも正確に測定できるという常識を決定的に覆すものです。

以下にハイゼンベルクの不確定原理の式を記載します。


    ここでは位置の不確定性、は運動量の不確定性、hはプランク定数

仮にをゼロに近づけていくと、は無限大に発散していきます。逆も然りです。

さて、これをどう解釈するかですが、ハイゼンベルク自身は次のような思考実験で説明しています。


■ハイゼンベルクの思考実験

電子の位置と運動量を測定するとします。

ここで「ものを見る」とはどういうことかをあらためて考えてみると、一般的には何らかの物質(通常は電磁波、人間の視覚の場合はそのなかでも光)を観測したい物体に衝突させ、その反射した物質を観測装置(人間の場合は目)で受け止めることで実現されます。

ハイゼンベルクの思考実験では、観測物質にガンマ線を使い、観測装置にガンマ線顕微鏡を想定しています。

さて、電子は非常に小さな物質なので、電子の位置を正確に測定しようとしたら、できるだけ波長の短い電磁波をぶつける必要があります。
波長が長いと電子をすり抜けてしまう可能性が高いからです。

また、観測装置のレンズの受光面(面倒だから受「光」と書きました)が広ければ広いほど、より多くの電磁波を受け止めることができ、それだけ正確に電子の位置を把握することができます。
カメラ技術の世界で「分解能が高い」と言いますよね。

ところが、電磁波の持つエネルギーは、波長を短くすればするほど大きくなり、それをぶつけられた電子の位置・運動量を変えてしまうことになります。

しかもレンズの幅を広げれば広げるほど、電子にぶつかって反射してレンズに入ってきた電磁波の経路の可能な範囲も広がるため、どのように電子にぶつかったかも、ぶつけられた電子がどのように位置や運動量を変えられたかも不確かになります。

つまり、電子の位置を正確に測定しようと、ガンマ線の波長を短くしたりレンズの幅を広くしたりすればするほど、それだけ電子の運動量は不確かになり、だからといって逆に波長を長くしたりレンズの幅を狭くすればするほど、今度は電子の位置が不確かになっていくわけです。


■不確定性って測定の不確定?

ハイゼンベルクはこのように不確定性原理を説明しました。

しかしここで素朴な疑問が湧いてきます。
これって、量子そのものの性質というより、測定手段に起因する不確定性なのでは?という疑問です。

上の思考実験で説明される不確定性だけなら、物体に衝突して反射した電磁波をとらえるという観測手段とは全く別の観測手段で「ものを見る」場合にはもはや適用されなくなりますよね。(現実にはそんな観測手段は見つかってないのですが)

私が高校生時代に初めて講談社の「ブルーバックス」シリーズで量子力学と不確定性原理に巡り合った時にまさにこの疑問に取り憑かれましたが、どうせ自分の科学的素養が足りないからだろうと、釈然としないまま自分を無理やり納得させたのを覚えています。

そしてこの素朴な疑問が真っ当な疑問だったことが後になって分かりました。


■量子そのものが本質的に持つ不確定性

ハイゼンベルクは自身の「不確定性原理」で、量子が量子であるがゆえの「不確定性」を意図していたと思われますが、思考実験で示したのは測定手段に内在する誤差としての不確定性でした。

ハイゼンベルクは測定の不確定性と量子そのものの不確定性(しばしば「量子ゆらぎ」と称されますが)とを混同してしまったというのが、ハイゼンベルクの不確定性原理に対する現在の一般的な評価のようです。

では、ハイゼンベルクの説明(解釈)が間違っていたとして、その式そのものは、間違った説明通りに、測定手段に内在する不確定性を表すものなのでしょうか?

それとも説明が間違っていただけで、式そのものは、正しく量子そのものの不確定性を表しているのでしょうか?

それとも説明が間違っていただけでなく、式そのものも、測定に内在する不確定性としても、量子そのものの不確定性としても正確に表現できていないのでしょうか?


■ロバートソンの不等式

実は、量子が量子であるがゆえの不確定性については、その後、ケナードとロバートソンによって別途、定式化されました。

ハイゼンベルクの不確定性原理は「原理」という名の通り、何か他のより基本的な原理から導きだされた数式ではなく、思考実験から(天才的な直感で)導き出した「予想」でしたが、ロバートソンの不確定性は、量子力学の基本式から数学的に導きだすことのできる、いわば「定理」です。

したがって、ロバートソンの不確定性原理はしばしば「原理」ではなく「関係」などと表現されています。

以下にロバートソンの不等式を示します。


    は位置の量子ゆらぎ(標準偏差)
    は運動量の量子ゆらぎ(標準偏差)


ハイゼンベルクの不等式とロバートソンの不等式は見た目は非常に似ていますが、似て非なるものです。

ハイゼンベルクの不等式が測定の不確定性を表しているのに対して、ロバートソンの不等式は量子そのものの不確定性を表しています。

ロバートソンの不等式は測定手段によらず量子の本質的な不確定性を表すという意味で正しいですが、測定に内在する不確定性はそれとは別の話としてやはり存在するように見えます。

現実の測定に適用するのであれば、両方を加味した定式化が必要なのではないか?という素朴な疑問が湧いてきます。


■小澤の不等式登場

この疑問に答えたのが、今回の報道の主役であり、2003年に名古屋大の小澤正直教授により発表された、いわゆる「小澤の不等式」です。

以下に小澤の不等式を示します。


    は位置の不確定性、は運動量の不確定性
    は測定の不確定性(ハイゼンベルクの不等式の左辺)
    は位置の量子ゆらぎ、は運動量の量子ゆらぎ


上の式をハイゼンベルクの不等式と比較してみるとわかるように、小澤の不等式はハイゼンベルクの不等式に、という式を付加していることが分かります。

※上の数式で「%2B」と表示されている場合は、本当は「+」と表示しています。Google Chart Toolsを使って数式を表示しているのですが、何故か私のMacの環境では変換されないまま表示されてしまっています。原因不明。

この小澤の不等式が、この度ついにウィーン工科大学の長谷川祐司准教授のグループによる実験で実証されたというわけです。


■「小澤の不等式」の意義

小澤教授自身はこの不等式のことを、ハイゼンベルクの不確定性原理を書き換えたものとおっしゃっているようですが、私から見ると、どちらかというと「理論値としてのロバートソンの不確定性関係(量子ゆらぎによる不確定性)に、測定による不確定性を加味して、実際の観測に即した誤差範囲を提示したもの」のように見えます。

いずれにしても「小澤の不等式」が正しいことが実証された(正確には実証報告の論文が発表された)ことにより、量子力学の根幹が大きく揺らぐようなことはありません。
不確定性の不等式の精度がより厳密なものに書き換えられただけです。

「だけです」とは言っても、1世紀近くも無傷で残っていたあまりにも有名な不等式が修正されたのですから、これはこれで大事件に違いありません。

思うに、「小澤の不等式」の意義は、この1世紀近くの間、ある意味、正当な評価がなされないまま、あたかも腫れ物に触るように神棚に放置されてしまっていたハイゼンベルクの不確定性原理を手元に引き戻し、量子の「不確定性」について、あらためて深く吟味・検討し直す契機を私たちに与えてくれたことにあります。

それにしても、「不確定性原理」が、測定の不確定性と量子ゆらぎの不確定性の二重の意味で混乱した状態で長い間なおざりにされ、誰にも疑われないまま、古今のさまざまな教科書やテキストや啓蒙書に「それらしく」記載されてきた事実に驚かざるを得ません。

もちろん両者を明確に区別し的確に解説しているものもありますが、混同したうえで「ハイゼンベルクの不確定性原理」だけを説明していたり、やはり混同したうえで「ロバートソンの不確定性関係」だけを説明しているものがあったり、「量子そのものの不確定性」を表すものと「ハイゼンベルクの不確定性原理」を誤解して説明してしまっていたりと、その混乱ぶりはちょっと信じられないくらいです。

まあ、それにはそれなりの理由があるのかもしれません。

ひとつには、量子力学の定式化が別途、ハイゼンベルクやシュレーディンガーによって厳密になされていて、ハイゼンベルクの不確定性原理はもっぱらその分かりやすい「象徴」とか、便利な「表看板」として使われてきたということがあります。

また、測定の誤差や撹乱というものを定義すること自体の難しさがあって、簡単に手出ししにくかったということも挙げられるかもしれません。

さらに、ミクロの量子レベルの、精度の高い検証実験が難しかった、あるいは「労多くして益少ない」と敬遠されていたということもあると思います。

また、ハイゼンベルクの不確定性原理が「大なり(<)」の不等式だったことも放置された理由のひとつなのではないかとも思ったりしています。これが等式やあるいは「小なり(<)」だったら、反証実験結果が出やすかったかもしれません。

本件に限らず、物理学以外の専門分野においても、何か釈然としない思いを抱きながら、専門家がこぞってお墨付きを与えているから、まさか間違いはないだろうと信じていたら、「あらあら、やっぱり、釈然としなかった素人目線が正しかったんだ~」ということにしばしば遭遇します。

だから私は、その道の定説であっても、いつもまずは疑いの目を向けるようにしています。

最近の話であれば、年金問題ですね。
4%とか5%の運用益での運用を前提とした年金制度はそもそもの始まりから間違っていたと思います。
もっと言うなら、運用益を前提とすること自体、すでに博打打ちと大差ないと(素人の私は)思います。しかし(年金)運用の専門家にとって、この考えは常識ではないようですね。

あるいは「経済成長は善」という経済理論の常識も眉唾ものです。

ちょっと脱線してしまいましたが、小澤の不等式は依然として近似でしかない可能性も否定できないことを最後に付け加えておきましょう。
「過去記事を甦らせよ!」シリーズ第10弾!
当記事は、2015年08月21日(金)投稿の記事の再掲載です。


久々に科学ネタを。
といっても、何か新しい発見や研究成果が登場したというわけではありません。

ミトコンドリアのエネルギー産生メカニズムについてです。

何をいまさらと言われそうですが、生物進化の果ての極めて精巧かつ複雑なメカニズムと、その逆にそれを駆動している原理の驚くほどの単純さ、この両極端な2つの特徴を見事に体現しているのが、このミトコンドリアのエネルギー産生メカニズムだということで、今回あえて取り上げてみました。

■エネルギーとATP

生物はその活動のためにエネルギーを必要とします。
そのエネルギーを最終的に産生するのがミトコンドリアの働きです。

教科書的にいえば、ミトコンドリアは、体内に存在するADP(アデノシン2リン酸:C10H15N5O10P2)を元に、よりエネルギーの高いATP(アデノシン3リン酸:C10H16N5O13P3)を合成し、生命はこのATPをADPに分解するときに放出されるエネルギーを利用して生命活動を行います。

実際にはこんなに簡単な話ではないし、前後を含め、生物の捕食から消化、炭水化物の分解、呼吸による酸素の供給などが複雑に絡み合って、生命全体の営みが成り立っているわけですが、ひとまず話を簡単にしておきましょう。

興味深いのは、人間に限らず、動物や植物、細菌に至るまで、真核生物(細胞に核を持つ生物)は、みな決まってこのADP⇔ATPの仕組みでエネルギーを利用しているということ。
たとえば植物でも動物でも、最終的にはこのADP⇔ATPの仕組みでエネルギーを利用しています。

ATPはいわば「エネルギーの貯蔵所」ともいえるので、アナロジーとしては、蓄電装置、蓄電池を想定できます。

すべての真核生物がATPという単純な1物質のリン酸基にエネルギーを保管し利用しているという事実はなかなか感慨深いものがあります。


■意外なATP産生メカニズム

さて、ここで当然出てくる素朴な疑問は、
では、ミトコンドリアはこのADP⇔ATPをどのような神ワザ的なメカニズムで実行しているのだろう?」ということ。

たとえば、電気エネルギーを作るためには、水力発電所、火力発電所、原子力発電所などの設備が必要です。
つまり、エネルギーを作り出すためには何らか外部からの強い作用・働きかけが必要になります。

ミトコンドリアはどんな精緻で複雑な仕組みでそれをやってのけているのか?

素人には想像もつきません。
素人としては、あくまでアナロジーとして、「ミトコンドリアとは水力発電所のようなもの」と想像するのが精一杯です。

ところが、このメカニズムが、1997年以降、電子顕微鏡で視覚的に確認できるようになりました。

そしてそこで明らかになったことは驚きの内容でした。

何と、ミトコンドリア内で実際にATPを合成しているATP合成酵素は、まさに水力発電所のタービンのように高速回転し、その力を使ってATPを合成していたのです!
しかも1秒間に1400回転(ヒトの場合)というものすごい勢いで。

そのメカニズムをごく簡単に説明するために、まずはミトコンドリアの構造について概説します。



ミトコンドリアは2重構造になっていて、外膜内膜があります。
外膜は細胞内の基質(空間)と接する境界ですね。
内膜の内部はマトリクスと呼ばれ、ここがいわばミトコンドリアの活動の主戦場です。

外膜と内膜の間は膜間腔と呼ばれ、いわば外界(細胞内基質)と内界(マトリクス)の緩衝地帯にあたります。

内部に行けば行くほど、ガードが固く、入っていける物質が少なくなっていきます。水素や酸素などの低分子であれば容易に行き来できますが、高分子は何らかの力で強制的に出し入れする必要があります。

ATP合成酵素はこの内膜に存在し貫いて、内側のマトリクスと外側の膜間腔の両方に面しているタンパク質です。

ATP合成酵素は膜間腔とマトリクスの間の抜け道を備えており、その抜け道にタービンのような部位を接しています。

水力発電では水の位置的な落差(水位差)を利用してタービンを回し、その力で電気を発生させますが、水力発電でいう「水」はミトコンドリアでは、H+(水素イオン=プロトン)であり、「水位差」はミトコンドリアでは、膜関腔とマトリクスの間のHの濃度差になります。

この濃度差が発生することにより、膜間腔のH+がマトリクスに流入し、それがATP合成酵素を回転させ、その力でADPからATPが合成されます。

いやあ、これはまさに水力発電そのものです!

わかりやすい解説がYoutubeにアップロードされています。


(JST Channel:科学技術振興機構)

ではなぜ、膜間腔とマトリクスの間にH+の濃度差が生じるのでしょう?

それを見ていくためには、エネルギーの利用に関して、もう少し広い視野で生物の活動を見ていく必要があります。

ここからは少し説明が細かく&難しくなりますが、ご容赦ください。
これでもかなり端折った説明になっています。


■エネルギー産生の全体像

動物を例に取りましょう。
動物は他の生物を捕食し、炭水化物や脂肪やタンパク質などを体内に取り込みます(消化

このうち炭水化物について見て行きましょう。
炭水化物(グルコース C6H12O6)は、細胞に運ばれると、その細胞基質内でピルビン酸C3H4O3や、NADHに分解されます。(解糖系

ピルビン酸は、ミトコンドリア内のマトリクスに送られます。
ここからはすべてミトコンドリアの世界での出来事です。



ミトコンドリアに送られたピルビン酸はいったんアセチルCoA(C23H38N7O17P3S)に変換された後、クエン酸回路(TCA回路)に送られます。

クエン酸回路では分解や合成を繰り返しながら、NADHFADH2などといった物質を生成します。

生成されたNADHやFADH2は、ミトコンドリアの内膜に埋め込まれた「NADH脱水素酵素」など数種類のタンパク質に渡されます。

これら一連のタンのパク質は「電子伝達系」と呼ばれ、呼吸で得られた酸素O2の酸化作用の助けを借りて、渡されたNADHからH+(プロトン)と電子(e-を引き剥がし、この電子の電荷の力により、H+を膜間腔に押し出すとともに、電子伝達系の次のタンパク質へ電子を受け渡します。

こうやって電子伝達系の間を電子が渡されていく過程で、次々とH+が膜間腔に汲み出されていくわけです。

そして、H+が電子伝達系により次々と膜間腔に汲み出されると、外部の膜間腔と内部のマトリクスの間にH+の濃度差(電気化学的勾配)が生じます。

そう、この濃度差が、先に挙げたATP合成酵素を回転させる源になっているのです。

ATP合成酵素にはH+の通り道が設けられており、H+がその抜け道を通って濃度の高い膜間腔から濃度の低いマトリクスへ流れこんでいき、その力でATP合成酵素が回転し、エネルギーがATPに蓄えられていきます。

私たちは呼吸によって酸素を肺から体内に取り込み、二酸化炭素を吐き出すと習いました。
上の図を見ていただければ分かる通り、ミトコンドリアは呼吸により酸素O2を受け取り、クエン酸回路や電子伝達系によりCO2とH2Oを吐き出しています。

つまり、ここまで述べてきたミトコンドリアのエネルギー産生のメカニズムは、呼吸による生物代謝そのものの説明でもあるのです。

呼吸によるエネルギー産生を化学式で煎じ詰めると、以下のように書けます。(式は化学式として正確ではありません。あくまでイメージです)
  C6H12O6 + 6O2 → 6CO2 + 6H2O+エネルギー(ATP)

なお、図を見ていただければ分かるように、解糖系でもATPが生成されます。
また、クエン酸回路でもATPが産生されます。

しかし、電子伝達系のATP合成酵素によるATP産生とは効率が比べ物になりません。

1つのグルコースから、解糖系やクエン酸回路では2つのATPが産生されますが、電子伝達系では32とか34もの大量のATPが産生されます。

ついでにいうと、たとえば解糖系で2つのATPが産生されるといっても、実際には解糖系の反応の過程でATPのエネルギーを活用(消費)しており、消費と産生の差し引きが+2ATPだということです。


■細胞内小器官としてのミトコンドリアの特異性

進化の観点から見ると、太古の世界では酸素が非常に少なく、真核生物は酸素を必要としない解糖系のみでエネルギーを確保していたと考えられています。

酵母菌や乳酸菌などは今でもそうですね。上図の左側の部分のみしか工程がなくて、乳酸菌の場合はピルビン酸の代わりに乳酸菌を生成しているわけです。

その後、光合成をする植物の繁栄により、大気中に酸素が大量に発生するようになると、バクテリアのような単細胞生物の中には、この酸素の酸化作用を利用して、上図の右側の工程、すなわちクエン酸回路と電子伝達系の部分を実現し、効率よく大量のATPを産生するものが現れてきたと考えられています。

そして、そのバクテリアを何らかの方法で、細胞内に取り込んだのが、現在の真核生物のミトコンドリアというわけです。(真核生物側から見たら「取り込んだ」あるいは「囲い込んだ」かもしれませんが、ミトコンドリア側から見たらもしかしたら「寄生した」とか「共生した」ということなのかもしれませんね)

あくまでも有力なひとつの仮説にすぎませんが。

なぜこのような進化を辿ったと考えられているかというと、ミトコンドリアは細胞の核に存在するDNAとは別に独自のDNAや、タンパク質を合成するリボソームなどの器官を持ち、バクテリアなどの生物に酷似しているからです。

細胞の中にありながら、それ単体であたかも独立した真核生物のような「なり」をしている特異な存在、それがミトコンドリアなのです。


■トリビアをいくつか

・ミトコンドリアは独自のDNAを持っていると述べましたが、そのDNAは母親からのみ受け継がれます。(受精の時に精子のミトコンドリアが消滅します)

つまり現在生きている真核生物のミトコンドリアのDNAは、太古の昔の真核生物のミトコンドリアのDNAをそのまま受け継いで今日に至っているわけです。(もちろん突然変異でDNAは変容していきますが)

・ATP産生の上で大きな役割を果たす「電子伝達系」のタンパク質のひとつが、健康サプリとして有名なあのコエンザイムQ10(化学名:ユビキノン)です。

・ADP、ATPの「A」(アデノシン)は、遺伝子の正体として知られるDNA、RNAを構成する4つの塩基、A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)(RNAの場合は、U(ウラシル))の「A」と同一です。
実際、生体内では、アデニンをADP、ATP、RNAなどに巧みに使いまわしているようです。

・ちなみに、「光合成」とは、光のエネルギーを使ってまずATPを合成して、ついでそのATPのエネルギーを使って二酸化炭素と水という簡単な物質から、炭水化物という複雑な物質を作ることです。

つまり、上図で説明した工程の前の工程、動物なら他の生物を摂食して炭水化物を獲得するところを、植物は二酸化炭素と水から炭水化物を合成しているわけです。

その後のエネルギーを産生するまでの流れ(解糖系~クエン酸回路~電子伝達系)は動物と同じです。

以上です。