「……えー、それでは最終回を始めたいと思います」私は憂鬱に口火を切った。どうせ、収拾がつかないグダグダ状態で終わるに決まっているが、これは語り手の責務なので仕方がない。
「しかしまあ、出てきたばっかりで最終回というのも、なんだかなあ」朱石光治の幽霊が、空いているソファに座りながら宙を見てぼやいた。
「出て来なければいいんだ」志下沼さんが毒づいた。グラスを持ち上げて、そしてはっと気づいたような表情で言った。
「そういえば、このグラスを上げ下げする動作は君の呪いか何かなのか? 結婚以来ずっとやっているのだが」
「それは、僕じゃないですね」
「では、あなたの恋人の?」ベッキーが言った。「どうせなら雑巾掛けの動作か何かに変えてくださると大変ありがたいんですけど」
 志下沼さんは唖然とした。いい表情だ。
「多分そうなんでしょうけど、彼とは話が出来ないんですよ。どうしても通じないんです」
「ほう。やはり死後にも霊の間には何か波長の違いみたいなものがあるんですか?」私はつい興味を持って訊いた。
「いえ、携帯を解約したみたいで」
「……携帯って。あの世にも電話会社があるんですか?」
「ありますよ」
 ……あるのかよ。
「大体、話の筋から言って、すべての原因は君にあるようだが、東京の屋敷に帰ってから何があったのだね?」
 志下沼さんが、珍しく話の流れを修正した。
「それが……実は、帰り着いたのが嵐の日でして」
「ええ」
「玄関で転んでしまいまして」
「ええ」
「それ以来、記憶がないのです。どうやら頭を打って人事不省になったあげく、何かに取り憑かれたようです。それで、酷く暴れ回るものだから、ずっとあの部屋に閉じ込められていたようです。で、まあ、そのまま衰弱してその後死んだようです」
 実にあっさりとした素晴らしい要約だった。
「取り憑いた何かって……何?」ベッキーが言った。
「分かりませんが、魔物……ですかね。憑依されていた間、どうも外国語を喋っていたようです」
「……(リンガラ語だ)」
「……(リンガラ語だ)」
「……(リンガラ語だ)」私たち三人は同時に思った。だが、天井付近にほくそ笑む黒い気配を感じたので、さらっとこの件は流すことにした。
「……で、死後はどうだったんですか? ずっと例の開かずの間に?」
「いえいえ、霊界管理事務所の紹介で、あちらの教育機関に通わせていただきました。その後、中堅の出版社に就職して現在編集の仕事をさせていただいてます」
「……えーと。……編集ですか?」
「ええ。BL本ですねー。売れ筋ですよ」
「えーと、そうじゃなくて……あの世って、そんなもんなんですか?」
「幽霊が言っているのだから、間違いないですよ。……ここだけの話、今の政権が経済オンチでして、出版不況が長引いてましてね。いろいろどこそこが危ないとか噂が出てます。大手も例外じゃないですね」
「……」
「あのー」ベッキーが言った。「容姿が大変お美しいのですけど、多分お亡くなりになったときの年齢と合わないのではないかと思うのですが。やはり、霊界では若返るのでしょうか?」
「ふふ」朱石光治の幽霊は笑って言った。「アンチエイジングと美容整形ですよ。僕の唯一の趣味です」
「……そうなると、年をとって死んだ場合どうなるので?」
「ヨボヨボですねー」
「呆けてたら?」
「呆け呆けですねー」
「介護は?」
「いや、もう死なないし」
「……」
 死後の世界の、恐るべき真実に我々が打ちのめされていると、朱石光治の幽霊は時計を見て言った。
「そろそろ、ツアーの集合地点に行かなければなりません」
「ツアー?」
「最近、こちらへの渡航手続きが緩和されたので、里帰りツアーが人気なんですよ。今回はそのついでにお邪魔したというわけで。それでは、失礼します」
 朱石光治の幽霊は立ち上がると、冷笑めいた表情で我々を一瞥し、じわりと空間に滲むようにして消えていった。
 気まずい沈黙が部屋に立ちこめた。
 随分と酔いの回ってきたらしい志下沼さんが、ぐちぐちとつぶやき始めた。
「……だいたい、この怪談は誤字とか悪筆な文章をテーマにして始めたはずだったよなあ」
「ええ、まあそうです」私は仕方なく応じた。
「俺が頑張ってせっかくシュールでオフビートな雰囲気を醸し出してやっていたのに、どこで間違ったのかなあ」
「……何だか、私に責があるような言い方ですね」私はむっとして答えた。
「語り手なんだから、それはないとは言えないだろう。もっとうまく舵取りをすべきだったんじゃないのかね」
「……その舵取りをすべてぶっ壊してきたのは誰なんですかね」
「まあまあ、これで終わりなんですから」ベッキーが立ち上がって新しいグラスを三個用意した。それぞれに同じ分量を注ぎ入れる。
「乾杯して、皆同時にテーブルにグラスを置いて終わりにしましょう(「乾杯して、皆同時にテーブルにグラスを置いて終わりにしましょう」に傍点)」
「……お前は早く終わりにしたいらしいねえ」
「当たり前じゃないの。やってられないわよ。あなたの妻役なんて」
「……それ、あんまりじゃないか?」意外にも志下沼さんの目に涙が滲んだ。「こんなに愛しているのに」
「はいはい。じゃ乾杯しましょうね。これ持ちなさいって」
 ベッキーが無理矢理、私と志下沼さんの手にグラスを握らせた。
「では、かんぱーい!」
 皆、条件反射的にグラスを煽る。そして、次の瞬間、三人の空いた手がそれぞれのグラスを持った手を掴んでいた。
「なにやってんの!」
「置かせるものか!」
「語り手の責務として、ここはひとつ私に!」
「グラスといえば志下沼さんだろうがよ! だいたい、語り手さんよ、お前一体誰なんだよ!」
 え?
 ……そういえば、私って一体誰なんだろう?
 レゾンデートルを一撃されて隙が出来た。志下沼さんの腕がすり抜けてしまった。
 だが、そのグラスがテーブルに置かれる寸前、ベッキーの掌がその底に滑り込んだ。
「最後くらい、あたしに譲りなさいよ。愛してるんでしょ!」
「……それとこれとは別だ!」
 グラスを置くことに異常な執念を燃やす志下沼さんは、ベッキーの体を毟り取るように引きはがすとソファのほうへ押し倒した。
「はははははは! ついにこの時が来た!」
 勝利を確信した志下沼さんが、魔王さながらに哄笑した。
 味わうように、じっくりとグラスをテーブルに近づける。
 あとほんの僅か……、だがその時!
 作者は書くのをやめて、ゆっくりとグラスを置いた、という。




 その「朱石光治君のこと」という文章は、「私」と「朱石光治君」との馴れ初めから、肉体関係に至るまでの経緯を興味深く描いていた。当時の珍しい学生の風俗を交え、堅実だが飽きさせない筆致でそれは淡々と進んでいく。
「……こうして、私たちは一時の愛の巣となった居室に籠もり、日々お互いを心底まで貪ろうとしていた。しかし、ある日朱石君の長兄から帝都へ戻るようにという手紙が舞い込んだ。ふむふむ」ベッキーが読み上げ続けていた。
「……いや、『ふむふむ』って、実際にはそんな風に独りごちないよな」例のポーズで志下沼さんが言った。垂れてきた前髪をちょっと直す。
 ベッキーが凄い視線を送る。
 志下沼さんは、あさっての方向を向いて、チビリと酒を舐めた。
「手紙に書いてあった子細は不明だが、朱石君の顔色が青ざめるほどのものであったからには、一族の重大事であると察せられた。彼はほんの少しの手荷物を持ち、『用を済ませたら、まっしぐらに帰ってくるから』と言い置いて、寮を出て行った。……だが、それが今生の分かれとなろうとは一体誰が予想し得ようか」
「ふーん? 何があったんでしょうねえ?」
「……調べたみたいよ。続きがある。……一ヶ月後、全く音信が途絶えた上、朱石君に関しては『病気休学』との通達が学校側から出された。しかし、彼の肉体が健康そのものであったことは誰よりも私が一番よく分かっていた。あまりの不審さに、朱石家の当主に面会を願う手紙を出したが、それは拒絶。病名は『朱石家の為と慮り候事平に願い』『市井では口に出すことも憚る類』という文面が続くばかりであった。私は、業を煮やし、朱石家の門を叩き面会を乞うた。が、書生数名に袋叩きにされ、腕を折られ放逐された。鬼哭啾々、私は退学の憂き目をおい、正業に就けず、放浪するよりなかった」
「……おいおい」
「数年後、ある木賃宿で朱石家の補修を請け負ったという職人と出会った。刃傷沙汰も辞さない覚悟で問い詰めると、座敷牢の解体工事だという。そして、この翌日の新聞に朱石光治君の小さな訃報が載っていた」
「ええ?」
「活字職人である私は、かねてより朱石光治君という存在を世から抹消しようという何者かの意図を挫くために朱石家の家系図を秘匿し、これを印刷できるように用意していた。今回その後半にこの手記を追加し、小冊子とすることにした。私は、例の職人に有り金を渡し、有川家の床下にこれを隠すよう頼んだ」
「……」
「理由は不明なれど、朱石君を幽閉の上横死させ、我が人生を狂わせたあの家を呪わずにおられるものか。病魔に侵されし我が生、残り僅かなり。我、大怨霊となりて、子々孫々に至るまで朱石家を祟り尽くさん。――うわっ、血で呪符が書いてある!」
「うーむ。ベッキー浜口氏が訪れているからには、その後その怨霊が出たんだろうな。それで開かずの間になって、それが、後に伝わったと」志下沼さんが言った。おそらく、その通りなのだろう。
 信じられないようなシリアスな展開に私は戸惑っていた。
 ダメ怪談じゃなかったのか? これじゃあ、普通の怪談だ。何だか……。
 ……怖いじゃないか。
「……いや、怖くないですよ」
 突然、耳元で若い男の声がした。
「ななな、何だ?」ソファから転げ落ちるようにして見上げると、木綿の紋付きの羽織に小倉袴という、明治期の書生風の格好をした若い男がにこにこして立っていた。
「こんにちは。朱石光治です。はじめまして」
「えええ?」
「正確には朱石光治の幽霊です」
「何てこった」志下沼さんが、機械人形のような所作で、酒をグビリとやって、スタンとグラスをテーブルの上に置いた。
「うっわー」とベッキーが嬌声を上げた。
「すっごい美青年!」
「でしょっ?」華麗に朱石光治が髪を掻き上げた。特殊効果の光点が背景を覆った。
「僕が言っちゃっていいのかな? 次回、最終回。ほれほれ肩出しサービス、サービスぅ!」
 グラスが割れそうな勢いで、志下沼さんがテーブルにそれを叩きつけた。
「俺の出番をとるんじゃんねえ! オホン、……次回、最終回だよん」
「うわー、グダグダだぁ!」私は耐えきれずに叫んだ。
 再び、一陣の風と共に黒い影が部屋を駆け抜けていった。
 気がついたときには、ベッキーの白い掌に一冊の薄っぺらい小さな本が握られており、志下沼さんがそれを一瞥して不愉快そうにちびりと酒を飲んだ。
「これですわ。箱ごとあげちゃいましたから、まだ中は見たことはありませんの」
「拝見します」そっと受け取る。一見しただけで分かったが、注意しないと頁がバラバラになってしまいかねないほど痛んでいる。
 表紙には題名と著者名が印刷されているようだが、酷く擦れてしまって判読できない。
 ○○家○血○○○書?
 それを捲ると、「覚書 ベッキー浜口」とあり、明治後期の日付と共に鉛筆で金釘流の文字が書き込んであった。
 現代風に直すとこんな感じだった。
 ――念願だった。とうとうだ。この家で調査できるのだ。私がだ。民俗学の中には不明なことがある。沢山だ。それは昨今流行している心霊にも。きっとだ。関係しているのだ。だから、この家を調査するのだ。そして、解明する。私がだ。とうとうだ。とうとうだ。開かずの間だ。この日本一の家。本邦最強の幽霊屋敷。凄くラッキー!
「変だ」私は首を捻った。
「ええ、本当に変なお方だったと伝え聞いています」と、ベッキー。
「変な体言止めの論文ばかり書くので学会を追い出されたんだそうだ。……もっとも、日本の民俗学が確立したのは昭和に入ってからの話だから、もともと設定が変だけどな」と志下沼さん。
「……いや、そうではなくて、これではベッキー浜口さんの死ぬ以前に開かずの間が既に存在していることになってしまいます」
 妙な沈黙が場を支配した。
「それは私も存じ上げません。伝わっているのは、浜口先生の亡くなった後の怪異談だけですわ」
「俺もそんな話は聞いたことがない」と、珍しく普通の間合いで志下沼さんはグラスを置いた。
「まあ、先を読んでみましょう」私はまた頁を摘むようにして捲った。
 だが、そこには文章は無かった。
 朱石家家系図とあり、数頁にわたって細かく図面が描いてある。
「朱石は私の旧姓。私の家系ですね。……でも、家系図は明治のご一新のドサクサで失われたことになっているのですが」
「写しがあったとか。……大元は清和源氏になっていますが、これはよくあること……幕末あたりからがまあ本当かな。本当じゃないと整合性がとれませんからね」
 辿っていくと、明治期に入り朱石家のあの屋敷を作った世代に達した。
 戦死、病死という但し書きが急に増える。
「日清日露で結構活躍したんですよ。軍人が多かったとか」
 が、ポツンと〈横死〉と書かれた人物があった。しかも朱で上書きしてある。
「朱石光治?」
「これで見ると屋敷を建てた朱石兼利の末の弟ですわね。……でも、存じ上げないわ」
「さすがに雰囲気を読んで山括弧〈〉を使ったな。<>だと縦組みしたら出だし部分みたいになっちゃうからな」志下沼さんが、へらっと嗤った。
「……」ようやく面白くなってきたところで茶々を入れる志下沼さんが、流石に鬱陶しくなってきた。どこかに行けばいいのに。
「どこにも行くもんか」
 何であんたは地の文が読めるんだよ!
「早く次の頁を」俄然興味を覚えたらしくベッキーが急かした。
 次の頁からは縦組みの文章が印刷してある。
 ――朱石光治君のこと
 朱石光治君の不遇な人生について、ここに唯一無二の親友として記録を残す。
 思えば彼との出会いは奇縁としか言いようがない。○○高校の学生寮で偶々同室とならなければ、私は彼の時代を遙かに超えたような感性や深い洞察に基づいた豊かな知識について知りようもなかった。
 あの少年時代に、そういった輝くような個性に巡り会えたことは、今にしてみれば胸を灼くほどの喜びである。
 目を閉じれば、あの横顔が。白い零れるような歯が。暖かな、あの掌と艶やかな指先が思い出される。
 最初の接吻は
「……あれぇ?」私達三人は首を捻った。
「BLかっ!」何故か憤然として、志下沼さんはグラスを置いた。
「どーすんだ、この先!?」