先日、ある女性をめぐるスキャンダルについて問われ、
「絶対に答えられない。これだけは墓場まで持っていく」と応じた。
私にも口に出せないことはある。


秘密を暴露できない理由はほかでもなく、この秘密を話したら聞いた人はショックで2、3日頭が動かなくなるから。
私も口にした瞬間に思い出して同じように注意力散漫になり、かならずどこかしらの場面で不幸にあう。


こういう意味で、呪文は存在する。









話を逸らしてみる。
私たちは目で見えるものしか信じることができないが、所詮、目で見えるものは、光という電磁波に反応するものだけである。
つまり、光がすり抜けるものは目でとらえることができない(余談だが、本来なら宇宙人はいるのかという命題は、「宇宙人は光という電磁波を受け止めるか」という問いから出発しなければならない)。


そして、目に見えるものは脳に伝達される情報であって、
その情報は、いうまでもなく耳から、手から、鼻からのそれと同じである(人間の脳の構造上、目で見える情報が一番重要視されやすい。だからこそテレビはマインドコントロールを生みやすい。また、目で見えるものは真実だと勝手に思うからこそ、薬物や深い瞑想状態でトランス状態に陥り、幻覚を見れば、幽霊や心霊現象に遭遇したと思い込むことになる。これをシステム化したのがオウム真理教である。目で見えるものはあくまで、脳が感知しているものであって実体ではない。幽霊が見えている人は本当に見えているのだ。そんなものは見えて当たり前という構えをとることに伝統宗教は重きをおいているし、それこそが伝統宗教とオウム心理教の違いである)。











話を戻そう。


情報が脳で処理されている以上、人に極限の恐怖を与える映像を作り上げることができるし、ショックを与える「音」を作り出すこともできる。


そうした映像・音は、人の脳を機能停止させることが可能で、それに汎用性を持たせれば「呪い」は完成する。


もっと簡単にいえば、
自分の兄妹にいますぐ電話して「いま病院から連絡あったんだけど、父ちゃん事故で死んだって!」といえば、
それを聞いた兄妹の脳はすぐに機能停止する。


注意力散漫になり、高い確率で事故を起こすか怪我をする。


完全な呪いである。


また、自分の子供にむかって「死ね死ね死ね」と永遠につぶやきかけたら、その子の精神状態がどうなるかはいうまでもない。要はどれだけ脳に影響を与えることができるか、であり、それが脳の脆弱性であり、逆にいえば、呪いはたしかに存在するが、所詮この程度のものである。



ただし、
いまの例でいう「死ね」という言葉(音)は明らかな日本語である以上、外国人には効果がない。

どこかの国の言葉(language)ではなく、万人に通用する汎用性がある”音”を、呪いというのであろうし、おそらくそれは存在するのだろう。

それはことごとく単純な”音(サウンド)”であって、とてつもない恐怖を煽るものだと思う。

それは覚せい剤と同じである。







呪いはとてつもなく科学であり、呪いをかけられれば、事故にあうなどの不幸がふりかかってくる。逆にこのメカニズムがわかっていれば、覚せい剤どころか、聴いてはいけない話、関わってはいけない人からの危険を避けることは、もしかしたら可能かもしれない。




毎年、既定事実のように3万人が自殺し続けている。


12年間連続だから、36万人分の人口が減ったということで。



家族4人と考えた場合、自殺した本人も含めて120万人がかかわっていることになる。



親戚、友人いれたら500万人だろうか。



それだけの数の人間が、自殺とつながっている(が、それ以外の人たちにはその存在が見えない)。





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自ら死を選ぶのはもってのほかだろう、というuniversalな倫理観は、



“これから自殺しようという人”には有効に機能する(ことになっている)が、



“もう自殺してしまった人”の遺族には、単なる重責にしかならない。



自殺遺族は、身内に殺人犯を抱えたように、「事実」を他人(社会)に打ち明けられないまま、ぽっかりと空いてしまった心の隙間をただ、見て見ぬ振りをしながら生きていくしかないのである。



これが、病気で死んでしまったとなれば、時間というものが曇った心を氷解することがあるかもしれない。



いつか、


どこかで、


だれかに、


なにかしらのかたちで語れる日が来るかもしれない。



母の死でさえ、自分の文脈に落としこめる日はやってくる(はずだから、今日も多くの人が親の死を乗り越えて生活している)。


しかし自殺は、他の人の人生の文脈にうまくパズルすることができないままなのではないだろうか(だから、冒頭の500万人が“見えない”のである)。





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蛇足だけれど、



前原国交大臣は父親がいない。という話は有名だが、



彼の父は自殺で亡くなった。



その死を語るのに、前原は33年かかったという。



33年という長さを考えれば、



自殺の原因がいまだに多く語られないのは自然なことかもしれない。




長崎には、自殺で家族を亡くした遺族が語り合える場を提供している若者がいる。



山口和浩(NPO法人自死遺族支援ネットワークRe代表)、30歳。



「家族の自殺について『語る』ということは、亡くなった人と真正面から向き合うということでもある。『死んだ』『自殺した』ということに向き合うのでなくて、亡くなった人がそれまでどう生きてきたかというプロセスに焦点を当てて、向き合うことができる」


いま彼は30歳になるけれど、わたしは彼が28歳のときから知ってる。若いのにすごいなぁと思ったけれど、

それ以上に、自殺を封じ込める鬱屈した空気に対して異議申し立てたいという気持ちが(若いからこそ)あったんだなと今は納得できる。





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さて、


死は、人が生まれた数だけあるはず。


自殺すら、ほかの死と同様にとらえることができるなら・・・少なくとも遺族にその自由が与えられるならば、


自殺大国を解体する糸口は、なにかしら見えてくるかもしれない。


ある論客はわたしに言った。


「もう何をしても人に迷惑しかかけられないような状況で、自ら死を選ぶということに対しては、幾ばくかの敬意が必要ではないか」と。


これについてはいつか機会があったら書いてみたい。

これ最近めっさ聞いてる><

Weaver-Hard to say i love you









離れていれば 思い出す度に幸くて
隣にいても伝えられないまま 強がって笑って

あの日の僕らは
であえたこの運命さえも
向き合うことができないでいた

HARD TO SAY I LOVE U
言えなくなって
だれよりきっと愛してる
心は触れあえなくても
せめて今だけは側にいて

HARD TO SAY U LOVE ME
言えなくたって
見つめていたい愛してよ
叶わないなんてわかってても
それでもいい
きみじゃなきゃだめなんだ
嘘にならないように

触れた指先 築きとめられない理由は
違う人生でここまできたからさ
できないよモドカシイ

信じた言葉を
現実が破り捨てて
信じることにすがりつくよ


HARD TO SAY I LOVE U
どんな時だって
嘘にできない愛なのに
伝えることは叶わない
切ない夢の中それでも

HARD TO SAY I LOVE U
涙になって消えてくような愛じゃない
同じものたくさん持ってるよ
失えない 君じゃなきゃだめなんだ
見えない愛に触れて

ねえ僕がいつか
すべて抱きしめあえる夢は
優しい程残酷で
なきそうな程愛でしいんだ

HARD TO SAY I LOVE U
言えなくなって
だれよりきっと愛してる
心は触れあえなくても
せめて今だけは側にいて


HARD TO SAY U LOVE ME
言えなくたって
見つめていたい愛してよ
叶わないなんてわかってても
それでもいい
きみじゃなきゃだめなんだ
嘘にならないように