なぜぼくらはおいていかれたの 

なぜぼくらはおいていかれたの 

地球はみんなの星 猫も犬も大きな動物も小さな生き物も人間も 心に感じる思いをまげず ゆうゆうとのうのうと生きる星 




 

佐々木和恵@マオアキラのブログです。おいで下さりありがとうございます。筑波山をのぞむ自分。写真撮影は写真家の坂本博和さん、構成は音楽家のもうえりんさんです。

ちょっとした成り行きで、サラリーマン家庭だった我が家は、他者による猫犬の捨て場のようになり、普通の暮らしを失い、、経済の破綻、世話の大変さを抱えた”猫の家犬の庭”となりました。それがもう40年以上続いています。そして、2011年に東北を襲った大地震と福島原発の爆発で置き去りになった猫や犬たちへの給餌を5年続けてきました。
20年に及ぶ夫の介護、100歳で他界した継母の介護が6年間を経、大変さはなかなかのものでしたよ。介護と言うものは、自分の力足らずへの悔いも深いですからね。

こうした暮らしを、”動物愛護運動”として社会的な活動にしていけば、人の理解や共感を得られ、自分の飼い猫や犬を平然と捨てたり、虐待の対象とする人の心にその惨さを深く訴えることができたかもしれません。
でも私はそれが出来ませんでした。そうした社会性や力がなく、ただただ捨てて行く人への怒り、行政への不満、捨てられていく猫や犬への哀れさを嘆くばかりでした。

そうして私は疲れ切り、老い、今は子供の頃から自分の魂の救いであったそれなりの夢や希望を失い、森の横の貧しい家で、虚無と寂しさに打ちひしがれながら茫々と茫々と生きているのです。


【どんなに愛しくても、いかに守ろうと心を砕いても別れはやってきた。
突然に、あるいは無残に、その日を迎えたこともあった。
今はただ、私の近くで生きてくれた忘れえぬ動物たちみんなに、感謝と哀悼の想いをこめて、心からありがとうと鎮魂の祈りを。そして、叶うなら、再会を・・・・・・】


苦労と失意を背負わせ続けた夫が他界し、戦争の傷を耐えて私の至らぬ介護を受けて来た継母が逝き、私は、あらゆる自信が落ちるままに、上の想いのみに縋っていました。


でも最近、己がちょっと変わってきたように感じるのです。
これまで私はいくつか童話や児童書を出してきたのですが、それらの作品を、まるで盗作してきたヤツのように、あるいは尚、他者を利用し頼って利益を得ようとしてきたヤツのように決めつけられ、それのみが真実のようにされるままに苦しんで苦しんで苦しんで苦しんできた上に、他者のそうした残酷に打ち勝とうとして、醜く足掻いていた、と悟ったのです。

1+1は2としか決めぬ世上の存在に、私はどうしてこうも影響を受け苦しめられてきたのか。
今後はそれらの痛みをスタートとして、人生の内なるを己の魂が離さぬだけのものを書いて行こうと。
そして、動物たちとの交感、苦労、泣き笑いなどは溢れるままに見つめ、看取りの日がくるのを心深く受け止める。その日まで自然にともに生き抜こう。


・・・・・・・・・・・・・・・

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クロがいなくなったあの夜中、人為があったことは自分が実際に見たし、だからの恐れだった。

この地域は、少なくとも動物のことでは、警察も役所もセンターも、新聞社もNHKも、何を真実とし何を信用するか、私はもう言葉に出す気もないほどの失意を身に受けていた。

 

起こったことが大きな影響力を持つものになれば、人はそれなりの自分の分を思い出す。

だが、社会的な力を持たない流浪の個人が何を受けようが見ようが訴えようが、警察も役所もセンターも、新聞社もNHKも、唾棄すべき抜け殻いじょうに実態はない。

私は普段は黙っているがそれらを鮮やか知っている。笑い飛ばしてやりたいほど、少なくともこと動物のことでは、【何を真実とし何を信用するか】など彼らが考えもしないのを知っているのだ。

 

だから、私はいつも、流浪の力なき年寄りのまま、対峙する。

それだけの存在だと、馬鹿にするな!!!

 

 

と、怒るのはもおいい。

どういう経緯だか、クロは生きていて見つけたのだ。

 

「クロを知りませんか」と聞いたとき、その人は、「日本語わかりません」といったがそれを無視して、私は、「日本では、犬や猫を家族や友達としています。殺したり食べたら犯罪です」と言って夕方の野良たちへのごはん配りに別の森に入った。

 

それがほぼ5時だったと思う。

そしてそこで、生きたクロを見つけたのだ。

クロは瘦せて、ぼおおおっとしていた。あれから

 

私が心臓が止まりそうになって興奮して経緯を考えていたら、一色さから電話があってたどたどしく何も言えずにいた。

 

実際、こんかいのこの仕儀は、何が起こったのだ!!!???

不思議すぎて落ち着かない。

あれから7時かん経っているが、クロは眠っている。

 

この町に、食文化の違う人達が住み、役所の職員さんさえもが、「その群落では犬や猫が次々消えていく、という噂が広がっている」という。最初に私が聞いたのは3年前だ。・・・・・あれから私は、「文化の違いは当然あっていい。だが、その地域地域の法律やルールを なぜ教育しない? そうした基本があってこそ、人同士の敬愛や信頼がわくのではないか」と何度も言ってきたが・・・・・・ナニセ、流浪の貧しい社会性もない年寄りは・・・(笑)。

 

やれやれ、身体の痛みも根治せず苦労ばかりだが、今更、猫たち放っておいて引っ越してしまうわけいはいかない。

 

今夜は疲れすぎ。

これから教会の礼拝を音声で伺って眠りたい。  結構元気にはなってきた自分。夫が健在だった頃、私は夫から、「君は鉄の女だ」と言われてきたんだ。(笑)

 

私は少し神経が参っていたのかもしれない。

今日の午後、ある家に行ってクロを訊いた。

 

そこは食文化の違いで、神経質で心配性の私は、そこで時々問題を起こしていた。

警官を呼んだこともあり、私はそこのボスと対峙し、警官から、お宅一人では絶対にあの山の敷地にいってはならんと言われていた。

 

あの身体が動けないほど痛く寒真夜中、クロが人為的に消えたあれから、私はほんとにおかしくなっていた。

そして今日、その家のある人の姿をみたとたん、私は閉じていた檻のような柵につかまって、【クロを知りませか。この前のめちゃ寒かった夜、クロをぶらさげて山のほうに消えたの、あなただったでしょう。私は身体が悪くうごけなかったけど、這って少し動いて呼んだのですよ。あれはああただった気がする。あなたもクロの声もお宅の山の】・・・・・・今日亜kれでやめよう。手が震えるし、私、神経が落ち着いたらゆっくり書きます。

 

クロを生きて見つけたおです!!!

夕べ一晩中繰り返し、神はわたしたちが思うよりも慈しみ深い  (石田 学牧師)をお聴きした。

 

その感慨を今丁寧に書きたいのだが、朝 猫たちのごはん配りに頑張ったあと、自分はやっとお味噌汁をいただくのが精いっぱいな状態で、特に身体を縦にしているのがつらくて書けず、多分非業の死であったろうクロとつらくてならない自分への傷みを陽炎のように・・・・・。

 

 

 

やはり休むことにする。心がね、寂しくて仕方がなくて。

 

私は40年以上にわたって猫たちや犬たちと、知らぬままに友達であったり、同士であったり、遠慮する関係であったり、たくさんたくさん出会い暮らしてきたが、誰一匹たりとも、彼らはそれぞれの野の花であっただけだった。

 

私だけが、花も咲かせず、自分勝手で、愛なき人間であった。

それが、つらい。

 

石田先生の礼拝から、そんな私の全て、山から流れてくる清水に浸されていくような気がする。

 

ゆるしてくださってありがとうございます。

無理はやめよう。調子にのって元気出そうとしてみたが、ほんとにまずくなりそう。

 

かいそうすぎる。

クロ。

 誰のせいでもない。

わたしのノーナシのせいだ。

 

安心してください。私が動けなかった一か月だったが、うちの猫たちも森の野良ちゃんたちも、朝夕はしっかりしっかり食べた。

 

ただ・・・・・人為的な悲惨を助けてやれなかった。あの日。あの真夜中の寒い寒い日。

 

真夜中の2時頃だったか・・・【駆けつけなきゃ!】と這って這って外に出ようとしたのに、クロの声をたどろうとしたのに、私は自分の痛みをどうすることもできずころがっていただけなのだ。そしてあのでかくて優しいクロの無残な声は消えた。

 

 

 

私なんか死ねばよかったのに。

ほんとに、私なんか、死ねばよかったのに。

 

なぜ、あの一か月、

携帯も家の電話も私自身も、壊れていたのか。

 

一気に押し寄せてきた不調で起きることもままならないここ一か月だったが、薬を強いものに変えていただいた一昨日から、夢のように楽になった。

 

こうなりゃこっちのものだ。PCも開けず教会の音声の説教も伺えなかったのだが、今日から繰り返し聴けるようになった。よかったよかった。(´∀`)

 

お調子ものの私は、まだ身体が本調子ではないのをいいことに、テレビドラマの感想を書き始めた。

 

終わったばかりの、【麒麟が来る】。

 

私は実は中学生だったか高校生だったかの頃、父に連れられて池袋で中村錦之助の【織田信長】を観てとてもとてもとても面白く感激した記憶がある。

勿論今回の【麒麟が来る】とは異端うのだからそれぞれの宇宙観は違うものであるが、【信長】という稀有の人物を描いた強烈な魅力は並ぶ。

そして私は、かって、錦之助の信長は何十年経っても他の誰とも比べようはないと思っていた。

 

だが今回のNHKの【麒麟が来る】の信長は、十分比べられるほど素晴らしかった。(染谷さんて何もの?)

 

そして、主君殺しの明智光秀の【光と闇の深み】は、イエス・キリストが受け続けた悲しみのようでした。

 

面白いドラマでした。

病気と猫たちの受難に落ち込み続けていたことからも立ち直れるかも。

 

S・Y子さま

 

猫たちのフード、猫砂、たくさんのちゅーる、またまたこんなに早くありがとうございます!

すぐにお礼の記事を書きたかったのですが、ぎっくり腰に参ってしまって、実は昨日も先生から痛みがらくになるまで安静を言い渡され、

(椅子に座るのもいけないそうなのです)パソコンも開きたいのにしんどくてすみません。

Y子さんは大丈夫ですか。どうかお大事にしてくださいね。

 

 

M田さま

 

昨日はおかげさま病院に行くこともでき、今日は安静にもしていられ、心から感謝しています。新鮮で柔らかそうな野菜も大豆の餃子、ハンバーグももう届いて、頑張ってお昼の食事は出来そうで、それだけで嬉しく元気になりそうです。

電話は止められた事情よりも口内炎で話ができあいのが問題なのですが、しばらく携帯おない暮らしを楽しみます。((´∀`))

もし電話が必要な時は、0296-48-3430にかけていただきますとありがたいです⚘

 

ここのところ再発も含めてぎっくり腰、左脚の痛み、胸の痛みなど思わぬ最悪に参っている今朝、なんと、家の猫、猫の猫たち、森の猫たちにご飯配りをしようと納屋に行ったら、2月15日まであるはずのフードがなくなっていた。身体の痛み、不自由が普通でないなどで買い物に行けず、

本当に卒倒しそういなった。

 

M田さんにご相談したら、なんと! 明日届くように送れますよ、と言って下さり、言葉もなく感謝と安堵。

だが心身参ってしまいぼろぼろ状態でこれからやすむ。

 

その前に、祈りと礼拝の説教をお聴きするつもり

・・・・・

 

明日せめて遁走猫のおーちゃんが捕まってくれたらどんなにいいだろう。

 

病院にも行けず、寒さの中動物の世話に神経を使っているのですが、私自身がぎっくり腰の痛みと寒さにどうも気持ちがだらけているのか、またまた猫が一匹遁走してしまい、恐ろしい事にまたギックリ腰に再度襲われてしまい、すっかり気持ちも身体の疲労も自分を保つのがしんどくてならず・・・と言う状態になってしまった。

 

今朝は2時間近く、遁走猫を捜し歩き、せっかく見つけても捕まらせてくれないので、

ストレスと心配と疲れが高まりどうなるやらと暗澹気分。

 

ぎっくり腰さえ快癒に向かってくれれば少しは気分も楽になるのに、午後の2時の現在、今後どうなるか気がかりばかり。

 

社会は大変な事態が深まっているという状態であるのに、私は自分の痛みや辛さに情けない状態ですみません。

皆様どうかこの事態に負けずお元気で!

 

私、こうは言ってるのですが、今年文学関係数人の方からとても素敵な元気づけて下さるご連絡をいただいて、夢のように嬉しかったり、元気に明るくなったりして、とてもとてもとても感謝しています。(^^♪

 

きょうの福音書からどう説教すべきか。

わたしにとって悩ましい箇所、

そして読むごとに心の痛みを感じる箇所です。

イエス様の言葉が、

わたし自身に対する叱責のように、

わたしをとがめる批判のように、

わたしには思われる箇所だからです。

牧師になる前にもありましたが、

牧師として小山教会に赴任してから、

これまでいろいろな方たちのために、

癒しを祈り、病の回復を祈り、

朝から晩まで、時には夢の中まで、

癒しを必要としている方のため、

祈り続けてきました。

それらの方たちの中には、

回復して元気になられた方がおられます。

祈りが聞かれたからなのか、そうでないのか、

わたしにはわかりません。

人の知るべきことではないのでしょう。

しかし、心からひたすら祈って、

祈りの甲斐無く天に召された方の方が、

ずっと多いのが現実です。

何年経ったとしても忘れることはなく、

どきどき、あるいはしばしば、

それら召された方たちを思い起こして、

心がうずくことがあります。

若くて前途ある方が病に倒れ、

その方の癒しを神に願い、祈り、

結局、その方を天の御国に送りました。

この会堂での最初の葬儀でした。

念願がかなって教育者となり、

希望を抱いて新たな働きを始めた方が、

病にかかりました。

わたしたちはひたすら祈り、

神に癒しを願い求めました。

しかし天に召されてゆきました。

幼い子どもたちを抱える方の癒しを祈り、

祈り、祈りました。

摂子と二人でこんな会話をもしました。

「きっと癒されるね、

そういう確信が与えられたから」。

しかし、この会堂で葬儀をしました。

苦労の多い生涯の後、やっと、

平安に満ちた幸せな日々を得た方が、

重い病を患いました。

朝に夕に祈り、

訪ねて行っては祈り、

最後まで神は癒してくださると願い、

天の故郷に帰ってゆかれました。

母胎内で肝炎ウィルスに感染した、

わたしの弟のため、

日々祈ってまいりました。

ウィルス性肝炎が肝臓ガンに進んでからは、

心から癒しを祈り、祈り求め、

しかし天の神の許に送りました。

その他にもいったい幾人の方の癒しを祈り、

祈りが聞かれなかったことでしょうか。

いや、祈りが聞かれなかったのでしょうか。

あるいは、こう言うべきでしょうか。

願ったとおりには聞かれなかったと。

イエス様と三人の弟子たち、

ペトロ、ヤコブ、ヨハネが、

高い山に登ってゆきました。

他の弟子たちはふもとの村で待っています。

山の上でイエス様の姿が変わり、

まっ白に光り輝く姿を見た三人の弟子は、

驚きに包まれ、恐れを抱きます。

すると彼らは父なる神の声を聞くのです。

 

  これはわたしの愛する子、

  これに聞け。

 

見ればそこには普段通りのイエス様がいるだけ。

もう光り輝く姿ではありません。

いつもどおりのこの方が、

天の父なる神の愛する子なのか?

この方に聞き従えということか?

三人はその疑問を抱き、

戸惑いながら山から下りてきます。

すると、ふもとでは騒動が起きていました。

山から下りてきた一行が見たのは、

残っていた弟子たちが群衆に囲まれ、

律法学者たちと議論している場面でした。

いったい何があったのでしょうか。

ある人が悪い霊に取り憑かれた息子を、

弟子たちの所に連れてきたというのです。

悪霊を追放してもらおうと願って。

怪しげな霊に取り憑かれた息子は、

口がきけなくなり、

地面に倒れてひきつけを起こすのです。

イエス様がその場におられないことに、

弟子たちは不安を覚えたことでしょう。

しかし、以前イエス様から派遣されて、

悪霊を追放した経験があります。

だから弟子たちは悪霊追放を試みます。

弟子たちが何をどうやって試みたのか、

マルコは何も伝えていません。

結果だけはわかります。

弟子たちにはできませんでした。

そのことを知らされたイエス様は、

怒りを含んだ嘆きの言葉を口にします。

 

  なんと信仰のない時代なのか。

  いつまでわたしは

  あなたがたと共にいられようか。

  いつまで、あなたがたに

  我慢しなければならないのか。

 

身を縮めてすまなそうにする弟子たちの姿が、

目に浮かんできます。

弟子たちにとって厳しい言葉ですが、

この叱責の言葉はわたしにもこたえます。

祈っても癒されない体験を繰り返す、

わたしに対する叱責にも聞こえますから。

幾人もの兄弟や姉妹が癒されず、

天に召されたのは、

わたしの信仰が足りなかったからでしょうか。

わたしの祈りが熱心さに欠けたからでしょうか。

だからこの福音書の箇所は、

わたしには重い箇所でした。

ずっと、長いこと、

イエス様が怒って叱責したのは、

弟子たちが不信仰だからだと思っていました。

イエス様の怒りと嘆きの対象は、

悪霊を追放できない弟子たちなのだと。

皆さんもそう思われるでしょう?

違いますか。

・・ほんとうにそうでしょうか。

そうではないのではないか。

わたしがそのように考え始めたのは、

14節のマルコの記述に目を留めてからです。

マルコはこう説明しています。

 

  一同がほかの弟子たちのところに来てみると、

  彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、

  律法学者たちと議論していた。

 

いったい何を議論していたのか、

マルコは議論の中身を伝えてはいません。

しかし、議論の内容は容易に推測できます。

彼らは弟子たちが悪霊追放に失敗した、

その理由について論じていたに違いありません。

なぜ弟子たちは悪霊を追放できないのか、

そのことで弟子たちは追及されていたのです。

弟子たちには力が無い。

悪霊を従わせることができないから、

弟子たちは偽預言者、偽教師、偽伝道者だと。

群衆も律法学者も、

祈りが聞かれるなら力のある証拠であり、

悪霊追放の力を発揮できれば本物だと信じ、

弟子たちはそれができないから偽物だ、

あるいは力不足だ、そう考えて、

みんなで取り囲んで追及している最中でした。

弟子の失敗は先生の失敗でもあります。

イエス様の教えも偽りだと言われたとしても、

不思議ではありません。

そこにイエス様が戻ってまいります。

事情を聞いたイエス様が嘆きます。

何を嘆いたのでしょうか。

弟子たちに対して怒り、嘆いたのでしょうか。

たぶん違うのでしょう。

イエス様の嘆きは弟子たちに向けてではなく、

「信仰のない時代」に対してでした。

願いどおりになり、祈りが聞かれるかどうかが、

本物の信仰だと考える世の常識、

この世の風潮をこそ、

イエス様は嘆かれたと考えるべきです。

だからイエス様は、

「なんという情けない弟子たちだ」ではなく、

「なんと信仰のない時代なのか」と嘆きました。

信仰が本物なら神は聞いてくださる。

熱心な祈りは必ず聞かれる。

イエス様の時代の世間の人々だけでなく、

今の時代もそう考える人は多くいます。

わたしたちクリスチャンも、

そのように考えていないでしょうか。

こうした考えからは、

しばしば逆の論理が生じてまいります。

神が聞いてくださらないのは、

信仰が本物ではないからだ。

祈りが聞かれないのは、

熱心に祈っていないからだという論理が。

祈っても癒されない時、

わたしたちは不安になります。

祈りが聞かれないように感じる時、

わたしたちの信仰が揺らぎます。

サタンのささやきが聞こえてきます。

「おまえの祈りが聞かれないのは、

おまえの信仰が足りないからだ。

おまえが不信仰だから、

祈っても癒されないのだ」。

願いが切実であればあるほど、

わたしたちは祈りが聞かれないと感じると、

困惑し、なぜかと問い、

信仰など無意味なのではないかと不安になり、

信仰を失う危機にさえ陥ります。

そういう考え、そういう風潮、

そういう信仰についての勘違いが、

この世界、この時代に溢れています。

そのような勘違いに満ちた時代、

そのような風潮が広まる世界のことを、

イエス様は「信仰のない時代だ」と指摘し、

怒りを込めて嘆かれたのだと思います。

神による奇跡は起きると信じます。

実際、聖書にはたくさんの奇跡があります。

わたし自身にも、

神の奇跡だと思う出来事や体験があります。

しかし、奇跡は自動販売機とは違います。

祈るとぽん、とはなりません。

もし信仰をもって祈れば必ずかなうとしたら、

それは奇跡ではなく、一種の自然現象です。

奇跡は、ふだんは起きるはずのないことが、

神の介入によって特別に起きることです。

神の奇跡も、神による癒しも、

人の力が及ばないことに対して、

神が介入することで起きます。

人の力や能力で成し遂げることのあり得ない、

特別なことが起きる出来事。

それは神が御心をおこなわれることであり、

神が人の理解を超えて御心をおこなわれることを、

わたしたちは奇跡と呼んでいます。

弟子たちにはできなくても不思議ではありません。

時として神は、弟子つまり信仰者の祈りを聞き、

奇跡をおこなわれることはあることでしょう。

でも、いつも必ずではありません。

では、どうしてイエス様は必ず奇跡をおこない、

癒しや悪霊追放を必ずできたのでしょうか。

それは、イエス様が神の御子だからです。

イエス様の意志、イエス様の願いは、

神の御心そのものですから。

しかし、弟子たちはそのことが理解できません。

だからイエス様に尋ねました。

 

  なぜ、わたしたちはあの悪霊を

  追い出せなかったのでしょうか。

 

イエス様がもしその時、

「それはきみたちが神ではないからだ」

そう応答したならすぐ納得したことでしょう。

でも、イエス様の答えは謎めいています。

わたしにとって、長く謎の言葉でした。

 

  この種のものは、

  祈りによらなければ追い出すことができない。

 

まるで祈れば追い出せると言うかのようです。

そうではないはずです。

この言葉は、

信仰によって熱心に祈れば聞かれる、

という意味ではないはずです。

この言葉を理解するためには、

祈りとは何かを考えなければなりません。

わたしたちはなぜ祈るのでしょうか。

自分でできることを、人は祈りません。

ある人は車を運転する前に祈ります。

「事故のないように守ってください」。

そう祈りますが、その人は、

「運転できるようにしてください」とは祈りません。

運転は自分でできるからです。

自分でできないこと、自分の力を超えること、

事故に遭わないよう守ってくださいということを、

祈りとして祈ります。

祈りとは、自分の力を超えること、

人の力や意志や思いを超えることを、

それゆえに神に信頼して委ねることです。

わたしたちはなぜ祈るのか。

神に信頼して、

わたしたちの直面する課題、困難、苦難を、

神に信頼して御心に委ねるためです。

「この種のもの」とイエス様が言われたのは、

人の知恵、能力、手の及ぶ範囲を超える種のもの。

それらをわたしたちは、

神に信頼して御心に委ねます。

だから祈ります。

その祈りを神は聞いてくださるでしょう。

わたしたちの願い通りにかなえてくださるか、

あるいはわたしたちの願いとは違う仕方で、

神が応えてくださるか。

それはわたしたちには分からず、

わたしたちが決めることもできません。

ただ、わたしたちは信じています。

パウロが確信を込めて語ったあの事実、

きょう使徒の手紙で読んだ、

コロサイ3:12の言葉を。

「あなたがたは神に選ばれ、

聖なる者とされ、愛されている」。

この事実に全幅の信頼をおいて、

わたしたちはこう確信します。

神はあなたに悪をなさることはなく、

むしろすべてを益となしてくださる、

そのように神は働いてくださると。

 

 



(以上)