「遅い、遅いぞ武蔵!」
待ちくたびれた小次郎は、男の顔を見るなり声を張り上げた。
「いや~、悪い悪い」
無精ひげを生やした武蔵は、悪びれた様子など全くなさそうに間延びした調子で謝ると、形だけ頭を下げてみせた。
「いざ、尋常に勝負!」
苛立ちを隠し、意気込む小次郎。
彼はすらりと刀を抜いた。
かの有名な『物干し竿』が、まばゆいばかりの姿を露わにする。
そして小次郎は、邪魔になる鞘をその場に放り捨てた。
「武士が鞘を捨てるとは……」
武蔵は呆れたようにやれやれと首を振る。
「この勝負、お主の負けだな」
その言葉がさらに小次郎を苛立たせた。
「何だとぉ!」
しびれを切らし、ただでさえ険しくなっていた形相をさらに険しくして、小次郎が声を荒げる。
自然と柄を握る手にも力が入り、手のひらはすでに汗ばんでいた。
「今捨てた鞘を見るがいい」
言われて、馬鹿正直にも小次郎は投げ捨てた鞘に目を落とした。
当然、彼の視線が武蔵から外れる。
「小次郎、破れたりぃぃ!」
武蔵ほどの達人ともなれば、その一瞬の隙を見逃すはずがない。
大空高く飛び上がると、後ろ手に隠し持っていた木刀を小次郎の頭部めがけ、渾身の力を込めて打ち下ろした。
腰の入ったシャープなスイング。
避けられるはずもなく、顔から砂浜へと小次郎は倒れ込む。
勝敗は決したのだ。
決まり手は、木刀による浴びせ倒し。
しかし武蔵は勝ったにもかかわらず、どこか虚しさを感じていた。
それは一人残された男の哀愁とでも言うべきものだろうか。
とはいえ、それでもたった一つだけ言えることがあるとすれば――『勝てば官軍』ということだろう。
こうして世紀の一戦は、武蔵の完全勝利で静かに幕を閉じたのだった。
それから時は流れ、一世一代の勝負に勝った武蔵ではあったが、同時に生命の儚さ、世の無情さ、そして自身の強さに嫌気が差して、ついには隠遁することになる。
そのとき記した書が彼の半生を描いた超大作感動巨編『五輪の書』であることは、あまりにも有名な話だろう。
しかし、これが後世近代オリンピックの起源となった事実は……あまりも知られていない。