大学受験や中学受験って、ある意味恵まれている。だって、勉強道具が揃っているもの。
しかし、世の中の資格試験というのはなかなかそういうものがそろっていない。

その準備に時間がかかる、というのがよくある。

受験者の人数によって受験参考書ビジネスがどうなるか、というのもあるんだろうけど、
勉強に徹せられる環境をつくりたいね。

政治選挙は結局組織票。そう思うとうんざりする。しかし現実がそうなのだから仕方ない。そりゃ支持者へのアフターケアや根回しするインセンティブがはたらくわけだ。

で、政治の話をしたいわけではなく、急だけどミスコンの話。

ミスコンもまた組織票がものをいう。いかにその候補者の友人、所属しているサークル、ゼミの人数が多いかでほぼ決まる。
もちろん無関係な方々(いわゆる無党派層)の数は多いし、彼らの動向が大きく変われば結果は覆されるけれども。

というわけで、「あの人かわいくないのに(失礼)なんであの人がミス○○なのよ」というのは組織票により起こる、と言っても過言ではないのです
まあ6人候補がいりゃ一様な平均的支持率は16.7%くらいで不支持率は83.3%なんですから、不支持者が多いということが一番の原因でしょうがね
「愛人」と「恋人」、どちらが純潔で響きがいいか、というと恋人であろう。

そりゃあ、愛人なら、すでに好きな人がいるのに新たに作った浮気相手みたいだし、
恋人といえば一途に想い続けている人、という響き。圧倒的に恋人のほうが良いに決まっている。

が、世の中には真心・下心論というものがある。

すなわち、「愛」は心の字が真ん中にあるので真心がこもっており、「恋」は心の字が下にあるので下心がある、という意味である。
そういう意味では、恋よりも愛のほうが一心に相手を想っている、ということになる。
そういう人なのだから愛人>恋人、という図式が成立する。

さて、結局どっちが正しいのやら。
集団で何かをする、というところの良い点というのは、1人では非効率的だったことが効率化されて、さらに自ら足りなかったところを吸収して成長につながる、ということだと考えます。

そうなると、集団で物事を成し遂げる、ということはどんなに素晴らしいことか、と思うのですが、現実ではそうはいきません。
それがモラルハザードというやつです。
全員の意識が高いとこういうものは発生しないのですが、集団において全員がこうであるとは限りません。

むしろ、意識が低く、モチベーションが低いまま、とりあえず言われるがままに来た、という人は少なからずいるわけです。

最近であればドラッカーの「マネジメント」あたり読んでモチベーションを上げればいい、というのが懸命かと思われますが、逆に手遅れ、という場合も十分あります。
大多数、しかもその中心人物が結構やり手な割にはやる気がない、というパターンは往々にしてあり得ます。

なぜこのような状況が起こるか。
理由はいろいろと考えられますが、よくあり得るのは
1.目標がない
2.目標はあってもその達成が不可能と思い込んでいる
3.目標はあってもそれを達成することによるメリットを感じていない
ということです。

団体競技ならばもしドラのマネージャーが欲しいところですが、もしも実はそうではなくて、個人別に取り組む、ということであれば、離れるが勝ち、ということも金ではないかな、と思います。

もちろん周りのモチベーションを上げる、ということが最も望ましいことは確かだし、まずはそれから試すことだと思います。
しかし、それに対するコスト(金だけではなく時間や労力)が高いと判断したら、その時点で区切る決断が必要でしょう。
学校教育だと好ましいことではありませんが、ミイラ取りがミイラになる必要はないのです。

ただ、これは自分の目指す方向がブレずに、さらにきちんと終着するという保証がある場合に限ります。

朱も交われば赤くなる、とは言いますが、馴れ合いの存在でしかなければ、その色も黒くなっていくでしょう。
初任給なるものを手にした。

明細表は紙ではなくデータ。バイトをしていたときはいつも紙だったのでなんか実感がわかない。

というよりも、そんなに初任給というのは特別なものなのだろうか、という思い。
バイトのときだってフツーに給料もらっていたし、今までの苦労が報われた、というような実感がない(それなりに頑張ってはいたけれども)。敢えて違うといえば、給料の額と、親からの仕送りがなくなる、ということ。

それはつまり、真の意味で自立するときがきた、というわけ。

といっても、、

まぁスネをかじりたくねー、という独立心が先行していたわけで、なんかドラマにありそうな涙涙のお給料、そしてそれを親孝行に使って(いや、さすがになんかしようとは思うけど)、今までの親の苦労をほとりと感じる、なんて感動的なものなんて残念ながらありません。サバサバしているだけでしょうか、そんなことはない。

「働く=苦痛」という図式で捉えて、その対価として給料をもらうというふうに解釈しているならそりゃ感動的かもしれませんが、それはなんのMなのだろうか。そりゃ大変なときだってたくさんあるが、僕としてはいかに楽しむか、ということに尽きると思う。こういうと就活生っぽく聞こえるけど、仕事をうまくこなしている一部の社会人に会うと、誰もが楽しそうに見える。それでフィーがもらえるのだから余計に楽しい。そして、それが対価として見合っているならばなおさら。

そう考えると、初任給というのは期待値込みの(厚かましい意味はなく)当然のものであって、そこに感動を含むものではないと考える。ただし、感謝は含む。

ともかくも、早く期待値を越えた活躍ができるように精進しないとな。。