如月隼人のブログ

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ブログの説明を入力します。

(※今回は中国と関係ない話題から入りますが、後の方で中国音楽の状況も出てきます。よろしければお読みください)


ジョージ・ガーシュウィン(1898-1937年、↑写真)が作曲した
「ラプソディー・イン・ブルー」について
「黒人音楽を盗んだ」と主張する人がおり
最近では専門家の間でもそのような声は強まっているそうだ

バカなことを言うヤツがいるものだ

ジョージ・ガーシュウィンは東欧系ユダヤ人の移民の子として
ニューヨークのブルックリンに生まれた

最初は当時の白人の流行音楽の作曲家として成功
その後
いわゆるクラシック音楽の分野も志して
1924年発表した「ラプソディー・イン・ブルー」
で大成功した

この曲は
黒人の音楽に起源を持つジャズの要素を取り入れていることで
知られる

たしかにガーシュインは黒人の血を受けていない
ということで
黒人音楽の特徴を取り入れた曲を書いたら
「盗んだ」ことになるのか?

ここで考えねばならないのは
ガーシュインは何を考えて
この曲にジャズの要素を取り入れたかということ

いまでもそうそういう考え方はあるけど
当時は
クラシック音楽は「高尚な音楽」
流行音楽は「低俗な音楽」という考え方が
とても強かった

流行音楽の作曲家がいわゆるクラシック音楽を書こうとしたら
「け、たかが流行音楽のくせによう」
と言われかねなかった

でガーシュインは
いわゆる「純粋なクラシック音楽」を書こうとしたのではなかった

流行音楽を通じて自分が得た「音楽」にもとづいて
「クラシックの形式の曲」を仕上げようと考えた

その時に取り上げたのが「ジャズ」だった
当時は黒人への偏見がとても強く
ジャズは流行音楽のなかでも一段と「格下」と思われていた
ガーシュイン「格式の高いクラシック音楽曲」に
そのジャズの要素を取り入れた

ガーシュインは「ラプソディー・イン・ブルー」について
「アメリカ音楽の万華鏡であり、アメリカの大きなるつぼ」
と言っていたそうだ

つまりジャズについて
「米国音楽を見渡せば必ず視野に入る音楽」
と考えていたわけけで
一つの楽曲にアメリカ音楽の要素をぶち込もうと思ったら
かならずジャズが主要な一部になる
と考えていたわけでだ

これを「盗用」と言うのか?

私は
カタカナ語を使うのは好きではないが
今風の言い方をすれば
このような創作態度は
「黒人音楽へのリスペクト」と言うのだ

黒人音楽を自分の創作に取り入れて
しかも
クラシック系の作曲家て認められるかどうかという
「勝負曲」に使うならば
ちょいと聴いた経験があって
「よい曲だなあ」と感じたぐらいで
できるものではない

いろんな曲の楽譜を集めて
音階面に始まって
旋律面から和声(コード進行)なんかを
綿密に分析して
「なるほど ここがツボなのだ」
と得心しないとできるものではない

実は
ガーシュインは作曲の依頼があったことを忘れていて
1カ月前にコンサートの新聞広告を見て
「演奏される新作を書かねばならない」
ことを思い出したそうだ

ガーシュインは売れっ子作曲家で多忙だったから
「ラプソディー・イン・ブルー」の作曲に没頭できたのは
10日間ぐらいだったと見られている
それにして実によく書けている
もしかしたら
追い詰められていたからこそ
集中力が「爆発」したのかもしれない

実質10日ぐらいで完成させたということは
黒人音楽の感覚が相当にしっかりと身に付いていたに違いない
そこまでしっかりと研究していたということだ

そこまで研究して創作に置いて成功したということは
中途半端の努力でできるものではない

「黒人音楽ってスゴイ」と気づき
その魅力を懸命に追いかけたからこそ実現した
「リスペクト」なしにできるものではない

それから
リンク先の記事で筆者の
コロラド大学のライアン・ラウル・バナガレ准教授は

「『るつぼ』という比喩は、移民たちに対し自らの文化活動や文化的アイデンティティーを捨てて多数派に同化するよう求めることと同義だ」
と書いている

バカか

黒人音楽の要素を取り入れた作品を書くことと
黒人に「多数派に同化せよ」と要求することが
どうして同じことなのか

バナガレ准教授には
もう一度
言っておこう

お・ま・え・は・バ・カ・か!


作曲家などが
自分が元からもつ音楽文化とは違う音楽文化を取り入れて
創作を試みるということは
音楽史上
繰り返し発生している

その時代のドイツ音楽を集大成したと言われる
J. S. バッハだって
「フランス風序曲」という鍵盤曲を書いていて
この曲ではフランス音楽で用いられた
リズムを活用している

もっと近い例では
戦後の早い時期の日本で
「ロカビリー旋風」なんかが吹き荒れたのも
米国音楽を「リスペクト」することが発端だった

中国でもある
中華人民共和国になってからの一時期
モンゴル族とか少数民族を研究して
その特色を生かす楽曲の創作が盛んに行われた

「ラプソディー・イン・ブルー」については
黒人を中心に
こんな批判もあるという
すなわち
「この曲は黒人音楽とは違う 偽物だ」

改めて言おう

お前らはバカか!

もちろん

「ラプソディー・イン・ブルー」は黒人音楽そのもの
という主張があったら
「それは違う」と反論するのはよい

でも
そんな主張は聞いたことがない

自分が持つ音楽のセンスとは異なる音楽を取り入れて創作した場合
参考先の音楽と違うものになって当たり前

J. S. バッハの「フランス風序曲」だって
バッハの独壇場だったガッチリした模倣対位法が取り入れられている

日本のロカビリーだって当時の米国音楽とはかなり違う

そうそう
中国で少数民族の特徴を取り入れて
漢族の伝統楽器用に書かれた曲も
参考先の少数民族の音楽とは
かなり違って当たりまえ

例えばモンゴル音楽を参考にした
「牧民新歌」という曲も
モンゴル音楽と同じかというと
かなり違う

なぜ違ったかというと
漢族の作曲者のモンゴル音楽に対する誤解があった
と思われるのだが
その点はさておき
「牧民新歌」はよい曲か?
と尋ねられれば
私はためらうことなく
「よい曲です」と答える

それでもって
「牧民新歌」はモンゴル音楽の特徴を完全に踏襲しているのか?
と尋ねられたら
私はためらうことなく
「ずいぶん違う面があります」と答える

この2つの回答に
矛盾はない

さてさて
例によって長くなったので
このあたりでまとめてみよう

【1】「ラプソディー・イン・ブルー」は黒人音楽の特徴を取り入れた素晴らしい作品
【2】作曲者のガーシュウィンは黒人音楽を「リスペクト」していたからこそ、この曲を書けた
【3】「ラプソディー・イン・ブルー」が黒人音楽の特徴をそのまま踏襲しているかと言えば そうではない
【4】しかしそのことで曲の価値が損なわれることはない
【5】この曲を利用して白人の黒人差別視を批判する行為はおバカがすること


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追記
「ラプソディー・イン・ブルー」の冒頭ではクラシック音楽ではありえない音の動き方があるわけです
クラリネットが担当するのだけど やや古いジャズなんかで時おりある強調された表現

米国生まれでポップスなんかの作曲でも成功したバーンスタインという指揮者の演奏では
この部分が
まあ「ジャズっぽさ」を出してはいるのですけど
それほど強調しているわけではない

一方で
ずいぶん古い演奏なのですが
イタリア人のトスカニーニという指揮者の演奏
この人は1930年代の末に
イタリアのファシズムとかドイツのナチズムに反対して
米国に亡命したのですけど
米国に来てから指揮をした「ラプソディー・イン・ブルー」の録音も残っております

冒頭部分のクラリネットが
「思いっきりジャズっぽい」のですよね

恐らく
それまでジャズなんかに接した経験はほとんどなく
「ふうむ こういう表現があるのか」
と珍しく思って
思いっきり強調したのではないかな


ニューズウィーク日本語版記事「20世紀を代表する楽曲「ラプソディー・イン・ブルー」は黒人音楽の盗用なのか」へは【こちら】からどうぞ

 

中国大陸では15日午前0時までに
山西省から黒竜江省に向けての
南西から北東に伸びる広い範囲で
強い黄砂現象が発生した

気象庁によると16日から19日ごろにかけて
日本の広い範囲に黄砂が飛来する見込み

16日午後3時ごろには対馬にはすでに飛来し
範囲は九州北岸に迫る

17日午前0時には九州と中国地方のほぼ全域と
四国北西部に飛来

黄砂の飛来範囲は東に移動し
18日午前0時には本州のほぼ全域が覆われる

画像は気象庁による
18日午前0時の黄砂飛来予測地図

 

本稿でご紹介するインド音楽・タブラの演奏動画は【こちら】から

 

私はいわゆる「民族音楽」もよく聴く
インド音楽については決して詳しくはないのだけど
最近はよく耳を傾けるようになり
その魅力が何となく分かってきたかな?
という状態です

さてさて
本日は面白い演奏を見つけた
タブラという楽器の独奏
タブラはインド音楽でよく使われる打楽器で
複数個を組にして奏する

収録時間は50分を超えている
ライブの記録だから演奏以外の時間もあるのだけど
タブラの独奏でどうやってその時間を持たせるのか
と思った

タブラはとても多彩な音色を出せる楽器だけど
旋律を出せない楽器で
どうやってその時間を持たせるのか

聴き始めて分かった
サーランギという擦弦楽器だ

サーランギは独奏楽器としても使われるけど

この演奏では派手な旋律をは扱わず
というか
単調な同じ旋律だけを繰り返す

そこでふと
前に
やはりインド音楽でよく使うタンブーラーという楽器の使い方の
説明を読んだことを思い出した

タンブーラーは普通
シタールとかヴィーナという独奏楽器の伴奏に用いられるのだけれど
独奏楽器とやり合うのではない
西洋音楽の
例えばヴァイオリンソナタでは
独奏楽器がちょっと引っ込む場合に
伴奏楽器が替わりに旋律を奏でたりするのだけど
そういう使い方ではない
同じようなことを延々と続けて
独奏楽器はその響きの中で華麗な技を展開する

タンブーラーは独奏のための「空気」のようなものを提供するので
自らが目立つようなことはしない
でも華麗な独奏を支えるためには
どうしても必要な楽器で
タンブーラーの演奏者の技量が
演奏全体の出来を大きく左右するとのことだった

このタブラの独奏におけるサーランギも同じで
自らが目立つことは絶対にしない
ただサーランギの「バックグラウンド」に乗って
タブラが次々に妙技を披露する
サーランギの響きがあってこその
タブラの独奏

ということが分かった

ほおお 音楽でこういうやり方もあるのか

タブラの独奏者はZakir Hussain(写真)という人で
名手として相当に高く評価されているようだ