昭和レトロブームは続いている。昭和から平成、令和になって36年が経っている。と、指折り数えないと判らない。10年ひと昔なら三昔なのだ。テレビの番組でも、若い人たちに街頭インタビューで、昭和にあったこれは知らないかと質問している。その中で、言葉、呼び方もいまは違うので、わたしも昭和のじじいだが、つい口にして若い人たちに笑われているかもしれない。ブレーザーと言うと、いまはジャケット、スナックも古いらしい。いまはなんというのか。喫茶店も古いか。カフェというのか。わたしの親の世代で明治大正生まれなら、カフェに中学生が行っているというと、怒る。あんな女給のいるいかがわしいところに子どもが入るのかと。銀座のカフェーと長くして言うのだが、それはいまのクラブ。クラブもちょっとニュアンスが違う。われわれの世代でクラブというと、飲み屋で高級なビール一本五千円でホステスさんがつくところ。いまはクラブというとおしゃれなイメージで若い人たちも出入りする。どうも、みんな違うようだ。

 

 わたしの若いときに流行った歌で、パープル・シャドウズの『小さなスナック』というのがあった。あのときはフォークブームの最後でも、どこか歌謡曲のメロディだ。昭和世代は歌のベストテンには演歌も入り、なんでも聴いていた。それが和製ポップスとなり、海外の流行歌と同じになる。

 いまでも、われわれの仲間たちとは、会合の後に、スナックに行こうとなる。青森市内の行きつけのスナックはまだあれば数軒はある。わたしなんか五年ぶりで前に通ったスナックに顔を出したら、しばらくとママが迎えた。判る? と言ったら、判るわよキムタクでしょうと笑う。わたしは喜多村拓だが、キムタクとも愛称で呼ばれている。本名が木村だから。そこで歌うカラオケも昭和の歌ばかり。いつも歌うのは、グループサンズを君だけにのメドレー。ボトルはキープしていないが、歌って飲んで軽いつまみがついて、一人いまは四千円になった。それでも何時間いてもいいし、歌と酒も尽きない。

 居酒屋なのかスナックなのかという中間ぐらいの店もある。谷崎潤一郎の『細雪』の名前の小さな店で、ママの名前は谷崎夫人と同じ松子という。店には細雪の初版本を飾っている。客もそういう筋の客が来ていて、店の雰囲気が客を呼ぶ。いまはどうされているのか。ずっと行っていない。もう10年になるか。

 

 青森に帰ると行くのは喫茶店もある。その言い方もいまの若い人たちには違和感があるのか。われわれ世代は、スタバもドトールも喫茶店に違いない。他になんと呼ぶ。コーヒーショップか。それも古い気がする。若いときに流行った『コーヒーショップで』というあべ静江の歌はよかった。声がとても素敵で、ぞくぞくとしてくる。いま聴いてもそうだ。昭和48年に流行った歌というから、わたしの21歳のときだ。

 青森に帰るときっと顔を出す喫茶店がある。ひとつは生家のあった柳町にあるシモンで、マスターは幼馴染。家が向かいで、子どものときからよく遊んだ。彼とは中学で同級生になる。いまも喫茶店はやられていて、店内はレトロでいっぱいだ。そこに入ると昭和が匂う。彼のところに行くのは、情報を知っているからだ。同級生の誰が死んだとか、倒産したとか、離れているわたしにとっては消息は知りたいところ。

 古川市場通りにいまもある珈琲舎の元マスターも中学の同級生で、がたいは大きく、青森にいたときは、いつも二人で飲み歩いた。その彼は酒豪であったが、何年か前に亡くなった。帰れば寄って、彼の焙煎した美味しいコーヒーを飲んだのが、いまは別の人がやられているようだ。その姉さんがやっているのが、善知鳥神社裏のマロンで、そこも古い喫茶店。うちの姉の同級生だ。中学の学区が青森駅から新町商店街にかけてと、市の中心街で商売をしている子ばかりなので、商店の子もみんな友達だった。

 そういう喫茶店も閉めたりして、いまは少なくなる。その代わり、全国チェーンのドトールなどが出てきている。ジャスを聴かせる店もあったが、いまはやっているのか。柳町のウエスも同じ町内会で、幼馴染だったが、わたしと遊んだ記憶はないだろう。ずっと年下だったから。夜店通りのブルーノートは帰ると寄った。マスターも86歳になったか、高齢のご夫婦でいまもやられているようだ。カウンターに座ってコーヒーもいいが、酒も飲めて、奥様の手作りの青森の郷土料理も食べられる。そこはわたしの文学仲間の高谷さんが通っていた店で、亡くなったときにみんなジャズファンも集まって追悼で飲んだ。たまにマスターは、高谷さんが好きなニーナ・シモンのヒア・カムズ・ザ・サンをかけますかと、アナログディスクの中から出してくる。

 

 スナックも喫茶店もいろんな人の出会いがあり、そこに行けば懐かしい顔がある。マスターも年取って、お客も年取って、降る雪や昭和も遠くなりにけりだ。