青森に帰るときは、いつも誰かが死んだ。このごろは葬式でしか郷里に帰らないとは、そういう年回りなのか。それにしても、この半年で立て続けに親友が四人も亡くなるとは、異常だった。みんな文学同人仲間で、ここ二週間のうち二人が続けて亡くなる。それもわたしとは同期で仲のよかった二人で、4月7日に古川壬生が亡くなり、その葬式が終わった14日に北の街社の社主斎藤が亡くなる。斎藤は誕生日が昭和26年の6月12日でわたしより5日遅い生まれ、壬生は7月8日生まれで、わたしよりひと月後だから、三人は近い年だった。それでか、意気投合して仲がよかったので、よく言われるのが、呼ばれたとか、引っ張られたということが、本当にあるのかと思う。今度はわたしの番かと、二人には、おれを呼ぶな、まだやりたいことがあるから、連れてゆくなと呼びかける。

 

 なんとなく、暗い春になる。青森は桜が満開と報じていた。土日に帰郷しようと新幹線の切符を買っていたが、斎藤が亡くなったと連絡が入り、その葬式の日取りの連絡待ちとなったが、きっと、一日伸ばしたほうがよさそうだと、平塚駅のみどりの窓口に新幹線の指定券の変更に行ったら、ずらりと並んでいる。窓口はひとつよりなく、一人で対応していた。いまは連休の行楽シーズン前で混んでいるのだ。東北新幹線は全席指定で、弘前の桜祭りで、毎年200万人以上が押しかける。最近はインバウンドが戻り、外国人観光客も殺到しているらしい。桜の花見は世界的に知られるようになる。

 なんとか切符の変更はできた。そうしたら、仲間から葬儀の日程が連絡してきた。しあさってが朝の9時に火葬、1時から葬式とあった。それも弘前であるので、最高に混んでいるときだ。ホテルはどこも満室。旅行会社も押さえているので、こういうときに困る。ワンタッチテントと寝袋を持っていって、弘前城でビバークしようかとバカなことも考えた。青森市にも泊まるのがやはりどこも満室で、二つのホテルで空いていると出たが、ひとつはスイートルームで14万円とか。もうひとつは普段は安いビジネスホテルでも料金は10倍の35000円とあった。ばかばかしい。それでもどこか泊まるところはあるだろうと、弘前では24時間サウナを見つける。泊まりも雑魚寝だろうが、3千円くらいである。後はナイトパックのある漫画喫茶だ。

 

 早朝の電車で東京駅に向かう。手荷物は土産もあるが、仏のしをつけた二つの菓子折り。朝飯も昨日買っておいて、東京駅の待合室でいただく。土曜だが、いつものように東京駅は混んでいる。新幹線は8時過ぎに出たが、大きなトランクを手にした外国人でいっぱいだ。日本人は逆にいるのかと思うほど、わたしの周囲は中国語が飛び交う。大きなスーツケースがいっぱいあるから余計車内は狭苦しく感じる。

 

 新青森駅に着いてすぐ、奥羽本線に乗り換え。弘前方面の電車は朝の通勤ラッシュ並みでぎゅうぎゅうだ。下りの青森駅行も混んでいる。弘前周辺のホテルはどこもいっぱいで、青森市も予約が取れないくらいだ。この日は、青森ペンクラブの総会があって、それが目的であったのが、葬式も一日加わり、先に亡くなった壬生の家にもお悔みに行くことになっていた。親友二人と仏前でしか会えないなんて。

 ようやく青森駅に着いたら、湘南は25度の夏日で半袖なのが、こちらは寒い。まずは、駅前のアウガの市役所に行った。土曜でもやっていると出たが、わたしの目的の埋葬許可のことでは窓口は休みと言われた。12月に亡くなった叔父の納骨が来月の予定で、従妹が市役所で断られたというから、直々に聴いておこうと来たのだ。霊園管理料はわたしの名義で平塚に毎年送ってくるのを支払っていたが、その振込用紙の支払った領収がないといけないという役所仕事だ。そんな毎年二千円くらいのもの、光熱費の領収書と同じで、捨ててしまうだろう。とっている人のほうが珍しい。それで談判に来たのだが、後日電話でしよう。

 図書館が上にあるので、行ってみる。前にはよく来た、海と連絡船のメモリアルシップとベイブリッジの見える図書館だ。そこで新聞を読んで、地下の魚市場にあるシーフードの食堂で何か昼飯でもと行ったら、みんなやめていて空きスペースだ。市場も暇そうだ。

 それで仕方なく、新町商店街のおさない食堂と思ったが、そこもいつものように並んでいる。超人気店で観光客でいっぱい。それで居酒屋弁慶のランチで550円のイカ天丼定食にする。そこも満席だが、安く定評がある。コーヒーは並びの翁屋にする。そこのきわこさんがペンの仲間なので後で一緒になる。

 

 平塚にいたときから、事務局長は年に一回出しているペンの会誌をどこの印刷屋に頼んでいたか探さないといけないと、仲間たちに電話とメールで捜索依頼した。総会でみんなに配る会誌は出来上がっているだろうから。去年の会誌の奥付には、印刷はKTプリントと書かれていたという。わたしは差し上げて、手元には一冊もないから、確認してもらった。それは青森には調べたが、ない。ネットで調べたら、大阪にそういう印刷出版の会社があった。そこに頼んでいたのか。それは勘違いで、仲間の一人が知り合いの印刷屋に当たって見つかった。よかった。それは総会の会場に運んでもらう。

 

 午後3時からペンの総会があるのだが、その前に緊急役員会があった。わたしはもう副会長も理事も降りたが、意見も聴きたいからと受付もしながら話した。まずは、事務局長の斎藤が急死したので、決算報告などが彼のパソコンに入ったままで出せない。自宅にあるが、亡くなったすぐに警察が入り、孤独死みたいなときは、事件か病死かを調べるために、家族でも立ち入り禁止になる。死んだという電話を仲間から聴いたとき、彼の娘とはSNSで繋がっていたので、その履歴が残っていて、どういうことになっていたのか、事情を聴いた。三人の娘息子がいて、息子さんはうちの古本屋で一時バイトもしていた。斎藤は、ペンの事務局長で、会誌や会報の印刷もやっていた出版社の社長だから、彼がいないと何もできない。総会資料がないので、総会にはならないが、ともかく、集まった会員に会長から事情説明をした。みんな初めて聴いて、驚いていた。総会は通夜ムードになる。副会長の壬生も亡くなり、同時に二人がいないとどうなるのか。会は混乱していた。そこに聞きつけた地元の新聞社が来て、後方で取材していた。北の街社というと青森でも出版社の老舗で、昭和30年代からやられている。それが後継者がいないので、終わるのだ。青森ペンクラブを存続させるのか解散するのかと、そのことを一人ずつ会員たちから聴くことになった。受付を終わり、わたしも席に着いた。みんなの意見はできれば続けたいということであった。ただ、事務局に誰がなるのか。印刷出版はどうするのか。突然のことで、役員会と総会では、地方のペンの火は消してはならないと、存続の方針になったが、みんな高齢化して、会員数も減り、かつて発足当時は170名近くいたのが、いまはその三分の一で、総会も出席はその半分以下と寂しい。書く人で若手は県内にもいっぱいいるのだろうが、徒党を組まない一匹狼ばかりだ。おじいちゃんおばあちゃんの会には孫さんの年では入りづらい。さて、これからどうするかだ。