衝動記

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自分の心の中の衝動を文字や文章にして表してみました。

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 近年の日本では「常識」という言葉が死んでいっているらしい。

 こうした言葉を使うと「常識とはなんぞや」と問われてしまうのだが、世間一般でいう常識とは「社会的に当たり前と思われる行為」であろう。例えば、待ち合わせをしたら遅れずに到着をするとか、悪いことをしたら謝罪するといった言われなくてもわかることをいうだろう。相手がされたらイヤなことをしないのも常識的な態度であろう。では、どのようにして人間社会には常識というものが生まれたのか?を筆者の愚見であるが記してみたい。

〇「常識」とは人が社会的に生きていくための共通認識
 人間は一人で生きていけない。どこかのコミュニティに属し、同じグループの仲間と協力をしながら生きていた。一緒に狩りをしたり、農作物を育てたりして共同体を築いてきたのが人間の歴史の側面でもある。この共同体を守るためにはお互いに共通した認識というのが必要だ。この認識が常識と言っていいだろう。お互いの認識が違っていると、理解が進まず最終的にコミュニティが崩壊してしまうからだ。
 

 例えば、収穫した農作物をみんな均等に分け合うという共通の認識がなかったとしよう。それぞれが農作物を多く持ち帰ろうとするだろう。そうなると誰が一番持ち帰るのは争いが起きてしまう。それではコミュニティが壊れてしまうから共通認識として「みんなで均等に分け合う」という認識を持つことでコミュニティを守ろうとしたのだ。
 

 コミュニティが大きくなると慣習法となり、一国になってくると法と秩序へと変化をしていく。つまり常識というのは人間が共同体の中で生きていくために作られた共通の認識であり、常識を持つことで共同体と自らを守っているのだ。だから最小単位の共同体である「家族」にもその中で作られた常識があるのだ。

〇構造改革による常識の破壊
 しかし、今の日本ではこの「社会的に当たり前の行為」が壊れてしまっているのだ。遅刻をしても謝罪をしない人間はそこらかしこにいるし、悪いことをしても謝罪すらしない輩が政治家をやっている。
 象徴的なのが、2001年に行われた自民党総裁選挙だ。候補者の一人である小泉純一郎は「自民党をぶっ壊す」と言って大勝利を収めた。わかりやすいワンフレーズに自民党の党員がこぞって投票したのである。その後、行われた総選挙でもワンフレーズだけを唱えて勝利を収めた。国民が政治家からの丁寧な説明を拒否し、耳ざわりのいい言葉に飛びついてラディカルな破壊を支持したのだった。
 

 ワンフレーズだけを連呼して「これさえやれば上手くいく」なんていう輩には慎重な態度を取るのが常識的な大人の態度であった。ところか小泉純一郎の構造改革をこぞって支持したのは、当時も今も立派な大人である。閉塞感とやらに捉われてしまい、今ある良いものを壊して新しく何かを作れば上手くいくと錯覚したのだ。
 

 しかし世の中はそれほど甘くはない。構造改革と称し「無駄の削減」とやらを実施したお陰で日本では社会の中心を担うべき40代の非正社員率は25.5%となっている。今の40代は就職氷河期世代と呼ばれ、非正規のまま40代を迎えた人も多い。もちろん年収も低く、老後になっても働き続けないと生きていけない。本来であれば国が保護して彼らを一人でも多く救う政策を打つべきであった。ようやく就職氷河期世代への支援策がスタートしているが遅きを逸していると言える。

 このような社会にした責任を本来であれば政治が責任を取るべきだが、誰一人責任を取っていない。小泉純一郎は相変わらずヘラヘラして「脱原発」と騒いでいるし、小泉と一緒に旗を振っていた竹中平蔵元パソナ会長は未だに政府の有識者会議に参加をしている。構造改革を支持した自民党の議員は今でもでかい顔をして政治家をやっている。そいつらが当選できたのは、何も考えずに自民党に投票してきた大人が何千万といるからだ。
 

 しかも奴らは自らを「保守」と名乗り、保守という言葉も破壊した。本来保守というのは左翼的な急進的な革命に対して懐疑的な態度を取ることである。なぜ急進的な革命に対してノーを突き付けるのか?理由は非常にシンプルで、左翼思想の根本が明らかに間違いであるからだ。左翼思想の根本には人間の理性は完璧であるというのがある。だから左翼は理性に間違いはないと信じ、理性と合致した社会設計をすれば、理想社会が実現できると考えて設計主義的に社会を構築していく。しかし保守は人間の知性や理性に対して懐疑的であり、理性を超えた慣習や良識にこそ、歴史のふるいにかけられた重要な英知があると考えたのだ。

〇日本に蔓延っているのは左翼的な設計主義社会
 つまり小泉構造改革や維新の会の大阪都構想は、人間の理性に基づいた設計主義的なやり方で社会を作り直そうとしているので、保守ならば反対をしていただろう。ところが、今の日本では、先述したように構造改革をやった人間が保守を名乗り、保守と言われている人物が大阪都構想を支持しているおかしな現象が起きている。
 今や日本では「保守」という言葉も壊れてしまったのだ。

 今の日本の状況を見れば、確かに常識が壊れたと言われても仕方ない。このままでは日本という共同体が壊れてしまい、無くなってしまうだろう。既に没落を始めたのにも関わらず、反省もせずに革命ごっこに興じているのがいい年をした大人なのだから推して知るべきだろう。何せ破れた革ジャンをタダ同然で仕入れ、1着3万円とか5万円で売って大学を卒業した詐欺師のような男を担いで大阪府知事、大阪市長を歴任させたのが今の日本の大人である。常識を再生だせるどころか益々破壊をしていくのが目に見えていく。

〇「常識」を再生させるためには
 ただ、保守の思想家である西部邁が生前に言っていた「バラバラになってしまった常識の欠片を集めて貼り直す」と言っていた。もしかしたら常識を再生をさせるにはこうした態度が重要なのかもしれない。筆者は西部の言葉を少しでも残された大切なものを守り抜くという態度を示すことが大事だと解釈している。
 その大切なものを守り抜くためには何が必要なのか? 先ずは先人たちが積み重ねてきたた慣習や良識を振り返るところからスタートしてみることだろう。そのためには歴史をあらゆる角度から読み直し、学び直すのが大切かもしれない。
 

 保守思想の大家である福田恒存は『私の保守主義観』の最後にこう記している。
「保守派は無智といはれようと、頑迷といはれようと、まづ素直で正直であればよい。知識階級の人気をとらうなどといふ知的虚栄心などは棄てるべきだ。常識に随ひ、 素手で行つて、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆづればよいではないか」
僅かに残った常識と良識のある日本人は、福田に倣って常識をしたがって素手で戦い、前のめりに倒れるのが最後の抵抗だろう。今の日本は、革新派にすべてを譲ってしまいそうな状態である。左翼的設計主義国家とした日本を取り戻すのは不可能だとしても、抵抗することで設計主義者の思惑通りにいかないのを示さないといけない。今こそ保守が抵抗をするときであろう。そうすれば「常識」を再生させる道筋が見えるかもしれない。