不意の雪で午前中の授業が休みとなり、久々に日中にゆっくりとした時間が過ごせている。


時間があると少しは大層なことを考えるもので今後の世の中がどうなるのか?ということに思いを馳せる。

自分が得ている情報から考えると先行きは決して良くなるとはとても思えない。特にこの国はかなり瀬戸際まで追い込まれている。

それなのに、僕らができることといったら、風雲急を告げる笛が吹かれるのを待つがごとく、あたかも事があかるみに出るのを待ち構えているだけだ。 


今まで自分はこの地球のためにいったい何ができたのか。何もなし得ていないのではないか。

いや、よりよい人間の生活が実現するために行動することを決してあきらめてはならない。

そんな思いに駆られたとき、僕はチェーホフの「ワーニャおじさん」のアーストロフの情熱あふれる言葉を思い出した。


「白樺の若木を自分で植え付けて、それがやがて青々と繁って、風に揺られているのを見ると、僕の胸は思わずふくらむのだ。そして僕は・・・」

(第一幕より)

アーストロフはこの後何を言おうとしたのだろうか。


「ワーニャおじさん」は悩みに悩んだ20代後半に「かもめ」とともに何度となく見た。ワーニャに自分の苦悩を見るのと同時に、アーストロフの姿から勇気と希望、情熱を持って生きることの素晴らしさを教えてもらった。


あれからもう20年近くが経ち、今年でワーニャと同じ47歳になる。仕事はなかなか忙しいが、人生を賭けるにふさわしい道は僕の前に常に用意されている。それはワーニャとは違う恵まれた点である。


僕の進む道が世の中を救う事につながるかどうかはわからない。しかし、アーストロフのように世の中に少しでも役にたとう、救おうという情熱を持つことはできるはずだ。


とめどもない熱い情熱。あきらめない気持ち。

ほんとうに大切にしたい。





来年度の指導について引き続き書いてみる。

来年度は古文を教える生徒が2人いる。2人とも受験生。これまでも古文を数人教えてきたが、他の勉強との兼ね合いで間に合わなくなり、途中で古文を捨てる結果に陥ることがほとんどなので今年は完遂することが目的である。

幸い1人は文法の勉強を楽しみ始めており、安心なのだが、もう1人は古文なんてぜったい無理!とのたまわっているが、いやもいやも好きのうちで頑張っていただきたい。古文って実は楽しい!と思える仕掛けを考えなくてはと思っている。


個人的には久しぶりに日本古典の世界を堪能できる機会なので、物語、日記、和歌の読解をしながら、知識を高めていきたい。


物語なら伊勢物語、雨月物語、好色一代男。

日記なら蜻蛉日記の再読、和泉式部日記。

和歌なら古今和歌集。

江戸文学もMARCHの文学部では出題されるので今年少し参入したいところ。雨月物語進められるかな。


古文の専門知識については小西甚一先生と川村裕子先生から学んでいきたい。


小西先生の「古文の読解」「古文研究法」はなかなか読み応えのある容量だが、今年度はかじりついてでも読みたいと思う。15年ほど前に演劇を通じて知った先生だが、ここでじっくりと向き合えるならありがたい。


川村先生が書かれた「蜻蛉日記の表現と和歌」を読み、和歌が作り出す表現が作品の底流を作り出すことを学んだ。また先生が書かれている「平安王朝の基礎知識」など、平安時代の風習などについてまとめている新書は参考になると思う。


受験書では「富井の古文読解をはじめからていねいに」がおすすめ。文法のポイントだけでなく、平安期の作品を読むのに必要な知識がまとめられているので、やる気のある方の生徒にはお勧めした。


最近売り出し中の岡本梨奈さんの参考書はビジュアル的にも女の子に受けそう。今回担当生徒は2人とも女の子なので、投入する機会があるかもね。特に古文は絶対嫌な生徒にw


なんと今年初のブログである。今年は受験生はなんと1人。塾講師としてはあまりにも早々と受験対応を終えて一息ついて来年度の策を練っているところである。


今年度は世界史という新境地を開くことができたことが大きい。苦しい局面もあったが、展開を考えるのは楽しかった。次年度は今まで書き溜めてきたものをレジュメ化していくのと、マイナーな国や地域の研究、文化史、現代史に力を入れたい。今年はあまりこだわらなかった特定の年代の各地域のつながりも気をつけていきたい。


さらに昨年度から地理に取り組み始めた。地理は系統地理と地誌学に分けられるが、系統地理がマスターできれば地誌は系統地理の知識を使ってひもといていくだけなので、系統地理を優先して勉強することになる。とはいっても系統地理の範囲は広く、地形、天候、土壌などの自然地理学から経済、都市の特徴などの人文地理学にわたり、なかなか遠大である。とはいえ、歴史を教えていても地理の知識が今まで思いもしなかったことに導いてくれる気がしてとても楽しい。地理をマスターすることで社会科教育の幅がさらに広がればと願い、根気良く学習する所存である。


はっと気がつけば11月。ようやく気温も下がってきて、過ごしやすい日々。まだ少し早いが、年末に向けてまだまだできることを考えてみる。


今年は趣味に向ける時間が少なく、講師の仕事の都合もあり、ひたすら世界史を勉強してきた。特に中国史は興味深く、また新しいライフワークになる。世界史の学習は今後も続くが、少し趣味に目を向ける余裕を持ちたいと思う。


近代ヨーロッパの激動の歴史を描いた映画を見たい。ヴィスコンティの「ルードヴィヒ」は面白そう。あと、「戦争と平和」。1956年にハンガリー出身の監督、キング・ヴィダーが作った作品が興味深い。ヘップバーンが出ている


美の師匠、立原正明氏にもすっかりご無沙汰している。世阿弥の「風姿花伝」をいたく研究した人だが、世阿弥にも久しぶりに触れたい気もする。


最近友人の投稿の影響でベケットの「ゴドーを待ちながら」を買った。基本的には2人芝居。ちょっと久しぶりに誰かと演じてみたい気がしている。


そういえば雨月物語の蛇性の淫を台本化しようと思いながらほとんど進めていなかった。ぼちぼちとまた始めたい。


仕事が忙しい、と思っているとなかなかできない。仕事があろうが並行してやる。そうすれば人生はまだまた楽しめる。まずこの中の1.2は今年中に着手しよう。

今日の午後はフリースクールの演劇部活動の日。部長の意向でネットでミニ作品を探すのがテーマかと思って行ってみたが、その部長が体調不良で休みと聞き、じゃあどうしようか?という中、今は大学生のフリースクールのOB2人も来校していたので、巻き込んで、チェーホフの「かもめ」ワークショップを開催することに。


2012年までの3年間の劇団時代、チェーホフ戯曲はとても身近な存在だったのだが、「かもめ」自体、舞台公演に参加したことはなく、俳優として活動する前にのちに所属することになる、その某劇団主催の「かもめ」公演を観劇し、特に第4幕のクライマックスシーンに感銘を受け、そして劇団のワークショップで、トレープレフ役でそのクライマックスシーンを演じたことが、劇団への参加のきっかけとなったこともあり、とにかく思い入れ深すぎる作品。


ただ、結論から言いますと、この作品、人間関係が複雑すぎるせいか、普通の高校生にはいささか難しすぎるようです。役の分析の上で考える作業が高校生にとっては膨大に見えるのかもしれません。今日は第4幕の例のクライマックス、ニーナートレープレフのシーン、第一幕の冒頭、メドベージェンコーマーシャのシーンを扱いましたが、大学生OB2人が後輩に対して見事な演技を見せてくれました。

OBの1人、教え子でもあるのですが、「時間があれば取り組んでみたい」というようなことを言ってくれたのがうれしかったですね。もう1人の生徒も上手ですね。


大学生からがチェーホフ参入のタイミングかも。


今年は例年の個別指導は抑えつつ、日本史の映像授業の校正の仕事をしている話は先日のブログに書いた。この仕事を通じて各単元の導入、展開、まとめの具体例に触れられることは、今後自分が授業設計をする上での参考になり、本当にありがたいし、自分だったら違う展開にするなあ、というアイデアもさまざま出てくる。苦手だった文化史についても、生徒に興味を持たせる切り口がさまざま浮かんでくる。教材もじっくりながめる時間があるので、教える時には見逃していた素材がたくさん見えてきている。


教育実習前はなにしろエピソードトークに頼っていた。例えば、壬申の乱を説明する上で、中大兄皇子と大海人皇子の不仲を象徴するために額田王との三角関係の話を持ち出すという手法である。どうしても歴史教師ならやりたくなるのだが、実は生徒にはあまりウケない。教育実習で鉄板と思っていた「別部穢麻呂」(気になる人は調べてみてください。なかなか面白い天皇にぶちあたります)がまったく無反応で、あれ?ここ笑う所なんだけどなあ、と思ったことを思い出す。教師は生徒から笑いを取りたいと願うがゆえなのだが、意外とハードルが高いようである。教師がしゃべりまくって終わる授業はNGだ。教育実習が自分にとって覚醒の時であったことが本当に身に染みる。

歴史の授業は、出来事の「意味」を考えさせることが大事である。壬申の乱の本質とは何か?壬申の乱によって皇族の位置付けはどのように変わったのか?また、壬申の乱は、天智系と天武系という皇統に関わる言葉が生まれるきっかけとなった古代の歴史上の重大事件であるが、同時に奈良時代という時代を生んだのも壬申の乱なのだと言える。奈良という土地に都を残すことにこだわったのはなぜか?また、王族と豪族、豪族間の争いのみならず、王族、豪族内部の抗争と粛清、および未来に交わされた密約は何か?さらにこの事件の後、不比等という巨星の出現から藤原氏が台頭するわけだが、壬申の乱との関連性はあるのか?まったくないのか?というように、過去と未来をさまざまな角度からつないで問いを立てていくことで、この出来事の意味はいかようにも変わってくるのだ。

歴史を考えることは頭の体操である。あはは。と笑わせる授業ではなく、ほー、なるほどと感嘆させる授業をめざして、今日もいろいろ考えてみました。

「小津安二郎のまなざし」(晶文社)をようやく完読。ローアングルで知られる映画監督、小津安二郎の撮影術に迫る作品で、今までは物語の内容に着目しがちだったが、コンティニュイティ、簡単にいうと撮影するにあたっての台本、ある画面に別の物体を浮かび上がらせ、徐々に鮮明にさせるオーバーラップ、画面を徐々に浮かび上がらせたり、消したりするフェードイン、アウト、映像における構図の話など、実際の撮影にまつわる話が映画撮影については素人の僕にもよくわかるように説明されていて、大変面白かった。

この書籍を書いた貴田庄氏は工芸作家で、小津作品に突如現れる映像、枕元におかれた目覚した時計、風にひるがえる洗濯物、煙のたなびく煙突など、一見物語の展開とは関係ないように見える映像が作品の展開と関連して使われていることを指摘している。場つなぎ的に風景を映すことは映画の中でよくあるが、そうではなく、計算された映像だったとしたら、どうであろうか。貴田氏はこのような映像を「カーテンショット」と表現しているが、この書籍ではその他の映画技法について、小津監督の映画を通じて説明している。小津作品を味わう上ではもちろんのこと、他の作品を味わう上でも興味深い視点を提示いただき、感謝の珠玉の書である。また再読した上で気になることがあればこのブログで触れるつもりである。


昨日の定例稽古について考察。昨日は夕方になっても気温が下がらず、冷房いれても汗は止まらず道着はびしょ濡れなのだが、実はけっこう気持ちがよい。夏はたくさん食べて呑んで稽古してたっぷり汗かいているうちに身体に切れが出てくる。逆に冬は普通に生活していると汗がかきづらいため、気持ちが落ちる。ということは冬に汗をかく工夫をすればいいのだろう。今年の冬の隠れテーマが急に生まれる。

工夫といえば、昨日一打三足の稽古。一打三足の稽古を剣術を知らない人に伝えるとすれば、文字通りなのだが、一、二、三の三拍子で打つ、といえばよいか?言葉で書くと簡単そうに思えるが、稽古を始めたばかりの門人は、油断していると二の後に半拍子足が動いてしまったりすることがある。正確に三拍子を刻んで、身体のバランスを保つことはなかなか難しいが、何度か繰り返しているうちに身体がわかってくる。これが稽古の醍醐味だ。

そんな中、師から課題を与えられる。「あゆむ」ことである。新陰流というと、自ら仕掛けるよりは、相手を迎える待の心持ちが強調される。が、実は自ら仕掛ける型もある。先日書いた九箇は

その典型である。待つのではなく、自ら仕掛ける。相手の間合いに近づくために「あゆむ」、現代風にいえば歩いて相手に近づいていくわけだが、さあ、ただ歩いているだけでいいだろうか。


稽古後の宴で師からは「あゆむがごとし」という言葉をいただく。あゆむがごとし?わからないからあゆむのである。工夫、工夫、工夫。



だーれだ?ということでいきなりクイズから入りますが、たぶん日本ではマイナーな人物なので、わからないと思うのであっけなく答えを。


「イブン・バットゥータ」!


なんてカッコいい名前なんだ、と世界史の勉強をしながらとりこになってしまった。皆さんも名前を唱え続けたらきっと彼のとりこになるに違いない。(ちなみに世界史の横文字の人物名など用語は唱え続けることで覚えよう!気合いなんです!ドヴァーラブァティー!シュリーヴィジャヤ!かつて東南アジアにあった王国です)


ちなみに知っている人は知ってるとおもうが、イブンというのは「息子」という意味で、イブン・〇〇で「〇〇さんの息子」という意味になるため、バットゥータさんがお父さんということになるはずなのだが、お父さんはイスラム教の預言者であるムハンマドの名をなのり、イブン・バットゥータもムハンマドの名を受け継いだ。そうすると、バットゥータってなんなんだって話だが、先祖から継承している称号のようなものか。

そしてこれもアラビア世界に詳しい人ならご存知かもしれないが、アラビア世界で生活する人の正式名称はカタカナで書いても、100字前後にのぼり、イブン・バットゥータも「アブー・アブド・アッラー・ムハンマド・ブン・アブド・アッラー・ブン・ムハンマド・ブン・・・」とここまでで全名称の3分の1いったかいかないかの長さである。アラビア世界の正式名称は一族の系図を表すものとどこかで読んだ気がするが、アッラー、ムハンマドというイスラム教にちなんだ言葉が含まれている自らの名を唱えることは、先祖への感謝と共にイスラームを信ずる意志を高める浄化の祈り、呪文のようなものだったのかもしれない。


イブン・バットゥータも言うまでもなく敬虔なイスラム教徒であった。彼はベルベル人として、北アフリカのマグリブ地域にあるモロッコに生まれた。ベルベル人はアラブ人と混血する中でアラビア社会と同化したが、彼はメッカ巡礼を皮切りにして、世界中の高名な学者や聖者との面会を通じて、イスラーム学の習得と信仰心の純化に努めた。彼は西はスペイン、南ロシア、東アフリカ、東はインド、東南アジア、そして、当時世界を震撼させたあのモンゴル帝国まで、イスラーム社会の庇護を受けながら、果てしもない旅の日々を生涯送り続けた。


彼の著書である「大旅行記」を読むのは現状やや荷が重いため、家島彦一氏の解説書を読みつつ、彼の大旅行の一端を味わっている。


将来の移民の研究をする上でも、バットゥータの「移動するという美学」を学ぶことが役に立つに違いない。次回はバットゥータにとっての移動、旅の意義についてもう少し掘り下げたいと思う。

今日は昨年6月の教育実習後にいただいた「面白い仕事」から学び続けていることについて書いていきます。


この「面白い仕事」とは、社会科の映像授業コンテンツ作成に関する仕事で、新科目の「歴史総合」のコンテンツ提案と小テスト作成、映像スライドのデザイン・内容の整合性チェック.語句の修正などなど、さまざまな業務を行っています。


歴史総合のコンテンツ提案のネタを考える作業では教科書には載っていないけど生徒が食いつきそうな切り口について考える習慣が身につきました。歴史総合で先日ハリウッドを扱った話は先日のブログで書きましたが、教科書の視点から話題を少し「ずらす」という意識が作られていきました。


小テスト作成業務では、世界史の近現代史の概要がつかめたことはもちろん、どんな問題を出すと生徒が悩みそうか、考える習慣が身に付きました。そして、生徒視点で社会科を見つめる意識が生まれできたように思います。


映像スライドのチェック、デザインや語句のチェックは実はかなり苦手なんですが、細かいところも見逃さない、されど確認の心持ちが身につきつつあるかな。それでも授業中は誤字が多いので、反省しています 笑


内容の整合性チェックは公に出すコンテンツなだけにかなり気を使う作業です。ただ真剣に気を使うからこそ、今まで自分が授業準備する中では気づかなかった視点、もしかしたらこんな落とし穴があるかも、例えば「アウストラロピテクスはアフリカにしか存在しない」 とスライドには書いてあるけど本当にそうか?と真剣に疑い、エビデンスを探す習慣が身についてきています。


現在は撮影後一時編集した動画の校正とテロップ提案。これはまさにYoutuber能力養成講座である 笑 またこの話は後日。


というわけで、人生って自分がわかっていないだけでいい体験させていただいていることってたくさんある。だから毎日感謝しかない。

日々の振り返りの中で、ああ、今日もこんないい体験させてもらったなあ、ということを思い出すことが大事だな、と電車に揺られつつ酒を仰ぐ。