鸞鳳の道標

鸞鳳の道標

過去から現在へ、そして未来へ。歴史の中から鸞鳳を、そして未来の伏龍鳳雛を探すための道標をここに。

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 殷の創建者は(とう)です。これは称号のひとつです。
 日本では称号としては湯王、名は天乙として知られていますが、中国では現在では商湯という称号で、姓は子、名は履で呼ばれるのが一般的です。
 称号については他に成湯、武湯、成唐。名については成、大乙、太乙などがあります。これらは甲骨文に刻まれているもので、唐は発音から宛てられたものであるとか、成は丁戊の合字であるとか、様々な解釈がありますが、甲骨文研究は二百年足らずのまだまだ浅い、これから深まっていく未来の学問であるため、新たな解釈や発見がこれから見つかっていくでしょう。
 「史記の世界」と題して『史記』の内容、解釈などをこれまでも行っていきましたが、ここから先は、『史記』から離れた話が多くなります。
 三皇五帝は伝承があまりにも多く、実在性、信憑性に疑いのあるものも多く、その中から司馬遷が独自に「これは信じてもいいだろう」という内容を厳選したものと見做して、司馬遷に敬意を払う意味でも、出来るだけ他の情報を省いていきましたが、これからはむしろ、『史記』に書かれていない内容も多く取り上げていきます。
 『史記』というより、改めて、古代中国史の世界へようこそ。
 
 「殷」という王朝名は、周が命名したものです。
 この王朝はもともと、「商」と呼ばれていたことは甲骨文からもはっきりしています。
 殷という字について、『説文解字』によれば「从㐆从殳」とあります。「㐆」と「殳」から成っているということです。旁の「㐆」について同じく『説文解字』によれば「歸也。从反身。凡㐆之屬皆从㐆」とあります。「帰するところ。身を反転させたもので、身に属するもの」ということで、少々分かりづらいのですが、要は「母体」です。「殳」は「ほこ」のことです。この字は、母体むしろ妊婦に対して、ほこを差し向けている字ということになります。なんと残虐な、と憂う必要はありません。現在でも、神社によっては神通力を賜った棒を妊婦の腹の上から軽く叩いたり、擦ったりして、安産祈願を行うところもあります。これもその一環と見做してよいでしょう。「神よ、この子が無事に生まれ、健やかに育ちますように」と、あるいは「武器を手にし、国の守り手となるように」と勇者となるよう願った仕草を、周の人たちが見ていたのでしょう。
 ただそれは、周人には理解しがたいものだったのでしょう。
 雷雨や嵐に怖れを抱きながら、いずこかの土地に定住し、牧畜や農業などに勤しむのが農耕民族の特徴です。これは商でも周でも同様です。ただし商の人たちは、天災など何か異常が起こったときはすぐに占いをして鬼神(先祖)に伺いを立てる、宗教人としての一面が強かったのです。
 たとえば、洪水で川が氾濫を起こし、作物が流されてしまった後にどう対処すべきかということに対して、商の人たちは鬼神にお伺いを立て、「生贄に牛を五百頭捧げなさい」と出たら、それを愚直に実行する人たちです。堤が低かったのなら土嚢を積み上げ、あるいは川から離れた場所に新たに田畑を作ったり、米を作る人たちで共同体を組んで甚大な被害を受けた人を救う互助会を作るような現実的な対処よりも、占いを優先する人たちでなのです。「牛を五百頭捧げなさい」と言われたところで、その牛たちを使って農耕をしたり、極端な話として食肉にすれば多くの人が恩恵を受けるのに、ただ殺して祈るだけでは何にもならないのに、鬼神を恐れることを優先した人なのでしょう。
 周は元は遊牧民族だったという説もあります。遊牧民族であれば土地の移動や、作物の変更などに対する抵抗は少ないでしょう。侮蔑、そこまで行かなくとも理解しがたいことをしている連中であるというのが周の人たちの、商、いや殷の人たちに対する感想です。
 
 湯の先祖は契(せつ)で、その母は簡狄といい、有娀氏の女です。帝嚳の次妃で、沐浴に出かけた時に玄鳥、すなわち燕が産み落としていった卵を呑み込んだところ、それで孕んで契が生まれたといいます。契は禹に仕えて治水で功績があり、舜に司徒に任じられて商の地に封じられ、子姓を与えられ、虞と唐の二国の開祖となります。
 契の後は、昭明、相土、昌若、曹圉、冥、振、微、報丁、報乙、報丙、主壬、主癸、主癸と続き、主癸の子が天乙、すなわち湯です。この間に八度遷都し、最後には亳に住み着いています。亳は現在の河南省洛陽市とする説や河南省鄭州市とする説など様々あって、定かではありません。
 湯は葛伯が先祖を祀らないことを理由にこれを討伐し、こう言っています。「言葉にある。人は水を視て形を見、民を視て治まっていないのを知る、と」。伊尹が「明察です。言葉を良く聞き、道を進む。国に君があって民を子とすれば、善い者はみな王の官職となる。勉めよう、勉めるよう」。これに対して湯が「汝が命を敬わなければ、予は大罰を与えて殛してくれよう。容赦はしないぞ」。そう言って湯征を作ったとあります。
 
 湯を支えた主たる名臣は、右相の伊尹(いいん)と左相の仲虺(ちゅう・き)です。『史記』では伊尹のみで仲虺のことは書かれていません。
 伊尹の名は阿衡(あこう)、あるいは摯(し)。阿衡といえば日本の平安時代に起きた「阿衡の紛議」がありますが、ここでは採り上げません。伊尹は有莘氏の領内で七十歳過ぎまで農事をしていたところ、たまたま有莘の娘が履(後の商湯)に嫁ぐ際、俎板と鼎を担いで料理人として付き従い、滋味を以って履に政治に関する進言をしてその有能さを認められて仕えることになります。有侁氏の娘が桑の中から見つけて育てたという伝説もあり、伊水の洪水神という伝説もあります。
 彼は後に「伊・霍」と並び称されることがありますが、それは次の事柄によるものです。伊尹は後に商の第四代・太甲が横暴であったので桐という地にいったん追放し、三年経って太甲が改心したのを見計らうと再び呼び戻して帝位に就けています。霍というのは西漢(前漢)の霍光(かく・こう。あざなは于孟)は、昭帝が崩御した後に後を継いだ昌邑王が暴虐であるとしてこれを廃し、代わりに武帝の孫に当たる病已(へいい。のちに詢と改名。あざなは次卿)を即位させます。これが宣帝です。伊尹も霍光も、臣下でありながら最高権力者をすげ替えた人物で、後世において皇帝のすげ替えを行うとする人物が現れると「あなたは伊・霍ほどの功績があるのか」を挙げてこれをたしなめるような場面が幾度か登場します。ただし、かつては両者ともに忠臣であるという扱いでしたが、現在では伊尹による廃替は簒奪で、返上したのではなく討伐されて奪い返されたのではないかと疑問視する考えも現れています。霍光に関しては忠臣とは言い切れず、彼によって廃された皇族や臣下たちはかつては反逆者や野心家という扱いをされていましたが、野心家であったのはむしろ霍光であったとする説も有力となっているようです。
 仲虺についての伝承は少ないのですが、『春秋左氏伝』「襄公三十年」の項において、「乱れた者は之を取り、滅亡する者は之を侮る。推と亡とは元から存し、国の利である」という言葉を仲虺のものとして挙げています。また誥を作ったともされますが、散佚してその内容は不明です。
 伊尹は国政を任された後、一旦は湯の元を去って夏へ行き、夏を憎んで亳へ戻ってきたとあります。この間に何があったのか『史記』は語っていません。
 『史記』では次いで、網を張る男の話になっています。これは『十八史略』でも採り上げられている話です。
 
 湯が出かけると、野で網を四方に張り巡らせている者が祈りを捧げていた。
「天下四方にあるもの、自らこの網に入れ」
 湯は言った。
「ああ、それはわがままだ!」
 そこで三方を取り除き、こう祈った。
「左へ行きたいものは左へ、右へ行きたいものは右へ。そうでないものだけ、この網へ入れ」
 これを聞いた諸侯は言った。
「湯の徳は至れり。禽獣にまで及ぶ」
 
 さて、夏の桀は暴政で淫乱、荒虐であり、湯は諸侯と組んで昆吾氏の叛乱を鎮めた後、夏を討つことを決意します。
 この時に読みあげたのが『湯誓』と呼ばれるものです。
 
 来たれ、汝ら諸人よ。汝ら、朕の言葉を聞け。わたしが起こそうとしている一挙は叛乱ではない。夏に多くの罪があるからだ。予は汝らの言葉を聞いたが、夏氏に罪があり、予は上帝を畏れ、あえて正すのである。夏に罪は多い。天命によりこれを誅罰する。
 汝らは言う。「我らの君主はわたしたちを憐れむことなく、わたしたちの農事を捨ておいて、政治をしている」、と。汝らは言う。「罪があるとはいえ、どうすればいいのか」
 夏王はみなの力を押さえつけ、夏国を奪いつくしている。みな、怠惰となり、不和になり、こう言っている。
「太陽はいつ亡ぶのか。私は、みなとともに亡んでやろう」
 夏の徳はこのようなものだ。今こそ朕は必ず赴く。汝は予を助けて天の罰を起こせ。予はそれを汝に与えよう。汝は疑う必要はない、朕は嘘は言わない。誓言に従わなければ、汝を戮殺してやろう。容赦はしないぞ。
 
 あえて、直訳に近い形にしてみました。『書経』(『尚書』)にある『湯誓』は、『史記』のものとは少々異なっています。
 また、「太陽はいつ亡ぶのか。私は、みなとともに亡んでやろう(原文:是日何時喪予與女皆亡。『書経』では時日曷喪予及汝皆亡)」も、予と汝がそれぞれ誰のことを指しているのかで訳し方が異なります。夏桀の世の中を太陽になぞらえ、それが滅ぶときがあるのかと嘆くまでは分かるのですが、これを詠んだ人が「夏が亡ぶなら、一緒に亡んでしまう」と嘆いているのか、「夏が亡ぶのなら、一緒に亡んでやろう」と投げやりになっているのか、「夏が亡んでくれたら、一緒に亡んでやってもいい」と終末思想になっているのか、断定できない部分です。
 ともあれ、諸侯を率いた湯は夏を攻め、桀は鳴条へ敗走。そして夏王朝を滅亡させた湯は誥を作って国君たることを民に宣言し、正朔を改め、服の色を変えて白を最高のものとし、ここに商王朝を建国させるのです。
 
 最後にもうひとつ、湯にまつわる話を紹介しておきます。これは『十八史略』に採用され、『後漢書』「巻四十一・第五鍾離宋寒列傳」と『資治通鑑』「巻四十四・漢紀三十六」にも出てくる言葉ですが、由緒ははっきりしません。
 「六事自責」とされるものです。後者の書物によれば、永平三年の夏に旱が起き、そこで鍾離意(しょうり・い。あざなは子阿)が明帝に対し、
「昔、湯王の時代に旱が起こり、六事を自責しました。『政不節邪? 使民疾邪? 宮室榮邪? 女謁盛邪? 苞苴行邪? 讒夫昌邪?(政治に節度はあるか? 民を酷使していないか? 宮廷や王室は立派すぎないか? 後宮の女性たちの言いなりになっていないか? 賄賂は横行していないか? 讒言が盛んになっていないか?)』と述べました」
 と、たしなめたものです。明帝は「咎は私一人だけにある」として公卿百僚に謝罪する詔を出したところ、大雨が降ったとあります。
 この言葉を本当に湯が言ったかどうかは分かりませんが、後世、政治に携わる者が自問、自責する言葉として残ることになりました。
 『三國演義』「第二十一回 曹操煮酒論英雄 關公賺城斬車胄」で、こんな場面が出てきます。曹操が劉備を酒宴に誘ったときの話です。
「君は龍がどう変化するか知ってるかね?」
「まだ詳しくは知りません」
「龍は大きくもなり、小さくもなる。昇ることもできるし、潜むこともできる。大きくなれば雲に乗り、霧を吐く。小さくなれば、なりを潜めて隠れることができる。昇れば宇宙の間を飛躍し、潜むときには波濤の中に潜伏する。方今春は深くなる。龍は変化の時である。志を得るために、なお四海を縦横する。龍というものは、世の英雄に比するものだ。玄徳、君は四方を歴訪し、当代の英雄というものを知っているはずだ。試しに指し示してみたまえ」
 この後に、玄徳こと劉備が世の英雄を挙げるも、曹操はそれらの人物らを悉く笑い飛ばし、
「今、天下の英雄は、ただ君と余だけだ」
 と喝破します。
 
 龍は英雄に喩えられます。
 西洋のドラゴン(dragon)も龍と訳されますが、東洋の龍(lóng)とは趣が異なります。
 ドラゴンも龍も伝承により様々な姿を持っていますが、一般的にドラゴンは巨大な爬虫類もしくは蛇で、鋭利な牙や爪を持ち、背中に羽根を持ち、時には口から炎や毒息を吐く災厄の怪物として描かれています。一方で東洋の龍も一般的には角と羽根を持つ巨大な蛇もしくは鰐で、雲の間もしくは水中などに住み、嵐や洪水を呼ぶような災厄の一面もありますが、慈雨をもたらす霊験も表し、時に宝珠を前肢で掴んだり口に咥え込んだ姿で描かれる霊獣です。そのためか、西洋ではドラゴンを退治したものが英雄になるという話が多い一方で、東洋では龍やその使いが英雄を手助けしたり、あるいは英雄が自らを龍になぞらえることが多いようです。龍からの相談を解決した者が災厄から逃れることができたとか、龍を祀っていた貧乏人が龍から感謝されて富貴になるような御伽噺もあります。
 蛇のような鰐のような、鹿のような角と長い尻尾と豊富な髭を持つ奇妙な姿はどこから来たものでしょうか。
 現代に伝わる龍の姿は「三停九似説」に基づいているとされています。これは東漢の王符による九似説と宋代の羅願の三停説を併せたものとなっているようです。
 三停というのは、龍を描くときの決まり事で、首から前肢まで、前肢から腰まで、腰から尾までの長さをそれぞれ等しくすることです。
 九似については、李時珍の『本草綱目』に、「『爾雅翼』にいう。龍というものは鱗虫の長である。王符はその形を九似という。眼は兔に似て、角は鹿に似て、嘴は牛に似て、頭は駝に似て、身は蛇に似て、腹は蜃に似て、鱗は魚に似て、爪は鷹に似て、掌は虎に似る。背には八十一の鱗があり、具に九九の陽数である。声は戛れて銅盥のよう。口には須髯、下顎に明珠があり、喉には逆鱗がある」となっています。東漢の王符(おう・ふ。あざなは節信)といえば『潜夫論』を表した有名な人物ですが、王符自身が直接著したわけではなさそうです。
 いずれにせよ、宋代末期の頃に龍の姿は確定された模様です。
 龍の姿といえばもうひとつ、爪の本数についても設定されています。衣服などに龍を刺繍する場合などにおいて、皇帝の場合には爪は五本、諸侯であれば四本、大夫以下であれば三本と定められています。
 
 では、龍はなぜそのような姿に描かれているのでしょうか。
 ひとつには、自然現象説があります。
 これは洪水や嵐などが起きたときに、そこに何らかの姿を見ような気がしたというものです。たとえば日本には積乱雲の一種として入道雲という呼称がありますが、その雲の姿が入道という巨大な妖怪に似ていることから名付けられたものですが、逆に、その巨大な雲が昔の人には妖怪の姿に映ったとも言えるでしょう。同じように、海で渦を巻いていれば巨大な蛇が暴れているようにも見えますし、空気が渦を巻いて立ち上りながら動いている現象はそのものずばり、竜巻と呼ばれています。これらの融合体と見れば、奇異な姿も納得でしょう。
 中華民国の聞一多(ぶん・いった。本名は聞家驊。あざなは友三または友山)は、多数の国による図騰の融合であるとしています。基本は蛇で、これが最大勢力であったとしています。
 分かりやすく解説しましょう。古代では部族が動物を旗印としていることは、世界各国で見受けられます。黄帝も熊や羆を訓練したとありますが、これは動物の熊そのものではなく、自らを熊の部族と称したり、あるいは熊を神と崇めて旗印としている部族のことを指していると思われます。同じように考えれば、かつて蛇の部族がいて、これが最大勢力であり、そのうち鹿の部族、鷹の部族などと戦い、これを融合していったものと考えられます。現代企業でも、大企業が中小企業を合併する際に単に傘下に収めるのではなく、名称も変えて新たな企業として再出発する場合があります。これと同じように、蛇の部族も、鹿の部族や鷹の部族を取り込んだ時、鹿の角の部分、鷹の爪の部分などを、蛇に付け加えたものを新たな旗印として再出発したものと考えられます。これは、それほど奇異な発想ではないでしょう。一理あると思います。
 現実の動物であるという説もあります。
 昨今の研究で、上古三代以前の中国は温暖湿潤で、巨大な鰐や蜥蜴が各地にいたとされ、その化石も見つかっています。考えてみれば、人間の十倍以上の体長を持つ恐竜が地上を跋扈していた時代があり、巨大な鰐や蜥蜴も同じく爬虫類なので、たとえ人間が直接出会っていなくとも、現存する動物たちとは姿の異なるそのような動物が存在してかも知れないという考えは、ただの妄想として片づけるわけにはいかないでしょう。
 
 『春秋左氏伝』「昭公二十九年」にこんな記事があります。
 秋に絳の郊外に龍が現れたとき、魏献子が蔡墨に龍について問い、蔡墨が「龍を飼っていた者たちがいた」として、こんな話をします、
「昔、有飂の叔安の末子に董父がおり、龍をとても好んでいて、その好物を探し求めては龍たちに飲食を与えていたので、龍がたくさん集まってきました。龍を飼う仕事で舜に仕え、董姓を賜り、董氏といい豢龍氏と言われ、鬷川に封じられました。鬷夷氏はその末裔です。
 帝舜の一族には代々、龍を飼う者がいましたが、夏の孔甲は天帝から黄河と漢水の二匹の雌雄の龍を賜ったのに、これに食べ物を与えることができず、豢龍氏を見つけることもできず、陶唐氏の末裔は衰退していましたが、その後裔の劉累は龍の飼い方を豢龍氏から学んでおり(中略)(劉累は)御龍の氏を賜り、これは後に豕韋氏となりました。(中略)(劉累は)魯へ逃れました。范氏はその末裔です」
 范氏というのは士氏のことで、春秋時代に晋に仕えていた一族で、献公のもとで大司空となった士蔿(し・い。あざなは子與)や、その孫で「范武子の法」を定めた士会(し・かい)が有名です。士会は随の地を賜ったことから随会。あるいは范の地を賜ったことから范会とも呼ばれ、その子孫は士氏と同時に范氏をも名乗るようになります。
 范氏は、かつて龍を扱っていた一族と自負しています。
 龍は現実に存在したのかも知れません。
 ふと思ったのですが、これこそ、英雄を喩えたものなのかも知れません。
 龍の好物を与える、龍が集まってくる、逆に龍を扱う一族が見つからずに王朝が衰退するなど、人材発掘の才能を持つ一族であった可能性も無きにしも非ず。范氏というのは、現実の龍と同時に、人間の中の英雄たる龍とを飼いならすことの出来る一族だったのかも知れません。
 
 果たして、龍は存在するのでしょうか。
 龍は突然、やってくるかも知れません。
 中原のことを中夏、中国のことを華夏あるいは諸夏と表現することがありますが、これは夏王朝を意識したものです。
 夏といえば季節のひとつである夏季(陰暦では四月から六月、陽暦では六月から八月)を指す言葉ですが、徐中舒の『漢語大字典』では第一義に「大」、第二義に「大屋」とし、別字音・異義の第一義を夏季を意味する「なつ」としています。日本の国語辞典や漢和辞典でも、夏季の「なつ」を第一義としながらも、別字音・異義の第一義は「大」となっています。「夏」という文字はそもそも、被りものをした人が両足を交えている姿であり、それは舞う人です。現代では舞うという行為は娯楽の一つとなっていますが、本来は宗教行事、神と対話し、神託を受けるための行為であって、それを行う者は大いなる者であるということから、「大」という意味になったものでしょう。その舞が四季の第二季に行われたことから、その時季を「夏」と表現するようになったものです。
 
 古代中国の夏王朝を建てたのは禹です。
 その子の啓から、太康、中康、相、少康、予、槐、芒、泄、不降、扃、廑と順次継がれていきます。『史記』ではその経緯についてほとんど書かれていません。帝が崩じた、その子が立った。(先帝の子であった)帝が崩じた、その子が立った。という繰り返しです。
 ところが、『春秋左氏伝』の「襄公四年」にこのような記述があります。
「昔、夏王朝が衰えたころ、后羿は鉏から窮石へ遷り、夏の民に因って夏の政権を手に入れ(中略)寒浞は后羿の妻妾をわがものとし(中略)靡は有鬲氏から挙兵し、二国の生き残りたちを集めて寒浞を滅ぼし、少康を立てました」
 すなわち、少康の前に、后羿(こう・げい)なる人物(ちなみに堯の時代に九つの太陽を射落としたという伝説の羿とは別人。「有窮の后羿」ともいう)が夏王朝を乗っ取り、后羿が部下に殺されると、后羿の別の部下である寒浞(かん・そく)がこれを乗っ取り、かつて夏の大臣で有鬲氏の元に隠れ潜んでいた靡が寒浞を討って、少康を立てたという、王朝の断絶期があったことが窺い知れます。
 ここに『竹書紀年』の記述と合わせると、后羿は太康と中康に仕えるも、やがて相を放逐して王朝を乗っ取ります。しかし部下に殺されると、今度は寒浞がその後を襲い、寒浞が滅ぼされて、少康のもとで夏王朝は復興したことになります。簒奪期間については、后羿は一年に足りず、寒浞が四十年という説と、后羿が八年で寒浞が三十二年という説とがあります。いずれにせよ、四十年の空白期間について、なぜか『史記』では触れられていません。ただし、『竹書紀年』(今本)には偽書の疑いが強く、擬古派の中にはまったく信用できないという声もあります。司馬遷は、信頼に足りないと思われる記述については、たとえ信憑性の高い書物に引用されていることでも無視することがあるので、簒奪期を無視したのはそれに気づかなかったのか、何らかの意図があったのか、実はよく分かっていません。これについては、夏王朝の歴史的、考古学的研究がほとんど手を付けられておらず、断ずるのにまだ時間を要する内容であると思われます。
 
 廑の次は孔甲です。この人物については『史記』に次のような記載があります。
「帝廑が崩じた。帝不降の子である孔甲を帝にしたいと思った。帝孔甲が立った。(孔甲は)鬼神を好み、淫乱であった。夏后の徳が衰え、諸侯はこれに畔(そむ)いた。天から二頭の龍が降りて来て、それは雌雄であったが、孔甲は扱うことが出来ず、(龍を扱うことの出来る)豢龍氏を得ることも出来なかった。陶唐氏(である堯の末裔)はすでに衰えていたが、劉累という人物がおり、豢龍氏から龍を手なずける方法を学んでおり、孔甲に仕えていた。孔甲はこれに御龍氏の姓を賜り、後に豕韋氏を受ける。(劉累は)龍の雌が死んだので、夏后に食べさせた。夏后はもっと食べたくて使いを出したが、その時には(劉累は)すでに怖れを成して退去していた」
 
 孔甲の後は皋、發、履癸と続きます。この履癸が、最後の夏后たる桀です。後世、「夏桀殷紂」という言い回しで、暴君の代表格のように言われることになる人物です。
「帝桀の時代。孔甲以来、諸侯の多くは夏に畔(そむ)き、桀は徳に寄らず、武断をもって天下の人々を痛めつけ、人々は耐えられなくなった。(桀は)湯を召し出すと、夏臺に閉じ込めたが、やがて釈放した。湯は徳を修め、諸侯はみな湯に帰属した。湯はついに挙兵して夏の桀を討った。桀は鳴條まで逃げたが、放逐されて死んだ。桀は人に言っていた。『私は湯をついに夏臺で殺さなかったことを悔やんでいる。こんなことになるとは』。湯は天子の位を践祚し、夏朝の天下に代わった。湯は夏の後裔を(諸侯に)封じたが、周の代になると(彼らは)杞の地へ封じられた」
 
 禹の末裔である姒姓はやがて分封され、有夏后氏、有扈氏、有男氏、斟尋氏、彤城氏、褒氏、費氏、杞氏、繒氏、辛氏、冥氏、斟戈氏などがそれに当たると述べて、『史記』での記述は終わります。
 夏王朝については、これまではまったくの伝説、架空の時代とされてきました。その次の、商(殷)王朝ですらその実在が疑われていたのですから、それ以前の時代は言わずもがな。しかし、商王朝の実在が判明すると、商王朝非実在派は壊滅し、商王朝の研究を妨げるものがなくなり、盛んになりました。しかしこれはまだ始まったばかりです。
 夏王朝の遺跡はまだ未発掘ですが、実は四十年以上前から僅かながら、夏王朝期のものと思われる黒陶の盃や青銅の酒爵、牌飾などが出土しています。日本では夏王朝は伝説とする考えが大勢ですが、中国ではむしろ夏王朝の実在性を求めて研究・発掘を進めている人が増えているようです。
 商王朝実在派も、かつては非実在派によって嘲笑されていたものです。司馬遷のでっち上げた伝説をあたかも事実のように信用する浅慮な連中だ、と。しかし浅慮だったのは、本当は非実在派の側だったのです。
 夏王朝は実在したのかしなかったのか、まだ判然とはしません。ただ、実在したのではないかと思われる出土品や記述を、検証することなく無視する態度はすべきことではありません。
 商王朝の研究がスタートラインに立ったばかりだとすれば、夏王朝の研究はスタートラインに立つ権利を得られるかどうかの審議に入ったばかりの段階とも言えます。走り始めるのは五十年後か百年後か、あるいはもっと後なのか。その人たちに、今後のことは委ねていきましょう。現代の私たちはまだ準備段階、後世の人たちがうまく走れるよう、数多の要素を受け渡していくだけです。